ごっどぶれすゆー!
アンジェラがちょっとした風邪をひいた。症状は寒気とくしゃみで、さほど深刻なものでは無かったが、大きな弊害があった。
「くしゅん!」
くしゃみと共に、天井からダイヤミサイルのかけらが降った。小粒とは言え、切っ先は鋭利で、部屋中に降り注ぐ透明な矢に、仲間達は泡を食って逃げ出した。
「ごめん……」
部屋の隅に避難しながら、アンジェラがしょんぼりした。同じく隅に逃げ出した仲間達は、彼女の体調を心配していた。
「今日は休んだほうがよさそうね……」
頭に乗った粒々を払いつつ、リースが言った。ミサイルの雨が収まったところで、六人はまたベッドのそばに集まった。歩く度、かけらを踏んでぱちぱちと鳴った。
「この調子じゃ、みんなに迷惑かけちゃうもんね……ごめんね、いそがしいのに」
アンジェラが殊勝に謝った。小さく咳をすると、今度は周囲に火の粉が踊る。いつに無く気弱で、魔力が漏れ出している影響か、体力も落ちているようだった。
「かぜは、ひきはじめがかんじんなんでちよ。あったかくして、おとなしくしてなちゃい」
と、シャルロットが彼女をベッドに座らせ、布団を引っ張り出して頭に被せた。いつもならば、シャルロットの乱暴さに対して怒るのだが、今日のアンジェラは大人しくもみくちゃにされ、布団を被ってルナのような姿になった。
「アンジェラには休んでもらうとして……オレ達はどうする?」
ホークアイがデュランに聞いた。
「アンジェラがいないんじゃ、先に進むわけにもいかねえよな……」
と、デュランはアンジェラの様子を見た。すると、弱々しい視線を返されたので、いよいよ心配になったらしい。暫し考えた後、思い切ったように口を開いた。
「よし、今日は各自自由行動だ! 全員、英気をやしなっておけ!」
そう言ってデュランが指示を与え、今日はのんびりと過ごす事になった。仲間達はアンジェラを心配して、そばにいて看病をしたがったが、この調子では魔法の巻き添えを食らってしまうため、アンジェラが強いて皆を外出させた。良い事に、港町マイアは暇潰しにお誂え向きの場所である。アンジェラは一人宿屋に残り、毛布を肩に掛けて、温かい紅茶を飲みながら、椅子に座って本を読んで過ごした。横になるほど体調が悪いわけでは無かった。咳をする度、舞い散る火の粉が本の上に落ちて、粒々の焦げ跡を作ってしまい、鬱陶しそうに手で払いながら読書を続けていた。外からは柔らかな陽光が差し込み、暖炉の火は焚き染められ、室内は十分な温度を保っていた。
「アンジェラ」
暫くすると、ケヴィンが戻って来た。珍しく帽子を脱いで、手に持っている。
「プラム、取ってきたよ」
と、帽子を傾け、アンジェラに楕円形の実を見せた。街道沿いの川原にプラムの茂みがあるのだった。五人は其処でプラムを摘んで集め、ケヴィンがアンジェラにお裾分けに来た。アンジェラがプラムを覗き込むが早いか、ケヴィンは部屋を飛び出し、台所から木の器を借りて来て、果実を盛り付けた。アンジェラは本を閉じ、ケヴィンの忙しない動作を見ていた。ほどなく準備は終わり、山盛りになったプラムの器が、ずいと差し出された。
「はい、食べて」
「ありがとう……くしっ!」
勧められたアンジェラが、またくしゃみをした。すると忽ち、プラムの実が音を立てて凍て付いた。最初は何が起きたか分からず、ケヴィンと一緒にきょとんとしていたアンジェラだが、凍ったプラムに気が付くと、物憂く溜息をついた。
「あーあ、またやっちゃった……」
「でも、おいしそうだよ」
