人なき森の渡る声

 クローディアは森に帰った。長き旅路、苦楽を共にした仲間達との別れは寂しくもあったが、各々の故郷で生きるその人達を思うだけで、心はほのぼのと満たされるのだった。彼女は新しき魔女として、悪しき者を退け、木々と獣の傷を癒やし、時には彼らの相談役となって、森の安寧を守りながら暮らしていた。魔女の庵は、先代が住んでいた頃より本が増え、獣達が気楽に上がり込んで来るため、元々狭いのが一層窮屈に、賑やかになっていた。
 春もいよいよ深まって来、新緑は色濃く染まり、野面に花が咲き乱れる季節が訪れた。普段は温和な獣達さえ、春先は巣作りする場所を挙って争い、クローディアは仲裁するのに森中を走り回っていたのだが、今ではそれも漸く落ち着いた。庵の屋根と壁の隙間は、丁度鳥達が営巣するのに良い隠れ家となっており、二組の番が此処に宿っている。彼らが一生懸命働くと、自然、羽根や素材が室内に落ちてくるので、まめに掃き清めなければならない。彼女はいつものように、朝の支度を終え、庵の掃除に取り掛かった。
 壁面に吊してある、とねりこの枝が独りでに音を立てた。森に何者が入ったのを知らせる術具で、落ちたり折れたりしないのであれば、侵入者に害意が無いと分かる。ブラウもそれを知っており、小さな耳を動かしたきり、暖炉のそばで微睡んでいた。余程眠たいのか、クローディアがその下を掃こうとしても、ものぐさに転がってしか場所を空けてくれない。仲間達が家族に掛かりきりなせいで、彼は退屈しているのかも知れなかった。クローディアも此処のところは忙しなくしており、尚更である。
「ブラウ、苺を摘みに行きましょうか」
 掃除を済ませ、声を掛けると、ブラウはたちまち起き上がった。先程の気だるさは何処へやら、小走りで庵を出、魔女の出立を今か今かと待ち侘びるもので、クローディアは笑いながら弓の支度を整えた。
 小屋の周囲は一面ブルーベルの花に覆われて、唯一出入りに使う獣道のみが踏み固められ、地表に落ち葉が覗いている。クローディアが降り立とうとした矢先、一羽の鶫が倉皇と飛んで来た。ブラウの肩にぶつかるようにして留まる。
「どうしたの、そんなに慌てて?」
 クローディアが尋ねると、鶫はいつもの澄んだ声で、口早に侵入者のことをまくし立てた。
「大丈夫よ。人はすぐに出て行ってしまうもの」
 優しく微笑んで宥めるも、小鳥はおかしな人間が来たのだと言い募る。彼女はまだ年若いもので、初めて覚えた不安に戸惑っているのかと思ったが、どうやらそうでは無いらしい。クローディアはブラウを見、彼も剣呑な表情を浮かべていることに気付いた。
「私、様子を見てくるわ。留守番をお願いね」
 庵の番はブラウに任せ、クローディアは切り通しの合間を抜け、人里近い方へ歩いて行った。途中で出会ったのろじかや栗鼠達は、誰もが首をめぐらし耳をそばだて、彼女がそばに寄って声を掛けるまで、時が止まったように立ち竦んでいた。警戒すると言うよりは、まるで畏れているようだった。
 その人間は何だかぶつぶつ呟いていたのですぐに分かった。天の梢を見上げたり、地の花々を見下ろしたりして、どうやら森を讃える文句を考えているらしい。緑の衣の詩人であった。歩き歩きハープを爪弾き、思い付いた言葉を歌に乗せていると、不意に根っこに躓きそうになる。クローディアは思わず駆け出し、取り落としたハープを受け止めてやった。すんでのところで踏みとどまり、木の幹にもたれ掛かっている詩人に返すと、彼は輝かんばかりに笑った。
「ありがとうございます。久しぶりですね、クローディアさん」
「あなたは……」
「旅の詩人ですよ。良くパブでお会いしたじゃありませんか」
 クローディアが不審の目で見るも、詩人は屈託無く喜んでいる。帽子を目深に被った面差しは底が知れず、何とも有無を言わせぬ風情だったので、彼女は黙って聞き流した。この人物と最後に会ったのはパブなんかとは程遠い場所である。道理で獣達が敬遠する筈だった。
「そうだ。あなたに渡したいものがありまして」
 と、詩人が自分の懐を漁った。一葉の紙を取り出し、クローディアに渡す。
