重ね重ねの綾紅葉

 ケヴィンの爪は鋭く尖っている。足の指は普通だが、手の指は親指から小指まで鋭利に研ぎ澄まされていた。獣人なので、いざと言う時素手でも戦えるよう進化したらしいのだが、当のケヴィンは非常に不便に思っていた。第一に、拳を握ると爪が食い込んで痛い。モンクとしては致命的である。その上、ちょっとした事で何かを引っ掻いてしまったりする。先日シャルロットのほっぺを引っ掻いた時は、申し訳無くて堪らなかったし、謝ってご機嫌を直して貰うのも大変だった。それでケヴィンは、少し伸びたら歯や爪で毟るように切ってしまうのだが、時々深爪になってしまって痛かった。極め付きに、伸びるのさえ非常に早いのである。この尖った爪は、とにかく不便なのだった。
 バイゼルの宿屋にて、ケヴィンはまた自分の爪が尖っている事に気が付いた。いつものように、手を口元に持って行って千切ろうとすると、通り掛かったアンジェラが見咎めた。
「何してるの?」
「ツメ、切ってる」
 ケヴィンが答えると、彼女は怪訝な顔で近付いて来た。
「切るって、まさか歯でかんでるの? ちょっと見せてごらんなさい」
 と、アンジェラはケヴィンの手を取り、燭台の方に近付けた。ブラックマーケットの開いている時間なので、外は既に真っ暗だった。火の明かりに翳された、がたついて、一つも綺麗に揃っていない爪を見、アンジェラは呆れた声を上げた。
「あ〜あ、こんなにしちゃって……。どうしてリースに相談しなかったの?」
 ケヴィンは何とも答えられなかった。爪を切る事なんかについて、誰かに相談すると言う考えすら頭に及ばなかったのだ。アンジェラは返答を待つつもりは無く、ケヴィンを引っ張ってベッドから立たせ、机の前に座らせた。そして手袋を脱ぎ、倉庫に手を入れると、中から小さな鋏を出した。
「しょうがないから、私が切ってあげる。じっとしてなさいよ」
 と、彼女はケヴィンの左手を取り、一番長い親指の爪を切ろうとした。
「あーっ!! だめでちよう!」
 叫び声が上がり、真ん丸い目のシャルロットが部屋に飛び込んで来た。早足で机に近寄り、あくせくと鋏を取り上げようとしたが、危なっかしいので、アンジェラは彼女の手が届かない所に持ち上げてしまった。シャルロットは軽く地団駄を踏みながら、懸命に訴えた。
「よるにつめをきると、すご〜くえんぎがわるいんでち! やめなちゃい!」
 祖父の影響か、御幣担ぎの一面があるシャルロットは、縁起の悪そうな行動は避けて通り、仲間にも取らせようとしない。アンジェラは面倒くさそうに聞き流し、鋏を倉庫に仕舞った。
「なら、やすりでけずるわよ。これならえんぎも悪くないでしょ?」
「そりは、そうかもしれまちぇんけど……」
 言い淀むシャルロットは放って置き、アンジェラは倉庫から、細くて平たい、小さな鉄製の板のようなものを取り出した。不思議そうなケヴィンに気付き、平たい面を指で撫でる。
「ここがザラザラしてるでしょ? これで、ちょっとずつツメをけずるのよ。時間はかかるけどね」
 時間が掛かると言われ、ケヴィンは今回の目的を思い出した。買い物をしに来たのだ。
「アンジェラ、買い物、行かなくていいの?」
「別にいいよ。私、バイゼルのお店ってあんまり好きじゃないんだ」
 アンジェラは朗らかに笑って、再びケヴィンの手を取った。シャルロットは何か不吉な事が起きぬよう、見張っているつもりになったらしく、ケヴィンの隣の椅子に座った。
「はちゃー、ケヴィンしゃん、つめがぼろぼろでち……」
 シャルロットも心配そうだった。ケヴィンの爪は、先端もさる事ながら、爪先の白い部分がまばらで、指先ぎりぎりまで肌色の部分が来ている指もあれば、殆ど半分近くが真っ白になっている指もあった。土やごみまで挟まっており、かなり汚いが、アンジェラは意に介さなかった。
「薬指は、かんぜんに深爪ね。伸びるまでいじっちゃダメよ」
「うん」
