幾つもの冬を越えて

「きゃっきゃっ!」
 冬のアルテナの城下町で、シャルロットが雪を放り投げてはしゃいでいる。真っ白な兎毛のコートを着て、淡い金色の巻き毛をふわふわと揺らし、傍目には雪の妖精か何かのように見える。それを追い掛けるのは、狼のカールである。もうすっかり大きくなった彼が本気で駆けると、あっという間にシャルロットに追い付いてしまうから、じゃれるような速度で走り回っていた。そのすぐそばでは、アンジェラが雪遊びに飽きてしまい、座れるような場所もなく、静かに降る粉雪を見上げながら、手持ち無沙汰に立っていた。こちらも、赤いビスチェの上から真っ白なコートを着込んでいる。アルテナ王族の証、豊かな紫の髪を手で梳いて、指先に絡まった抜け毛をつまみ、くるくると巻き付けて暇を潰していた。シャルロットは未だ踏まれていない雪を探して走り回り、カールと一緒に、其処ら中に足跡を付けていた。
「アンジェラしゃん、アンジェラしゃーん!」
「なに? 聞こえてるわよ」
 白い息を吐きながら、シャルロットが大声で呼ぶと、アンジェラは面倒くさそうに返事をした。
「アンジェラしゃん。もういっこ、らびをつくってくだちゃい。らびに、おともだちをつくってあげなきゃ」
 そう言って、シャルロットは大事に抱えた雪兎と、アンジェラの顔とを交互に見た。拳くらいの大きさの、小石の目を持つ雪兎は、シャルロットの手の熱を奪い、親指の形に少しへこんでいた。
「やーよ。耳を作るの、苦労したんだから。自分で作りなさい」
 アンジェラは鰾膠も無く、そっぽを向いてしまった。シャルロットはわざとらしくむくれて見せたが、アンジェラが見ていないのに気付くと、すぐにやめた。体をばたばたと動かし、何とかアンジェラの注意を引こうとする。
「じゃあ、ゆきがっせん、しまちょ!」
「雪合戦はイヤだって、さっき言ったでしょ? 私は王女様なのよ。ヤバンなことはしないの」
 と、アンジェラは尤もらしい理屈を盾に、またしても嫌がった。シャルロットもまたむくれたが、此処でアンジェラに雪玉を投げ付けると、彼女が本気で機嫌を損ねてしまう事は分かっている。怒ってアルテナ城に籠ってしまうよりは、何もしなくても、アンジェラが近くに立ってくれている方が良いのである。シャルロットはついに諦めて、足元の踏ん付けた雪をかき集め出した。二人と一匹は、そうして自由に遊んでいるが、他の仲間は仕事に勤しんでいた。こうした時、やたらと張り切って音頭を取りたがるデュランは、地上から指示を出し、民家の屋根に上ったホークアイとリースに、積もった雪を下ろさせている。そうして、落ちて壁際に積もった雪を、デュランとケヴィンが台車に乗せる。台車が雪で一杯になると、デュランが意気揚々と車を押し、町外れの雪捨て場に捨てに行くのだった。古びた台車は、木製の車輪が歪んでいるらしく、デュランが猛然と押して行くと、がたぴし言って壊れそうだった。ホークアイとリースはそれぞれ毛皮のマントやコートを着ているが、デュランとケヴィンはいつもの軽装で、平然とした顔でスコップを振るい、雪にまみれていた。
「わっ!」
 懸命に雪を掘っていたケヴィンの後頭部に、小さな雪玉が直撃した。雪玉は破裂し、粉々に砕けて、ケヴィンの体に降りかかる。シャルロットの作って投げた雪玉など、威力はたかが知れているが、ケヴィンは少しびっくりしたらしい。怪訝な顔で後ろを振り返った。
「いしししし、ざまーみそでち!」
 シャルロットはにまにま笑いながら、雪まみれのケヴィンを指差した。流石のケヴィンも挑発に乗って、スコップを雪に置き、大きな雪玉を作り始めた。年の割に手の大きいケヴィンが握ると、りんごくらいの塊が出来るのだった。
