中

 平和な日々が続いていた。アルスはマリベルとの関係が気に掛かったが、それよりかは漁への情熱が勝っていた。ボルカノから、一ぺん舵を取ってみるかと持ち掛けられたのだ。アルスは舵輪に触れた時、石版を手にした時と同じ興奮を覚えた。漁船の操舵を任されると言うのは、自分で直したぼろ船の舵を取るのとは、全く違った体験なのである。あまりにも嬉しかったので、その日はマリベルのことをすっかり忘れてしまい、彼女にただいまを言わずに帰ってしまった。それだけならマリベルも赦してくれただろうが、アルスはついうっかり、舵に夢中でマリベルのことを忘れていたと口を滑らせた。結果、アルスは久々にマリベルを怒らせて、暫く口を聞いて貰えなくなった。マリベルの怒りには、仮令船に乗せて貰えても、自分が舵を任されることは絶対に無いのだと言う、アルスへの嫉妬心も含まれていた。かくしてアルスはマリベルに会えなかったのだが、そのほんの数日の間に、人生に小さな転機が訪れたのだった。
「アルス!」
 その朝アルスが寝ていると、いつものようにマーレが起こしに来た。まだ眠かったアルスは、寝返りを打ち、母親に背中を向けた。今日は久々の休みなのである。マーレは威勢良く、寝汚い息子に声を掛けた。
「ほら、起きた起きた! メルビンさんがいらしたよ!」
 アルスは最初聞き間違いかと思って、メルビンかあと思いながら、布団を頭まで引き上げた。暫くして、言葉が頭の中に沁み込んで来るなり、アルスは飛び起きた。
「メルビン!?」
「メルビンさんだよ。早く行っておやり」
 と、マーレは呆れながら言った。アルスは着替えをしも敢えず、襟首の伸びただらしないシャツを着たまま、裸足で階下に下りて行った。居間にはいないから、外で待っているらしい。倉皇と玄関の扉を開けると、目の前に厳めしい顔をしたメルビンが立っており、アルスはひっくり返りそうになった。
「メルビン……どうしたの?」
 アルスは二三歩下がって、相手から距離を取った。
「アルスどの……」
 メルビンは、精悍な顔に深い皺を刻み込み、鋭い瞳でアルスをひたと見据えていた。こんな表情をした彼は見たことが無い。アルスは面食らい、どうして睨まれているのかさっぱり分からず、ただ困惑した。
「アルスどの!」
 一喝するように、メルビンは鋭くアルスの名を呼んだ。
「アルスどのっ! 殺生でござる!」
 と、物凄い剣幕で詰め寄られたもので、アルスはたじろぐばかりだった。メルビンは拳を強く握り締め、わなわなと体を震わせた。
「マリベルどのと、ご結婚なされたと言うのはまことかっ!? どうして、どうしてわしに教えてくださらないのでござるかっ!!」
「メルビン、おちついて……」
 アルスはとにかく宥めようとしたが、メルビンの勢いは止まらない。
「わしは、わしは……アルスどのの結婚を、今か今かと待ち望んでいたと言うにっ……結婚式に呼んでくれないとは、あんまりでござる!」
 メルビンはどうやら、大変な思い違いをしているようだった。りゅうとしたなりの聖戦士が、結婚式に呼ばれなかったと言って、玄関口で泣きそうな顔をしている。それがあまりにも気の毒に思え、アルスは彼を家の中へ入れた。扉を後ろ手で閉め、寄り掛かるようにしてメルビンと対面する。メルビンが詰め寄って来るので、場所が狭いのだ。居間の方では、両親が呆れているのが見えた。
「メルビン、誤解なんだよ」
「誤解とは!? なんでござるか!」
 メルビンがアルスを睨み付けた。凄まじい剣幕だが、理由が理由なだけに、アルスはさほど恐れてもいない。
「僕、結婚してないんだ」
 気焔を吐くメルビンを宥めつつ、誤解を訂正した。しかし、彼の気勢は止まることを知らない。刺すような視線で、アルスをじろりと見て来た。
「しかし、マリベルどのと婚約したのは確かでござろう? なにゆえわしに伝えてくださらんのか?」
「メルビン、それもちょっと誤解があって……」
