指先五ミリのメッセージ

 デュランは帰宅した。フォルセナを友達が訪ねて来たと言う事で、英雄王直々の命により、仕事を早引けして家に帰った。デュランとしては、仕事の方を優先すべきと思うのだが、友達の中には王女が二人も含まれている。気軽にちょくちょく遊びに来るが、彼女らはフォルセナの賓客と言う事になるので、国を挙げて丁重に持て成し、要求を叶えて差し上げる必要がある。その要求と言うのが、友達、つまりデュランの身柄なのだった。かくある理由ならば致し方無く、第一デュランが陛下の命に背く筈も無いから、踵を巡らし、諾々と城を後にしたのだった。
 家に戻ったデュランは、腹が減ったので、食卓にあった桑の実を食べた。仲間達が摘んで来たらしく、器にも入れず、机の上に転がしてある。さほど量は多く無く、熟した黒い実と、酸っぱい赤い実が入り混じっていた。彼らはモールベア高原に繰り出したそうで、不在である。こちらから探しに行こうかと思ったが、ステラおばさんが軽食を作ってくれると言ったので、出来上がるまで待つ事にした。おやつの時間になれば、仲間達も家に帰ってくるだろう。おやつはパンケーキである。ステラおばさんの作るケーキは分厚くて、ふわふわで、蜂蜜をたっぷりと染み込ませると、この上無い幸せを味わう事が出来るのだった。かくしてデュランは食卓に座り、台所から漂う甘い匂いに浮き足立ちながら、大人しく待っていた。
 暫くすると、外から騒がしい声が聞こえて来た。耳慣れた声である。出迎えるのも手間だったから、デュランは玄関に背を向けたまま、残りの桑の実を頬張った。赤と黒、二つの色を一遍に口に入れると、甘酸っぱさが混ざり合って丁度良い味になる。喧しい声は段々近付いて来て、扉が元気良く開かれた。
「ねー、デュラン、聞いてよー! もう信じらんない!」
「ちがうモン! ねえねえデュランしゃん、きいてきいて!」
 アンジェラとシャルロットが覆い被さって来て、デュランは机に突っ伏した。二人は興奮した体で、デュランに伸し掛かり、体重を掛けて押し潰した。
「ねえデュラン! ねーってば!」
「ねーデュランしゃん、きいてきいて! き〜い〜て〜!!」
 二人は声が高い。それが張り合うようにして、憤然とまくし立てるものだから、金切り声のようだった。デュランは暫く潰れていたが、弾みを付けて起き上がり、二人を跳ね飛ばした。吹き飛んだ拍子、二人の持っていた武器も宙に飛び、床へ転がった。
「だー!! お前ら、重いんだよ!」
「しつれいね、重くないわよ!」
「れでぇにむかって、しつれいでち!」
 尻餅を突いた二人は、すかさず立ち上がり、ますます怒り出した。喧嘩っ早いデュランは、相手が敵愾心のようなものを抱いていると、むきになって対抗しようとする。二人の剣幕に負けじと、眉間に皺を寄せて威嚇した。
「どうしたんだい、大きな声出して」
 騒ぎを聞き付け、ステラおばさんが様子を見に来た。何か混ぜているらしく、フォークと陶の器を持っていた。
「おばしゃん、アンジェラしゃんが……もがっ」
 訴えに出ようとしたシャルロットだが、アンジェラに口を塞がれ、続きが出て来なかった。
「なんでもないよ。おばさま、手伝いましょうか?」
 と、アンジェラは愛想笑いを浮かべた。
「いや、だいじょうぶだよ。もうちょっとでできるから、他の子も呼んできな」
「はーい」
 常から深く干渉しない性質のおばさんは、あっさりと引き下がり、台所の番に戻った。怪我でもしたので無い限り、子供の喧嘩に割り込まないのである。アンジェラは素直に返事をして、笑顔でおばさんを見送った。その間、シャルロットはじたばたと暴れながら、口を覆った手を外していた。
「なんでちか、アンジェラしゃん!」
 息を切らせながら、アンジェラから距離を取る。
「私はオトナだから、関係ない人はまきこまないの」
 変な所で常識的なアンジェラは、胸を張って答えた。しかして、デュランの隣の椅子を引き、彼と向かい合う格好で座った。
「……それで! 聞いて、デュラン!」
「オレはまきこむのかよ?」
 とは言え、デュランも付き合ってやらないほど狭量では無い。一丁聞いてみるかと構えると、シャルロットも彼の向かいに座り、口々に事情を説明し出した。二人の喧嘩は、意外にも、アンジェラが正論を言って、シャルロットが反発する形が多い。詰まるところ仲の良い彼女らは、一緒にくっ付いて行動するため、精神的に幼いシャルロットの面倒をアンジェラが見る事になるのだった。今度の争議は、水の中に入るか否かで戦われた。高原の川の、丁度橋が架かっている下に、一本のボトルが浮かんでいるらしい。取って中身を見たいのだが、橋の上から杖を伸ばしても、もう少しの所で届かない。川の縁から取ろうにも、斜面が急で、水の中に転げ落ちかねないような場所だった。その水と言うのがひたぶる汚いらしい。過日フォルセナでは、この地方には珍しい大雨が降った。そのためか、川の水嵩が増し、ごみやら何やらの色々な物体が流されていた。その橋のそばでも、緑色に泡立った藻が水面を覆い尽くし、枝やら葉っぱやらが段差に引っ掛かって、濁った水を堰き止めており、どれほどの深さなのかさえ計り知れないのだった。シャルロットは焦れったがって、川の中に入って取ろうと言ったが、アンジェラは断固として拒否した。