「こら、遊ぶな!」
 すると、デュランの鋭い叱責が飛んだ。
「……う、ゴメン」
 ケヴィンは意気消沈して、握った雪玉を捨て、再びスコップを取って作業に戻った。デュランは威嚇するように、シャルロットの方を睨んで注意した。
「ケヴィンを巻きこむなって言ってるだろ? 何度目だと思ってるんだ」
「ごめんちゃーい……」
 シャルロットはしぶしぶ謝って、不満そうに、カールに雪をぶつけ始めた。カールは思い切り体を震わせて、シャルロットに雪を弾き返した。シャルロットが小さな悲鳴を上げて、堪らず逃げ出した。デュランとケヴィンはせっせと働いて、見ていなかった。アンジェラは笑っていた。
「いいかい、落とすよー」
 ホークアイが下の二人に注意を促し、二階建ての屋根から、どさりと雪を落とした。始めたばかりの時は、雪が塊になって、地滑りの如く一気に滑り落ちるから、巻き込まれないよう注意がいる。粗方雪が落ちてしまうと、残った雪をスコップでしゃくって落とす。そうして屋根から雪を下ろすのだった。数日もすれば、また積もって元通りになってしまうが、雪の重みで屋根が潰れてしまわぬよう、こまめに下ろす必要があるのだった。
「……さてと、こんなもんかな?」
 ホークアイがそう言いながら、最後の雪が地上に落ちるのを見送った。まだ薄く残ってはいるものの、これ以上掬おうとしても、スコップで屋根を傷付けてしまうだろう。
「この家は、もうだいじょうぶでしょう」
 リースもそう言って、スコップを杖のように突き、ふうと白い息を吐いた。美しい金髪は、溶けた雪で少し濡れ、艶やかに輝いている。早朝からずっと働いていたので、流石の彼らも疲れが出ていた。
「終わりましたよー!」
 と、リースが下の二人に声を掛けた。終わりが見えるとやる気も出てくる。デュランとケヴィンはますます張り切って、せっせと雪を車に積み上げた。その間に、ホーアイとリースは裏の長い梯子を伝って、地上に降りていた。デュランとケヴィンはせっせと雪を掬い上げ、あっと言う間に、台車が潰れそうなくらいに積み上げた。もう一度往復するのは手間だから、これで済むように頑張ったのである。雪を積み終わると、デュランが車の持ち手をひょいと持ち上げ、位置に付いた。
「よっしゃ、行くぞ!」
 そして、濡れた煉瓦の道をものともせず、がらごろ言いながら、凄まじい勢いで走って行く。それを、他の三人が追って行った。
 世界は平和になった。相争っていた国々は平定し、和平が結ばれた。その代わり、大気からはマナの力が失われ、魔法や呪いと言った類が使われなくなった。其処に最も影響を受けたのは、魔法王国アルテナで、国全体を包んでいた春の陽気が失われ、過酷な冬が訪れるようになった。困った事に、暖かな暮らしに馴染みきっていた人々からは、雪かきの知恵や技術がすっかり忘れ去られていたのである。アルテナの人々は、しんしんと降り積もる雪に悩まされつつも、一つ目の冬を超える頃には慣れてきて、二つ目の冬を迎えた頃には、当たり前のように雪かきに勤しんでいた。
 六人と一匹の仲間達は、冬になると、アルテナの雪かきを手伝うようになった。アルテナの冬は長く、他の国々で木の葉が黄色くなり始める頃から、花々が綻び始めるまで、ずっと雪が降り続ける。そのため、六人は頻繁にアルテナに集まっては、せっせと雪をかいていた。普段は各々の国で暮らしているから、皆で揃って遊ぶ良い機会にもなるのだった。
