ブラッドミストの岩垂草 前

 クレージュ。一寸先は霧である。大陸中に垂れ込めているこの白い霧は、どうやら村の井戸から発生しているようだった。村人達が発狂して、挙って魔王を自称するのは、霧の魔力に当てられたのが原因らしい。要は霧を何とかすれば良いと言う話だった。アルスとガボとマリベルは、この厄介な霧を晴らすため、神木から続く地下水脈を探すことになった。水脈から井戸の水源を目指して歩き、水源を浄化すれば任務完了である。そうと決まれば、早速地下へ潜って探索したいところだが、いかんせん三人は、神木とクレージュ村を行ったり来たりして疲れてしまった。かかるほどに、今日は東の宿屋に撤退して、明日から探索を始めることにした。
 クレージュ村から離れると、この白い霧も多少はましになるのだが、相変わらず周囲の様子は良く分からない。三人は重たい荷物を持ち、宿屋はまだかと待ち遠しく思いながら、地面に引かれた道を辿った。
「アルス。あいつら、やっぱりついてきてるよ」
 耳の良いガボが、背後の音を聞いて嫌な顔をした。アルスとマリベルには聞き取れないが、先程からずっと羽音がしているらしい。この辺りで羽ばたいて飛ぶ魔物と言えば、ふゆうじゅに違いない。アルスは後ろを振り返り、敵影が見えないか確認した。霧のせいで全く見えなかった。
「近づいてきてる?」
「うん」
 アルスが聞くと、ガボも後ろを顧みて、耳をそばだてた。いつもの青いマントは着ておらず、緑色のみかわしの服を着ている。
「なあアルス、やっつけちまおうぜ。逃げてたってしょうがねえよ」
 ガボは苛々した様子で、地面の小石を蹴った。彼が苛立つのも無理は無く、後を付けられて気に障らない筈が無い。アルスとしては交戦も吝かでは無いのだが、問題は仲間達の体力だった。じめじめした冷たい霧は嫌な感じがして、ただ歩くだけでも気力を奪われる。比較的体力のあるアルスでさえ、早く宿屋に戻り付いて、この重たい鋼の鎧を脱ぎたいなと思っていた。
「どうしようか?」
 宿に着くのが早いか、敵に追い付かれるが早いか、アルスには判断付かない。傍らのマリベルに聞くと、彼女は軽く肩を竦めた。
「いいんじゃない? やっつけちゃいましょうよ」
 ふわふわの魔法の法衣を着たマリベルは、出来れば関わりたく無いと言った風だが、一応戦う意思を見せた。
「よし、やろうぜ!」
 ガボはすっかりやる気になり、持っていた荷物を地面に投げ捨てた。アルスとマリベルも荷物を置き、それらから距離を取って敵を待つ。見通しが悪いが、何処へ行ってもこうなのだから仕方無い。せめて開けた場所で迎撃すべく、アルスは鋼の剣を抜き、背負っていたドルフィンシールドを弓手に引っ掛けた。マリベルは眠りの杖を持ち、ガボは鋼の牙を構える。
「何匹いる?」
 アルスは一応ガボに聞いた。
「わかんねえ。イヤなニオイだ」
 ガボは前方を見据えたまま、歯を剥き出して唸り声を上げた。少なくとも一体では無いらしい。マリベルは呪文を唱える準備をし、いつでも放てるよう身構えた。程無く、アルスの耳にも羽音が聞こえて来た。小さな羽ばたきを掻き消すように、一つの大きな羽音が響く。逸る気持ちを抑えつつ、待機を続けると、やがて白い靄の中から、茶色い影が姿を現した。案の定、切り株お化けの魔物達だった。
「ひゃー、でっけえ!」
 唸っていたガボも、思わず感嘆の声を上げた。通常のふゆうじゅを三体纏めてくっ付けたような、太った巨大なふゆうじゅが、地面すれすれをゆっくりと飛んでいた。その巨大な一体を取り巻くように、四体の小さなふゆうじゅが飛んでいる。思ったより数が多い。
「小さいのを先に」
 アルスが指示を出すと、ガボが遊撃に飛び出した。巨大なふゆうじゅの背面に回り込み、敵が旋回している間に、小さな一体に飛び蹴りを叩き込む。ふゆうじゅはよろめきながら逃走し、弱そうなマリベルを狙いに行った。マリベルは限界まで相手を引き付け、メラミの呪文で焼き払った。小さなふゆうじゅは燃えながら、マリベルに体当たりを食らわせようとしたが、マリベルはキトンシールドで手も無く防いだ。アルスは彼女の安全を確認してから、目の前の小さな一体を狙い、大きな目玉を突き刺した。ふゆうじゅは液汁を零しながら地面に落ちたが、まだ生きていたから、アルスは踏ん付けて剣を抜き、もう一度刺して命を奪った。二匹倒した。
