二

 カンタールと離縁してから、込み入った手順を経、結局マリーはハン・ノヴァに羽を休めた。病身のためノール領をフィニーに返上した、と言うことになっているので、余分な詮索を避けるため韜晦せざるを得なかったのだ。
 本当ならばテルムが望ましい。彼女の生まれ故郷である上、其処は現在フィリップが治めている。昔からマリーは彼に良く懐いていて、フィリップも妹を可愛がっていたらしく、彼女が心置き無く安らげるのはテルムに他ならない筈だった。ケルヴィンが見るフィリップは、ギュスターヴへの嫌悪が先に立つせいか、いつも彼女を等閑にしていたような気がするのだが。幸いに、こちらではレスリーやフリンが話相手となり、長兄の密かなる援助も相俟って、王女の傷心は少しずつ癒やされて行った。今ではほろ苦い思い出として回顧出来るようになったのである。
 どちらが悪いわけでは無い、時候の巡り合わせが悪かったのだと慰めたものの、内心ケルヴィンは、偏にオート候が所以であろうと考えていた。屈辱の政略結婚であるからには、妻に対して蟠る感情も理解出来る。しかしこんな優しい女性を娶っておきながら、一顧だにせず憂いさせるばかりと言うのは度し難い所業である。その上、それだけ怨恨が深いとなれば、いずれオートがフィニー及びギュスターヴの敵となる公算が高い。カンタールの子が王家の後継者に名乗り出、話が拗れるよりはましだと思う他無かった。
 紅茶に視線を落とし、睫を伏せがちにしていると、マリーの姿が母君と重なる。ソフィーも良くその眼遣いで刺繍をしていたものだった。それが不意に顔を上げ、微笑みかけてくれるものだから、尚のこと彼女の愛らしさが際立つ。執務に荒事に、ただでさえ令嬢と接する機会も無く生きて来たところに、今相対するのは兼ねてから岡惚れしていた女性で、ケルヴィンは内心の動揺を取り繕うのに懸命だった。
 ギュスターヴが来ない。本来ならば三人で楽しむ筈のひとときである。いくら親友の妹だからと言って、現状ケルヴィンとマリーに差し向かいで話すほどの親しみは無い。あるとすればケルヴィンの一方的な入れ込みだ。強いて押し殺したつもりでも、彼がマリーに懸想しているのは火を見るより明らかだったらしく、ギュスターヴはそんな二人を嗾けようと節介を焼いたのだった。全くいらぬ世話である。
 いずれにせよ、彼は退席するつもりでいた。自分はマリーの姿が見られるだけで十分で、後は兄妹水入らずで話をさせてやりたかったのだ。いい加減引っ張ってこようと席を立ちかけると、計ったように侍女がお茶の代わりを持ってきた。行き掛かり、留まることになる。ケルヴィンは給仕の途中、ちゃっかり交ざっていたレスリーを捕まえ、マリーに気取られぬよう耳打ちした。
「ギュスターヴはどうした?」
「間もなくおいでになると思います」
 鰾膠も無く切り返された。其処で漸くケルヴィンも察した。
「……お前達、始めからこうするつもりだったな」
「何のことかしら? どうぞ、ごゆっくり」
 レスリーは慇懃な態度を崩さず、用が済むなりしずしずと退室して行った。いよいよ確信を深めたケルヴィンだが、却ってこの場を後にする理由を無くしてしまった。そもそも此処はハンで彼が与えられた私室である。何故にわざわざとは思ったものの、ギュスターヴの尤もらしい理屈を鵜呑みにして、請われるまま約束を取り付けた自分が愚かしかった。マリーの方はと言えば、密談を微笑ましく見守っていた。
「仲がよろしいのですね」
「付き合いが長いもので。気が利くので重宝しています」
「レスリー様も、手が掛からない主人で助かっています、と仰っていました」