「それって、私に入れっていう事なのよ? シャルロットは泳げないんだから」
「そうはいってまちぇんよ。あさかったら、シャルロットがとってきまち」
 シャルロットが反駁した。アンジェラも眉を吊り上げ、負けじとやり返す。
「浅いかどうか、どうやってたしかめるのよ」
「アンジェラしゃんのつえで、みずのなかを、つんつん、つつくんでち」
 と、シャルロットが杖を振る真似をした。
「やーよ、あんなばっちい水! それに、きたない水にさわると、病気になっちゃうのよ」
 汚れた水は病気の元である。ファザードに生まれ付いた子供ならば、必ず親から言い含められる箴言だった。水は地下から湧き出るものか、上から下に流れるものが清潔なのだと見做される。アンジェラは自分が嫌だからでは無く、安全に気を使って主張しているのだった。意見を悉く否定されるもので、シャルロットは怒って机を叩いた。
「それじゃ、ぼとる、とれないじゃありまちぇんか!」
「その方法を、みんなで考えようって言ってるんじゃない。ほんと、人の話聞いてないんだから!」
 アンジェラの意見は正当だが、物言いが手厳しいため、ともするとシャルロットの反感を買ってしまうのだった。二人は長い事睨み合っていたが、デュランに意見を求めるように、揃って視線を彼に向けた。あまりにも子供じみた喧嘩の理由に、少し呆れていたが、デュランはそれを表に出さなかった。単純なデュランだが、こう見えても頭は回る。アンジェラが正しいからと言って、彼女に味方すると、シャルロットが僻む。反対に、シャルロットの肩を持つような真似をすると、アンジェラが正論を畳み掛けて来て、どうして自分が間違っているのかと憤慨する。穏便に事を弁ずるには、デュランがひたすら聞き役になって、二人の話に耳を傾けてやるのが得策だろう。今までの経験を踏まえ、デュランはそう考えた。
「ところで、どうしてそんなにボトルが気になるんだ? 中はカラッポなんだろ?」
 川に浮いていると言う事は、中身は空っぽなのである。デュランが論点をずらして尋ねると、二人も心持ち落ち着きを取り戻した。
「そのボトル、お手紙が入ってるみたいなの」
 と、アンジェラ。
「ひょっとして、たからのちずかもしれまちぇんよ。あんたしゃんも、きになるでちょ?」
 シャルロットが机に身を乗り出した。
「宝の地図に、手紙か……」
 デュランも俄然興味が湧いた。紙切れをボトルに詰めて流すと言うのは、話には聞いた事があるが、実際見るのは初めてだった。一体何が入っているのか、考えるだけでも期待が膨らむ。早速行って見て来ようと、立ち上がった折、残りの仲間が帰って来た。
「ただいま〜……」
 三人は複雑な表情を浮かべていた。甘い匂いに一瞬気を取られたようだが、彼らの気分を晴らすまでには至らなかったようである。唯一カールはご機嫌で、いつものように尻尾を振っていた。カールがそばに来たので、デュランは身を乗り出して、頭を撫でてやった。
「その様子だと、お前達も取れなかったようだな」
 見るからに気落ちして、どうやって取るかを熟考している風だったので、デュランはちょっと同情した。
「リースのヤリでも、とどかなかった……」
 と、ケヴィン。
「ホークアイがいい方法を考えてくれたんですけど、うまくいかなくて……」
 リースもしょんぼりしていた。
「動きがあるまで、待つしかなさそうだ」
 ホークアイもお手上げらしい。三人も結局、シャルロットと同じ案を思い付くに至ったが、アンジェラが考えたのと同じ理由で、やめた。水には入らない方法をと、あれこれ考えを巡らして見たが、何も思い付かず、最終的におやつの時間が近付いて来たので、諦めて撤収したのだった。
「落ちこんだってしょうがないわよ。パンケーキでも食べながら、みんなでいっしょに考えましょ」
 そう言って、アンジェラが台所へ手伝いに行き、リースも追従した。
 時を少々遡る。ホークアイはモールベア高原の丘で、カールに棒を投げて遊んでやっていた。青い空に、放物線を描いて棒切れが飛んで行き、なだらかな草原をカールが走って追い掛ける。随分長い間投げ続けているが、カールの勢いは止まる気配が無い。流石ケヴィンと一緒に暮らしているだけあって、カールの体力は無尽蔵だった。ホークアイはくたびれて来たから、投げ方を変えたり、左手で投げたり、二本同時に投げたり、投げる振りしてカールを騙してみたりする。そうして程々に遊んでいたが、太陽が西へ傾くにつれ、いよいよくたびれてしまった。
「腕がつかれちまった……ごめんカール、ちょっと休憩」
 そう言ってホークアイが座り込むと、カールが棒を咥えたまま、こちらに戻って来た。投げてはくれないのかと、期待の眼差しで見上げるが、ホークアイが首を振ると、諦めて棒を放した。相変わらず子犬のような性格だが、すくすくと立派に成長し、顔立ちは精悍な狼そのものである。ケヴィンによると、抱き上げた時の重さが、シャルロットよりも重いくらいになったらしい。ホークアイが背中を撫でてやると、表面の毛は松葉のように硬かった。