 その様子を、シャルロットはずっと眉を顰めて見ていた。しているとその内、ふと何かに心付き、じっと半眼でケヴィンを見詰めた。
「……もちかちて、ケヴィンしゃん、シャルロットのほっぺをひっかいたこと、きにしてたんでちか?」
「……あう……」
 ケヴィンはまた何とも答えられなかった。確かに、こうまで頻繁に噛み千切るようになったのは、シャルロットの頬を引っ掻いたのが切っ掛けである。まごついていると、シャルロットは少し息をつき、大らかに笑った。
「ケヴィンしゃん、せんさいでちからねえ……。あれはふこーなじこなんでちから、きにしなくていいんでちよ」
「でも、おんなのこの顔、キズつけちゃダメだって……」
「みなしゃい。きれーになおってるでちょ」
 と、彼女は頬を指差した。すべすべの膨らんだほっぺたである。
「シャルロットはかいふくまほうがつかえまちから、きずなんてへいちゃらなんでち!」
 きっぱりと言い、シャルロットはそれ以上の反論を認めようとしなかった。傷付けた当座にも同じ事を言われ、ケヴィンは忘れたつもりでいたのだが、やはり内心引っ掛かっていた事を見事に言い当てられた。この間はケヴィンが尚も気にして何か言ったので、ついにシャルロットが機嫌を損ねてしまったのである。彼女の言葉に感謝して、ケヴィンは今度こそ気にしない事にした。
 アンジェラはまず左の親指にやすりを当て、小刻みに動かして削っていた。しゃこしゃこと軽い音を立てながら、少しずつ白い削り屑が湧き出る。白い部分が大分伸びてしまっているので、全て削り落とすまで時間が掛かりそうである。作業をするアンジェラの指先は綺麗で、薄く艶があり、全ての爪が同じように生え揃っている。隣のシャルロットを見ると、少し短めに、綺麗に丸く切ってあった。
「シャルロット、ツメ、きれいだね」
「でちょ。アンジェラしゃんに、きってもらってまちからね」
 シャルロットは得意気に、手を揃えて机の上に置いた。対するアンジェラは不満そうである。
「夜に切るのはイヤだって言うせいで、たいへんなのよ。お昼間はいそがしいんだから」
「でも、おかげで、わるいことはおきてまちぇんよ!」
 と、シャルロットはますます胸を張った。その後も色々とお喋りをしたが、やがてアンジェラの返事が等閑になり、静かに爪を削り始めると、退屈になったシャルロットはケヴィンの右手を取っていじくり始めた。シャルロットの手は小さくて温かい。彼女は少し丸まっていたケヴィンの手を広げ、指の間を親指で押した。
「ケヴィンしゃん、おてて、やわらかいんでちね」
「そうか?」
「ほんとね。もっとマメがたくさんあって、かたいのかと思ってた」
 アンジェラも一旦手を止め、ケヴィンの手の平を揉んだ。二人の手はとても滑らかで柔らかいので、彼はかなりこそばゆい思いをした。ケヴィンの手は、甲側こそ筋張ってごつい見た目だが、手の平は不思議と少年らしい印象だった。
「武術の達人は、手がやわらかいものなんだってよ」
 そう言いながら、ホークアイが入って来た。買って来た荷物をその辺に置き、アンジェラの隣に座って、皆が何をしているのかつくづく眺める。
「ツメを切ってるのか」
「けずってるんでち」
 シャルロットが訂正した。
「ホークアイしゃんも、おてて、ふわふわなんでちか?」
「いや、オレなんかまだまださ」
 シャルロットが尋ねると、ホークアイは右手を広げて机に置いた。この少年も自分を鍛えており、手には胼胝や皮の硬くなった部分が多く、男らしい見た目をしていた。シャルロットはごく自然な所作で、そちらに手を伸ばした。
「ナイフの技は奥が深いんだ。フレイムカーンさまぐらいのウデじゃなければ、フワフワにはなれないな」
 シャルロットに手を揉まれながら、ホークアイはくすぐったそうにその手を揉み返した。小さな手はふくよかで、押すとぷにぷにと吸い付くように弾んだ。いよいよホークアイは堪らず、くつくつと笑い出した。
