ダーマでだーまされた

 アルスとガボとマリベルは、洞窟でさそりアーマーを相手にしていた。前には大きな鋏を二丁、尻尾の先には鋭い棘を備えた魔物で、背後を取って戦う隙も無い。あまつさえ、湿っぽい洞窟の中には毒素を含んだ泥沼が点在し、足を取られて動き辛く、苦戦を強いられた。
「そらっ!」
 ガボが蠍にやいばのブーメランを投げ付けたが、硬い外骨格に弾かれ、地面に落ちた。慌てて拾おうとした矢先、長い尻尾を振り回され、ガボは咄嗟に両手で受け止めた。ガボが引っ張って一歩踏み出すと、蠍も反対側に踏み出して引っ張り、じりじりと一進一退が続く。あと少しで毒の沼地に入り込みそうだった。賢しらな蠍は、ガボを引き摺りながら、沼地に落ちるよう誘導した。泥濘に足を滑らせ、懸命に踏ん張りながら、ガボは仲間に援護を求めた。
「アルス〜、助けてくれ!」
 アルスは二体のさそりアーマーを相手にしているところだった。マリベルを庇うようにして、相手の攻撃を盾で受け流すも、鞭のようにしなる尻尾は縦横無尽に攻め立てて来る。ガボのブーメランを拾ってやる事は疎か、自分のブーメランを放つ余裕すら無い。どうにか隙を衝こうとして、ちょっと注意を逸らした隙に、蠍の尻尾が足を強か打った。戻る時に針が掠め、足首が切り裂かれた。
「アルス、下がって」
 マリベルがアルスを押し退けた。敵が反応する前に、素早くねむりの杖を振りかざし、薄桃色の光を撒いた。二匹の蠍が微睡みに誘われ、力無く手足を落とした所で、アルスはガボの方の蠍にブーメランを投げ付けた。ガボは渾身の力で尾を引っ張り、蠍を盾にしてブーメランを受けた。尻尾の付け根に突き刺さり、相手の動きが一瞬止まった所で、素早く落ちていた自分のブーメランを拾う。
「アルス、返す!」
 と、ガボはアルスのブーメランを引き抜いて投げた。アルスが受け取ろうと走ると、目を覚ました一体の蠍が追って来た。ブーメランを取った時には相手の射程圏内だった。巨大な鋏を振り上げ、顔を裂かれたが、アルスは怯まず、更に肉薄して目玉を斬り付けた。視覚が潰れ、前後不覚に鋏を振り回し始めた蠍に、再度ブーメランを放つ。装甲の隙間に命中し、首と胴体が生き別れて転がった。仕留めたかと思ったが、千切れた胴体がもがき苦しみ、尻尾で腕を攻撃された。顔の血を拭いながら、アルスは敵から後ずさった。やがて痙攣が止み、さそりアーマーは今度こそ息絶えた。
「アルス! これ、どうするの?」
 マリベルが眠る蠍を指差した。一太刀でも食らわせれば忽ち起きるだろうが、一撃で仕留める自信は無い。アルスはそちらへ駆け戻り、ちょっと迷った挙句、尻尾を付け根から切り落とした。即座に覚醒した相手から、マリベルを庇いながら距離を取り、今度は足を狙った。虫の脚部は比較的脆く、右側が潰れて体が傾いだ。残った左の足で、必死に地面を掻く蠍を、アルスは毒の沼地に向かって蹴落とした。体の重いこの魔物は、沼に入ると容易く沈む。駄目押しにもう一度蹴っ飛ばして、泥濘の深い所まで追いやった。いずれ窒息するか、毒素で死ぬかするだろう。そちらは放っておき、アルスが周囲を窺うと、丁度ガボも止めを刺した所だった。
「もういないか?」
 と、アルスは顔の血を拭ったが、出血した方の腕で拭いてしまい、ただぬるぬるしただけだった。聞かれたガボは、きょろきょろしながら鼻を動かした。
「魔物のニオイはしねえな。近くにはいないみたいだ」
 安心した様子で、彼は手の傷を舐め始めた。アルスもほっとして、構えていたブーメランを下ろした。緊張が緩んだ途端、押し殺されていた痛みが感覚を取り戻し、ずきずきと拍動に合わせて疼いた。
