遠く青く

 アルスとキーファは、オルフィーと言う町の宿屋の外で、剣の稽古をしていた。剣と言っても、アルスは確かに銅製のそれを使っているが、キーファが振るうのは無骨な木製の鎚である。おおきづちと言うらしいが、非常に重たく、頭でっかちで、良くもキーファが平気で振り回し、あまつさえ火炎を纏って攻撃できるものだった。マリベルが言うには、いかにもキーファが好きそうな、いかつくておっきい見た目だし、嬉しくて重たいのも忘れちゃうんでしょ、とのことだった。彼女の言う通り、いつもキーファは楽しそうである。
 ちょっと前までは互いに向き合って銅の剣でチャンバラをしたものだが、今はめいめい素振りをしたり、眼前に魔物の姿を描いて実戦の真似事をするようになっていた。なんとなれば、下手をしなくとも親友の命を奪いかねないからである。魔物を相手にするようになってから、アルスは死に物狂いと言う言葉を知り、その意味を身を以て理解した。アルス達も必死だが、相手の魔物も必死である。魔物は人の生き血を啜り、肉を喰らう。それは彼らが生きて行くためであり、アルスが魚やパンを食べるのと同じなのだ。マーレ母さんが調理した美味しい魚は、漁師が命懸けで海に出て、網や釣竿を用いて獲得したものである。歯ごたえのある丸パンは、エスタード地方の農夫が平地の草を抜き、土を耕しては種を撒き、長い月日を掛けて実らせた小麦を刈り取って、石臼で挽いて粉にする。それを母さんが店から買い入れて、薄茶色の粉をあんな丸くて美味そうな食べ物に仕上げるのだ。魔物が人間の命を奪うのは、それと同様の目的で、単純な生物としての営みなのである。アルスは漁に出た経験こそないものの、大物が釣れた際、ひのきの棒で弱らせて船に上げることを知っている。釣られた魚が、命を賭してじたばたと暴れ回ることを知っている。一日中ただのんびりして、浜辺にしゃがんでなまこを眺めていたアルスも、数多の懸命の果てに生き永らえてきたのだった。今はそれを実戦として行っているのだから、単なる仲間同士の演習では済まされず、命を奪い奪われる覚悟で訓練せねばならないのである。それでアルスもキーファも、空中に得物を振るう時も、全身全霊で戦うことを忘れないのだった。
 アルスは銅製の剣を主たる武器としているが、腰に抜身のナイフを差している。左手の盾は手首にベルトで括っており、敵に肉薄した際、即座にナイフを抜いて相手の急所を突くのである。実戦に際してはそう上手くも行かないのだが、体が自然に覚えると、いざとなれば咄嗟に相手を刺し殺してしまうものなのだった。アルスは体格もひょろひょろで、力もまだまだひ弱だから、使えるものなら何でも使うつもりだった。
 キーファはアルスと距離を取って、おおきづちを力任せに振り回している。と、言うのがマリベル曰くの表現だが、親友の卓越した手並みをアルスは良く分かっている。頭が巨大な丸太で出来たそれはバランスが悪く、キーファは柄の持つ位置を変えながら、重量と遠心力を生かしてぶち当てたり、近接戦で防御に用いたりと、自由自在に使いこなしているのである。彼の特技であるかえん斬りも、打撃で火炎ごと潰してしまっては意味がないからと、予め木槌を焼け付くように熱したり、舞い散る炎で追撃したりと、思い付く限りの工夫を凝らしていた。二人とも、狙い通りに魔物を仕留めた時は達成感に満たされる。アルスはさして表に出ないが、率直なキーファはやりっ、と快哉を声に出すために、マリベルは呆れていた。自分達は我流が故に、恐らくまともな武器の扱いをしていないのだろう。アルスの銅の剣はすっかり刃こぼれして、研いでも磨いてもどうしようもないし、キーファのおおきづちは黒く焦げ掛けていて、むき出しの木肌がぼろぼろにささくれ立っていた。
 薄暗い闇に包まれたオルフィーの大陸は、現在が昼なのだか夜なのだか今一つ判別が付かない。そもそも時間と言う概念が存在し、それが刻々と移り変わっているのかどうかすら分からない。一応今は夜のようで、気の毒な元人間の、今は動物の姿に変えられた者達も、これまた気の毒な元動物の、人間の姿に変えられた者達も、めいめい寝床に入って休んでいるようだった。マリベルと、エスタード島の森から来て貰った木こりのおじさんも、今は宿屋でぐっすり眠っている。二人は誰もいない、安全な町中で存分に集中することが出来た。