「シャルロットも、なかなかやわらかい手をしておいでで。フレイルの達人かもよ」
「そんなわけないでちょ。あんまり、つかわないだけでち」
 本人は冷静だった。アンジェラの手が柔らかいのも、杖をあまり使わず、専ら魔法攻撃に頼っている影響らしい。ケヴィンはホークアイの爪を見て、やはり綺麗にしてある事に感心した。
「ホークアイも、ツメ、きれいなんだね」
「ああ、ドロボーは手先が肝心だからな。ケヴィンも、手を大事にしなよ」
 ぼろぼろの爪を見、ホークアイも優しく声を掛けて来た。爪と言うのは引っ掻いたりするだけで無く、指先に力を入れる時にも重要なので、なるべく綺麗に整えておいた方が良いと。ケヴィンは忠告を真摯に聞き入れ、間違っても歯で千切るのはやめようと心に誓った。ホークアイはアンジェラに、よろしく頼むと言い置いて、再び買い物に出掛けて行こうとした。
 入れ違いにリースがやって来た。ホークアイは彼女と戸口で出会し、ふと思い付いて、手を差し出した。
「おじょうさん、お手を拝借」
「手ですか?」
 と、リースは素直に手を出した。ホークアイはその手を取ったが、薄暗くて良く見えなかったらしく、掌を軽く撫でた。感触を確かめると、仔細ありげに笑った。
「オレ達、みんなそろって半人前だな」
「半人前?」
 不思議そうなリースに、彼は先程の手の話をした。ケヴィンは知っているが、リースの手にも胼胝がある。重い槍を振り回すのだから当然だった。リースらしい、頑張り屋の手である気がして、ケヴィンは彼女の手が好きだった。リースもホークアイの手を触り、ぴたりと重ねる形になった。二人とも楽しそうに笑っている。
「ホークアイ、手が大きいんですね」
「君が小さいんじゃないか?」
「そう? ふつうだと思うけど……」
 そんな話をしながら、暫く比べ合いをして、やがてホークアイは部屋を出て行った。リースは入って来て、座っている三人を見、興味深そうに近付いた。
「……あ、やっぱり、マメを見てるわけじゃないのね」
「うん。ケヴィンしゃんの、つめをけずってまち」
 シャルロットが答えた。削るの部分に力を籠め、何としてでも切るとは言わないつもりらしい。リースの視線がこちらに移ったので、ケヴィンは咄嗟に手を隠そうとしたが、アンジェラに押さえられていて叶わなかった。今まで微笑していたリースが、見る間に眉を曇らせてしまった。
「ああ、ケヴィン……。そのツメはどうしたの?」
 こうやって心配させるのが嫌で、ケヴィンは色々な事を隠そうと頑張るのだが、殆ど上手く行った例は無い。彼女はアンジェラに手を止めて貰い、ケヴィンの乱雑な爪を見た。その青い目を見ていると、自分がとても悪い事をしたような気になっていたたまれず、ケヴィンは洗いざらい事情を話した。
「自分で切ったんだ。歯とか、ツメで……。ハサミで切るの、思いつかなかった……」
 ごめんよと、ケヴィンは謝ったが、リースはゆるゆると首を振りながら、ケヴィンの手先をそっと撫でた。
「ごめんなさい、私がちゃんと気づいていれば……。血がでたり、ばいきんが入ったりしなかった?」
「うん、だいじょうぶ」
 爪を粗末に扱うと、そんな事まで起こるらしい。ケヴィンは再三反省した。
「ばいきんなんかにまけるケヴィンしゃんじゃ、ありまちぇんよ」
 と、シャルロット。
「ばいきんはこわいのよ? 頭にばいきんが入っちゃったら、ひどい熱が出て、死んじゃう事もあるんですって」
 アンジェラが脅かすように言った。すると、矢庭にシャルロットは怖がりだし、手を丸めて爪を隠した。ケヴィンも内心ちょっと震えた。
「私も、てつだいましょうか?」
 と、リースもやすりを倉庫から出した。ローラントから持って来たものである。リースやエリオットの部屋は、奇跡的に火の手を免れており、彼女らの大切なものは大半が無傷で残されていた。忍者軍も部屋を荒らしてはおらず、美獣に操られていた中での最後の良心だったのかも知れなかった。彼女はケヴィンの隣に座り、手元にやすりを添えようとしたが、アンジェラが断った。