 そう言いながら、アルスは両親をちらと見やった。マーレは気付いていないようだが、ボルカノは剣呑な顔でアルスのことを見詰めていた。やはり父には見通されていたらしい。後で事情を説明するからと、目配せして頼み込み、興奮するメルビンを自室に連れて帰った。
 お茶を飲み、気分の落ち着いたメルビンは、アルスの話に良く耳を傾けてくれた。
「ふーむ。マリベルどのに頼まれて、かりそめの婚約者をかたることになった、と……」
「うん。だから、ほんとは婚約してないんだ。ごめん」
 と、アルスは頭を下げた。ひとまず服を着替えて、まともな格好になっている。
「いやいや。相手がマリベルどのならば、いたしかたなかろう」
 そう言ってメルビンは苦笑した。二人の関係を良く知っているから、またアルスがマリベルに振り回されているのだとも承知していた。
「そうとは知らず、取り乱して失礼いたした。アルスどのも、おどろいたでござろう」
 と、今度はメルビンが頭を下げた。首を振りながら、アルスは彼に伝えなかったことを反省した。メルビンが喜んだり悲しんだりする姿は想像していたが、まさか僻んで怒るとは思わなかった。婚約の噂が天上にまで届いていたのも予想外である。このままどんどん話が膨れ上がってしまったら、マリベルは困らないだろうかと、幼馴染のことが気に掛かった。
「そういうことだから、メルビンも、しばらく話を合わせてくれないか? マリベルが飽きるまででいいんだ」
 マリベルが婚約ごっこに飽きるか、或いは本物の婚約者が出来るまで、周囲には黙っていなければならない。これ以上話が大きくなるのも困るから、アルスはメルビンに口止めを頼んだ。
「しかし、マリベルどのは、はたして飽きるでござろうかな……?」
 と、メルビンは含み笑いを浮かべた。しばしば見せる、茶目っ気を持った英雄の姿である。アルスは本気で困っているから、至極真面目に話をした。
「それはどういう意味?」
「失敬失敬。アルスどの、そう睨まんでくだされ」
 メルビンが思わず笑い出した。半ば身を乗り出していることに気付き、アルスは体を引っ込めて、座り直した。
「睨んではいないけどさ……マリベルは飽きないってこと?」
 メルビンは咳払いをし、態度を改めた。この人は本当に様々な一面を持っていて、一度真剣に構えると、恰も騎士のような威風堂々とした佇まいになるのだった。
「あくまで、わしの見解にすぎぬ話でござるが……マリベルどのは、アルスどのを好いているのではあるまいか?」
「……どうだろう」
 アルスは肩を竦めた。マリベルが何を考えているのか、アルスにはさっぱり分からない。幼馴染で、ずっと一緒にいる家族のようなものだから、お互い心安立てに頼み事をする。今回の件もほんの思い付きで、マリベルは別段何とも思っていないように見受けられた。メルビンは更に問い掛けて来る。
「アルスどのは、好いてもいないご婦人と、婚約を交わそうと思いなさるか?」
「思わないけど……相手はマリベルだしさ」
 適当にはぐらかすと、メルビンはふむ、と言った。
「おそらくマリベルどのも、そう思っているのでござろう」
 そう言われると、アルスはますます混乱するのだった。アルスのマリベルに対する気持ちは複雑である。幼馴染で、家族のようなもので、絶対に誰にも取られないと言う、ある種の安心感のようなものを抱いている。それが突然、マリベルは誰のものでも無くて、うかうかしていると、横から誰かに掻っ攫われてしまうのだと言う現実を突き付けられた。其処に舞い込んで来たのが婚約の話で、アルスはマリベルの提案を、消極的ながら受け入れた。たとい仮初めだったとしても、婚約を公言しておけば、マリベルを誰かに取られる心配は無くなるからだった。ありていに言えば、アルスはマリベルのことが好きである。ずっとそばにいると思い込んでいて、恐らくきっと手放すことは出来ないだろうが、それは恋情と言うより執着心だった。そんな内証をマリベルに知られたら、彼女は気持ち悪いわねと言って軽蔑するだろう。ましてや、元気一杯で子供のようなマリベルが、こんなアルスと同じ気持ちを持っていよう筈も無かった。