「ふう……アルス、そろそろ休憩するか?」
 キーファが額の汗を拭い、木槌を下ろして地面に突きながら、アルスの方を向いた。
「僕はいい」
 アルスは即答した。銅の剣を横凪ぎに振るうと、ひゅっと空を切る見事な音が立つ。通常の、切れ味に優れた剣ならば、この一太刀で魔物を両断出来るのかも知れない。しかしアルスの持つそれは、銅製の、殆どなまくらと言って良い代物で、叩き付けて打撃を与えるものと割り切って扱うべきなのだ。膂力と技術は幾らあっても足りないし、親友のように得意技もないわけだから、ひたすら訓練を続けていたかった。
「そうか。じゃあオレも、もうちょっと続けようかな」
 と、キーファは木槌を置き、草臥れた腕をぐっと伸ばして、今度は足腰の鍛錬を始めた。王子の身分を気にしていず、勉強や習い事を見事に回避し続けてきたキーファだが、唯一好きなのは武芸の稽古であった。勿論、先生に教わる退屈なお稽古ごとは真っ平御免であり、兵士の訓練に交ざっては、平和な小さな島の中で、最も実用的と言えるであろう訓練の仕方を学んでいた。
「……おっ、アルスもやる気だな?」
 アルスが剣とナイフを置き、親友の隣で同じように足腰の筋力を鍛え始めると、キーファは嬉しそうにして、ちょっと息を切らせながらそう言った。アルスは小さな頃から、彼と一緒に兵士の訓練を眺めたり、遊びのつもりで加わったりしていたお陰で、心身を鍛え体力を付けるやり方も、見よう見まねで覚えているのだった。今は着慣れた故郷の服に戻っているが、出発の際は必ず鎧を装備する。革製で、これがまたそこそこに重い。これと武器と盾とを身に着けて、険しい山道や鬱蒼とした森を歩き回っては、しばしば出くわす魔物達をやっつけて行くのである。休む頃にはぐったりだった。アルスが尊敬し目標とするボルカノ父さんは、筋骨隆々の見事な体躯をしているが、どうやらそれは漁の中で自然と身に付いたもので、そもそも代々が漁師の血筋なものだから、生まれ付き体格に恵まれていたらしい。ならばアルスもいずれは父のようになれるのだろうが、今はとにかく時間が足りない。親友と共に戦い、か弱いマリベルを守るためには、可及的速やかに体を鍛え上げねばならなかった。また、キーファによると、かつてのバーンズ王も卓越した剣の使い手で、訓練場でお説教を始める時は、横目で兵士の様子をちらちらと盗み見ているらしい。厳格かつ品行方正なようで、やはりキーファの父親である。内心、往年の技術を試してみたくてうずうずしているのだった。
 アルスはたまにマリベルから、あんたってほんと負けず嫌いよね、と言われる。理由を尋ねてみると、彼女が敢えて我儘や嫌味を言った時、アルスは仕返しをするらしい。やっぱりわざと言ってるんだね、と、本当は優しいマリベルが意地を張っているだけの言動なのだと、彼女を褒めたつもりで答えたら、マリベルはいつもの青い目を眇めて、そういうとこなんだけど、とそっぽを向いてしまったのだった。すっかり息が上がり、腕も足もぷるぷる震えそうなのを耐えながら、アルスはそんなことを思い出して気を逸らす。どうやら、アルスが訓練を止めなければ、キーファも終わらせるつもりがないらしい。多分間抜けなしかめっ面でいるから、互いの顔を見ないようにしながら、暫し踏ん張って足腰を鍛え続けていた。
「……なあ、そろそろ、やめないか? ほら、明日は、あの子の様子も、見に行きたいしさ……」
 キーファが息を切らせながら、ぜいぜいと何だか声を掛けてきたような気がしたが、アルスは漁船で大物を釣り上げる空想に浸っていて、聞こえなかった。