「こっちはだいじょうぶよ。それより、お買い物が終わってないんじゃない?」
「あ、そうか……」
「ケヴィンの事はまかせといて。お買い物、よろしくね」
 友達にそう言われ、リースはやすりを仕舞って立ち上がった。未だに爪を隠しているシャルロットに声を掛ける。
「シャルロット、おやつを買いに行きましょうか。さっき、おいしそうなクッキーを見かけたの」
「わーい、いきまち!」
 シャルロットが万歳した。飛び跳ねるような勢いで席を立ち、走って戸口の方へ行った。
「ちょっとだけにしなさいよ。リースにワガママ言っちゃ、ダメだからね」
「は〜い」
 注意を言い付けるアンジェラに、シャルロットは適当な返事を返した。その様子を微笑ましく見ながら、リースはケヴィンの方を向いた。
「ケヴィン。今度からは、ツメをきれいに切るようにしましょうね。私がいつでもやってあげるから」
「うん、わかった」
 ケヴィンが頷くと、リースはにっこり笑った。
「アンジェラ、ありがとう」
 と、彼女はアンジェラに礼を言い、じたばたして待つシャルロットと一緒に出て行った。
 三本の指が終わった。元が難だったせいで、完璧にはならないが、普通の人間らしい丸い爪になった。ケヴィンは自分の爪がこんな風になったのを久々に見たので、物珍しくてじっと観察した。アンジェラは一旦休憩し、座ったまま腕を伸ばし、皆の出て行った戸口に目をやった。顔は何故だかにやけていた。
「リースって、ケヴィンのお姉さんみたいよね」
「そう、かな……?」
 ケヴィンは首を傾げた。姉がいないから良く分からない。アンジェラは両手で頬杖を突き、目を細めて頷いた。
「ケヴィンだって、リースの事が好きみたいだしさ。二人がいっしょにいると、きょうだいみたいだよ」
 何かと無頓着で、人嫌いの気がある彼に対し、リースは何くれと無く手を差し伸べてくれていた。ケヴィンは母親以外で、優しく世話を焼いてくれるような親切に触れた事が無かったから、始めは戸惑い、しかしとても嬉しかったのを覚えている。獣人の世界は独立独歩で、特に男に対しては、他人が深く立ち入っては来ないのだ。五人の仲間はいずれも大切な友達だが、一番最初に出会ったためか、ケヴィンにとってのホークアイとリースは、自分を明るい世界に連れ出してくれた人と言う特別な思い出があった。ケヴィンはそんな事を考えたが、上手く言葉に出来ず、代わりにこう言った。
「アンジェラも、シャルロットのお姉さんみたいだよ」
「……えっ?」
 アンジェラがきょとんとした。豆鉄砲でも食らったように、暫くまじくじしていたが、ややあって我を取り戻し、落ち着かない素振りで手を組み合わせ始めた。頬が見る見る赤くなった。
「えー、シャルロットのお姉さん〜?」
 と、わざと嫌そうな声を出す。
「もうちょっと、おとなしくて、ナマイキじゃない子がいいよ」
 アンジェラはますます赤くなりながら、視線を逸らして髪をいじくった。顔はすっかりにやけており、とろけそうなほっぺたを両手で押さえた。その時には耳まで赤かった。
 アンジェラは暫くそわそわしていたが、またしても宿の扉が開いたので、まともな表情を取り繕った。再度ケヴィンの手を取り、やすりで削りに掛かる。入って来たのはデュランだった。
「あっ、ツメ切ってる!」
 と、大股で歩いて来た。
「夜にツメ切ると、シャルロットに怒られるんだぞ!」
「けずってるのよ。これならだいじょうぶなんだってさ」
 アンジェラが軽くかわし、やすりを彼に見せた。デュランもそうかと容易く納得し、ケヴィンの隣に座った。さりさりと少しずつ屑を出す爪を、頬杖を突いて眺める。
「めんどくさくねえか?」
「そうでもないよ。おしゃべりしながらやってるから、けっこう楽しいもん」