「そういや、みんなはどこに行ったんだ?」
 ふと気付いて、ホークアイは周囲を見回した。見晴らしの良い丘の上だが、川縁は大きく窪んでおり、土手に阻まれて良く見えない。どうやら仲間はそちらに行ったようだった。離れているのは心配だし、探しに行こうと立ち上がったら、丁度向こうから、ケヴィンとリースが土手を駆け上がって来るのが見えた。
「ホークアイ!」
「ホークアイ、こっち!」
 金髪の二人は興奮した体で、口々にホークアイを手招きした。ホークアイが呼ばれて行くと、彼らは喜々として隣に並び、体をくるりと反転させた。カールも勿論付いて来た。
「向こうから、ボトルが流れてきたんです。何か入ってるみたいなの」
 と、リースが上流の方を指差した。
「紙みたいなの、入ってる。なんだろ?」
 歩きながら、二人は事情を説明した。件のボトルは水面に浮いているが、丁度手の届かない場所に引っ掛かっており、ホークアイに取って貰いたいらしい。
「そういう事なら、オレにまかせてくれたまえ」
 ホークアイはちょいちょいと取ってやるつもりで、気安く請け負った。窪んだ土手には橋が渡してある。上流から流れて来た水は、橋を潜って下流に行く筈なのだが、橋の下では、枝や葉っぱなどの漂流物が滞っていて、小さな堰を形作っていた。その堰の部分に、件のボトルが引っ掛かっているのである。アンジェラとシャルロットは、橋の上に並んで立って、何やら言い争いをしていた。二人とも、興奮すると血色の良くなる体質で、頬を真っ赤にしながら怒っていた。
「それじゃ、デュランに聞いてみましょうよ。デュランもぜったいダメって言うから」
 アンジェラが挑戦的に言った。
「デュランしゃんなら、ぜったいだめっていいまちぇん!」
 シャルロットも負けじと言い返した。其処で話は終わったらしい。二人はつんけんした態度のまま、競うような早足で、フォルセナに向かって歩いて行ってしまった。
「ありゃ、行っちゃったぞ?」
 ホークアイは事情がさっぱり飲み込めず、唖然として見送るばかりだった。
「フォルセナ、帰っちゃったみたい……?」
 ケヴィンとリースも詳しい事は分からないらしく、きょとんとしていた。
「そろそろおやつの時間だから、帰っちゃったのかな……?」
 リースがそう言った。デュランの家に遊びに行くと、ステラおばさんが食事をご馳走してくれる。良く食べる六人と一匹は、三度の飯では満たされず、おやつや夜食を作って貰う事もしばしばであった。そうしたわけで、デュランの家族ともすっかり顔馴染みになり、ステラおばさんの事は、皆でおばさんと呼んで慕っていた。
「おやつの前に、まずはボトルを片づけようか。リース、ちょっとヤリかして」
 と、ホークアイは槍を借り、小さな橋の真ん中に立った。しかして橋の上から槍を伸ばし、橋の上からつついて取ろうとした。ところが、橋から身を乗り出し、精一杯に腕を伸ばしてみても、あと少しのところで届かない。始めは届くようにと、狙いを定めて槍を伸ばしたが、段々焦れったくなって来て、終いには適当に槍を振り回した。それでも結局、ボトルに掠りさえしなかった。
「くそ、届かねえな……」
 舌打ちしながら、ホークアイは槍を引っ込めた。欄干でもあればもう少し身を乗り出せるのだが、ちゃちな作りの小さな橋では、碌に掴まるような所が無かった。上からでは届きそうに無いので、今度は横からつついてみようと、斜面の畔に移動した。したら、湿った草がつるつるして、斜面から滑り落ちそうになった。
「うわっ!」
「あぶない!」
 咄嗟にケヴィンが槍を掴んだ。彼に支えて貰いながら、ホークアイは反対の手を突き、危ういところで踏ん張った。
「助かったよ、ケヴィン」
「早く、のぼって」
 慌てふためき、ケヴィンがぐいぐいと槍を引いたので、ホークアイは半ば引き摺られる形で畔の上に戻った。もうちょっとで間抜けに尻餅を突くところだったが、どうにか醜態を晒すのは避けられた。思ったより勾配が急で、斜面の上に踏み留まりながら、ボトルまで槍を伸ばしてつつくのは難しそうだった。手の汚れをはたき落としながら、リースに槍を返そうとすると、彼女ははらはらしながら見守っていたらしく、小走りで寄って来た。
「ケガはない?」
「ああ、何ともないよ」
 リースがいたく心配そうに柳眉を顰めているので、これ以上危なっかしい真似をするのはやめた方が良さそうだった。ホークアイはちょっと考えて、橋のそばの木陰に行き、落ちていた枝切れを拾った。枝を手に持った途端、カールが顔を輝かせたので、ホークアイは少し申し訳無く思った。
「ごめん、遊ぶのはあと」
 カールに一言断って、橋の上に戻り、ボトルを上から見下ろした。ケヴィンとリースは、一体何をするのかと、不思議そうな顔をしながら、ホークアイの後を付いて回った。
「当たるかな……っと!」
 ホークアイはよくよく狙いを定め、ボトルを目掛けて枝を投げ付けた。見事に命中し、ボトルが左右に大きく揺れた。ところが、揺れはすぐに収まってしまい、結局何の変化も齎されなかった。期待してボトルを見守っていたホークアイは、失敗だったのが分かると、大袈裟に肩を落とした。
「あちゃー、ダメか……」
「そっか、枝をぶつけて、ボトルを動かすのね」