と、ケヴィンはプラムを一粒摘み、周りに付いた霜を剥がしてから、アンジェラに手渡した。凍ったプラムはしゃりしゃりとして食感が良く、ひんやりして美味しい。ケヴィンが心配そうに見守る中、アンジェラは一粒を飲み込み、舌鼓を打った。
「……ほんとだ、おいしい」
「おいしい?」
アンジェラの反応を見て、ケヴィンはほっとしたように笑った。
「いっぱい食べて、早く元気になって」
「ありがと。ケヴィンも食べなよ」
不安げな様子に、アンジェラは微笑んで返した。ケヴィンは風邪をひいた人間を見た事が無い。獣人は何処までも丈夫なのである。そのため、アンジェラがどのような状態なのか良く分かっていず、まるで大病にでも掛かったような反応で、大いに狼狽えていた。机に手を突き、アンジェラの顔色を窺う。
「……カゼ、つらい?」
「ぜんぜん平気だよ。くしゃみには困っちゃうけどね」
「そうか」
「いいから、ケヴィンも座って食べようよ」
と、アンジェラは彼を向かいの椅子に座らせ、改めてプラムを勧めた。ケヴィンは取り敢えず口に入れてみたものの、噛むのを忘れてしまったように、口の中で転がしていた。アンジェラの事が気になって仕方無いらしい。
「……くしゅん!」
またアンジェラがくしゃみをした。すると、天井から真っ白な玉が降って来る。アンジェラは慌てて毛布で防いだが、ケヴィンはまるで意に介さず、降り注ぐホーリーボールを手で払いのけた。
「だいじょうぶ?」
「うん……ほんと、やんなっちゃう!」
ままならない自分への苛立ちで、アンジェラは機嫌を損ねていた。魔法と言うのは、術者本人の具合に直結する。つまるところ、アンジェラが調子を崩したり、つむじを曲げてしまったりすると、彼女が持つマナに悪影響を及ぼすのである。風邪をひいた上、機嫌まで悪くなってしまうと、彼女の秘めたるマナはどんどん悪い方へ傾いて行く。アンジェラが怒るにつれ、雷の魔力が高まって行き、ぱちぱちと静電気を生み出した。
「……オイラ、いないほうがいい?」
静電気の影響で、猫のように毛を逆立てたアンジェラを見、ケヴィンがおずおずと言った。
「そうじゃないけど……ここには、いないほうがいいかも」
「わかった」
聞き分けの良いケヴィンは、すんなりと引き下がり、何かあったら呼んで、と言って部屋を出て行った。一人になったアンジェラは、再び本を開いて続きを読み始める。とうの昔に読み終わってしまい、中身を諳んじられるくらいの本であるから、ページを繰るのも退屈である。適当にぱらぱらと捲っては、詰まらなくて一旦閉じてしまい、されど他にするような事も無いから、また開くの繰り返しだった。アンジェラは読書が好きな方だが、こうして大人しく座っていろと言われると、本を読むのが苦痛に感じ、体がうずうずして堪らないのだった。
「アンジェラ!」
今度はデュランが入って来た。片手に緑の宝石を抱え、得意げに机の方までやって来て、アサシンバグの瞳を机に広げて見せた。窓からの光に煌めく六つの宝石を、アンジェラも目を輝かせてみむかえた。
「あら、すごいじゃない」
「だろ。ついでにちょっくら、ルクも稼いできたぜ」
「大変だったでしょ。おつかれさま」
「こんなもん、朝飯前だ」
にっこりしたアンジェラに、デュランはちょっと照れて鼻を擦った。
「でも、使うのがちょっともったいないわね」
と、アンジェラは指先でバグの瞳を転がした。まん丸の宝石は、硝子のように透き通った緑色をしていて、机の上に綺麗な影を落としている。貴重な宝石で、そうそうお目に掛かれるものではないのだった。転がったバグの瞳を静止しながら、デュランはえらそうに胸を張った。
「使うために集めたんだぜ。えんりょなく活用してくれ」
「ありがと……くしゅん!」