 アンジェラは爪に集中しながら、少し口元を緩めた。ケヴィンは何よりも、デュランが机に置いた小さな包みが気になった。口が可愛らしいリボンで結んであり、あまり彼には似つかわしく無い。視線に気付いたデュランが、包みを軽く持ち上げた。
「クッキー買ってきてやったぜ。食うだろ?」
 言いながら、彼はさっさとリボンを解いた。真っ白い布で包んである、小さな丸いクッキーだった。じっと見詰めるケヴィンに対し、デュランは得意気に笑った。
「うまそうだろ。ちびっこハンマーのばあさんが、マーケットで売ってたんだ」
「おいしそうね。ありがとう」
 礼を言いつつも、アンジェラは作業の手を止めなかった。デュランは拍子抜けして、彼女の顔をつくづく見詰めた。
「食わねえの?」
「悪いけど、あとでもらうわ。今食べると、手がベタベタしちゃうから」
 だからケヴィンも手を出さない。デュランはいても立ってもいられず、席を立ち、覗き込むようにしてアンジェラの顔を見た。
「つまり、手を使わなきゃいいんだろ? ちょっと、口開けてみな」
 と、クッキーを摘み、彼女の鼻先に持って行った。アンジェラは大いに渋ったが、結局折れて、口を開けてクッキーを放り込んで貰った。続いてケヴィンも、口の中にクッキーを入れて貰った。さくさくでほんのり甘酸っぱく、表面にいちごのジャムを塗ってあるようだった。デュランはそうして、二人に幾つかクッキーを与え、自分も一つかじった。クッキーを嚥下し、暫くは楽しそうにしていたが、やがて納得の行かない顔で、再び机に頬杖を突く。
「さっきシャルロットに、手がかたいって笑われたんだが……お前達、何か知ってるか?」
 彼もシャルロットに手を揉まれたのだった。デュランは手までデュランである。無骨で大きく、爪にはさほど手入れが行き届いておらず、剣を握る形に沿って皮膚が硬くなっている。見るからに剣士らしい、分かりやすい見た目だった。
「武術の達人は、手がフワフワでやわらかいんですって。ホークアイが言ってたのよ」
 アンジェラが説明すると、デュランはますます眉間に皺を寄せた。
「手か……」
 そう言って掌を見下ろし、静かに考え込み始めた。近頃のデュランは剣術に対し、普段の性格とは比べ物にならないほど冷静に取り組んでいる。本人が言うには、クラスが変わって新たな境地に辿り着いたそうだった。あまりに思い悩んだ様子だったので、ケヴィンがそっと声を掛けた。
「デュラン、じゅうぶん強いよ。手は関係ないんじゃ……?」
「でも、ケヴィンの手はやわらかいんだろ?」
「ウン。武器、使わないから」
 ケヴィンはそう思っていた。実際、甲側の皮は硬いのである。依然悩ましげな表情で、デュランはケヴィンの手を見ていた。
「道半ばだとは思っていたが、やはり、オレの剣術は未熟なんだな……。もっと修行しねえと!」
 と、奮って顔を上げ、そのまま部屋を出て行った。素振りを始めるつもりなのかも知れない。ケヴィンは残ったクッキーが気になったものの、べたついた手をアンジェラにいじって貰うのは悪いから、我慢して放っておいた。
「このツメは、白いところが多いけど、そのままにしておいてね」
 アンジェラが右手の人差し指を指して言った。全部削ると間違い無く深爪である。これを放っておけば、その内肌色の部分が伸びて来て、爪にごみや汚れが入りにくくなるそうだった。隣の爪は、かなり深いところまで毟られているから、端の尖った部分を削るだけにした。指を擦らぬよう、丁寧にやすりを扱いながら、アンジェラは静かに口を開いた。
「……このやすりはね、お母様にもらったの」
「そうだったの?」
「うん」
 アンジェラは頷いた。伏し目がちで、表情は良く分からない。
「このクラウンも、イヤリングも、チョーカーも、最初に持ってた杖だって、全部お母様がくれたものなんだ」
「服も?」
 と、ケヴィンはアンジェラの派手な服を見た。
「服はちがうよ。お母様のくれるお洋服って、ジミでもの足りないんだもん」