 ガボとマリベルは、既に巨大なふゆうじゅに取り掛かっていた。マリベルがメラミを唱え、目玉に向かって火の玉を放つ。ふゆうじゅは体を翻し、背中の部分に当てて防いだ。背面が砕けて焼けたが、致命傷には至らなかった。続いてガボが走って行き、頭部に飛び付いたが、敵は大きく体を揺らして抵抗し、上手く狙いが定まらない。していると、ふゆうじゅが地面に根を張り、周囲一帯に根の氷柱を突き出した。足元に剣山が迫ると、マリベルは呪文を唱えるのをやめ、泡を食って逃げ出した。ガボはどうにか敵にしがみ付こうとしたが、腹に根っこの一撃を食らい、放り出されて剣山に落ちた。
「いってえ!!」
 ガボの悲鳴が耳に届いたが、アルスは二匹同時に相手取っており、振り向く暇も無かった。目玉を刺して殺そうとするが、ふゆうじゅ達が高く飛び回って届かない。焦れたアルスは、盾をぶん投げて相手に叩き付けた。片方に命中し、木屑を散らばしながら下降したふゆうじゅを、今度こそ突き刺して仕留めた。ガボは右足で着地して、根っこを思い切り踏み抜いたらしい。串刺しから逃れようとするも、根の剣山に囲まれて踏み場が無く、立ち往生してしまった。巨大なふゆうじゅは、ガボを後回しにすると決めたらしく、根っこを一本持ち上げて、マリベルの方に伸ばした。
「来ないでよっ!」
 マリベルはギラを唱え、周囲を炎で取り巻いた。防壁は小さなもので、ふゆうじゅは少し躊躇したものの、根を伸ばして炎を乗り越え、彼女を捕まえようとした。
「やだ、あっち行きなさいってば!」
 マリベルは悪口を言いながら、根っこを杖でぼこぼこ殴った。死にはしないだろうが、助けないと怪我をしそうだ。アルスは四体目のふゆうじゅを仕留めようと、息を吸って気合を溜めた。対するふゆうじゅは目を剥いて、アルスを狂気に陥れようとする。アルスは咄嗟に視線を逸らしたが、それが不味かった。ふゆうじゅはメダパニを唱えるのをやめ、アルスに向かって太い根っこを突き出した。防ごうとしたが遅かった。根は鎧の継ぎ目に当たり、左の鎖骨を砕いて貫通した。動脈を切ったらしく、傷口から血が溢れ出す。アルスは怯まず、突き刺さった根っこを引っ掴み、引きずり寄せて目玉を刺した。それでも死ななかったから、剣を引き抜き、頭から柄でぶん殴った。木屑が飛び散り、目玉から透明な汁が噴き出した。敵は死んだが、出血が酷く、左手が麻痺して動かなくなった。肩に根っこが突き刺さったまま、アルスは剣を捨て、落ちていた盾を拾って投げた。上手く力が入らなかったが、どうにかガボのところに届き、盾は剣山の上に落ちた。
「ガボ!」
「おう!」
 ガボは心得ており、盾を足場にして串刺しから脱した。剣山に乗った盾は不安定で、少し体勢を崩したが、そのまま跳躍してふゆうじゅに肉薄し、目玉に膝を叩き込んだ。大きな目玉が砕けて割れ、ぼとぼとと液汁が滴り落ちる。巨大なふゆうじゅは逐電を考えたようだが、根を深く地面に張り巡らせており、身動きすら叶わない。着地したガボは再び相手に飛び付いて、鋼の牙を目玉に突き立て、中身を抉るように引き裂いた。ガボが退くと、マリベルが駄目押しにメラミを唱え、大きな火球で焼き払った。目玉が蒸発する嫌な音がし、生木が焦げて夥しく煙を出した。黒焦げになったふゆうじゅは、微かに根っこを動かしたが、すぐに力尽きて動かなくなった。マリベルは念の為、ギラの呪文で根の針山を焼き、養分が吸えないように片付けた。魔物の群れを全滅させた。