アンジェラがまたくしゃみをした。したら、アサシンバグの瞳が一つ割れ、緑の泡を空中に撒き散らした。噴出した毒液は、悉くデュランに降り掛かった。毒を浴びたデュランを見、アンジェラは驚いて身を乗り出した。
「あっ、ごめん!」
「気にすんなよ」
と、デュランは少々顔色を悪くしながら、屈んで荷物からプイプイ草を取り出そうとした。ところが、またアンジェラがくしゃみをし、中空に漆黒の門が現れた。最初は小さな点だったイビルゲートは、徐々に拡大して行き、嵐のような風を巻き起こし、室内の一切を次々と吸い込んだ。閉鎖された空間でのイビルゲートは効果抜群である。アンジェラはバグの瞳とプラムの器を押さえる事しか出来ず、異界へ消え行く道具をただ見送るばかりだった。吸い込むだけ吸い込んでしまうと、漆黒の門は収斂して消えてしまい、何事も無かったかのように静まり返った。高価なはちみつドリンクや天使の聖杯は、デュランがどうにか押さえ付け、大した被害は出なかったものの、アンジェラはすっかり意気消沈してしまった。突風に乱れた髪もそのままに、肩を落とす。
「ごめんね……」
「気にすんなって。おまえは座ってろ」
片付けを手伝おうとしたアンジェラを引き留め、デュランはまずアサシンバグの瞳を仕舞い、新たな被害が起こるのを防いだ。続いて、倉庫から干からび掛けたプイプイ草を出し、かじって毒を治療した。割れた瞳の破片については、窓から放り出して捨ててしまった。それからデュランは何気無い素振りで、アンジェラの向かいにどっかりと座り、剣と布を出して手入れを始めた。幅広のブロードソードを磨きながら、話をする。
「大地の裂け目の吊り橋は、修復をしばらく見送るようだ」
「ふーん。早く直しちゃえばいいのにね」
「そうかんたんにはいかねえよ」
大地の裂け目の吊り橋は、一応英雄王の管理下に置かれているが、厳密に言うとフォルセナ領内の建造物では無い。そのため、マイアやバイゼルと協議を重ね、そちらの職人の協力を仰ぐ必要があった。しかしながら、そもそも交通が困難になってしまった上、魔物の活動によって修復に大きな危険を伴うため、目下見送られる形になったのだった。デュランは剣の血溝を拭き拭き、そんな話をした。
「フォルセナの兵力は、自国の防衛と敵国の牽制に割かれている。橋が直るのは先の話になりそうだ」
「そう……」
アンジェラが目を伏せ、小さく咳をした。今度は拳大の霰が降った。アンジェラはまた毛布で頭上を庇ったが、デュランはしたたか頭を叩かれた。大きなたんこぶが出来たが、そちらには一向構わず、彼はアンジェラを気に病ませてしまった事を気遣った。吊り橋を落としたのはアルテナ兵である。その上、デュランの濁した敵国と言う言葉には、他ならぬアルテナが含まれているのだった。
「……まあ、そのうち英雄王様がなんとかして下さるよ。陛下におまかせすれば、オレ達は何も心配しなくていいんだからさ」
そう言いながら、デュランは一旦席を立ち、アンジェラの膝に乗った氷を払い落として、体が冷えないようにした。そして、床に落ちた霰を拾い集め、窓から投げ捨てた。片付けが済むと、再び席に着き、剣の手入れを続けた。手早い所作で、アンジェラは動く暇も無かった。
「ありがと……くしっ!」
今度はウィンドカッターが飛び出した。風の刃はデュランの頬を掠め、頬に一文字の傷が出来て、薄く血が滲んだ。アンジェラが思わず手を伸ばしたが、切られた本人は全く気付いていず、頬を掻いて、指先に付いた血で漸くそれと気付いた。
「……ん、切れたのか」
デュランは平然としているが、アンジェラは絶望的な顔をしていた。