 一軒の雪を片付けた六人と一匹は、民家の住人に完了を伝え、お礼に焼き立てのパンプディングを貰った。ついで、暖かい家の中で休んで行くよう誘われたが、まだ町の雪かきは終わっていない。謹んで辞去して、街角のベンチの雪を払い、座って食べる事にした。三人用のベンチには、女の子達が座って、男達は立ったりしゃがんだりして食べる。手編みの鍋敷きは借りてきたが、フォークを借りるのを忘れたから、ほかほか湯気を立てる、鍋に入った熱々のおやつを、ベンチの真ん中に置いて、あちちと言いながら指でつまむ。とろとろのプディング液に、小さく切ったパンを浸して焼いたもので、パンをつまんで、プディングを掬うようにして食べた。カールも欲しがったが、甘いものは歯に悪いから、ケヴィンが少しだけ食べさせていた。
「あー! シャルロットの、なくなっちゃう!」
 食いしん坊のシャルロットだが、猫舌で、なかなか手が出せない。熱い熱いと躊躇っている内に、皆がどんどん食べてしまうから、声を上げて周囲を牽制した。
「がんばって働いた人が先よ」
 アンジェラがえらそうに答え、ふうふうとパンを吹いて冷ました。
「アンジェラしゃんも、あそんでたでちょ」
 シャルロットがやり返した。
「しょうがないでしょ。足をくじいちゃったんですもの」
 と、アンジェラはシャルロットの口にパンを詰め、文字通り口を塞いでしまった。アンジェラは不運な事に、先日、凍った雪に足を取られて、右足を捻挫してしまったのだった。今はもう殆ど治っているが、大事を取って、雪かきには参加していない。今までの魔法が存在した頃ならば、シャルロットが簡単に治療してやったものだが、今は自然に治るのを待つしかない。不便なものだった。不機嫌なシャルロットは、程良く冷まされたパンプディングを貰い、大人しくなった。もちもちと咀嚼しながら、周囲の雪景色を見て、少し考えたらしい。
「しかし、たいへんでちよねえ……。がんばってゆきかきしても、またゆきがふったら、ぜんぶまっしろけでちょ? どうにかならないんでちか?」
 でちでちした甘い声と、おやつを頬張ったもごもごで、大半は聞こえなかったものの、付き合いの長い仲間達には大意が理解出来た。暖かな気候のウェンデルで暮らすシャルロットは、一年の大半を雪に埋もれて過ごすアルテナを気の毒がっているのだった。
「今、お城の学者さん達がいっしょうけんめい考えてるわ。もちろん、私だって考えてるわよ」
 アンジェラは、いつかきっと解決出来ると言う確信を持っているらしい。胸を張ってそう答えた。
「……でも、どうやって?」
 現実的なリースは、将来を楽観視せず、アンジェラに尋ねた。アンジェラは相変わらず、自信満々な素振りでパンをつまんだ。
「それをこれから考えるんじゃない。なんとかなるわよ、きっと」
「そうそう。なんとかなるもんだよ」
 ホークアイも同調して、つまんだパンを口に入れた。ホークアイの住むナバールも、乾いた砂漠の大地に水を注ぐ手段を探している最中である。アルテナと同様、生命に関わる逼迫した問題なのだが、本人の気性故か、そう深刻に捉えてもいないようだった。実際、何とかしぶとく生き延びる強さを持っているのが、ナバールの人々なのだった。
「そうですね。きっとうまくいくと思います」
 リースも、自分が難しく考えたところで、どうしようもないのだとは分かっている。アンジェラやホークアイの力を信じる事にして、そう言った。
 夜はアルテナの客間で眠る。くたびれた六人は、温かいお湯で体を洗い、雪で濡れた衣服を着替え、男部屋に集まって疲れを癒しつつ、お喋りに興じる事にした。長い間埃を被っていた客室の暖炉は、毎日火を入れるようになって、目にも温かい山吹色の炎を燃やし、ぱちぱちと言う心地良い音を立てている。今日は其処に、小さな鍋を吊り下げて、ミルクを注いで温めて飲めるようにしていた。アンジェラが、木製のお玉でミルクを掬い、それぞれのマグに注いで渡してくれる。可愛らしい浅黄色のマグを満たしたミルクは、柔らかな湯気を立てて、何だかとても魅力的に見えた。全員分のミルクを注いだアンジェラは、自分のマグを取り、三つある内の真ん中のベッドに座った。他の仲間は、それぞれ適当なベッドに座り、温かいミルクを口にした。