 アルスは傷を見まいとしたが、上半身どころかズボンの膝までぐっしょりと濡れていることに気付き、眩暈を覚えずにはいられなかった。今まで感覚が麻痺していて、冷たいとしか感じなかった傷口が、激痛を伴って熱く燃え始める。引き摺っているふゆうじゅの重さも相俟って、アルスはがくりと膝を突いた。出血を止めようと手で押さえたが、心臓の拍動と共にどくどくと溢れ出し、湿った地面を濡らし始めた。
「アルス!」
 俯いた視界の端に、ガボが走り寄って来るのが見えた。アルスは足元から飛び散る血を見、穴の開いたブーツを見て、痛くないのだろうかとぼんやり思った。ガボは膝を突き、泣きそうな顔でマリベルを顧みた。
「マリベル、アルスが……」
 激しい流血を見て、マリベルは眩暈を起こしそうになったらしく、顔が真っ白だった。ともすればよろめきそうになるところを、唇を噛んでどうにか堪え、彼女はアルスのそばへ来た。
「楽なかっこうにして」
 マリベルは震える声で、片膝を突いた格好のアルスを座らせた。彼女は無事のようだ。肺が動く度に痛みが増すから、アルスは浅く小さく呼吸をした。
「どうしよう、抜かねえと……」
 と、ガボが木の根に手を掛けようとした。
「抜いたら死ぬかも」
 喘ぎ喘ぎ、アルスは本気で言った。ガボは触れる寸前で手を止め、おろおろと目を泳がせた。生温い血が噴き出るのとは対照的に、アルスは体が冷えて来た。失血死する。
「抜いていいよ。死んだらごめん」
 アルスは命を手放す覚悟を決めた。今まで死んだことが無かったから、良い経験になる。流石に自分で抜く余力は無く、力を抜いて仲間に委ねることにした。マリベルも腹を括り、アルスの胸元に手を翳した。
「あたしがベホマをかけるから、ガボは少しずつ引いて。いい?」
「わ、わかった」
 おっかなびっくり、ガボは貫通した根っこに手を添え、極力優しく握った。その微かな振動も、痛みを以てアルスに伝わった。邪魔なふゆうじゅの死骸を脇によけ、ガボは反対の手をアルスの胸に当てた。
「アルス、いくぞ」
「ああ」
 アルスは歯を食いしばった。早く自分を何とかしなければ、ガボの足も出血が激しい。ガボは心配そうに眉を顰めていたが、眦を決し、木の根をゆっくりと引き抜き始めた。同時に、マリベルが回復呪文を唱える。温かな光が苦痛を和らげるも、痛いものは痛かった。
「ぐっ……」
 歯を食いしばるだけでは足らず、苦しみ紛れに、アルスは自分の右腕に噛み付いた。ざらざらした根っこと骨やら筋肉やらが擦れ合い、傷口から何もかも引き摺り出されるような、耐え難い痛みが全身を打ちのめす。口を開けたら吐きそうだった。ガボはアルスの苦悶を見て、怯えたような顔をしながら、そろそろと根を抜いていたが、あるところに来て手を止めた。
「うわ、ホネが出てきた……」
 折れた肋骨が根に引っ掛かり、諸共引き摺り出て来たらしい。ガボは慌てて、一旦手を引っ込めた。
「どうしよう、もどしたほうがいい?」
「もどして」
 マリベルが短く答えた。回復呪文を唱え続けるのは結構な苦痛を伴う。
「アルス、がんばれ。死ぬなよ」
 ガボはそう言って、根っこを片手で押さえながら、血塗れの骨をそっと押した。ところが、ぬるぬるして容易に引っ込まなかったので、今度は力を入れて押し戻した。いっそ死んだ方がましだな、と思いつつ、アルスは腕を噛み締め、服越しに肉が千切れるほど食いしばった。そうしてガボは、時々肋骨の破片を押し戻しながら、少しずつ木の根を抜いて行った。アルスには永遠とも思えるような拷問だった。根が先の方で細くなり、傷口が開いてくると、マリベルは直接手を当ててベホマを唱えた。ガボは力のやり場が無く、小さく手を震わせていたが、何とか終いまで優しく抜き取った。根っこが抜けると同時に、傷は綺麗に修復された。三人は大きく息をつき、漸く緊張から解放された。
「……アルス、大丈夫?」
 息を切らせながら、マリベルが口を開いた。
「……生きてるよ。ありがとう」
 アルスはへたり込んで天を仰いだ。回復呪文は傷を癒してくれるが、血液を十全に補ってくれるわけでは無い。酷い貧血で目がちかちかし、その場に倒れ込みそうだった。