「……僕には、よくわからないや」
 そう答えながら、アルスはゆるゆると首を振った。
「悩むでござるよ、青年。わしも若かりし頃は、あれこれと悩んだものでござる」
 メルビンはうんうんと頷いて、アルスの気持ちに同情してくれた。自分が恋愛事で悩む日が来るとは思わなくて、アルスはちょっと照れくさくなり、黙ってお茶を啜った。
「わしは、アルスどのの結婚が楽しみでござるよ。わしには妻子がおらぬゆえ……」
 そう言って、メルビンは穏やかに微笑んだ。彼はアルスを戦士として、男として尊重してくれるが、親子以上に年が離れているものだから、年少者に対するような親しみをも持っていた。アルスに子供が生まれたら、メルビンは我が子のように可愛がってくれるだろう。
「アルスどのの奥方が、マリベルどのであるならば、それ以上の喜びはござらんが……失敬、いらぬ世話でござったな」
 と、メルビンは一言詫びて、それ以上は触れなかった。
 メルビンはマリベルに会いに行った。一緒に来ないかと誘われたが、アルスは断った。この状況で、アルスとマリベルが一緒にいる姿を見せるのは、何だかとても照れくさいような気がしたからだった。かくして家にもいたたまれなくなったアルスは、暇潰しに外へ出て、木こりの森の方へ歩いて行った。木こりの家では、いつも焚火を熾している辺りで、ガボと木こりが切り株に座り、昼食を食べているところだった。余程美味しそうに見えるのか、動物達が集まって、二人の昼飯を横取りしようと狙っていた。アルスは少し近寄って見て、それが何なのかすぐに分かった。アンチョビサンドである。
「これこれ、お前たちにはしょっぱいだよ!」
 肩に座って、横からちょっかいを出してくるリスに対し、木こりは笑いながらサンドイッチを遠ざけた。パンくずを千切って撒いているのだが、目敏い動物達は、中身の魚の方が美味しいと知っている。
「だめだよ! これ、オイラんだ!」
 ガボも小鳥に纏わり付かれながら、美味しいサンドイッチを独り占めしていた。その足元では、子豚と狸が身を乗り出して、サンドイッチの匂いをくんくんと嗅いでいる。その様子が如何にも楽しそうだったので、アルスはぼんやりして、木陰から皆が賑わっているのを眺めていた。
「あれっ、アルスじゃねえか! そんなところで何してんだ?」
 突っ立っていたアルスに気付き、ガボが手を振った。アルスはちょっと照れながら、二人のいる焚火の方へ近付いた。動物達は、いい加減アルスの存在にも慣れて来たようだが、そこはかとなく遠慮しているようで、食事をねだるのをやめてしまった。アルスはガボに場所を開けて貰い、彼と並んで切り株に座った。かなり狭かった。
「いいだろ! マリベルがつくってくれたんだ」
 サンドイッチを掲げ、ガボが早速自慢した。先程マリベルとアイラが来て、暫くお喋りをして帰ったらしい。アルスはフィッシュベルにアイラが来ていたのを知らなかった。いつもはうちまで遊びに来るのにと、不思議に思っていると、どうやらマリベルも、アルスと一緒にいる姿を見られたくないのだと心付いた。恥ずかしいのは同じだった。マリベルは、森へお喋りに来たついで、木こりに魚とサンドイッチを届けてくれたのだった。
「あん子はほんとにいい子だあな」
 と、木こりは感心するばかりだった。
「マリベル、マメになったよな。前とは大ちがいだ」
 ガボはいつもの口吻で言ったが、やはり嬉しいらしい。ぱくぱくとサンドイッチを口に詰め、何も無くなった手を動物達に見せた。小鳥は残念そうにして、ガボのそばを離れ、近くの小枝に身を休めた。子豚や狸も諦めて、森の奥へ木の実を探しに行ってしまった。早速彼女の噂から始まったが、今日はマリベルの話はしなかった。アルスとしては避けているつもりは無いのだが、木こりは気を利かせてくれ、別の話題を持ち掛けた。