 察しの良いリースは、彼の狙いを立ちどころに理解して、小石を拾って投げ付けた。彼女の小石は、ボトルを取り巻く藻に当たり、僅かに水面を揺らしただけだった。リースも期待して見守っていたが、やはり駄目だったと分かり、難しい顔で首を傾げた。
「うーん、当たらないなあ……」
 それでも二人は諦めずに、何度も小石や棒切れを投げ付けたが、ボトルはびくともしなかった。藻やごみ屑のせいで見えないが、どうやらボトルの留まっている部分は、水中で段差が付いているらしい。只でさえ引っ掛かって動かないところに、水中に浮かんだ緑の藻が衝撃を吸収してしまい、にっちもさっちも行かなくなっているようだった。
「オイラも投げる!」
 ケヴィンが大きな枝を持って来て、橋の上から投げ落とした。見事直撃し、ボトルが枝の下に沈み込み、水面がなみなみと大きく揺れた。上手く行ったかと思いきや、枝が転がって外れると、圧されていたボトルが浮かび上がり、元の状態に戻ってしまった。大きな枝は沈んでしまい、もはや何処にも見えなくなった。
「げげ、あれでもダメなのか?」
 川を見下ろし、ホークアイは愕然とした。今投げたのは、ケヴィンの腕より太い生木の枝である。あれ以上の大きな衝撃は与えられそうに無かった。
「うー、オイラ、へた……?」
「いや、いいセンいってたと思うよ」
 しょんぼりしたケヴィンを、ホークアイは労ってやった。しかしながら、もはや打つ手は無くなった。ホークアイは諦めて、手に持っていた枝を、草原に向かって思い切り投げた。カールは大喜びで、飛んで行った枝を追い掛けて行った。ホークアイは手を拱いて、どうしたものかと考えた。間接攻撃が駄目ならば、最後の手段に出るしか無さそうだった。
「こうなったら、川の中に入って取るしかないな……」
「えっ、入るの?」
 ケヴィンが目を丸くして、緑色の水面を見下ろした。汚いのは堰の部分だけで無く、川全体が濁っており、様々なごみが水の中を屯していた。
「あの川に入ったら、病気になっちゃいますよ」
 リースも恐ろしげに川を覗き見た。ホークアイも、口には出してみたが、実際に行動に移すかと言うと、それだけの度胸は湧いて来なかった。モールベア高原を流れる川は、普段は浅く、透き通った水を湛えているので、暖かい日は皆で水遊びをする事も出来る。翻って現在は、他日天気が悪かったためか、上流から押し流された漂流物が堆積し、濁って水嵩が増していた。水中の様子は全く窺えず、うかつに入ったら溺れてしまうかも知れなかった。
「……とりあえず、みんなに相談してみるか」
 ホークアイは匙を投げた。動き回ったら腹が減ったし、美味しいおやつを食べて小休止と洒落込みたいところである。ケヴィンは諦め切れない様子で、橋の上から槍を振り回していたが、リースに帰宅を促された。
「ケヴィン、帰っておやつにしましょ」
「ウン……」
 それでも、ケヴィンは名残惜し気にボトルを見ていたが、カールが枝を咥えて戻って来たのを見て、観念してリースに槍を返した。かくして三人と一匹は、連れ立ってモールベア高原を下りた。匙を投げたとは言い条、そう簡単に思い切れる筈も無く、道々、どうやってボトルを取るべきか、侃々諤々と話し合った。
 ステラおばさんのパンケーキは、時間を掛けて、卵を十分に泡立てて作るため、綿雲のようにふかふかである。普段は蜂蜜で頂くが、今回はアンジェラがジャムを土産に持って来たから、好きな方を選んで食べられる。六人は取り敢えず、一枚目にジャムを付けて食べる事にした。
「あ〜ん、おいしい!」
 アンジェラがとろけるような笑みを浮かべた。
「おいしいでちねえ」
「ええ」
 シャルロットとリースも、にこにこしながらケーキを頬張った。ベリーの実を砂糖で煮詰めたジャムは、粒の形がそのまま残っており、甘酸っぱい果実の触感を楽しむ事が出来る。カールも食卓の下で、小さく切った生地に、少しだけジャムを乗せて貰っていた。空腹のデュランはあっと言う間に食べ切り、続く二枚目にたっぷりと蜂蜜を染み込ませた。
「デュランしゃん、ぜんぶつかっちゃだめでちよ」
 シャルロットが目敏く見咎めた。
「わかってるよ」
 と言いながら、デュランは蜂蜜の瓶を更に傾けた。掬うための匙が用意されているのだが、面倒くさがって、瓶から直接垂らしていた。ふわふわのパンケーキは、幾ら垂らしても際限無く吸い込んでしまう。さらりとした蓮華草の蜜なので、尚の事水のように染み込むのだった。思う存分使った後、デュランは漸く瓶を水平に戻した。
「誰か使うか?」
「オイラ、使う」
 次を尋ねると、向かいのケヴィンが欲しがったので、デュランは手を伸ばし、彼に瓶を渡した。ケヴィンも匙を使わず、瓶から直接蜂蜜を垂らした。食いしん坊のシャルロットは、蜂蜜が空にならない内にと、パンケーキを一生懸命食べ始めた。分厚いパンケーキは弾力があり、フォークを刺しても弾き返されてしまうほどで、切るのに少々難儀した。
「お茶がわいたよ」
 ステラおばさんが陶器のポットを運んで来た。客人をもてなすために、高価な陶製の茶器が六人分用意されているが、それらはリースがお礼として差し上げたものだった。如何にも彼女の趣味らしく、白皙の地に金の縁取りが入った上品なものだった。
