グレイは退屈して、次は何処の案内をしようかと、気もそぞろに地図を眺めていた。例の娘、クローディアは大樹の根元にて、体を丸めて眠っている。こうなると揺り起こしたくらいでは覚醒しも敢えず、見た目からしては繊細そうな性質が窺える割に、実際大らかで泰然としたところがあるのだった。町にいる時のしおらしい様よりは、こうして地べたに寝転がっている姿の方が好きで、グレイは彼女を時々迷いの森に連れて来る。クローディアの喜んだこと、軽い足取りで踊るように歩いて回ったかと思えば、不意にとっさり倒れ込んで、その時にはもう寝入っていた。ゆるく波打った髪が肩口の線にしなだれかかり、木々のざわめきにつられて微かに靡く。姿や仕草が獣のようだと、しばしばクローディアから褒められるが、グレイにとっては彼女の方が獣に似ていた。娘を慕う森の住人達は、相変わらず見知らぬ旅人に警戒を解けずにいて、木陰や藪から怖ず怖ずと見守っていた。
 腕輪は投げ捨てられている。身に付けてはいるのだが、手首が締まって窮屈らしく、寛ぐ際には決まって外してしまう。しかし起きると忘れずに嵌め直すのは、彼女がその宝石に一方ならぬ思い入れを持つからであった。皇帝に背を向けたクローディアが、影で密かに安堵する姿を、グレイはしかと認めていた。
 晩秋とは言え、バファルにしては肌寒い日和だった。殊に日蔭は空気が冷える。心地良さそうにすやすや眠っている娘に、上着を貸してやろうかと思い付いたら、クローディアが身じろぎした。起きてしまった。半身を起こし髪を退け、ぼんやりとグレイを見る。髪飾りがずれていた。
「退屈でしょう」
「いや」
「顔に出てるわ」
 眠たげに、とろけるように笑う。グレイが意趣返しとばかりに、髪の乱れを指摘してやれば、彼女はちょっと頬を赤らめ、手櫛で整え始めた。
「ねえ、ずっと考えていたんだけど」
 手の動きがゆるゆると遅くなり、やがてクローディアが言った。
「道具屋のご主人を呪ったのは、きっとあの魔術師なのよね?」
「恐らくは」
「どうして、わざわざあの人を狙ったのかしら」
 恐らくは誰でも良かったのだろう。単なる試し斬りか、或いは依頼主に力の程を見せ付けるためか、理由はいざ知らず、少なくとも一度人を呪い殺してみる必要があったに違いない。不運にも俎上に選ばれたのが、たまたま北の道具屋であっただけのことだった。グレイの見立てはそれだが、この優しい娘に話せばましてや悲しませてしまうから、適当にはぐらかして済ませた。
「分からないな。俺達には想像も付かないような理由だろうさ」
「そう……。せめて理由が分かれば、娘さんに伝えてあげられるのに」
 クローディアは目を伏せた。流れ者の弊害か、グレイの方は、もはや娘さんと言うのがどんな人物だったか忘れかけていた。クローディアにとっては初めて巻き込まれた騒動で、その分印象に残っていたのかも知れない。彼女の護衛を頼まれたのは、丁度春風の訪れる時候、事件があったのも同じ頃だった。それから季節が巡り、木枯らしの吹き付けるこの時まで、ずっと気に留めていたらしい。バファルのいざこざが落ち着けば、自然全容も解き明かされるだろうと思っていたものの、結局分からずじまいだったゆえに、此処でグレイに聞いたのだった。彼としては気を回したつもりだったが、結局彼女は眉を曇らせ、悲しませてしまったようだった。
 クローディアのもとへ、彼女と同じ毛色をした熊がやって来た。自分を主張するように、わざと二人の間に座り込む。魔女の娘に顔を寄せ、甘えた声で鼻を鳴らした。ブラウの主張を聞いたクローディアは、苦笑しながら彼の頬を撫でた。
「それは残念ね。帰って来たら、一緒に新しいところを探しましょう」
「どうした?」
「お気に入りの寝床を取られてしまったんですって。しばらく森を離れていたから」
 懐かしい塒をわくわくして覗き込んだら、穴蔵いっぱいに餌を溜め込み、寝に入ろうとしている先客に出会したらしい。ブラウは優しいから、新たな持ち主を追い出すつもりが無いのだと、クローディアは彼を慰めていた。
月の女神である本性を見せた狼は、それきり姿を消してしまったが、ブラウはそばを離れようとしない。魔女亡き今も、クローディアは森の一員として迎えられている。口にこそ出したことは無いものの、もしもこの旅が終わった後、彼女がどうしたがるかと言うのは、薄々グレイも知っていた。
「次はどこに行きたい?」
「あなたの行きたいところでいいわ」
 地図を見せると、クローディアがいざり寄って覗き込んだ。行き先に希望がある時は、図面をまじまじ見詰め、そっと指を指すのだが、今度はどうやら何も無いらしく、目を移してはグレイの顔を見て来る。それならばと、グレイが提案した。
「少し情報を集めるか。ローザリアに向かっても構わないか」
「ええ」
 邪神の復活が間近に迫っている。通りすがりに人が噂するのを聞き、眉唾とは思いながらも、どうしてか二人の胸に引っ掛かっていた。頻発する各地の擾乱に、いつもミニオンの影がちらついたためである。神の領域など自分らの手には余るだろう。常ならば看過するところだが、知り合いの中に、無理を承知で正義を通したがる少年がいた。その少年を放って置けずに、力を貸したがるような仲間達をも知っている。そうであるなら、自ずと二人の行くべき道も決まっていた。
 神妙な顔でいたクローディアが、ふと目尻を和らげた。
「ローザリアなら、みんなに会えるかしら」
「そうだな。彼らも考えていることは同じだろう」
「楽しみね」
 ね、と声を掛ければ、ブラウも頷いた。
 地図を畳むのが合図になった。クローディアは腕輪を填め、やなぐいを取って腰に提げた。そしてブラウの背を撫でると、弓を抱えて立ち上がる。グレイがとうに支度を終え、切り通しの辺りで待っていると、彼女は大きな木に触れ、出立の挨拶をしていた。済むと、行き行き木立を見回して、獣達に呼び掛ける。
「寒くなるから、風邪をひかないように気を付けて。行って来ます」
 俄かに枝葉がざわめき、天井から鳥達の声が降り注いだ。魔女の娘を森中が見送り、帰って来るのを待ち望んでいる。町にも係累はあるけれど、結局彼女は此処が何より好きで、帰るべき場所なのだった。
 クローディアは迷いの森が良く似合っている。血腥い争い事など向き合わずに、出来るならば此処に留まらせていたいが、本人が選んで行くのだからやるかたない。グレイは彼女を守り通して、全てが終わったその時は、この森まで送ってやるだけだった。