 ボルカノ父さんは以前、自分の身の丈より大きな魚を釣り上げた。同船した漁師によると、誰の手も借りず、釣竿一つで獲物と戦い続け、数時間掛けて漸く釣り上げたそうだった。その時乗っていたのがアミット氏の立派な帆船でなければ、港に持ち帰るのは疎か、重すぎて船に上げることすら出来なかったらしい。港に引き上げられた丸々とした巨大魚を見て、フィッシュベルはお祭り騒ぎだった。そんな中でも、ボルカノ父さんは至って冷静に、新鮮な内に分けてやってくれるか、と、仲間の漁師に後始末を頼み、マーレ母さんの待つ家に戻ったのだった。幼いアルスはその背中を追い掛けながら、ボルカノ父さんのことを改めて尊敬した。
 家に帰れば、いつものように母さんが夕飯の支度をしていて、いつものように父さんを労った。ずっと家のことをしていて、今日のとんでもない釣果を知らない筈なのに、食卓にはボルカノ父さんの大好物がたんまり並べられ、食後には、どうやらすごく美味しいらしいお酒と、お手製のおつまみが振る舞われた。そうして漸く、父さんは母さんに、今回の漁はちょっとばかり手こずっちまった、と話題にしたのだった。その際も、父さんは自身の偉業より、操舵を担当した仲間の手腕を褒めていた。食いついた魚は海中を暴れ回るため、船の下に潜られてしまうと、釣り糸が切れたり、針が口から外れかねないのである。母さんはにこにこしながら相槌を打ち、他のみんなも美味しいものを食べて、ゆっくり休めてるといいねえ、とのんびり口にするのだった。アルスは隣でおつまみを貰いながら、マーレ母さんのことも改めて尊敬した。父さんが海でいつも以上の働きを成した時、マーレ母さんは不思議と陸でそれを知っているのだ。多分寝具も綺麗に洗濯され、父さんはふかふかのベッドでぐっすり休める筈だった。すっかり満腹になった父さんは、いつもの豪快で陽気な笑い声を上げながら、アルスに向かって、お前もいいヨメさんを貰え、漁師はヨメさんがいなけりゃやってけねえんだ、と大切な助言をくれたのだった。アルスにはお嫁さんなど全く想像も付かないが、支えてくれる人の有難みは良く分かっているつもりである。アルスは器用貧乏と言うやつで、回復や補助も一応は出来る。それが却って大変なのだった。マリベルがいなければ、何をすべきか迷った挙句、魔物に隙を衝かれてやられてしまうだろう。不思議なことに、何に於いても最終的な決定はアルスに一任されているため、助言や補助をくれる彼女の存在は非常に有難い。そのマリベルを守るにも、キーファの存在が必要不可欠である。親友が先陣を切って敵前に向かってくれなければ、アルスは冷静に考える暇もなく戦う羽目になる。体力に長けて頑丈なキーファが二人を庇ってくれなければ、誰かが深い手傷を負って、旅路もはかが行かない筈である。
 そこでふと、アルスは今自分がどこにいて、何をしているか思い出した。キーファはいつの間にか座っていて、アルスを見ながらにやにやしていた。我に返った途端、アルスは腿やら膝やらそこら中が痛いのに気付き、その場に尻餅を突いた。キーファは声を上げて笑い出した。
「くやしいけど、アルスの勝ちだな。オレ、おまえがやめたらやめようと思ってたんだぜ」
「僕も、そう、思ってた、よ……」
 アルスはやっとのことで返事をした。
「ははっ、せーのでやめとくんだったな」
 キーファは平気な様子で笑っている。恐らく彼が訓練を止めてから、そう時間は経っていない筈なのだが、とっくに体力を取り戻しているのだった。アルスは座ることすらしも敢えず、ばったり倒れて大の字になった。空は星一つ見えず、陰気で変てこな厚い雲に覆われているようだった。アルスが力尽きると、キーファも弾みを付けて倒れ込み、仰向けになる。両腕を枕にし、同じように暗い夜空を眺めていた。
「なあ、アルス。昨日納屋にいた子だけどさ……」
 空に目線をやったまま、心持ち真剣な声様で、キーファはそう口にした。納屋に鎖で繋がれていた、小さな黒髪の少年のことである。事情は良く分からないが、恐らくあの子も元は動物で、何らかの理由で納屋に置かれていたのだろう。アルスは鎖を外そうと近付いて、彼の体中に未だ治り切らない傷痕が残っているのに気が付いた。少年はアルス達を一顧だにせず、どこか遠くを睨むように見詰め、歯を向いて束縛から逃れようと足掻いていた。家畜でも野生のものでもない、一種異様な反応であった。キーファは言葉を続ける。