「マリベル、やくそう取ってくれる?」
「なによ、自分で……」
 振り向いたアルスの顔を見て、マリベルが息を飲んだ。
「前が見えなくて」
 アルスは蠍に額を斬られた。傷は浅いが、血の良く出る場所なので、何度拭っても滴り落ち、目の中に入ってしまっていた。思ったよりは目に沁みないが、良く見えないから、道具を人に取って貰うしか無い。引きつってしまったマリベルに、アルスは緊張を解そうと、ちょっと笑顔を浮かべた。
「笑うのやめて。ブキミだから」
 鰾膠も無く一蹴された。アルスは素直に笑うのをやめ、促されるまま、少し屈んで額を差し出した。彼女は背が低い。マリベルは額に手を伸ばしたが、少し考えて、白いハンカチとやくそうを取り出した。しかして血を拭きながら。やくそうを額に何枚か貼り付けた。べたべたと適当に貼られたせいで、アルスの視界はいよいよ塞がれてしまった。
「マリベル、前が見えないよ……」
「どうせ見えないんでしょ」
 仕上げの一枚を眉間に貼り、続いてマリベルは腕の手当を始めた。
「腕上げて。ここ、おさえて」
 袖を捲り上げながら、マリベルが脇をつついた。アルスは全く見えなかったが、言われた通り、示された部分を強く押さえて止血した。傷口のやくそうを剥がされ、少し痛んだ。
「ちょっと、おさえてって言ったでしょ」
 手当を受けながら、アルスがもう片方の手で額のやくそうを貼り直していると、マリベルの叱責が飛んだ。以前斬られた傷跡が抉られ、かなり深い裂傷になっている。マリベルは手慣れた所作で、新しいやくそうを何枚か貼り付け、上から包帯で巻いて固定した。腕が終わると、今度は足首の裂傷の治療に掛かる。することの無くなったアルスは、ガボが魔物の落としたゴールドを掻き集め、こちらに戻って来るのを見ていた。マリベルが彼の方を一瞥する。
「ガボ、あんたは大丈夫?」
「オイラ手ぇ切ったー!」
 と、流血した手を振った。やいばのブーメランをむんずと掴んで斬り付けたせいで、手の平と指に二本の筋が出来ていた。マリベルは急いでアルスの手当を済ませ、ガボの手を荒っぽく引き寄せた。
「あんたたちって、ほんっと何にも考えてないわよね!」
 ぷりぷりと怒りながらも、彼女はガボの手を見て、奇跡の石で治療してやった。石の力に頼るより、やくそうを沢山使う方が治りが良いのだが、ガボは体に貼り付けられるのを嫌った。やくそうを嫌がるならば、奇跡の石を使う他無い。現状、回復魔法は疎か、特技や魔法さえも一切封じられているのだった。
 アルスが思えらく、もう魔法の力無しには生きて行けないな、と言う事だった。三人は、偽のダーマ神殿大神官の口車に乗せられて、まんまと力を奪われてしまっていた。幸い、戦う力そのものまでは奪われていないので、どうにかやって行けるだろうと楽観視していたのだが、前途は多難であった。この世界に来て早々、立て続けに二度も、完膚無きまでに叩きのめされたのである。一刻も早く力を取り戻したいところだが、この調子では、いつか命を落とす羽目になるだろう。此処は逸る気持ちを抑え、装備を整えながら、堅実に進んで行かねばならなかった。
