風も無く、蒼穹をそっくりそのまま映した水面から、糸が一本突き出ている。持ち主が余所見したり欠伸したりすると、小さく揺れて波紋を立てる。木箱に腰掛け、釣果を待っているのはフリンである。静かなヤーデのそのまた外れ、岩肌に囲まれた小さな入江は、誰もいなくて気持ちが良いけれど、退屈で眠たかった。
「そこで何をしてるんだ?」
 不意の声に驚いて、釣竿を取り落としそうになる。言葉の主はケルヴィンだった。フリンは体を海に向けたまま、顔だけ見返りて応じた。
「何って、釣りだよ」
「そんなことは分かっている。洞窟に近寄るなと言った筈だが?」
「洞窟には入らないよ。こっちにいるだけなら、別に良いでしょ」
 この絶壁を上がると、いつぞや野党に浚われ掛けた洞窟がある。かなりおっかない思いをした上に、魔物が住んでいるため、フリンにとっては近寄りがたく思われるが、下方の海は釣りするのに丁度良く、しばしば通っていた。土台たった一人のために課したような禁である、ケルヴィンは譲歩した。
「仕方無いな。しかし、一人で来るのは止めておけよ」
「分かった。ギュス様がいる時だけにするよ」
「あいつが一番の問題なんだがな……。座っても構わないか」
「良いけど、静かにね」
 面倒見の良い彼は、このままフリンを一人にさせるつもりも無く、言い付け通り足音を忍ばせて来、隣の木箱に腰を下ろした。お粗末な椅子にきちんと座るのが可笑しかった。
 ギュスターヴ母子を慕い、グリューゲルから此処まで付いて来たフリンに、生活の基盤を与えてくれたのはこの少年の父である。十五になるまでは親切な申し出に甘え、それからフリンは自活した。村の人々に助けられるきらいはあるものの、とにかくトマス卿の援助を仰ぐことはしなかった。然らずんばケルヴィンと友達にはなれなかっただろう。彼は敬遠せずに接せられる、数少ない貴族であった。
 風が出て来た。沸き起こる細波に、水鏡は散らされてしまう。ケルヴィンは暫し真剣に釣りを見守っていたが、フリンが欠伸をするのを見、すこし寛いだ風情になった。
「ギュスターヴは?」
「ギュス様なら鍛冶屋」
「今日もか。毎日毎日、熱心なものだな」
「ケルヴィンも、良く来てるね」
 フリンがそう言うと、ケルヴィンはばつの悪そうな顔をした。
「ソフィー様にも言われた」
 近々体調を崩したソフィーは、足繁くご機嫌伺いに来る彼を、有り難いけれど責務を疎かにしないよう、と諌めたらしい。病と言えど、普段は障り無く家事をこなしており、見舞いなどとは大袈裟なくらいである。しかしながら、ギュスターヴやフリンは今一つぴんと来ないものの、既に母親のいないケルヴィンだから、案じる気持ちは分からないでも無い。それに、何だか良く分からない事情であるが、トマス卿はソフィーのところにそうしばしば訪れることが出来ないようで、彼はその代理でもあった。
 また一匹釣れた。掌に収まる小さな魚を、フリンは手慣れた所作で針から外し、逃がしてやった。空の針に、芋虫を括って海へと放る。金属の小さな煌めきが、放物線を描いて落ちた。
「鉄製の針か」
「うん。石の針より良く食いつくんだ」
 フリンは鍛冶屋の親父から屑鉄を貰い、炉が空く合間をちょっと借りて、様々な小道具を拵えていた。一番役に立つのがこの釣り針で、自分が食べる分に困ったことは無く、沢山釣れたらギュスターヴの屋敷にお裾分けもしてやれる。開錠の細工も作った。十数える間に扉を開けてしまう優れものだが、現状使い道は無く、引き出しに仕舞い放しである。首から下げた鉄のお守りは、一往魔除けになっているようだ。何となれば、普段魚のおこぼれを狙いに来る筈の猫や烏が、これを付けてからは殆ど姿を見せなくなったのだった。滔々と語られる自慢を、ケルヴィンは感心しながら聞いていた。
「お前もギュスターヴも、鉄の扱いが上手いんだな」
「ギュス様には、ヘタクソだって言われた」
「あいつの言うことを真に受けなくたって良いさ。口ではそう言うが、本当はフリンを認めている」