「そうだ、オイラ、足!」
 同じくへたり込んでいたガボは、自分の負傷を思い出し、穴の開いた足にホイミを掛け始めた。相当痛かったろうと思われるのだが、すっかり意識がアルスに向いていたらしい。
「うう、いってえ……」
 案の定と言うべきか、ガボは半べそで痛がった。何とか傷を癒そうとするも、呪文に集中しきれず、何度もホイミを掛けようとする。
「見せて」
 難儀しているところに、息を整えたマリベルが、傷をベホマで癒してやった。ブーツには穴が開いたままだが、中身は綺麗に塞がった。
「よし、なおった!」
 ガボは気力を取り戻し、軽く飛び跳ねて足の具合を確かめた。他に大した負傷も無かったらしい。右のブーツはもはや使い物にならず、彼は両方とも脱いで裸足になった。
「……宿屋まで、あとどれくらいあるのかしら」
 アルスに致命傷を与えた、小さなふゆうじゅの死骸を見ながら、マリベルが息をついた。
「わかんねえ」
 ガボがそう言って、アルスも視線だけ彼女に寄越した。依然として周囲の様子は分からない。地面に歩くべき道が引かれているから、少なくとも迷うことは無いだろうが、先の見えない道程は不安を掻き立てた。日が暮れる前に到着しなければならない。アルスは立ち上がろうとしたが、どうしても体が持ち上がりそうになかったので、拠無くマリベルを呼んだ。
「マリベル、ごめん。肩かしてくれる?」
「大丈夫? 貧血?」
 マリベルはアルスに手を伸べて、血と汗で貼り付いた前髪をよけてくれた。
「たぶん」
 マリベルの冷たい指先も、いつものように快くは感じなかった。彼女はアルスの頬に手を添え、心配そうに顔色を見た。
「少し休んでいく?」
「いや、ここにいるのは危険だと思う」
 アルスは微かに首を振った。自分が撒き散らした血の臭いが、煙と霧に紛れて辺りに漂っている。魔物は血の匂いに鋭敏である。白く靄る視界の中、いつまでも此処でじっとしているよりは、少しでも動いて宿に近付くべきだった。宿には聖なる守りが張られており、魔物は決して立ち入れないのだ。ガボは湿った地面を蹴って、血溜まりを土で埋め、少しでも臭いを消そうとしていた。
「行くなら行こうぜ。アルスだったら、オイラがおぶってやってもいいよ」
 ガボは少々不安らしく、殊更元気な声を出した。
「あんたじゃムリよ。つぶれちゃうわ」
 そう言って、マリベルは自分の杖を拾い、反対の手を伸ばしてアルスを引き寄せた。アルスは彼女の肩を借り、よろめきながら身を起こした。立ち上がった途端、目の前が真っ暗になり、力が抜けて倒れそうになったが、マリベルが一生懸命支えてくれた。
「ちょっと、大丈夫?」
 マリベルは潰されそうになりながら、杖を頼りに、何とかアルスを持ち上げた。ただでさえ身長が伸びて来ているところに、鎧を着込んでいるこの男はいたく重いだろう。
「フラフラだぞ……オイラ、かわろうか?」
 諸共潰れてしまいそうな二人を見、ガボが声を掛けた。
「平気よ。ガボは荷物を持ってちょうだい」
 地面に足を踏ん張りながら、マリベルが答えた。ガボは力持ちだが、いかんせん背が低過ぎるから、アルスを引き摺る形になる。無理があっても、マリベルに手を貸して貰う他無かった。
「ごめん。重いよね」
 アルスは殆ど喘鳴のような声を出した。
「重いけど、しょうがないでしょっ」
 と、マリベルは力の入った声で答えた。ガボは心配そうに様子を窺っていたが、服の裾で手の血を拭いて、アルスの剣や盾など、仲間の荷物を拾い集めた。
「よし、行くぞ。みんなオイラについてこいっ」
 いつに無く、ガボも緊張した声を出した。アルス達の装備を含め、殆ど全ての荷物を持っている。力持ちの彼にはさしたる重さでは無いのかも知れないが、小さな体に沢山の荷物をぶら下げた姿は、何だかとてもいじらしく見えた。そうして三人はまた歩き出した。体は冷えて寒いし、目の前は暗く霞んでいて、酷い状態だが、アルスは気力を振り絞って前方に集中する。少し足を動かしたら、歩き続ける勢いが出て来たので、マリベルから腕を外そうとした。