 鍛錬を終え、アルス達は山間の洞窟を引き返し、麓の町に戻って来た。洞窟を抜ければ小さな集落があるものの、其処で休める場所と言えば、魂を砕かれた人間が幾人も横たわる部屋くらいのものだった。神経の太いアルスやガボは、彼らが何もして来ないと知っているから、さしたる抵抗も無く眠れそうだったが、マリベルは嫌がった。何となれば、虚ろな目をした人間が、嫌に間延びした呻き声を上げたり、口から泡を吐いたり、出し抜けに体を痙攣させたりするのである。平然としたアルス達も、マリベルの気持ちは分からないでも無かった。その上、新しい装備を買う用事もあったので、一旦麓のふきだまりの町に戻って宿を取る事になった。しかしながら、ふきだまりの町にも、茣蓙を広げただけの粗末な寝床しか無く、治安からして大きな危険を孕んでいる。野宿よりはましだろうと思いながら、土と埃の臭いが充満する一室に、三人で身を寄せ合うようにして宿った。
 かくして夜が来た。宿が地下に位置するため、元々暗いのだが、日が落ちると一層闇が深まったように感じる。小さな蝋燭の火を頼りに、アルスは買ったばかりの鋼の剣の手入れをしていた。此処は一際人心が荒んでおり、治安が悪い。強請やたかりに遭うならまだ良い方で、ことによると、魔性の剣によって魂を砕かれかねないと言うのだから、野営の時のように神経を尖らせていた。ごろつき共は、力の無い子供や女性を好んで標的にするのである。いかんせん、アルスもまだ子供の域を出ないため、この三人は格好の餌食となりえた。新品である筈の剣は、鈍くくすんでおり、変な汚れのようなものがこびり付いていた。こんな町だから、真っ当な品が手に入らないのかも知れない。アルスが汚れを引っ掻いて落とす隣で、ガボはマリベルに治療をして貰い、豚と虎のような魔物にやられた、未だ消えぬ傷跡を癒していた。
「オラはもういいよ。アルスを治してやってくれ」
 ガボは腕を引っ込め、傷跡を舐め始めた。鈍重な棍棒で殴り付けられ、一度は骨まで砕けたらしいが、今は良くなっており、表面の打ち身と擦過傷が残るだけとなっていた。マリベルは、ちゃんと治せとか、舐めちゃ駄目だとか注意をしていたが、ガボに取り合う気が無いのを見ると、諦めた。
「アルス、こっちに来て。あんたの番よ」
 と、茣蓙を軽く叩いた。少し塵が舞い上がり、埃っぽい臭いが強まった。蝋燭を倒さぬよう気をつけながら、アルスが体をずらして移動すると、マリベルはごつごつした石を差し出した。魔力の残滓が輝き、蛍のような光を放っていた。
「はい。自分で治しなさい」
「マリベルのキズが先だよ」
 アルスは、やくそうが幾つも貼られた自分の傷より、マリベルの足の怪我を気に掛けた。酷いことに、虎の魔物は踵の腱を切り、逃れられないようにしてから、思う様痛め付けて来たのだった。冒険に支障の出ない程度に治してあるものの、未だ傷跡は拭いきれない。マリベルは取るに足らないもののように、自分の足元を冷淡に見下ろした。
「こんなの、ほんのかすりキズよ」
 と、ぼろぼろのタイツをスカートの中に隠した。アルスが尚も食い下がろうとすると、彼女は不機嫌になってしまい、半眼で口を尖らせた。
「くどいわね。つべこべ言わないで、さっさと治しなさいっ」
 そう言って、アルスの腕に奇跡の石を押し付けた。傷に当たって痛んだが、相手の表情を見、アルスは何とも言わずに我慢した。フーラルと言う胡散臭い盗賊がくれたこの石は、握って祈ると、ホイミ程度の回復能力を発揮する。しかし、アルス達の現在の体力では、石の力が追い付いていず、全て癒すにはかなりの時間を要する。後方支援に加え、一行の回復役をも担っていたマリベルは、魔法が使えないことを悔しく、腹立たしく思っているらしかった。
「ああ、この石を見るたんび、あのにくったらしいフーラルの顔がうかぶわ!」