 アンジェラは顔を上げ、くすくす笑った。趣味では無いけれど、全部大切に取っておいてあり、城にいた時はたまに着ていたのだと言った。最初に彼女が持っていた杖も、他の武器を全て売ってしまっても、それだけは倉庫に仕舞ってあった。彼女の母親は厳格な人で、忙しさに殆ど接する機会すら与えられなかったそうだが、今の話を聞くと全く冷淡では無いように思えた。ケヴィンはそう言おうとしたが、アンジェラが視線を落とし、言葉を続けた。
「……でもね。お母様は、私に色んなものをおくってくれたけど、私が本当にほしかったものは、くれなかったんだ」
「……それは、何?」
 ケヴィンが尋ねると、アンジェラは上目遣いでちょっとだけ彼を見た。
「……ヒミツ」
 口に出してから、ケヴィンは馬鹿な事を聞いたと思った。それは、彼も内心欲しがっていたものだった。
「ケヴィンは?」
 と、アンジェラは少々言い辛そうに尋ねて来た。親子関係の事を聞いたのである。ケヴィンも躊躇し、自分の爪を見詰めた。
「オイラは……」
 ケヴィンがまだ幼く、母親が去ってしまった事に深く傷付いていた頃、獣人王はいつものように容赦無く修行を言い付けた。雨降る月夜の森で、命令通り森を走っていたら、木の根に躓いてしまい、足を挫いた。心の痛みと体の痛みで、ケヴィンは思わずべそをかいてしまいそうになり、暫くその場に座り込んで濡れていた。すると、獣人王はケヴィンを背負ってビースト城まで連れて帰り、暖かい暖炉のそばで、手ずから包帯を巻いて介抱してくれたのだった。一番古い記憶はそれで、他にも獣人王には助けられたり、修行を手加減して貰った事がある。しかしケヴィンが獣人王を思い出すと、必ずカールの最後が頭を過ぎり、敵討ちをしなければと言う強い思いに変わるのだった。アンジェラにいじられていない方の手を、固く握り締める。
「……オイラは、わからない」
「そう……」
 彼女は手を止め、爪の屑を払うついで、ケヴィンの手に触れた。甲に乗せられた、少しひんやりとしたそれが、ケヴィンの気持ちを落ち着かせ、彼はまたアンジェラの方を向いた。
「アンジェラはえらいね。母さんの事、信じられて」
「……まあね」
 と、アンジェラは言葉を濁した。ケヴィンとは異なり、何だか恥ずかしがっている風だった。それからは暫く、無言で爪が削られた。ケヴィンはアンジェラに羨望を覚えた。彼女は母親に厳しく接せられ、あまつさえ命を狙われたにも拘らず、それでも母親を信頼して求めている。もし彼女が親友の命を奪われたとしても、必ず裏に何か事情があるのだと考え、母親を恨みに思ったりはしないのだろう。その真っ直ぐな気持ちは眩しく思えるものだった。
「できたわよ」
 アンジェラがやすりを置き、ケヴィンの爪を指先で払った。粉っぽい削り屑が落ち、整えられた指先が露になる。ケヴィンは試しに手を握ったり開いたりしてみたが、爪が掌に刺さる事も無く、今回は深爪の痛みも全く無かった。真新しい服を貰ったような気分で、暫くは礼も忘れて手を見ていたが、すぐにケヴィンはアンジェラに向き直った。
「アンジェラ、ありがとう」
「どういたしまして」
 と、アンジェラは晴れ晴れした笑みを浮かべた。
「今度から、自分でいじるのはやめなさいよ。私でもリースでもいいから、誰かに切ってもらってね」
「うん」
 ケヴィンは嬉しくて、何度も拳を固めたり、指先で掌を軽く叩いたりしていた。その反応で十分感謝は伝わったらしく、アンジェラも微笑して見守っていた。
「アンジェラ、また、やってくれる?」
「時間があったらね」
 アンジェラはにっこりして、やすりを倉庫に仕舞った。
 それからケヴィンは、アンジェラに爪を切って貰うようになった。リースに頼む事もあるが、アンジェラにやって貰う事が多い。何となれば、彼女がふと思い出して、進んで手入れを行ってくれるからだった。爪を切ったり削ったりしながら、二人は色々な事を話す。していると、他の仲間も様子を見に来て、更に色々な事を話すのだった。

2015.12.23