「ほら、なんて言ったべか……アルスのおじさんの……アホ……ダラ……?」
「ホンダラだよ、おっちゃん」
 ガボが付け加えた。
「そうだそうだ。そのホンダラがなあ、本を書くっちゅう話だよ」
 木こりの話によると、ホンダラは自叙伝を書くつもりらしい。英雄を蘇らせたホットストーンを、どのような経緯で手に入れたのだとか、神の城に忍び込んだ時の話だとか、その帰り際に遭難した話だとかを書き記すのだった。ホンダラは一年ほど前に、酒場の掃除夫として就職し、ひとまずは真面目に働くようになったのだが、相変わらず様々な騒動を巻き起こしており、彼についての噂は尽きることが無い。今回の件も、どうせ上手くは行かないだろうと言うのが城下町の総意だった。
「おっちゃんの本、オイラはほしいけどなあ」
 ガボは碌々字が読めないくせに、そんなことを言った。アルスも欲しくないと言えば嘘になる。ホットストーンの入手経路が気になるのだ。
「なーに言ってるだか。お前さんたち、へんなもの売りつけられんように、気をつけるだよ」
 と、木こりが忠告し、それでホンダラの話題は終わった。引き続き、今度は外国の出来事の話をする。
「それと、海のむこうの何とかいう国で、武術大会が開かれるだってよ」
「どこの国だかわすれちまったけど……オイラ、出場するんだ!」
 ガボが張り切って言った。どうやらマーディラスのことらしい。大昔、ラグラーズと言う国で行われた武術大会を復活させ、国の文化を守り続けると言う名目で開催されるそうだった。アルスはグレーテ姫から手紙を貰い、是非参加して欲しいと頼まれていたのだが、忙しさにかまけてすっかり忘れていた。
「アルスは出ないのか?」
 ガボにも尋ねられたが、アルスは及び腰だった。
「僕は……どうしようかな」
「なあ、いっしょに行こうぜ! アルスがいねえと、つまんねえよ!」
 と、ガボがぐいぐい詰めて来て、アルスは切り株から押し出されそうになった。アルスはゴッドハンドの異名を持つ、力自慢ランキング世界一位の男である。そんな男が武術大会に出場すれば、会場はさぞかし盛り上がることだろう。そのためにグレーテ姫はわざわざ手紙を認めてくれたのだ。しかし、アルスは出たいと思わなかった。元々戦うのが好きなわけでは無いし、相手が人間となると、うっかり怪我をさせてしまいそうで嫌なのだった。
「僕はいいや。ガボの応援に行くよ」
「ちぇー、つまんねえの」
 アルスが断ると、ガボは口を尖らせた。彼は常々、アルスと一ぺん腕試しをしてみたいと思っている。故、今度の大会を絶好の機会と見ていたのだが、アルスにその気が無いと分かると、素直に諦めてくれた。
「ふしぎだなや……いったい、お前さんたちのどこに、そんな力があるんだべか?」
 アルスとガボを見ながら、木こりが言った。二人とも、見た目はこうだが、力自慢ランキングを独占している男達なのだった。アルスは世界一になりたかったわけでは無い。ごうけつの腕輪が欲しかったのと、魔王や神様を倒すにはこれくらい必要だろうと思って、鍛えに鍛え上げた結果だった。そうして世界一になってみると、フィッシュベルまで決闘を申し込みにやって来る人間まで現れる始末で、アルスはローズの気持ちが良く分かったのだが、取り消しに行くのも面倒だからとそのままにしていた。
「それと、神さま! アルスバーグに家建てたんだってよ」