 思い詰めたような顔をしていたマリベルは、いつもの気振りで歯噛みした。フーラルに裏切られて以来、憎しみの権化のような扱いで、頻りに捨てたがっているが、貴重な回復手段である手前、無碍にも出来ない。マリベルは苛々しながら祈りを捧げ、少し間を置いてから、包帯とやくそうをそっと剥がした。出血は止まったが、切り口が粗く、組織液が滲み出し、気持ちの悪い有様だった。
「よくならないわね……。ごめんね、これ、あとになっちゃうかも」
 治り具合を見て、彼女は悄然と肩を落とした。肘の内側の、丁度曲げ伸ばしする部分に深い切り傷が出来ている。少し動く度に傷が開くから、いっそ後で集中して治してしまおうと、アルスは今まで碌な治療をしていなかったが、結局良くはならないらしい。マリベルは綺麗なハンカチで液汁を吸い取り、新しいやくそうを貼った。
「大丈夫だよ」
 痛ましげに手当てする様子を見、アルスは優しく声を掛けた。
「キズは男の勲章だぞ! そうだよな、アルス!」
 ガボが拳を突き出した。アルスも調子を合わせ、拳を出して応える。以前までのひ弱そうなアルスならば、傷跡が残ると変に痛々しく見えたろうが、現在の逞しくなりつつある彼には不似合いでも無かった。女の子のマリベルは、呆れた様子で二人を見ていた。
「ふたりとも、おとなしくしてなさいよ。動くとキズがひらいちゃうからね」
 と、やくそうの上から包帯を巻き、少しきつく締めて、腕の曲げ伸ばしがし辛いようにした。
 大方の治療を済ませると、三人は濡らした布で体を綺麗に拭いた。浴場もあるのだが、湯はぬるく、湿って黴が生えており、とても清潔とは言えない場所で、傷に悪そうだったから入らなかった。淑女を自称するマリベルは、二人が着替える間は外で待ち、自分が着替える時は二人を締め出した。扉の前で待つ間、アルスとガボは雑談を交わした。
「……そういや、オイラ達って、転職するためにここに来たんだっけ?」
 ガボがふと言った。正しくは、魔物に苦しめられている人々を助け、封印から解き放つためにこの世界へ来たのである。偽の神官に嵌められなければ、このダーマは平和であると見損なっていたかも知れないのだから、何とも皮肉なものだった。アルスは彼にそんなような事を説明したが、ガボは今一つ理解しあぐねたらしく、まあいいやと言った。
「なあアルス、職業って、どんなのがあるんだ?」
「えっと……」
 アルスは指折り数えながら、ダーマで神官から説明された職種を挙げた。偽物が嘘を言っているので無ければ、確か基本は十種類の筈だった。ガボは始め、言われたことを復唱していたが、数が増えるにつれ追い付かなくなり、手を拱いて聞いていた。
「そんなにあんのか……。オイラ、何になろうかな?」
 と、考え始め、ガボはうんうん唸っていたが、すぐに音を上げてしまい、頭を掻き毟った。
「……ダメだ、オイラにゃ分かんねえ! アルスにまかせる!」
 今度はアルスがうんうん言う番だった。実利を取るなら戦士や武闘家にすべきだが、フーラルで見たように、盗賊も旅の役に立ちそうである。踊り子や笑わせ師などは、一体何の役に立つのか分からないが、特別に秘められた力があるのかも知れない。ガボをいずれかの職種に就かせるとするならば、アルスやマリベルの就くべき職を鑑みて、相性や均衡も考慮に入れねばならなかった。実際的に考えるときりが無いから、アルスは直感的に、彼に一番似合う職業を考えた。
「ガボには、ひつじかいが合うんじゃないか?」
「ひつじかいか!」
 ガボも乗り気だった。彼はこう見えて、神の御使いにして、獣を統べる白き狼の末裔である。動物に携わる職は正しく天職と言えた。羊飼いはどんな強さを身に付けられるのだろうかと、ガボはわくわくしていたが、ふと気付いて首を傾げた。