「ありがとう。自分で歩くよ」
「大丈夫なの?」
 アルスがふらついたと思って、マリベルは体を寄せて来た。ふわふわの法衣が血塗れだった。
「平気」
 困惑する相手を押しやって、アルスは一人で歩き始めた。マリベルは暫く様子を見ていたが、どうやら何とか平気らしいと分かると、ガボから荷物を受け取り、すぐに支えられるようアルスのそばについた。アルスは酷く気分が悪いものの、立ち止まると二度と動けそうにないから、強いて足を動かした。霧と貧血でぼんやりする視界の中、そばにいるマリベルの赤毛を目印に、紙切れのようにふらふらと歩いた。暫く歩いて、木製の素朴な小屋が見えて来た時には。三人とも心から安堵した。
 宿に着くなり、アルスはベッドに倒れ込んだ。生乾きの血で布団が汚れたが、不可抗力である。そのままうつ伏せに倒れていると、マリベルが鎧のベルトを緩め、外してくれた。
「アルス、もうちょっとがんばってよ。着がえましょ」
 と、後頭部を撫でられた。
「そうだね。ふとんが汚れる……」
 アルスが変なことを言っても、マリベルは気にしなかった。血が冷えて寒いし、酷くごわごわするから、彼女の手を借りて、布の服に着替えさせて貰うことになった。アルスはどうにか身を起こし、ベッドに横たわって、頭を壁に凭れさせた。
「やだ、なにこれ!」
 シャツを脱いだ途端、マリベルが悲鳴を上げた。そばにいたガボがびっくりして飛び上がった。
「な、なんだ!?」
 ガボが目をまん丸くしているのを見て、マリベルは平静を取り戻したらしい。小さな声でごめんと謝り、落ち着いた声で言った。
「アルス、腕にもケガしてるのよ。どうしたの、これ?」
 マリベルは柳眉を顰め、アルスの腕に手を添えた。アルスの噛み付いた右腕は、肉が削げて血が滲んでいる上、周囲は噛み痕で青黒く腫れていた。
「ごめん、自分でやった」
 壁際に寄り掛かりながら、アルスが短く答えた。
「バカね。いたかったでしょ」
 マリベルは優しくそう言うと、ベホイミを唱え、傷を撫でて治してくれた。しかして緑の服を脱ぎ、血塗れの体を拭いて、やっとのことで服を着ると、アルスはベッドに沈み込んで動かなくなった。マリベルはベッドの隅に座り、看病をしてくれた。
「なあ、なおしてやれないのか?」
 浅く息をするアルスを見、ガボは不安気にマリベルに尋ねた。アルスの着替えている間から、彼はずっと室内をうろうろしていた。
「キズはふさがってるし、寝てればなおるわよ」
 腹を括ったマリベルは気丈である。恬然として答えながら、アルスの冷や汗をハンカチで拭いた。
「アルス、なにかほしいものはある?」
「マリベル……」
「なに?」
 アルスは本気でマリベルが欲しいと言ったのだが、マリベルは取り合わず、単に名前を呼ばれただけだと思ったらしい。彼女とガボに、そばにいて欲しかったのだ。
「別にないのね? ないならいいのよ」
 アルスが何も言わないと、マリベルは立ち上がり、部屋を出て行ってしまった。アルスは寂しくなった。
「ガボ」
「なんだ? なんかほしいのか?」
 アルスが呼ぶと、ガボは狼狽して、あたふたとベッドに飛び付いた。マリベルは行ってしまったが、彼が残っていたので、アルスは少なからず安心した。ガボを心配させまいと、努めて平常な声を出す。
「ただの貧血だよ。血が足りないだけなんだ」
「血? 血って、どうやって足せばいいんだ? オイラのをわけてやろうか?」
 ガボは早口にそう言って、自分の両手を見下ろした。アルスは思わず笑ってしまった。笑ったのを見て、ガボはほっとしたらしく、少し態度が落ち着いた。アルスも寝ていたら楽になって来た。
「大丈夫、寝てればなおるよ」
「そうか? じゃあオイラ、アルスが寝るまでここで見てるよ」
 と、ガボはベッドに飛び乗った。布団越しに腿の辺りを踏まれたが、アルスは気にしなかった。
「うん、ありがとう」