「森の魔女に届けるようにって、頼まれたんです」
「ありがとう。わざわざ届けに来てくれたのね」
「気にしないで下さい。私もここに用がありましたので」
 宛名も差出人の名も書かれていない、折り畳んで蝋で留めただけの簡素な手紙だった。しかしクローディアは送り主を知っており、我知らず顔を綻ばせる。喜ぶ様子を見、詩人も帽子の奥から微笑んで返した。
 手紙を開けてみようかするまいか、逡巡していた束の間に、詩人は森の奥へと歩き出していた。上衣の裾が汚れるのも厭わず、花咲く茂みを踏み分ける。薄く柔らかな若葉を越して、天から差し込む光が淡い緑に染め抜かれ、この時期の森は分けても明るく照らされる。彼の姿は其処に溶け込むようだった。ゆるりと周囲を見回し、感嘆の声を漏らす。
「見事な勝景ですね。エリスが愛し、シリルが眠ると言うバファル大森林。足を運んだ甲斐がありました」
「もし良かったら、案内しましょうか?」
「それはありがたい。森の神が宿るとか言う噂の、大きな木を見てみたいんです。分かりますかね?」
「ええ。ついてきて」
 クローディアは木立をすり抜け、詩人の前に降り立った。大切な手紙は折れぬよう、帯の間に挟んでおいた。
 詩人は、森に住む者には当たり前に感じるような、純白の花の絨毯とか、木々が道を開くように生え揃っているところ、木肌を覆い尽くす苔などと言った小さな情景まで、具に観察しながら歩いていた。クローディアの後ろ姿さえ歌の種になるらしく、ただでさえ手紙が気になって仕方無いのに、彼女はますます落ち着かない気分で先を行く。詩人は詩人で、獣達が一声も発しようとしないために、口ずさむ歌がいやに響いてやり辛そうだった。きょろきょろと辺りを見回す。
「何だか、やけに静かですね……」
「みんな、あなたの歌に遠慮してるんだわ」
「遠慮なんかしなくて良いのに」
 手招きするように弦を掻き鳴らせど、一向にことは返らない。詩人はついに諦めて、手元のハープに目を落とし、子守歌のような曲を奏で始めた。それで、ついには枝葉のかさつきまで、何もかも静まり返ってしまった。森一体が歌に聞きしれているようだった。
 小谷を抜け、庵のある広場に出ると、ブラウが駆け寄って出迎えてくれた。ところが、後方の客人を見るなり足を止めてしまう。詩人から目を離さぬまま、その周囲をぐるぐる回り出したブラウを、クローディアは落ち着かせようと宥める。堂々巡りの有り様を、詩人が苦笑して見守っていた。
「嫌われちゃいましたか」
「いえ、たぶん驚いてるんだと思います」
 詩人が一歩進んだら、ブラウもその分後ろに下がった。彼は誰かに威嚇したことなど無いし、今もそんなつもりは無い。ただ戸惑っている。
「大丈夫よ、この人は何もしないわ。木を見に来ただけなんですって」
 住処で待っていて欲しいと言い含めようが、ブラウは聞き入れず、今度はクローディアのそばにぴったり寄り添って離れなくなった。他の者達のように、畏まっている態度では無く、ひたすらに不安と戸惑いしか見えない。理由を聞いてもこれと言った答えは得られず、大きな体にぐいぐいと押されて、ついに彼女は説得を諦めた。している間にも、詩人は歩みを進めており、目当ての大樹のほど近く、泉のところに辿り着いていた。
 泉は縁のいっぱいに水を湛えており、人が歩くたびにか細く波立った。深緑の鏡に詩人が映る。彼は跪き、ハープを足元に立てかけ、ひらひらした袖を器用に翻して、泉に両手を差し入れた。水は一つ大きな波紋を立てたきり、平らかな鏡の様相を保ち続ける。クローディアが入り込んだ。
「それは、飲まない方が良いわ」
「どうして?」
「森のものを口にすると、ここから出られなくなるんです」
 通常人が迷い込んでも忽ち外に抜け出てしまうが、一旦此処の食物や水を口にしてしまうと、森の一部となって取り込まれる羽目になる。そうして生きて行けるのは、此処で死ぬべき獣達と、正しき道を知る魔女のみであった。
「でも、あなただったら、大丈夫かも知れないわ」
「いえ、やめておきますよ。まだまだ世界を見て回りたいのでね」
 詩人は残念無念と言いながら、掬った水を泉に返し、懐から水筒を出して飲んだ。そしてやっと、後背の大木に向き合うつもりになった。