「でも、オイラはオオカミなんだよな。羊が怖がらねえかな?」
 ガボは動物が大好きである。特に家畜を目にすると、可愛いと美味そうの感情が同時に湧き上がって来るらしい。可愛さ余って食べてしまわないかと、自分の事ながら心配していた。アルスは牧羊犬を例に挙げ、犬が羊と相性が良いことを伝えようかと思ったが、犬と狼を同じく扱って良いものかと考え、結局何とも言わなかった。多少の懸念はあるものの、取り敢えず、ガボは羊飼いになってみようと思い始めたらしい。
「アルスは何になりたいんだ?」
 ガボにそう聞かれたが、アルスはすぐには答えられなかった。
「さっきは、戦士を選んだけど……」
 偽の大神官の前では戦士を宣言したが、仲間達が何も思い付かなかったから、取り敢えずアルスが口走ってみただけだった。それも、一番最初に聞いた職業の名前だったから、と言うだけの理由である。何事もそれなりに受け入れてしまう男なので、戦士になったらなったでそれなりに修行を積むのだろうが、本当になりたいかと言われると、首肯しかねるところだった。
「戦士もいいなあ。オイラも戦士にすっかなあ……」
 羊飼いに傾き掛けていたガボの心は、今度は戦士に傾いたらしい。力比べが大好きで、ひたすら強さを追い求める彼にとっては、これもまた天職なのだろう。万事それなりのアルスと違って、ガボは何事も欣然と取り組む性格だった。ガボは両者を天秤に掛け、再びうんうん呻っていた。その姿はいかにも楽しげで、希望に満ち溢れており、アルスはそこはかとなく微笑ましく思った。
「まだ時間はあるんだ。冒険しながら、ゆっくり考えよう」
「そうだな。はやくフォズ大神官を助けだして、職を見つけねえと!」
 ガボはにっかりと笑い、職を探すなどと言う、その身に似気無い言葉を繰り返した。それはアルスも同じだった。将来漁師になることが決まっていて、それまでは遊んで暮らすことも決まっていた彼が、まさか此処に来て職を選ぼうなどとは予想だにしなかった。王族の地位を丸ごと放り捨ててしまった親友に比べれば、ほんの些細な変化であるが、世の中には不思議な巡り合わせもあるものだな、と、アルスはぼんやり考えた。
「おまたせ」
 マリベルが部屋の戸を開け、顔を覗かせた。いつもの頭巾は脱いでしまっている。
「入っていいわよ」
 促されるまま、アルス達は部屋に戻った。片付けもしてくれたらしく、目に付くようなごみは部屋の隅に追いやっていて、仲間達の荷物も纏められ、それぞれの茣蓙の近くに置いてあった。むさ苦しく、清潔感に欠くような場所が続いているが、マリベルはそれらについて文句を言わず、出来る限り快適になるよう取り計らってくれていた。マリベルの我儘や毒口は、ある種の甘えである事を、アルスは知っている。近しいと思える人間に対してのみ、彼女は我儘を言うのである。それを言わないのは、仲間に対して気を遣っているからだった。そのため、アルスは彼女のきつい言葉が聞こえないと、何か遠慮しているのかなと心配したり、寂しく思ったりするのだった。
 夕飯を済ませると、少し人心地が付いた。粗末な食事でも、食べられるだけ有り難いと言うことは、旅を通じて良く知っている。しかしながら、ガボにはどうしても譲れない一線があり、物欲しそうに自分の指を齧っていた。
「アルスぅ〜。オイラ、ぜんぜん足りねえよ……。なんか食いもんねえか?」
「食べ物かあ……」
