サンプル1 冒頭

 五人の勇者が魔王オルゴ・デミーラを調じた。失われた世界は大海に蘇り、世界は平和になった。そんな話が世間に広まっているらしい。五人の勇者の伝説は、吟遊詩人によって語り継がれ、中でも勇者アルスの活躍は一際高らかに歌われていた。アルスは膂力に優れた豪傑で、魔王と正面切って取っ組み合い、素手で首を捩じり切ってみせたと言うからとんでもない話である。アルスはそれをちょっと照れくさく思いながら、新米の漁師として、小さな漁村で普通の生活をしていた。他の仲間達も、それぞれ自分の好きなことをしながら、充実した日々を送っている。時々、魔王の残党とか言う連中が悪さを働いたりすることがあるのだが、そう言う時はアルス達が飛んで行って、こてんぱんに懲らしめてやるのだった。
 アルスとガボとマリベルは、旅が終わった後も頻繁に顔を合わせて一緒に遊ぶ仲だった。年が近いし、住んでいる場所も近いから、遊び相手に丁度良いのである。アルスとマリベルはフィッシュベルに住んでいて、ガボは森の中の木こり小屋に住んでいる。ガボは木こりの養い子となって、動物達と遊んだり、畑を耕したり、木こりの仕事を手伝ったりして暮らしている。木こりはガボを可愛がっているし、ガボも木こりに懐いているから、お互いに幸せで満足しているようだった。
「アルス〜!」
 窓の外から大きな声がして、アルスは目が覚めた。眠い目を擦りながらベッドから降り、寝巻きのまま、裸足で窓の方へ行ってみると、自宅の前の砂浜で、ガボがこちらを見上げているのが見えた。ガボはアルスに気が付くと、満面の笑みで両手を振った。
「アルス〜! あそぼうぜ!」
 アルスは下を覗こうとして、硝子に頭をぶつけてしまった。苦笑しながら窓を開け放つと、快晴の青空から、初夏の清涼な空気が流れ込んで来た。
「おはよう。はやいね」
 アルスは漸く、身を乗り出して下を覗いた。
「アルス〜、まだねぼけてんのか?」
 アルスの間抜けな行動はしかと見られていて、ガボが砂の上で飛び跳ねた。彼はぼさぼさの黒髪をしているのだが、以前より髪の毛が伸び、ますますぼさぼさになって見えた。アルスも同じくぼさぼさの黒髪だが、マリベルに言われて髪を切るようになったので、以前よりはましになった。寝癖だらけの頭を掻きながら、アルスは下に向かって声を掛けた。
「僕、着がえなきゃ……。あがってていいよ」
「おう! 早くおりてこいよ!」
 其処でアルスは顔を引っ込め、しわしわの寝巻きを脱ぎ、いつもの緑の服に着替え始めた。
「おっちゃん、おばちゃん、おはよう!」
 階下で元気な声が聞こえた。アルスの両親、ボルカノとマーレが返事をしたらしく、ガボは続けてこう言った。
「おっちゃん、今日もすっげえキンニクだな!」
 父が何と答えたかは聞こえなかったが、うひゃーかってえ、とガボの声が聞こえたので、ボルカノの体を叩いてみたようである。
「おばちゃん、何つくってんの? 食っていい?」
 食べるのが大好きなガボは、続いて台所に興味を示したようだった。
「いいよ。ほら、口あけな」
 マーレの声はやや高いので、上の部屋まで聞こえて来た。アルスは緑の上着を着て、ベルトを締めながら、たまには赤い服でも着ようかなと考えた。衣装持ちのマリベルから、あんた毎日同じ服よね、と言われてしまったのだ。マリベルは最近、アルスの身なりをどうにかしようと考えているらしく、以前よりあれこれと注意することが増えた。アルスも一応、マリベルが恥ずかしくない程度の格好をしようと頑張っていた。
「アルス〜、なにやってんだよ? まだ着がえてんのか?」
 ぐずぐずしていると、しびれを切らしたガボが、梯子を登って二階にやって来た。
「ああ、ごめん」
 アルスは帽子を被っているところだった。ガボはいつもの、布の服に青いマントを被った簡素な格好で、美味そうな顔で口の周りを舐めていた。
「早くこいよ! 朝メシ、できてるってよ!」
 言うなり、ガボは身を翻し、梯子を滑り落ちるように降りて行った。アルスも後を追い、梯子を降りると、居間にはスープの良い匂いが広がっていた。お勝手で母さんが朝食の支度をしている。恰幅の良いマーレ母さんは、エプロンで濡れた手を拭き、料理を皿に盛り付けているところだった。
「おはよう」
「おはよう。早かったね」
 アルスが挨拶すると、マーレも返事をした。漁に出ない日のアルスは寝坊するのが常だから、今日は早起きな方である。アルスは盥の水で顔を洗ってから、父の待つ食卓に座った。
「おはよう」
「おはよう。おそかったな」
 アルスが挨拶すると、父さんは母と反対のことを言った。ボルカノ父さんは筋骨隆々の大男で、このエスタード島で知らぬ者は無いと言うほどの、大変な腕利きの漁師である。アルスもいつか父さんのようになりたいと思っているが、マリベルには無理だと言われていた。アルスがぼんやり椅子に座っていると、マーレ母さんが木製の器を運んで来てくれた。あさりとトマトのスープである。続いて、魚の塩焼きと、パンとピクルスも用意してくれ、健啖な漁師の腹を満たす食事が出揃った。当然のように、ガボはアルスの隣に座っていた。
「ガボも食べるの?」
 自分の家で食べて来たばかりだろう。アルスはそう思って聞いたが、口にしてから間抜けな質問だと気が付いた。ガボはスープから目を離さずに答えた。
「うちで食ってきたけどさ……まだまだ食えるぞ! いっただっきまーす!」
 全員が食卓に着くのも待ち敢えず、ガボはスープの器を持ち上げ、口を付けて一気に飲み込んだ。暫くもちもちと咀嚼していたが、ふと、口の中に指を入れ、あさりの殻を次々と取り出した。熱いスープを飲み込んで、ふうと一息つくと、マーレに向かってにっこり笑った。
「うっめえ〜! おかわり!」
 見る間にスープを完食した彼は、勿論お代わりを要求した。見事な芸当で、旅をしていた時よりずっと食べるのが早くなった。
「たくさん食べな」
 食いっぷりの良さに、マーレもにこにこしながら、台所へ行ってお代わりをよそった。アルスも早食いな方だが、ガボのようには食べられないから、木のスプーンを使って普通に食べた。昨日と同じスープだが、ミルクを加えて味がまろやかになっている。鍋の中でとろけたにんじんや玉ねぎに合わせて、今朝加えた具材も細かくみじん切りにしてあり、全体に滑らかな食感だった。アルスがあさりを一つ食べ、殻を真ん中の皿に捨てていると、ガボは二杯目のスープも食べきって、魚の塩焼きに取り掛かっていた。串に通した白身魚を、口を使って串から抜き、手繰り寄せるようにして平らげた。そうして一匹二匹と、次々に腹へ収めて行った。それがいかにも美味そうだったので、アルスも魚を取って頬張った。焼きたての魚は尻尾まで熱い。香ばしく焼けた表面が、脂と肉の旨味を閉じ込めていて、噛むほどに身が柔らかくほぐれて美味かった。
「なあ、オイラ、しばらくここんちに泊まっていい?」
 出し抜けにガボがそう言った…………