 喜び勇んで駆け寄るでも、感じ入ってゆるりと歩み寄るでも無く、彼はごく自然に大樹のそばへ行った。失礼と言って根の上に乗り、旧知の友と握手でもするように、ごつごつした幹に触れる。ミズナラの枝がざわめいた。詩人は梢を振り仰ぎ、そのまま長いこと立ち尽くしていた。クローディアは邪魔をせぬよう、ブラウと庵の方へ戻る。後から、柔らかなハープの調べが追従した。
 住処に戻るなり、クローディアは弓とやなぐいを脱ぎ捨てた。座る所作さえ惜しく、はやる胸を抑えながら、破らぬように手紙の封を解く。端の欠けた羊皮紙に、こなれた流麗な手で、短い文章が書かれていた。簡単な向こうの近況と、こちらの具合を窺う挨拶と、何か土産を同封しようかと思ったが、一緒に旅をした時に見たものや買ったものより良い品が見つからなかったから、言葉だけを送ると。不例や事故を報せる内容では無かったことに、クローディアはまず安堵の息をつく。淡泊な文面は、いつも話していた声を思い浮かべながら読むと、優しく思い遣りのある言葉として色付いた。この手紙はローザリアで書いているとあるが、一体今は何処にいるのか、誰と旅しているのか、クローディアは目を伏せて、遠い背中に思いを馳せた。
 没頭していたら、ブラウが頭越しに覗き込んで来た。彼女はもう一度、今度は声に出して読み聞かせる。そして少し迷った挙句、手近な魔術書を取り、最後の頁を破いて返事を認めた。贈られた優しい言葉に応えられるように、どうか無事に旅を続けられるようにと、願いを吹き込めながら。ブラウに見せると、隅に挨拶の手形を付けてくれた。書き上げた手紙を、蝋燭の類は無いから、三つに折って紐で封をする。来た手紙と同じように、宛名も差出人の名も書かずにしまった。
 庵を出、大きな木の方に戻ると、詩人がその根元でクローディアを待っていた。
「もう良いんですか?」
「ええ。私はこれで帰ることに致します。親切にありがとうございました」
「いいえ。帰るのなら、送って行くわ」
「それには及びませんよ。道はさっきので覚えましたから!」
 と、胸を張る。やはり水を飲んでも平気だったのでは無かろうかと思っていたら、詩人の目線が彼女の手元に下りた。上手く切り出す切っ掛けを貰い、クローディアはおずおず申し出た。
「あの、もし良かったら、この手紙を届けて欲しいんです」
「お安いご用です」
「ありがとう。もしもどこかで会った時で、構わないから……」
 詩人は気安く請け負ってくれ、どうやら相手が如何なる場所にいようとも、探してしかと届けてくれる腹のようだった。クローディアは申し訳無く思う一方、強いて断りはせず、親切をありがたく受け取っておいた。
 丁重に断られたが、彼女はせめて小谷の先まで見送ることにした。詩人は来た時より軽い足取りで、さくさくと枯れ葉の小道を歩く。別れ際、彼は最後に振り返って、今一度大きな木を仰ぎ見た。
「この美しい森を、とこしえに失わぬよう祈っています」
 そして詩人は去って行った。
 詩人が見えなくなってから、纏わり付いていたブラウが漸く離れてくれた。良く良く彼に尋ねれてみれば、何のことは無い、ただその人がクローディアを森の外に連れ出してしまわないのかと、心配しているだけなのだった。真摯な態度がいじらしく、クローディアはその鼻先に額を押し当てる。真っ黒な目をじっと見詰めて、安心させるよう優しく言った。
「私なら大丈夫よ。もう、どこにも行かないわ」
 潜んでいた鳥達が、堰を切ったように噂話を始めた。あまりにざわつくもので、一つ一つの言葉を聞き取るのが容易では無いが、題材は案の定かの人についてであり、彼がどのような存在であるかを、誰もが知っているのだった。きっと詩人は手紙を届けてくれるだろう。返事は無いかも知れないが、あの寡黙な人がわざわざ便りを寄越し、クローディアがそれに応えたと言うだけで、二人にとっては十分過ぎる程だった。
「遅くなってしまってごめんなさいね。さ、行きましょう」
 新しき魔女はブラウを促して、苺を摘みに、青い草原を渡って行った。

2014.6.15