 と、アルスがふくろを取ろうとしたら、マリベルが咎めるような顔をして、自分の方へふくろを引き寄せた。腕を動かすなと言うことらしい。しかして中身を漁ると、アミットせんべいがあったので、彼女は包みを剥がし、ガボに渡した。
「はい。ちょっとしけっちゃってるけど……」
「うまそー! いっただっきまーす!」
 ガボは飛び付かんばかりにして、魚を象ったせんべいに噛り付いた。海老を使った塩味のせんべいは、気のない音を立てて半分に割れた。古くて湿気てしまったせんべいだが、ガボは満足気に頬張り、半分を一口で食べてしまった。
「うめえ」
「よかったわね」
 マリベルがお座なりな相槌を打った。幸せそうなガボとは打って変わって、先程から何と無く覇気が無い。ガボはせんべいを更に折り、彼女に差し出した。
「マリベル、食えよ。さっきの晩メシ、ぜんぜん食ってなかったろ」
「いらない。食欲ないの」
 と、マリベルは膝を抱えた。この町では最低限の衣食住こそ得られるものの、質の良いものは全てスイフーに回されてしまうらしく、アルス達に供された夕飯は、平べったくて硬いパンと、屑野菜の入った薄いスープのみだった。量もごく僅かしか与えられないが、それでもマリベルは食べる気がせず、大方をガボにあげていた。平生の彼女は健啖な方だから、余程食欲が無くなったようだった。マリベルは豊かな赤毛を掻き上げ、溜め息をついた。
「ガボはいいわよね、悩みがなさそうで……。さすがのあたしも、こんな状況じゃ、気がめいってくるわ」
「……オラ、考えたんだよ」
 せんべいを口に詰め込み、ガボは心持ち神妙な顔付きになった。
「チカラを奪われちまったのは、たしかにくやしいよ。でも、いちばん大事なもんは、取られなくてすんだってな!」
「大事なもの?」
 アルスが相槌を打つと、ガボは昂然として頷いた。
「人間の身体と、コトバだよ! オイラにとって、なくなっちまったらいちばん困るもんだ!」
 そう言って満面の笑みを浮かべ、胸を叩いた。
「この身体と、アルスとマリベルがいりゃ、オイラはじゅうぶんだ。いくらだって戦えら!」
 言うだけ言ってしまうと、ガボの注意は再び食料に向き、ふくろの中を漁り始めた。マリベルはちょっと驚いたような、圧倒されたような顔で、何も言わずにアルスの顔を見た。どうやら彼女は感心したようだった。無言のマリベルに代わり、アルスが共感を示した。
「そうだな。僕も、みんながいれば十分だよ」
「だろ。……うっし、まんじゅうみっけ!」
 ガボはアミットまんじゅうを発見し、戦利品のように掲げて見せた。すっかり萎びていて、まんじゅうの皮がぼろぼろと崩れ落ちてしまっているが、彼にとっては貴重な食料である。美味そうに齧り付き、二口で丸ごと食べ切ってしまった。それでもまだ足りないらしく、変な歌を歌いながら、引き続きふくろの中を物色していた。ガボを見ていると、何だか色んなことが全部馬鹿らしくなってしまうと、マリベルは彼をしてそう評するのだが、今度もそんな気持ちになったらしい。
「……まあ、そうかもね。あたしも、この美ぼうが残ってるわけだし」
 と、彼女は自分の頬を撫でた。滑らかな感触に満足し、微笑しながら、アルス達の方を向いた。
「それに、あたしを守ってくれるしもべが、ここにふたりもいるんですものね」
「おうよ! オラにまかしとけ!」
 ガボはまたしても胸を叩いた。叩いた勢いで、口からまんじゅうの欠片が飛び出し、マリベルの顰蹙を買った。アルスはいつものように、曖昧に笑って見ていただけだった。