 今度はガボが言った。神様は移民の町を気に入って、小さな家を建てて住んでいる。メルビン曰く、天上の神殿の者達が使いに行って、神としてもう一度人々を導いて欲しいと頼んだそうなのだが、神さまはわしゃ嫌じゃと言って、移民の町から出ようとしないのだった。仕方無いから、メルビンが代表として参上して、宥め賺してお願いしたら、たまに知恵を貸すくらいなら良いと了承してくれたそうである。これだけ聞くと、神様が我儘を言っているように見えるが、事実はそうでは無い。魔王と相打ちになり、人間であるアルス達に敗れた神様は、自身の力がもはや全能では無いことを知っていた。だから、未来のことは地上の生物達に任せ、自身は静かに隠居生活を送るつもりでいるのだった。
「神さまは、世界をおつくりになった方だからなあ。そろそろゆっくり休みたいんだべ」
 食後のお湯を飲みながら、木こりは神様を労った。
「ま、世界を守るくらいなら、オイラたちにもできるからな」
 と、ガボが何でも無さそうに言って、アルスも頷いた。
「そうだね」
 アルスは争いが嫌いだが、戦いをやめたわけでは無い。まだ世界には魔王の残党が残っていて、それらが台頭して来ると、仲間を集めて魔物退治に向かうのである。恐らく、アルス達は一生こうして暮らして行くのだろう。そして近い将来、五人が戦えなくなった時は、世界に新たな勇者達が現れ、その正しき意志を引き継いでくれる筈だった。世の中はそうやって続いて行くのだ。
 木こりの家で長居して、結局夕飯までご馳走して貰うことになった。昼飯を食べ損ねたから、美味しそうな魚料理の魅力に逆らえなかったのである。夕食後、アルスは急いで帰ったが、フィッシュベルの村に着いた頃には、夜空に星が瞬き始める時間になっていた。村の階段を下り、浜辺の自宅まで駆けて行こうとしたら、家の前に誰かいるのに気が付いた。黒髪の女性は、アルスを待っていたようで、軽く手を上げて合図した。
「ハーイ、アルス」
 アイラだった。アルスは急いで駆け寄って、彼女の隣に並んだ。
「ずっとそこで待ってたの?」
「ええ、星を見ていたのよ」
 と、アイラは夜空を見上げた。そんなことを言いながら、アルスは彼女より背が高くなっていることに気が付いた。ちょっと前までは並ぶくらいだったのが、明らかに差が付き始めている。何を話すか少し迷って、アルスは当たり障りの無いことを尋ねた。
「夕飯は? 食べた?」
「大丈夫よ。マリベルの家でごちそうになったわ」
 アイラはそう言って微笑んだ。メルビンも一緒になって、アミット家の食卓に相伴したらしい。いつもは、ガボやアルスも一緒になって食べに行くのだが、状況を鑑みて、敢えて呼びに来ないでくれたのだった。
「とりあえず、あがりなよ。今日は寒いし……」
 アルスは彼女を家に招き入れようとしたが、アイラは星を指し、にっこり笑った。
「外で話さない? 星がすごくキレイよ」
 そうしたわけで、二人は浜辺に座って話をすることにした。夜風が少し肌寒いが、確かに星の綺麗な日で、南の空に天の川が流れているのが良く見えた。アルスは彼女に会うのが久々だった。アイラの話すところによると、彼女はフィッシュベルやグランエスタード城にて、しばしばマリベルの相談を受けていたらしい。
「何度もフィッシュベルに来てたんだけど……会いにこなくてごめんね」
「気にしないで」
 と、アルスは首を振った。マリベルからどんな話を聞いているかは知らないが、噂の当事者とは顔を合わせ辛かったのだろう。
「話はマリベルから聞いてるわ。アルスもたいへんね」
 アルスが想像していた通り、アイラはそう言っておっとりと笑った。アイラは凛然とした容姿に反して、性格は女らしく穏やかである。アルスとマリベルの事情を聞いても、深くは言及せず、二人の立場を慮って労わってくれた。
「僕たちのこと、リーサは何て言ってる?」
 と、アルスはリーサのことを思い出して言った。
「リーサ姫には、本当のことを伝えてるよ。アルスたちの決めたことなら、きっとうまくいくって、応援なさっていたわ」
「そうか。ありがとう」
 そう言えば、暫くリーサに会いに行っていない。肉体的にも精神的にも忙しなかったアルスは、自分のことばかり考えて、周囲のことをすっかり忘れてしまっていた。マリベルはその点気が利くので、リーサ姫にも根回しを済ませておいたようだった。