 今は何よりそれがありがたい。アルスは死にそうな目に遭うと、仲間の元気な姿を見たくなる。二人がそばにいるだけで、不思議と心が安定するのだった。暇だから、何か話がしたいと思っていると、ガボの方から話題を振って来た。
「マリベル、元気だな。オイラよりも元気だよ」
 ガボは感心したような、羨むような調子で言った。
「そうだね」
 アルスも頷いた。こう言う時の彼女は本当に頼りになる。往々にして女性は肝が据わっているものだが、あの細っこくて小さいマリベルからは想像も出来ない胆力だった。
「ガボが守ってくれたからだよ」
 ありがたいことに、マリベルは怪我をしていなかった。アルスが頼りにならなくても、ガボが彼女を守ってくれる。ガボはまだ子供だが、戦士としては一人前で、アルスは全幅の信頼を以て、自分とマリベルの命を預けることが出来るのだった。そう褒めると、ガボはちょっと照れたらしく、ほっぺを掻いた。
「マリベルも、いちおう女の子だからな。ケガしたらかわいそうだよ」
 と、殊勝なことを言うのだった。ガボとマリベルは、互いに言いたいことをずけずけと言う間柄である。マリベルに面と向かって悪口を言えるのはガボだけだった。それは懐いていることの裏返しだから、アルスは微笑ましく思って聞いている。しかし、たまにこうした好意を聞くのはもっと好きだった。
「アルスも早くケガなおせよ。オイラびっくりして、ひっくり返りそうになったんだぞ」
 ガボは拗ねたように言った。あの凄まじい流血には、流石の彼も度肝を抜かれたらしい。
「ごめん」
 アルスは苦笑した。肩の怪我については、当たりどころが悪かったとしか言いようが無い。偶然鎧の継ぎ目に突き刺さって、偶然動脈を切断してしまったのだ。生温い血の感触と耐え難い痛みを思い出し、アルスは傷のあった場所に手を当てた。マリベルがザオラルを覚えているし、今まで散々酷い目に遭っているから、アルスは死ぬのが怖くない。元々神経の鈍いアルスは、最近ますます感覚が鈍磨して来ている。しかし、やはり痛いのは辛かった。そんなことを考えていたら、またしても気分が悪くなって来て、冷や汗をかいた。マリベルの冷たい手に触れて、優しくホイミを掛けて欲しかった。
「アルス」
 と、丁度マリベルが戻って来た。両手がトレイで塞がっているところを、器用に扉を開けて入り込む。
「お昼ごはんなんだけど、食べられそう?」
「そっか、メシの時間だ」
 ガボが声を弾ませた。マリベルは昼食のパンとスープを持って来てくれたのだった。しかし、折悪しくも、アルスの気分は最悪の状態にあった。ただでさえ気持ち悪かったのが、スープの匂いを嗅ぐなり、胃の辺りが奇妙に動いた。
「ごめん、吐きそう」
 アルスは短くそう言って、唇を噛んで嘔気を抑えた。
「あっ、ごめん」
 様子を気取ったマリベルは、トレイを持ったまま倉皇と出て行った。残ったガボはきょとんとしていたが、青ざめたアルスを見て、何となく察したらしい。
「アルス、きもちわるいのか?」
 口を開けると吐きそうだったから、アルスは右手を挙げて返事をした。
「えーと、うーんと……どうすりゃいいんだ?」
 ガボはどうして良いか分からなくなり、ベッドから下りて、周囲をうろうろし始めた。スープの匂いが去り、暫く唇を噛み締めて我慢している内に、アルスは少し平静を取り戻した。
「僕、寝る。ガボは食べてきなよ」
「でも、オイラ、アルスが寝るまで……」
 と、ガボはさっきの約束を気に掛けた。
「いいよ。行って」
 アルスは軽く手を振って、ガボを追い払うような仕草をした。かなり失礼なやり方だったが、ガボは素直に納得してくれた。
「オラたち、むこうで食べてるよ。なんかあったら、すぐとんでくるからな」
 そう言って、ガボは戸口に歩いて行き、何度も振り返りながら扉を開けて、部屋を出て行った。アルスは戸が閉まる音を聞き、何だか脱力したような気持で枕に埋ずもれた。二人に心配を掛けてしまうのは申し訳無いが、今はとにかく血が足りない。もう何も考えたくなくて、アルスは目を閉じた。