「アンジェラしゃん。おさとう、ありまちか?」
 珍しく、シャルロットが口を付けないと思えば、そんな事を尋ねた。
「そう言うと思って、持ってきてあげたわよ」
 と、アンジェラがマグを持ってきたトレイから、角砂糖の瓶を取った。さっきまでそれを見ていた筈なのに、不思議と誰も気付いていなかった。
「よくわかってるじゃあーりまちぇんか」
 シャルロットはえらそうに頷き、アンジェラに向かってマグを突き出した。アンジェラは渋い顔をしながら、わざと、角砂糖を砕かずに落とした。そうすると、砂糖の塊が底に残って、甘い甘い牛乳味の飴のようになる。シャルロットはそれが好きなのだった。
「みんなも、いる?」
 と、アンジェラが周りに尋ねた。ケヴィンとリースが返事をした。アンジェラは角砂糖を一つ取って、指先で砕き、ケヴィンとアンジェラとリース、三等分になるようにしてそれぞれのマグに入れた。
「やっぱ、オレも貰おうかな」
 シャルロットが幸せそうにミルクを飲む姿を見て、ホークアイも欲しくなったらしい。アンジェラに頼むと、彼女はまた角砂糖を砕いて、ホークアイのマグに少し入れた。余った砂糖は、少し考えて、自身のマグに入れた。シャルロットは少し飲んで、マグをぐるぐる回して砂糖を撹拌し、また飲んで、マグを回して砂糖を溶かしていた。沈んだ砂糖が少しずつ溶けていくのも、また好きらしい。
「そんな甘いの、よく飲めるよな」
 デュランはそう言って、ただのミルクをぐびぐび飲んだ。デュランは甘いものが嫌いなわけではないが、ただでさえ甘いミルクに、砂糖を加えて飲むのは理解しかねた。口が甘ったるいと、気持ちが緩むような気がするのだ。旅をしていた時は、そんな贅沢など言えなかったから、お菓子にがっついて体力回復していたが、平時ならば甘さ控えめが好きだった。
「おいしいでちよ? うぇんでるのせーてんにも、ちちとみつのながれるばしょは、しあわせってかいてありまち」
 と、シャルロットは賢しらな事を言った。いかんせん、デュランは聖典に興味がないから、シャルロットの口振りでは、それがどんな意味なのかさっぱりだった。他の仲間は、それなりに聖典を嗜むようだが、ケヴィンだけは首を傾げていた。デュランは仲間を見付けた気がした。
「乳と蜜の流れる場所、ねえ……。アルテナがそうだったら、毎日雪かきしなくてすむのに」
 アンジェラがぼやいた。アルテナの民を愛する彼女は、少しでも雪の被害から人々が楽になる方法を模索している。しかし、魔法の力が失われた世界で、天の力に抗う事は難しい。アルテナが春を享受している間も、エルランドの人々はずっと雪かきに勤しんでいたのだから、彼らに倣って励むしかないのだった。
「でも、そんなのが大地に流れてたら、べたべたで大変だと思うよ」
 ホークアイが茶化すような事を言った。アンジェラがちょっと笑った。楽園に対するお決まりの冗談であるらしいが、デュランとケヴィンはかなり真に受けた。
「そんなのが流れなくても、春になったら、雪解け水でべたべたよ」
 と、アンジェラも軽い冗談を言って、一頻り下らないお喋りをした。デュランはさっさとミルクを飲み干したから、お代わりを掬いに、鍋の方へ行った。木のお玉で、ほかほか湯気を立てる何かを掬って注ぐのは、子供の頃から刷り込まれた、美味しい御馳走の目印である。何の変哲もないミルクも、これだけで美味しそうに見えるものだった。デュランはミルクを飲み飲み、元いたベッドの方へ戻った。すると、仲間の輪から外れて、窓の外を見詰めているリースに気が付いた。手に持つマグは少し冷めたようで、湯気を立てなくなっていた。