「リーサ姫にも、いずれはそういう話がくるかもしれないからね……。他人事とは思えないみたい」
 アイラは寂しげに目を伏せた。結婚について、リーサは特に責任重大だった。グランエスタード王家の将来は彼女の肩に掛かっている。リーサの結婚相手には、ただ好きだと言うだけでは無く、国王として相応しい人物を選ばなければならないのだった。そのことを考えると、アルスは自分が責任の一端を負っているような気がして、リーサに申し訳無く思う。何となく気まずくなって、話を逸らした。
「アイラは結婚しないの?」
 年頃の女性に聞くには、かなり失礼な質問だったが、アイラは微笑みながら答えた。
「わたし? わたしはね……結婚したくないんだ」
 そう言って、遠くの星空を見上げる。
「わたしには、バーンズ王とリーサ姫がいるから……できれば、ずっとこのままでいたいの」
 口にしたのは、まさしく彼女の本心だった。アイラは美人で、性格も優しく、リーサ姫の近衛兵と言う確たる地位を持っている。跡継ぎ云々と言った煩わしい話も無く、人によっては、リーサやマリベルよりも魅力的に見えるだろう。しかし、彼女は結婚には興味が無く、その理由もアルスやマリベルと似通っていた。アイラも身近にいる人の方が大切なのだ。
「……本当は僕たちも、結婚なんてしたくないんだよ」
 アルスは溜息をついた。マリベルは欲しいが、面倒な制約には関わりたくない。我儘でも、つまるところはそれが本心だった。自分とアイラとマリベル、三人の気持ちを代弁したつもりだったが、アイラは意外そうに瞬いだ。
「あら、アルスはそう思ってるの?」
 と言って、失言だと思ったらしい。アイラは口元に手をやり、そのまま噤んでしまった。
「……マリベルは、そう思ってないってこと?」
 アルスが問うと、アイラはちょっと舌を出した。誤魔化すように髪を掻き上げ、うふふと笑ったが、アルスがじっと見詰めると、すぐに観念してくれた。
「……マリベルはね、どうぜ逃げられないんだったら、さっさとケリをつけちゃいたいんですって」
 そう言ってアイラは苦笑した。
「……そうなんだ……」
 それを聞いて、昼行燈のアルスにしては、奇跡的な閃きを得た。マリベルは結婚の話を受け入れて、とっとと話を纏めに掛かっている。そんな彼女が、まず始めに何をしたかと言うと、アルスを呼び出して婚約を持ち掛けた。そして、マリベルは天邪鬼な性格で、特にアルスの前では、なかなか本心を打ち明けようとしないのである。これがアルスの思い違いで無いならば、つまりはそう言うことだった。アルスは急にいたたまれなくなった。
「……アイラは知ってたの?」
 極力平静を保ちながら尋ねたが、どうしても拗ねたような響きを持った。
「大事なことだから、わたしたちは口出ししないって決めてたのよ」
 と、アイラは肩を竦めて笑った。私達と言うのは、アイラとリーサのことだった。二人は始めからマリベルの本心を知っていて、内心やきもきしながら見守っていたのだろう。道理でアルスに会いに来ない筈だった。お互いに、申し訳の立たないような気持ちになりながら、アルスとアイラはちょっと笑った。
「アイラ、ごめん。心配かけたね」
「リーサ姫にも、会いに行ってさしあげて。いい知らせを待ってるわ」
「うん、ありがとう」
 話が終わると、城の門限があるからと言って、アイラは結局家には上がらず、そのまま手を振って帰ってしまった。アルスは彼女を城下町まで送って行ったが、何と無く家に帰る気がせず、うろうろしながら、あちこちの石に躓きそうになった。アルスの予想が外れていなければ、とんでもないことに気付いてしまったのである。果していつからだったのだろうかと考えてみたが、これと言う切っ掛けも無く、さっぱり分からなかった。そして、自分が思った以上に照れていて、思った以上に喜んでいることを自覚した。アルスは浮かれているのだった。浮かれてぼんやりして、散々エスタード島を徘徊した挙句、階段から転げ落ちそうになったアルスは、自分がいつの間にかフィッシュベルに辿り着いていたことに気が付いた。そしてまたもやうろうろし、間違えて別の家に入りそうになりながら、何とか家まで到着した。