「……ねえ、デュラン。悪いんだけど、どこかに出かけてくれる?」
「……ああ、そうする」
アンジェラの表情を見て、デュランも素直に肯んじた。
「ぐあいの悪いやつを、一人にしておくのは心配なんだが……そんな調子じゃ、しょうがねえか」
今にも泣きそうな気振りの相手を、デュランはかなり気の毒に思った。普段元気一杯の人間が、悄然として大人しくしているのは、何だかいじらしく、気の毒に見えるのである。アンジェラもそれを知っていて、いつものように悪戯っぽく笑ってみせた。
「……でも、たまにはカゼひくのもいいかもね。デュランがめずらしく、やさしくしてくれるもん」
「よくねえよ。いいから、おとなしくしてろ」
暇だからって魔法の練習はするなよとか、無理にくしゃみを我慢しようとするなとか、デュランは色々とアンジェラに言い付けて、静かに部屋を出て行った。ああ見えても妹がいるので、人の世話を焼くのは嫌いでは無いのだった。
「アンジェラ、だいじょうぶ?」
「ぐあいはどうだい?」
暫くすると、ホークアイとリースが戸口を少し開け、顔を覗き込ませた。
「ええ、だいじょうぶよ」
アンジェラは嫣然と笑って、二人にキスを投げた。具合の良さそうな反応に、ホークアイ達も安心して、にこにこしながら中に入って来た。ホークアイはリースを先に通し、自分も入ろうとしたが、取っ手に手を掛けたまま立ち止まった。外の空気が流れ込み、室内のぬるい空気を掻き混ぜた。
「あつくないか?」
「そう? あったかくて、ちょうどいいよ」
ホークアイに尋ねられたが、アンジェラは首を振った。初夏の日としては気温が低いものの、こう暖炉を焚き染めると、健常な人間ならば厚く感じるくらいだった。しかし、風邪をひいたアンジェラにとっては快適なのである。
「カゼの時は、あったかくしたほうがいいんですよ」
リースもそう言って、扉を少し押したので、ホークアイも取っ手から手を離し、部屋を閉め切った。リースは小さな袋のようなものを持っており、アンジェラがそれに注目すると、手を後ろにやって隠してしまった。
「アンジェラ、あなたにいいものを持ってきたわ」
と、彼女はにっこりした。ホークアイも秘密めかした風で笑っている。二人とも良く笑う方だが、今度はいつにもまして楽し気だった。
「いいもの? なにそれ?」
アンジェラが問い返すと、二人は顔を見合わせてまた笑った。何やらひそひそと囁き合うなり、ホークアイは暖炉の調子を見に行き、リースは悪戯っぽい笑みを浮かべ、軽い足取りでアンジェラのそばに行った。
「手を出して」
不思議そうにしながらも、アンジェラは素直に手を出した。其処へリースが、背中に隠し持っていた小さな布袋から、丸い粒を取り出して乗せた。小さな球体が手の上で転がった。アンジェラが首を傾げる。
「……なに、これ?」
「おくすりですよ」
リースが答えた。
「カゼの特効薬なんだってさ」
暖炉に掛けていたケトルを取り、ホークアイが顧みて言った。二人はネコ族の伝手を頼り、風邪の症状に効くと言う薬を貰って来たのだった。件の薬は、赤を凝縮したような色濃い丸薬で、小指の先くらいの大きさである。ほんのりと薬臭い匂いが漂い、一見しただけでも味が想像出来て、アンジェラは僅かに眉を顰めたが、わざわざ買って来て貰った手前、あからさまに嫌な顔はしなかった。リースは相変わらずにこにこしながら、袋からもう二つ取り出し、アンジェラの手の平に乗せた。
「これを三つぶ飲むんですって」