「飲まないのか?」
 デュランは何の気なしに、彼女のそばへ行った。真面目な性格の彼女は、ともすると何かを思い詰める癖があり、そうなると、難しい顔をしてぼんやりする。普段は、気の利くホークアイがすぐに察して話し掛けるのだが、今日は一人にされていた。こうした場合、それはホークアイには解決出来ない悩み事で、彼は一人で考えさせた方が良いだろうと判断しているのである。デュランは其処まで気の回る方ではないから、気が付いた時に話し掛けるのだった。
「どうした?」
 と、デュランはまた何の気なしに、隣に座った。リースは其処でやっと気が付いて、お愛想に少し笑った。悲しげに見えた。マグは良く見ると、表面に牛乳の膜が張っていた。砂糖を貰ったきり、一口も飲んでいないようだった。
「いえ……」
 リースは躊躇ったものの、正直に話す事にしたらしい。小さな声で、そっと胸の内を打ち明けた。
「……私だけ、何も変わっていないと思ったんです」
「そうか?」
 デュランが思わずそう聞くと、リースは小さく頷いた。両手で持ったマグの液面が、微かに揺れた。
「みんな、自分の国をよくしようとがんばっています。エリオットはどんどん成長して、王子として国を担う力を身につけています。……でも、私はそうではありません。みんなに助けてもらって、父のいないローラントを何とか治めている状態です」
 リースが訥々と語るのを、デュランは黙って聞いていた。此処で自分が安易に否定しても、リースは納得しないのだろう。自分より機転の利くホークアイが解決出来なかったのだから、デュランの単純な言葉では、リースも自信を持てる筈がない。ただ、リースはもう少し自信を持てば良いんだがな、と思うのだった。デュランがちょっと仲間の方に目線をやると、ホークアイと目が合った。相手はすぐに視線を逸らした。こう見えて仲が良いから、互いに考えている事は大体分かる。ホークアイはデュランに任せることにしたらしい。
「ホークアイに相談したら、リースはよくやってる、ってほめてくれたんです。……でも、何をよくやっているんだろう? 私に何ができるんだろう……」
 と、リースは続けてそう言った。ホークアイは、少しずつ王族と言うものを認めつつはあるものの、立場上、其処に否定的な意見を持つ事に変わりはない。だから、リースの心を軽くする助言が出来ないのだろう。彼に言わせれば、そんな面倒な王位など無くしてしまって、皆の力で国を纏めていけば良いのだ。だから、ホークアイは彼女の心を軽くする事が出来ないのだった。それならば、デュランの方が彼女の気持ちは分かるだろう。王女と一兵卒と言う身分の違いはあるものの、互いに国のため尽くして生きる立場の人間であった。リースは続いて、アンジェラに相談したら、それならもっと頑張ってみたら、と言われた事を話した。それでリースはますます思い詰めてしまったらしい。アンジェラは何処までも前向きで、自分に自信を持っているが、リースはそうではない。あれこれ悩んで、後ろ向きに考えてしまう事も多いのだった。それでは皆もお手上げだろうと、デュランも納得した。デュランはちょっと冷めたミルクを飲んで、リースにも飲むよう促した。リースは膜の張ったミルクを飲んで、口元に付いてしまった膜を舐めて取り、少々照れくさそうにした。少し元気も出たようで、デュランも安心した。
「なぐさめにはならないかも知れないけどさ……オレは、君主が王座についているだけで、民の大きな力になると思うんだよ」