 その人らしい口吻である。平生立場を弁えているレスリーが、主人を指してそう親しげな口を聞く筈も無し、マリーと親密な関係を築いていると見える。それについて詳しく尋ねると、彼女と、それにフリンとが、良くヤーデにいた頃の話をしてくれるのだと言った。彼らは期待以上に役目を果たしていたのだった。
 マリーは、自分にソフィーの面影があると聞いて、鏡を覗いては亡き母の影を探していた。外された肖像を眺めては、この方はどんな声で話すのだろうか、どんな風に笑うのだろうか、あれこれと想像を巡らした。ギュスターヴの近くに行く度、母のアニマを感じて、抱き締められるような気持ちで満たされた。頬を染めて語る彼女がいじらしく、力の及ぶ限り助けて差し上げたいと思わせる。今ケルヴィンに出来ることと言えば、彼女の喜ぶような昔話をするくらいだった。
 話題はソフィーに留まらず、息子のギュスターヴからヤーデの風光明媚にまで及んだ。しばしば厄介事に巻き込まれたものだが、今となっては懐かしき青春であった。まだ幼かったギュスターヴとフリン、年を経てレスリーも加わり、健在だったソフィーと過ごした情景は、今尚色褪せず心に留め置かれている。昔馴染みの親友を話すとき、無意識にざっかけない口調が零れると、それがまた兄との浅からぬ繋がりを偲ばせ、マリーの気に入ったようだった。
「ケルヴィン様は、私が会ったことのない殿方のような気が致します」
「……と、仰いますと?」
「父や兄からは、為政者としての強い熱意が感じられます。ケルヴィン様はもっとずっと、穏やかで落ち着いた印象です。どちらが良いと言うことはありませんのですけれど、何だか新鮮に感じられます」
 ややもするとどちらかを貶める言い草になりそうで、マリーは言葉に迷いながら感懐を述べた。実際妥当な評価であり、ケルヴィンは其処に好意を見て取った。
「私の使命はヤーデを善く治めること。それ以上もそれ以下も考えたことはありませんでした。そのために諸侯のような気概が備わっていないのでしょうね」
 生来、安穏たる田舎貴族の跡継ぎとして育てられたのだ。己が力は与えられたものを守るのみに発揮され、それ以上を望む求心力や知略を持たないことを、ケルヴィンは承知している。だからヤーデは恒久にナ国の配下であり、彼はハンの政治に決定権を持たない。凡庸な為政者である自覚の上、せめて誠実たるよう努めるのだった。
「領主様として、それ以上のことはありませんわ。お兄様もとても信頼しておられます」
「あいつとソフィー様への義理を果たすため此処にいますが、本来ヤーデに留まるべき人間なのですよ、私は」
「義理固くて、欲の無い方だとも仰っていました」
 褒めちぎられて恐縮する。ギュスターヴが内々評価してくれていることをこそばゆく思う一方で、伏せるべき過去をも洗いざらい明かされてしまったのは想像に難くない。一体何を何処まで話されているのか、聞くのも恐ろしかった。マリーは手を組み合わせ、完爾と笑った。
「ギュスターヴお兄様にはこんなに素敵なお友達がいらっしゃるのですね。幸せなことですわ」
 マリーは温かい日溜まりのように、いつまでもそばにいたくなる、居心地の良い女性だった。オートにいた間、消閑に教養を嗜んだそうで、文化芸術に通暁し、話題にも事欠かない。友人が共通することも与って、久しく見えなかった旧友に再会したような心持ちがした。他日きっとヤーデに案内するから、その時は遠乗りに出掛けようと誓い、その日はお開きになった。約束まで取り付けたのだった。
 ギュスターヴは結局来なかった。実のところ、こっそり様子を見に来ていたのだが、夢中の二人には気付かれなかった。首尾に満足した彼は、意気揚々とレスリーに報告し、それから一月も経たないうち全ての手筈を整えてしまった。