「あんた達、夕飯も食べていくんだろ?」
 温かい紅茶を順繰りに注ぎながら、おばさんが尋ねた。
「もちろんでち!」
 パンケーキを口一杯に頬張ったシャルロットが、もごもごした声を出した。
「お世話になります」
 リースが礼儀正しく挨拶し、他の皆もそれに従った。それぞれが手土産として、柔らかくて真っ白なチーズとバターや、貴重な香辛料を持ち寄ったから、夕飯はそれらに因んだ献立になりそうだった。
 蜂蜜は全員に行き渡った。蜂蜜を十分に染み込ませると、生地がしっとりと柔らかくなり、フォークで簡単に切れるようになる。フォークを刺した時、生地から蜜が染み出して来るのが何とも美味しそうだった。ほんのりと甘いケーキの上に、蜂蜜やジャムを沢山乗せても、不思議としつこくなく、柔らかな生地が口の中でほどけるのだった。濃い目に淹れたお茶を飲みつつ、六人はパンケーキを何度もお代わりし、その都度ジャムや蜂蜜を贅沢に乗せた。カールも欠片を何度か貰い、両方を乗せて食べていた。多少腹がくちくなると、相談事をする余裕も出た。食べながら、ボトルを取る方法を考えたが、水中に飛び込む以上の妙案は出て来そうに無かった。
「オレ、ちょっと行って取ってきてやるよ」
 現場を確認していないデュランは、川の様相を軽く考えていた。簡単にそう言うと、周囲は当然反対した。
「あの川を見たら、ぜったい入ろうなんて思わないわよ。ほんとにばっちいんだから」
 と、アンジェラ。
「あの川、ヒル、いるかも……」
 ケヴィンが恐ろし気に言った。
「ひる? おひるに、なにがいるんでちか?」
 シャルロットが首を傾げた。他の皆もきょとんとしていて、デュランとケヴィンの他は、ヒルの存在を知らないようだった。デュラン達も頻繁に目にしたわけでは無いが、妙ちくりんな見た目と、気味の悪い習性は嫌でも印象に残っていた。
「ヒルってのは、血を吸う虫みたいなヤツだよ」
 デュランが端的に説明した。
「血を吸う……? バットムみたいなモンスターなんですか?」
 リースは吸血蝙蝠を連想したらしい。ヒルは魔物では無く、目も鼻も手足も無い、なめくじに似た、うねうねした黒っぽい生き物である。それが人の体に引っ付いて、生血を吸うのだと説明すると、仲間達は言葉も無く、眉を顰めてデュランの顔を見詰めた。まるでデュランがヒルの化物にでもなったような反応だった。
「そんな生き物、ナバールにはいなかったぞ……」
 流石のホークアイもたじろいでいた。
「きもちわる……」
「なんなんでちか、そのもんすたーは……?」
 アンジェラとシャルロットは、俄かに食欲が無くなったらしく、フォークの手を止めた。食事中には聞きたくない話題だった。
「そんなのが水の中にいるんだろ? オレ達、いままでよく無事でいられたなあ」
 ホークアイも腹一杯になったので、食後のお茶を啜った。
「いや、ドブ川とか、汚い水にしか住んでないらしいぜ」
 デュランはそう言ったが、気休めにもならなかった。汚れた水は病気の元、と言う箴言は正鵠を得ていた。恐らく汚い水の中は、血を吸うヒルに始まって、目には見えない謎の病原菌や、正体不明の人食い虫が住まう地獄の坩堝と化しているのである。少なくとも皆にはそう思えた。六人は、透き通った水で遊ぶ分には問題無いが、濁った水には決して入らないようにしようと心に誓った。かかるほどに、ヒルの話題は尽きてしまい、作戦会議に戻ったが、万一水に落ちてしまったらと考えると、いずれも及び腰で、思い切った作戦に出ようとはしなかった。
「ボトルが下流に流れるまで、待ってる事にしませんか? 大雨で水かさが増してるのなら、そのうち水がひくかもしれませんし……」
 リースが無難な提案をし、議論はそちらの方向へ傾いた。遊びに来た五人と一匹は、暫くフォルセナに逗留する予定なので、持久戦に持ち込む事も十分可能である。水の濁りは一時的なもので、暫く天気の良い日が続けば、元の清きを取り戻す筈だった。
「でもサ、ボトル、だれかに取られちゃったら?」
 と、ケヴィン。
「たしかに、あのボトルを見つけたやつが、オレ達だけとは限らないよな……」
 ホークアイが頷いた。大地の裂け目の吊り橋が修繕され、街道の往来は日に日に賑わいを増している。六人がこれだけボトルに関心を寄せているからには、街道を行き交う人々も同じように興味を示す事だろう。万が一、その通行人が、この六人よりずっと頭が良かった場合、まんまとボトルを掠め取られてしまうかも知れないのだ。かくなる上は、他の誰かに奪われてしまう前に、可及的速やかにボトルを手に入れなければならなかった。しかし、そうなると、どうにかしてボトルを回収する手立てを考える必要が生じて来る。議論は堂々巡りだった。
「とりあえず、向こうに行ってから考えないか? ここでウダウダ言っててもしょうがねえよ」
 考えるよりも動く方が向いている仲間達である。デュランがそう言って、他の皆も同意したので、議会はお開きになった。
 おやつの時間が終わった。食後のお茶を済ませると、全員でごちそうさまをする。
「オイラ、水くんでくる」