「なんていうかさ、あの子にも、ふしぎなものを感じなかったか?」
「うん」
 アルスは単純に頷いた。二人は良く他人から、性格が正反対だから却って気が合うのかね、とか何とか言われる。しかしマリベルは真逆のことを口にするのである。あんたたちってほんとソックリよね、と。実際のところは、アルスとキーファにも分からないが、マリベルの言葉の方が合っているような気がするのだった。自分達は気が合うだけでなく、お互いのことがいつも何となく分かるのだ。キーファが女の子に興味があったりするのは良く分からないが、そういうものはそういうもので、全てを理解する必要はないと思っている。親友も同じく、アルスがのんきに浜辺でなまこをつついていることについて、自分がやっても楽しいとは思わないのだろう。しかしそれはそれで構わないし、キーファはなまこを邪魔してまで、アルスを探検や遊びに誘ったりはしない。二人がいつも一緒にいるように見られるのは、たまたまやりたいことが一致している時であり、そのたまたまが重なってばかりいるだけなのだった。
「あの子にも、きっと何かがあるんだろうな。あんなにボロボロになってでも、なしとげなければいけない何かが」
 ぼんやりしていたアルスの隣で、キーファは傍白のようにそう呟いた。アルスにとっては、いかにも親友の言いたいことだと感心する内容だった。キーファはそれきり口を閉ざした。それ以上の言葉を重ねずとも、アルスには伝わるだろうと分かっているのだ。
 二人とも、陰気な空を仰いだままでいた。アルスは眠くなりながら、今どのくらいの時間だろうかと見ているだけだが、隣のキーファはもっと向こう側の、この雲だか霧だか知れぬような暗闇の先を見詰めているのだろう。キーファはいつもそうだった。二人でフィッシュベルの水平線を眺めやる時、アルスはいつか父さんのように、立派な漁師として船に乗り、この大海に乗り出して行くのだと夢を描く。キーファは、この大海原のどこかに必ず、誰も知らない新天地が存在していて、自分は必ずそこに旅立って行くのだと夢を描いている。アルスは船に乗り、漁師として必ずフィッシュベルに帰るつもりである。翻ってキーファは船に乗り、どこか新しい世界を見付け、彼の求める何かを探しに出たいのだ。同じく海を眺めて夢を描き、こっそりと廃船を修理していた二人だが、目的こそ全く異なるものなのだった。キーファの夢はどこまでも浪漫に溢れて壮大で、アルスはそれが彼を最高の親友たらしめていると知っているが、アルスの夢も並々ならぬ努力と時間が必要で、キーファもそれを理解して、アルスを最高の親友だと誇ってくれる。キーファが自分を応援してくれるように、アルスもキーファの求める何かが見付かるよう、陰ながら応援しているつもりだった。尤も、誰の助けも借りずとも成し遂げてしまうのがキーファと言う親友なのだが。
 アルスはそのまま大の字になって、オルフィーの地べたで眠ってしまった。そして夢を見たらしい。自分は父さん達と同じ漁船に乗って、漁師の見習いだか何だかをやっている。とてつもなく嬉しかった。にやつきながら海上を見やると、キーファはたった一人、今より立派になった元廃船に乗り、自ら帆を操って見事に航行している。遠目からは表情こそ窺えないものの、いつものように目を輝かせ、得意げでいかにも楽しそうな笑みを浮かべているに違いなかった。そこでアルスはふと気が付いた。今まで気にしたこともなかったが、キーファの目の色は深い青である。その色は海ではなく、遠い遠い空を映しているのだと、何故だか急に閃いたのだった。
 翌日、アルスはマリベルに叩き起こされた。どうやらキーファも、あのまま隣で寝ていたらしい。マリベルはぷりぷり怒りながら、カゼをひくとか、ちゃんとベッドで休みなさいとか、しっかり嫌味を織り交ぜつつも心配の言葉を口にしてくれた。アルスとキーファは、昨晩の事は彼女に何も話さなかった。マリベルは何となく分かっているだろうし、また海のような青い目を眇めて、男の子ってどうしてこうなのかしら、と呆れる姿がまざまざと目に浮かぶのだった。

2022.02.02