 夜が深まり、静かになった。地上で荒くれ者が騒ぐ声も、虫の鳴く声も、何も聞こえない。どうやら今夜は、魂砕きを唆す魔物も現れないようだった。それでもアルスは警戒を解かず、枕元に剣と盾を置き、茣蓙の上で息を詰めていた。ガボは既に眠りに就いており、向かいの茣蓙で大の字になって、深い寝息を立てている。マリベルは一番奥の茣蓙に座り、ブラシで髪を梳いていた。暫くは無心で手を動かしていたが、アルスの視線に気付くと、こちらに目をやった。
「なーに、眠れないの?」
 アルスは頷いた。
「治安が悪そうだから、気をつけとこうと思って」
「だいじょうぶよ。こっちはお金はらってるんだから、安全くらい、ほしょうしてもらわなきゃ」
 マリベルは自信満々だが、アルスは曖昧に頷いただけだった。町の人から聞いた話では、スイフーは殺人こそ固く禁じているが、それ以外の諍いは、悉く看過しているらしい。その上、禁じられているとは言っても、何かの拍子で刃傷沙汰に発展する場合も少なくない。魂砕きの成功者が現れた事で、奴に続かんと気炎を吐く者も出ており、町は異様な雰囲気に包まれていた。緊張した面持ちのアルスを見、マリベルは息をつき、ブラシを置いた。
「……話したいことがあるんだったら、聞いてあげてもいいけど?」
 そう言って、返事を待たずに隣へ来た。アルスは端に寄って、彼女が茣蓙に座れるように空けてやる。マリベルは昔から、しゃぼんのような清潔な匂いがして、こんな環境に置かれていても、相変わらず良い匂いだった。アルスは何と言おうか迷ったが、相手が話しやすそうな話題を取り上げることにした。
「転職できるようになったら、僕、何の職につけばいいと思う?」
「そうねえ……」
 と、マリベルは束の間天井を見上げた。
「ふなのりとかいいんじゃない? フィッシュベルに帰ったあとも、役に立ちそうだし」
「ふなのりになったら、強くなれるかな?」
「たぶんね」
 マリベルはお座なりに答えたが、アルスは真剣だった。
「それじゃダメなんだ。絶対に強くなれる職業じゃないと」
「……あんた、そんなこと言うヤツだった?」
 マリベルは胡乱気だった。アルスは何とも答えられずに、彼女の足元に視線を落とした。傷はすっかり消え去っているが、アルスの目には、未だ爪痕がまざまざと見えるような気がした。虎の魔物に足を引き裂かれた時、マリベルはアルスを見上げた。猪の魔物に棍棒を叩き付けられ、暗く霞む視界の中で、アルスは彼女を見返した。マリベルはアルスと目が合って、すぐに視線を下ろした。其処でアルスは初めて、今際の際に置かれた人間が、あんな目をして、救いが望めぬことを悟ると、あんな諦念の表情を浮かべるのだと知った。受容的な性格のアルスは、今までどのような出来事に相対しても、それなりに受け入れてそれなりに対処して来たが、今度ばかりは流石に堪えた。ガボのように、腕を砕かれて尚、仲間を助けようと死に物狂いで食らい付く気概が欲しくなった。ガボのお陰で、アルスはマリベルを背負い、命からがら逃げ出すことが出来たのである。結果的には助かったわけだが、アルスは今まで、何処か死を別世界のものだと考えており、自分達は戦えるから大丈夫、自分達が死ぬわけが無いと、甘く考えていたことを身を以て知らしめられた。今此処で、ガボとマリベルが恙無く過ごしているのは、当たり前のことでは無いのである。二人の元気な様子を見て、アルスは深く安心すると共に、絶対に守り抜かねばならないと使命感のようなものを覚えた。