 ケヴィンが席を立ち、カールと一緒に出て行った。その間、他の仲間は皿を片付け、お勝手の洗い桶に重ねて入れた。少し待つと、ケヴィンが水桶を運んで来て、洗い桶を水で満たした。これを使って、アンジェラとリースが食器を洗う。水は重いから、運ぶのはいつもデュランの仕事であるのだが、彼が手伝う様子を見ている内、他の仲間もなすべき事を覚えたのだった。男達三人は、綺麗になった皿を布巾で拭いて、食器棚に片付けるのを受け持った。もはや勝手知ったるもので、何処に何が置いてあるのか承知しており、順次てきぱきと片付けた。
「あんた達が来てくれると、ラクできていいわ」
 食卓で一服しながら、ステラおばさんがからからと笑った。
「シャルロットがオトナになったら、もっとらくさせてあげまちよ」
 皿を割るといけないから、シャルロットは洗い物に参加せず、お茶を飲みながらおばさんの相手をする。甘いものが好きな彼女のお茶は、砂糖をたくさん入れてあり、ジュースのように甘かった。
「そりゃ、ありがたいけどさ。あたしなんかより、おじいちゃんを助けてあげな」
「だいじょうぶ。おじいちゃんも、おばしゃんも、シャルロットがやしなってあげまち」
「シャルロットはたのもしいね」
 自信満々に嘯くシャルロットを、おばさんは微笑ましげに見ていた。デュランは濡れた皿を拭きながら、そう言えば、ウェンディが嫁に行って、自分が家を出る事になったら、おばさんはこの家に一人で住むのだろうか、と考えた。当人がどうしたいかによるだろうが、親のいない兄妹を引き取って、此処まで育ててくれた人だから、子供が自立した後はゆっくりさせてあげたいものだった。
 片付けも終わり、皆で再び川に向かったが、デュランとホークアイは一旦家に残った。デュランは探し物があるからで、ホークアイは、デュランが場所を知らないといけないから、案内として残った。気の利く男だった。
「デュラン、行こうぜ」
「ちょい待ち」
 デュランはきょろきょろしながら、橋の下に届きそうな長い棒を探したが、目ぼしいものは見当たらなかった。
「おばさん、なんか、棒みたいなやつない?」
「棒?」
 ステラおばさんは台所に立って、夕飯の支度を始めていた。振り返りながら、エプロンで手を拭く。
「こういうやつかい?」
 と、クッキーやパン生地を伸ばす時に使う、綿棒を手に取って見せた。
「いや、もっと長いの」
「長いのねえ……。長いものなんて、あんたの剣ぐらいしか思いつかないよ」
 そう言われたので、デュランとホークアイは二階へ行った。確かに剣は長い。一番良さそうなのを求めて、部屋の半分近くを占領する、デュラン秘蔵の収集品を手に取りつつ、それぞれの長さを比較した。大事な蒐集品ではあるが、性格があまり几帳面では無いため、適当に積み上げて仕舞ってあった。
「一番でかいのは、こいつだろうな」
 と、デュランはクラウ・ソラスを拾い、ホークアイの取ったブレイブブレードと比べてみた。いずれも似たようなものだが、前者の方が僅かに刃渡りが大きかった。光の道に進んだデュランは、盾と併用して戦うため、長大な剣は所持していない。片手で扱うには重すぎて、持て余しかねないからだった。とは言え、父親譲りの、人並み外れた膂力を持つ男である。並みの剣でも十分な長さと重さを持っていた。デュランは適当にクラウ・ソラスを振ってみて、手に馴染むのを確認した。
「よし、これで行こう」
「ちょっと足りない気がするけどな……」
 デュランは自信満々だが、ホークアイは懸念を示した。アンジェラの杖や、リースの槍でも届かなかったのである。単純に物をつついて取る用途なら、それらの方がずっと適していて、デュランの剣では到底届きそうに無いのだった。
「やり方が悪いんじゃねえの?」
 と、デュランは事態を甘く見た。こうした場合に於いては、他の連中が出来ずとも、自分ならば出来るかも知れないと、根拠も無い自信が湧いて来るものである。先だって五人が同じく考え、同じように失敗したのだが、デュランもまた由無き過信に取り付かれていた。
「これで届かなかったら、川に入って取ってやるよ。そうでもしなけりゃ、アンジェラ達ががっかりしちまう」
 何だかんだと言いながらも、彼はアンジェラとシャルロットに期待されており、デュラン自身も、彼女らの信頼に値する働きをしていた。負けず嫌いで自信家のデュランは、アンジェラ達にがっかりされたり、失望されたりするのが何より嫌である。故、ちょっと無理矢理な方法を用いてでも、彼女らの望みを叶えてやりたいのだった。そんな話を聞いて、ホークアイは少し表情を和ませた。
「アンジェラもシャルロットも、かわいい所があるよな」
 と、二人を褒めた。ホークアイは結構女の子が好きらしいが、仲間の三人に秋波を送る事は無い。そうしたおふざけに走るには、あまりに距離が親密なのである。今回かわいいと言ったのは、かなり抽象的な、内面を指しての称賛だった。
「二人とも、何かあるとすぐ、デュラン、デュランって君の所に行くんだ」
「お前だってそうだろ」
 剣を腰に括り付けながら、デュランはケヴィンとリースを指して言った。二人もホークアイに深い信頼を寄せており、性格が素直である分、アンジェラ達よりずっと顕著に見られた。