 家に入ると、ボルカノ父さんが食卓に座っていた。
「アルス、こっちに来て座れ」
 アルスが帰宅するや否や、ボルカノに呼ばれた。マーレはお勝手にいて、こちらの様子を心配そうに窺っている。アルスが向かいに座ると、ボルカノは単刀直入に切り出した。
「マリベルおじょうさんとの婚約がウソだって言うのは、本当なのか?」
 アルスは自分の迂闊さに嫌気が差した。父親に伝えようと思っていたのに、今の今まですっかり忘れていたのだ。何を話すか全く考えていなかったが、この際だからと、正直に実情を伝えることにした。
「はい。少なくとも、マリベルはウソだと思っている」
「そうか……」
 曖昧な言い草を咎めることも無く、ボルカノはおおよその事情を察してくれた。アルスは申し訳無い気持ちで一杯だったが、自らの引き起こした事態だから、俯かずに父の視線を受け止めた。ボルカノは顎を撫で、静かにアルスに問い掛けた。
「アルス。結婚と言うのはだな、相手の人生を預かると言うことだ。それだけの力と覚悟が、今のお前にあると言うのか?」
「……いいえ」
 こうした時、ボルカノは決して怒らない。沈着冷静な様子を見せるのが、却ってアルスには辛かった。少なくともフィッシュベルに於いては、男が家の大黒柱として、家庭を支え養って行かねばならない。齢十八を数えたばかりで、ようやっと漁船に乗せて貰えるようになったばかりのアルスには、重過ぎる責任だった。
「それに、好きでもない男と噂になってみろ。マリベルおじょうさんだけでなく、アミットどのの家名にもキズがつきかねんのだぞ」
「はい」
 ボルカノの言うことはつくづく真っ当で、アルスは平身低頭するばかりだった。
「ごめんなさい。軽はずみだった」
 アルスは頭を下げたまま、暫く顔を上げられなかった。アルスとマリベルは、子供の悪戯の延長で、好き勝手に突拍子も無い行動を起こしていたが、結婚と言うのは当人だけの問題では済まされない。二人の両親は勿論のこと、めでたい祝賀の日であるから、村を挙げての祭りも開かれ、それに費やされる手間と金子は尋常では無い筈だった。ましてや相手は網元の一人娘なのだ。
「お前のことだ。おじょうさんの頼みだからと、断りきれなかったのだろうが……」
 ボルカノは懇々とアルスを諭し、微妙な立場にある息子を思いやってくれた。
「……まあ、気持ちは分からんでもないがな。オレも母さんに求婚していた頃は、あれこれと思い悩んだものだ」
 そう言って、父はお勝手のマーレを見やった。父が昔の苦労を口にするのは珍しいことだった。昔気質の男らしく、ボルカノは過去を語ろうとしない。アルスはそれを美徳と捉え、父がかつての日を語る時は、アルスのことを男だと認めてくれた時なのだと思っていた。今も、ボルカノはアルスを男と見做し、自分自身で決着を付けられるのだろうと信頼してくれている。父の思い遣りに報いようと、マーレ母さんが聞いていない間に、アルスはボルカノにこっそり伝えた。
「父さん。今の僕には、人の人生をあずかる力はないけど……その覚悟は、できているよ」
「そうか。それでこそオレの息子だ」
 と、ボルカノは破顔した。アルスは父の笑顔を久々に見たような気がして、思った以上に安心した。
「さあ、今夜はもうおそい。ひとまずは休んで、後のことはそれから考えるといい」
「わかった。ありがとう」
 話は終わった。アルスは深く頭を下げ、席を立った。そして、お勝手で明日の下拵えをしているマーレが、心配そうな顔をしていたので、大丈夫だよと伝えて二階に上がった。