「そうかなー? だったら、嬉しいな」
 フリンは緩んだ笑みを浮かべた。このまま努力を続ければ、いつかギュスターヴに褒めて貰えるかも知れない。ケルヴィンに褒められるのも嬉しいけれど、ギュスターヴなら一入である。そもそも鉄器を作り始めたのは彼の影響だ。術が使えぬならば違う術を探すまでだと、身を以て知らしめてくれた存在で、フリンは目の曇りが取れたような心地がしたのだった。
 再び手応えがあった。幾ら引いてもびくともせず、大きく竿がしなる。
「大きいぞ!」
 フリンは負けじと、糸が切れぬよう慎重に引っ張った。悪戦苦闘の傍ら、ケルヴィンが言った。
「魚では無いな」
 フリンの注意がそちらに向いた。すると一気に獲物が上がり、勢いひっくり返って背中をぶつけ、掛かった物が額にぶち当たった。木の桶が釣れた。余りの痛さに涙ぐんでいると、見せてみろとばかりに手を出され、冷たい雫が落とされた。熱と痛みが奪われる。ケルヴィンは鉄のお守りを見下ろし、効力は確かだな、と呟いた。フリンが額を撫で撫で起き上がる。手の平にちょっと血が付いたが、傷の方は塞がっていた。
「ありがとう、ケルヴィン。……魚じゃないって、どうして分かったの?」
「生き物にしてはアニマが微弱だと思ったんだ」
「ふーん。ねえ、今度かかったらまた教えてよ」
「もう良いだろう。帰るぞ」
「まだ。ソフィー様にあげる分が無いんだ」
「仕方の無い奴だな」
 嘆息しながらも、ケルヴィンは付き合ってくれた。彼は良き話相手で、隣村で何があったとか、伯爵邸に変わった客人が訪れたとか、はたまた子馬がどうだとか、此処には無いような出来事を持って来る。フリンは、口で言うよりかは実践で、木登りの仕方だの食べられる実の見分け方だの、およそ貴族には相応しくないことを教える。話すのは、先般引いた水路がとても役に立っているとか、嵐でぶどうの枝が折れてしまったとか、村の満足と不足を伝えるようなことが多かった。その間に両三匹釣れるも、フリンはわざと選り好みして、全て逃がしてしまった。
 誰かを呼ぶ声がすると思えば、岩肌の間にレスリーがいた。ケルヴィンが颯爽と出迎えに行き、フリンも釣竿を放り投げて追う。彼女は片手に籠を下げ、もう片方の手で頻りにエプロンを払っていた。
「何かあったのか?」
「いえ。これ、ソフィー様が持って行きなさいって」
 と、ケルヴィンに籠を押し付ける。一体中身は何だと、被さった青い手巾をめくってみると、ふんわり良い匂いが広がった。焼きたてのパンだった。じっと見詰めるフリンに、ケルヴィンが一つ取って寄越してくれる。いつも食べる平たい硬いものとは比ぶべくも無く、甘くて綿みたいに軟らかい。肩の荷が下りたように、レスリーは粉をはたくのを止め、エプロンを脱いで畳んだ。
「すまないな」
「どういたしまして。フリンは、お屋敷で食べてくれば?」
「うん。ギュス様が来たらね」
「ギュスのことは気にしなくていいのよ。どうせ、夕方まで帰らないんでしょうから」
 レスリーは腰に手をやった。最近の彼女は、ソフィーの手伝いをするついで、婦人から礼儀作法や手芸を学んでいる。それで屋敷にいることが多くなったのだが、外にばかり出掛けているギュスターヴに対し大層おかんむりだった。ケルヴィンが言うには彼女のせいらしいが。手伝えとか働けとかの小言では無く、母上のそばにいてやれ、と怒るのがレスリーだった。その後、一人で戻るのは危ないと主張するケルヴィンと、あと一匹だけ釣りたいフリンの我儘とを受け、レスリーも暫く見物する運びとなった。
 やっと釣れた。暴れて水滴を跳ね散らかすそれは、フリンの頭くらいの大きさがあり、喜び勇んでバケツに放り込む。そして例の如く、芋虫を針に突き刺したら、レスリーが眉を顰めた。女の子に見せるものでは無かった。
「フリン」
「……あ、そっか。帰るんだったよね」
 はたと心付き、フリンは虫を抜いて海に投げ捨てた。その手でパンのお代わりを貰おうとしたら、今度は二人の顰蹙を買ってしまった。

2013.7