「あれ、そうだっけ?」
 と、ホークアイは嬉しそうにとぼけて見せた。この六人は大抵一緒に行動しているが、分かれるとなると、三対三に二分される。内訳は語るまでも無い。その別れた三人組の中で、先陣を切るのはいつもデュランとホークアイだった。それなりに世慣れていて、馬鹿でも無くて、成人の男だと言うわけで、仲間を纏めるのに丁度良かったのである。そのため、アンジェラとシャルロットは事ある毎にデュランへ報告に来、ケヴィンとリースはホークアイの元へ行くのだった。其処まで頼りにされていて、彼らを落胆させるような真似が出来る筈も無い。男として、どぶ川のヒル如きには怯んでいられないのだった。
「よし、いざとなったら、オレもいっしょに飛び込むよ」
 ホークアイも覚悟を決めた。
「おっしゃ、死ぬ時は二人いっしょだぞ!」
 デュランも頷いた。倒れる時は前のめりである。万一玉砕しても、互いの骨は拾ってやろうと誓い合う。かくして二人は、意気揚々と高原に繰り出した。
 例の橋までやって来ると、仲間達が先程の伝で、杖と槍を振ってボトルを取ろうとしていた。しかしながら、成果は見ての通り、一向埒が開かないようである。道々作戦会議を行っていたデュランとホークアイは、一計を講じる事にした。
「よし、行くぜ!」
 デュランは剣を抜き、畔の方に回り込んだ。
「そっち、すべるよ!」
 ケヴィンが心配したが、デュランには作戦がある。
「ホークアイ、はなすなよ!」
「まかせときな」
 デュランが畔に降りて行くと、ホークアイが畔の上に立ち、その左手を掴んで支える形になった。こうすれば、ホークアイが滑らない限り、デュランも滑り落ちる事は無い。デュランは剣を水辺に伸ばし、ボトルに向かって幾度も振ったが、届くまでには未だ距離があった。
「これでもダメか……ケヴィン、手をかしてくれ」
 と、デュランがケヴィンに助けを求めた。
「分かった」
 今度はケヴィンがホークアイを引っ張り、ホークアイも畔の斜面に降りた。男二人はかなり重いが、ケヴィンの腕力ならば、重みに負けて落っこちる虞は無い。そうしてデュランは再び剣を伸ばしたが、三人が腕を一杯に伸ばしても尚、ボトルに切っ先は届かなかった。
「くそー、ハラ立つなぁ!」
 思ったように事が運ばず、段々苛々して来たデュランは、剣を適当に振り回し始めた。彼が激しく動く度、上の二人も大きく揺らされた。
「うわ、バカ、あばれるな!」
 ホークアイの忠告も空しく、ついにデュランは足を滑らせた。ホークアイは咄嗟に、ケヴィンの腕を振りほどき、自分もろとも引きずり込まれた。
 悲鳴と水音が響き渡った。デュランとホークアイは汚れた川に転げ落ち、濁った水を殆ど頭から被ってしまった。水は膝より浅いくらいで、溺れる心配が無かったのは不幸中の幸いである。橋の上にいる仲間が心配して、やいのやいのと声を上げる中、当の二人は意外にも落ち着いていた。冷静と言うよりは、呆然としているようなものだったが、取り敢えず黙って立ち上がった。
「ホークアイ、悪い……」
 デュランが小さく謝罪した。
「死ぬ時はいっしょだって言ってたろ」
 大して意に介さなかったらしく、ホークアイは肩を竦めてみせた。厚い友情に感謝しながら、デュランは水の中を歩き、肝心要のボトルを手に入れた。ついで、ものの試しに、ボトルが引っ掛かっていた方を瀬踏みしてみたら、思った以上に段差は深く、ずぼりと嵌ってしまいそうだった。道理で引っ掛かって動かないわけだと、デュランは納得し、橋の上に向かってボトルを掲げた。
「おーい、取ったぜ!」
「二人とも、だいじょうぶ!?」
 仲間達はボトルどころでは無く、橋の上から身を乗り出し、二人の無事を案じていた。
「泥んこだけど、何とか平気だよ」
 ホークアイはそう言って、体の汚れを払い落そうとした。平気とは言い条、泥と砂で足が埋まっている上、あおみどろみたような緑の塊や、溶け掛けた葉っぱの欠片、土と砂の入り混じったへどろなど、色んな物体がくっ付いて気持ち悪い。これ以上水中に留まると、本当に病気を貰ってしまいそうだったので、二人はそそくさと畔をよじ登った。落ちる時は簡単だが、上がるのは容易では無く、デュランの剣を杖にしながら一生懸命這い上がり、最後はケヴィンに引き上げて貰った。
「ふう、ひどい目にあったな……」
 流石に嫌だったらしく、ホークアイが溜め息をついた。
「あうう、デュランしゃん、ホークアイしゃん……」
 シャルロットは、まるで臨終の病人でも見たような反応で、目に大粒の涙を浮かべていた。汚れた水の言い伝えが頭にこびり付いているのである。大いに気の毒がっているが、汚れた二人の近くに寄る勇気は無いらしく、鼻を啜りながら、遠巻きに様子を見守っていた。状況が良く分かっていないカールは、変な臭いのする二人を不思議がって、近寄ってくんくんと嗅ごうとした。
「きゃーっ! カール、あぶない!」
 カールが動いた途端、シャルロットが彼を抱き上げ、遠くへ逃げ出した。上半身だけ持ち上げられたカールは、後足を忙しなく動かし、二足歩行で懸命に付いて行った。普段は非力なシャルロットだが、友達のためなら信じられないような力が出るものだった。