 と、デュランは全く自分も意図しない内に、心の内に根付いていた見解を口にした。リースは俯いたまま、不思議そうに、目だけデュランの方に向けた。
「今フォルセナが平和なのは、英雄王様が王座について、民をまとめて下さっているおかげだ。アルテナだって、理の女王やアンジェラがいない時は、国が不安定になっていた。ローラントだってそうだろ? 君主は、それだけの責任を背負ってくれているんだ」
 デュランにとっての君主は、必要不可欠な存在である。英雄王陛下がいなければ、自分はなかったと断言出来る。人には愚直と言われるだろうが、フォルセナの英雄王は、誇りの高いデュランが渇仰するだけの存在なのだ。その英雄王が治めるからこそのフォルセナなのである。そうした素晴らしい規範がいるから、他国の君主も同じく尊敬に足る人物なのだろうと確信があった。事実、リースの父ジョスター王も、アンジェラの母理の女王も、民に慕われる思慮深き君主であった。
「君主のいないナバールだって、頭領のフレイムカーンがいるからまとまってるんだよ。こうやって言うと、ホークアイは否定するけどな」
 と、デュランはちょっと口を尖らせて言った。デュランとホークアイは馬が合うが、その点に置いては対立した意見を持つ。お互いの生まれ育った環境が全く異なるのだから、仕方がない事だと納得もしている。だから、その話題が上っても喧嘩になる事はない。あいつはこう思っているが、自分はこう思っている。それで良いのだった。
「おまえだって、国を背負って、ローラントの人のためになやんでるだろ? それでいいんじゃねえの」
 同じように、デュランはこう思っているが、リースがどう思うかは分からない。だから、敢えて意見を押し付けるような真似はしなかった。
「……そうでしょうか?」
 其処で、漸くリースは顔を上げ、デュランにそう尋ねた。
「多分な。がんばってれば、結果はそのうちついてくるよ」
 デュランはまた、はぐらかすような言葉を口にした。後はリースが自分自身で答えを見付けるのだろう。デュランはふと、王族に生まれ付くと言う事の重みを考えた。生まれは選べない。本人が望まずとも、高貴な血が流れていると言うそれだけで、厄介事に巻き込まれる可能性もあるのだ。デュランはそれなりの家柄の人間なのだが、騎士の一族に生まれた事を喜んでいるし、王族に比べればずっと気楽なものだろう。それに、かく言うデュランも、自分は昨日より成長していると胸を張って主張する事が出来ないのである。相変わらず、英雄王陛下の騎士に叙される事はないし、毎日傭兵として平和な国を守っているだけだった。だから、リースの気持ちに本当の意味で寄り添って、答えを出してやる事は出来なかった。リースは冷めたミルクをまた一口飲んで、唇を舐め、窓の方に顔を向けた。
「……もうすぐ、アルテナにも春が来ますね」
 と、リースは脈絡のないような事を口にした。
「ああ」
 デュランは別に、変だとも思わなかった。
「春が来るたびに、この国はもっとよくなっているような気がするんです。私も、そうなれるといいな」
 そう言って、リースは少し微笑んだ。窓も開いていないのに、柔らかい風が吹き込むような、不思議な感覚がした。
「そうだな」
 デュランは頷いて、自らも気を引き締めた。あの過酷な旅が終わってから、暫くの時が経った。数にすればほんの数年の間だが、とても長かったような気がするし、とても短かったような気もする。デュランはあの日から変わっているのだろうか、自分では分からない。しかし、それだけの努力をしている自負と、もっと努力しようと言う向上心は持っている。いつかリースと、互いの成長を喜べる日が来るのだろうか。それが遠くない未来に来てくれるよう、デュランはもっと頑張ろうと思った。

2019.9.30