 マリベルが身動ぎして、足をスカートの中に仕舞ったので、ぼんやりしていたアルスも我に返った。いつもはお喋りが好きで、小鳥のようにちょこちょこと囀る彼女が、こう静かにしていると、何だか心細いような感じがする。マリベルの話が聞きたくて、アルスは彼女に話題を振った。
「マリベルはどの職になりたい?」
「あたし? あんたにまかせるわ」
 マリベルは即答した。投げやりなのでは無く、始めからそう考えていたようだった。
「あたしなら、何の職でも似合うでしょうし。それに、何になったって、どうせあんたが守ってくれるんでしょ?」
 と、マリベルは横目でアルスを見た。今までのアルスなら、深く考えず、唯々諾々と了解していただろうが、今は肩に重く重責が掛かったように、頷くことが出来なかった。再び押し黙ったアルスに、マリベルは息をついた。
「もう寝なさいよ。つかれた頭で考えたって、こんがらかっちゃうだけよ」
「うん……」
 アルスが返事をするや否や、マリベルは蝋燭を吹き消してしまった。暗闇になったが、何度か瞬きを繰り返すと、ものの輪郭が朧げに見えるようになって来た。マリベルはアルスの隣を離れ、手探りで荷物を漁り、ガボに毛皮のマントを掛けてやった。彼女はマントを更に二つ取り出し、軽く埃を払ってから、アルスの方に持ってきた。
「はい。これかけて寝ましょ」
 そしてマリベルは自分の寝床に戻り、寝る支度を始めた。いそいそと動く姿を見ながら、渡されたマントを持ったまま、アルスは頭を掻いた。
「……なんだか、今日はねむれそうにないや」
「ねむくなくても、横になって目をつぶってれば、知らないうちに寝ちゃってるわよ」
 声は優しかった。潮騒が聞こえるような、懐かしい響きで、何処か聞き覚えがあると思ったら、アルスは以前同じ言葉を掛けられたのだった。あの時も、この先どうなるのだろうか、どうすれば良いのだろうかと、アルスは色々なことが頭から離れず、なかなか寝付けなかった。そんな夜に、母であるマーレが優しく話を聞いてくれたのである。郷愁が殊の外床しく思え、アルスはちょっと笑みを零した。
「マリベル、母さんと同じこと言ってる」
「あら、そう? じゃ、おばさまだと思って聞きなさい」
 そう言って、マリベルもにっこりした。暗がりのせいか、面差しが何処か大人びて見えた。
「おやすみ、アルス。早く寝ないと、明日起きらんないわよ」
 マリベルは横になり、毛皮のマントに包まれるように体を丸くした。ふかふかの襟元から顔を出し、アルスの方を見る。ぬくそうに目を細めていた。
「フッシュベルに帰ったら、おいしいごはんを食べて、あったかいおフロに入って、ふわふわのベットでねむりたいね。ね、アルス」
 最後にもう一度お休みと言って、マリベルは目を閉じた。それきり、すぐに寝入ってしまったらしい。張り詰めた気分を和ませたアルスは、言われた通りに横になり、目を閉じた。真っ暗な静寂の中に、自分の息をする音と、ガボとマリベルの安らかな寝息が聞こえ、腕の傷が僅かに痛むのを感じた。当たり前の感覚だが、いずれも生きていなければ感じられないものである。此処数日の出来事で、アルスは死ぬことの恐ろしさを知り、冒険が常に死と隣り合わせである事を実感した。小さな村で育まれた、アルスの小さな常識は、良くも悪くも変わりつつある。けれども、アルスが何になろうと、どれほど変わろうと、傍らにいるこの二人は、アルスは相変わらずだと言うに違いないのだった。早くフィッシュベルに帰って、三人でマーレ母さんの料理を食べたいな、と思っている内、アルスは自然と寝付いてしまった。夢現に波のさざめきが聞こえるような気がした。

2016.7.1