「オ、オイラ、ヒル、ついた……?」
 心配そうに自分の手を見ながら、ケヴィンはリースに相談した。リースは男三人を一回転させ、体にヒルが付いていないか確かめた。
「だいじょうぶ、何もついてないわ」
「この川、ヒルなんていなかったみたいね」
 と、アンジェラもほっとしていた。
「とりあえず、おうちに帰って洗いましょ」
 アンジェラも近付く気にはなれないらしく、やや距離を取って話し掛けた。体を洗うにしても、高原の河川は殆どの場所で、大雨による濁った水が流れている。上流に行けば綺麗な水が見付かるかも知れないが、わざわざ探し歩くよりは、フォルセナに帰って井戸水を使った方が早い。
「それじゃ、帰りましょうか」
「ちょっと待った」
 皆に帰宅を促そうとしたリースを、デュランが引き止めた。
「お前達、これを忘れてないか?」
 と、ボトルを宙に放って見せる。水に浸かっていた線に沿って、持ち主と同じ汚れがこびり付いており、滅法汚かった。
「そうだ、ぼとるがありまちたね!」
 漸くシャルロットは戻って来たが、相変わらずカールの上半身を抱き上げたまま、放してやろうとしなかった。
「なかみはなんでちか? デュランしゃん、はやくはやく」
「ちょっと待ってろ。今、開けてやるからよ」
 ボトルの口を塞いだコルクに、デュランは剣の切っ先を突き立て、捩って器用に栓を抜いた。続いて、ボトルに指を突っ込みながら、逆さにして何度も振り、中の羊皮紙をほじくり出した。出て来た手紙を、まずデュランが手に取って読んだ。ところが、文面を目にするなり、彼は眉間に皺を寄せ、紙を丸めて地面に叩き付けた。
「ちょっと、何してるのよ!」
 アンジェラが止めなければ、デュランは紙を踏ん付けかねない勢いだった。
「そんな紙切れ、読む価値もねえ! さっさと捨てちまえ!」
 紙の内容はデュランの瞋恚に触れてしまった。切り捨てようと剣を構えるデュランから、アンジェラは紙を引っ手繰って逃げ出し、離れた場所で中身を読んだ。
「なになに、アンジェラしゃん、シャルロットにもよんでちょーだい!」
 シャルロットは興味津々で、カールの手を動かして、手招きする仕草を取った。中身を読んだアンジェラは、脱力した様子で、がっくりとうなだれた。
「ああ、私もダメ……リース、おねがい」
 と、弱々しく降参し、紙はリースに回された。リースは始め、不思議そうな顔をして紙面を見たが、すぐにアンジェラと同じ表情になり、肩を落とした。
「……これ、読まなくちゃダメですか?」
「よんでくだちゃい。シャルロット、おてがみ、よめまちぇんもん」
 シャルロットが尚も催促した。彼女は未だに簡単な文字しか読めないのである。ケヴィンとホークアイも中身を知りたがったので、観念したリースは、小さな声で本文を読み上げた。
「……あ、あほ〜が、見ぃ〜るぅ〜……」
 気の抜けた声が出た。彼女には全く似つかわしくない発言が出たもので、中身を知らない三人は、きょとんとしてリースを見詰めた。リースは頬を赤く染めながら、体を縮こめて弁解した。
「……って、書いてあるんです、この紙……」
 妙な沈黙があった。激怒していたデュランも、すっかり肩の力が抜けてしまい、六人とも、名状し難い顔付きでお互いを見やった。怒るのは、手紙の主に負けたような気がして悔しいから、何としてでも避けたい所だが、かと言って単純に笑い飛ばすには、あまりにも苦労を重ね過ぎた。一同、誰かが何らかの感情や言葉を表したら、それに便乗するつもりだったが、誰も何とも言わなかった。
「……さて、こいつをどうするかだ」
 ややあって、ホークアイが口を切り、リースから紙を摘まみ取った。
「……見なかった事にして、元にもどしちゃうのは?」
 アンジェラが小さく手を挙げた。
「よし、そうしよう」
 と、ホークアイは殊更に明るい声を出した。
「デュラン、ボトルをかしてくれ」
 そしてデュランからボトルを受け取り、大きな刀傷の付いたコルクを拾って、紙を丸めて中に押し込め、元あったように栓をした。封印したボトルを、今まで引っ掛かっていた場所に向かって投げると、全てが元通りになり、不思議と気分が晴れ晴れするような気がした。
「おっしゃ、帰ろうぜ」
 デュランの言葉を合図に、皆は並んで家路を辿る事にした。空元気の感は否めなかったものの、表面上は清々しい気分を取り繕い、六人と一匹は並んで歩いた。
「ふたりとも、びょーき、だいじょうぶでちか?」
 シャルロットが恐る恐る尋ねた。いつもは集団の真ん中を陣取りたがるのだが、デュラン達に付いた汚れを怖がって、一番外側を歩いていた。
「そういや、何ともねえな」
 と、デュランは汚れた腕を見下ろした。貼り付いた泥やごみが乾き掛けて、褪せたような色になっていた。
「汚れた水入っても、だいじょうぶだった……?」
 ケヴィンが首を傾げた。二人を引っ張り上げた際、ケヴィンの両手も汚れてしまったが、何らかの痛痒と言ったような違和感は無く、案外平気なようだった。
「何とかはカゼひかないってやつかもな。君達は、ぜったいマネしちゃいけないよ」
 そう言って、ホークアイは娘達に忠告した。

2016.9.10