反射的に、溢さないよう両手で受けたが、アンジェラは薬を凝視したまま、動こうとしなかった。対するホークアイとリースは、お茶の準備をしながら、如何にも親切心に満ちた表情で見守っている。どちらにも、飲めば忽ち治るだろうと言う期待が籠っていた。此処でもし断ってしまえば、二人の事だから、怒りはしないだろうが、さぞかし落胆した表情を見せる事だろう。アンジェラは救いを求めるように二人を見上げたが、相変わらずの笑顔で見返され、がっくりと視線を落とした。飲まなければ話が進まないらしい。抜き差しならない状況に、ついにアンジェラは眦を決した。弾みを付けて上を向き、手の平で封をするように薬を押し込んだ。口に入った途端、すっとした薬臭さが鼻に抜け、辛いような刺激のある苦みが舌を荒らした。ちょっと舌の上に乗せただけで、丸薬は忽ち崩れてしまい、炭のような粉っぽい質感が口の中に纏わり付いた。アンジェラは苦悶の表情で、片手で口を押えたまま、紅茶を求めて何度も手招きした。
「……そういや、薬って、お茶で飲むとダメなんじゃなかったっけ?」
ふとホークアイが言った。アンジェラが懸命に首を振ったものの、お茶を渡そうとしたリースは手を止めた。
「そういえば、そうかも……。お水を持ってきますね」
「なんでもいいから、早くちょうだい!」
アンジェラは必死になって身を乗り出し、リースの手から紅茶を奪い、零しながら一息に飲み下した。それでもまだ苦みが残っており、アンジェラは二杯目を自分で注ぎ、今度は一旦口に含んで飲んだ。猫舌なので熱さに苦しんだが、我慢して飲み込んだ。更に三杯目を注いで飲み干すと、漸く彼女はがっくりとうなだれた。
「うう、にがかった……」
大きく溜息をつくと、アンジェラはうつ伏せになり、額をテーブルに押し当てた。
「そんなに苦いのかい? どれどれ……」
と、ホークアイが袋を取り、怖いもの見たさで、試しに一粒口に放り込んだ。そして安易に口の中で転がし、味を確かめていたが、唐突に動きが止まった。
「……うっ!!」
呻いたと思ったら、目にも止まらぬ速さでアンジェラのカップを掠め取り、気が付いたらお茶を飲み干していた。盗賊の俊敏さが遺憾無く発揮された。ホークアイは愕然として口元を押さえ、低い声で言った。
「これは……アンジェラ、よく三つぶも飲めたな」
「おしおきかと思ったわよ……」
飲んだ者にしか分からない苦しみである。二人が気持ちを分かち合い、しょぼくれた顔をしている傍ら、リースは首を傾げていた。
「そんなに苦いんですか?」
ホークアイとアンジェラが顔を見合わせた。何かを目と目で合図した後、二人で親切そうな微笑を浮かべる。
「ちょっと待って。お茶を用意するわね」
と、アンジェラ。
「さ、ここに座って」
ホークアイがリースの肩に手を添え、アンジェラの向かいに座らせた。二人の胡散臭い笑顔を見て、リースはただならぬ危機感を覚えた。
「……やっぱり、やめとこうかな?」
「いやいや、えんりょしないでさ」
「そうそう。ためしに、ひとつぶ飲んでみましょうよ」
と、二人はいかにも優しげな声を出した。一人が泥道で転び、もう一人も転けたので、最後の一人も泥んこにしてやろうと言う算段である。対するリースは、何とか逃げ出す口実を作ろうと、一生懸命頭を捻った。
「……あっ、私、ケヴィンに呼ばれてたんだった!」
はたと言うなり、リースは勢い良く立ち上がり、それじゃ、と言って、小走りで部屋を出て行った。
「あっ、逃げた!」
アンジェラが口を尖らせたが、後を追う事はしなかった。其処まで意地悪をするつもりは無い。ホークアイは肩を竦めて、リースの出て行った扉を見やった。
「……とりあえず、この薬はここに置いてくよ」
「ええ。……でも、もうぜったい飲まないからね!」
「ああ」
と言って、二人はさっきの粉っぽい味を思い出し、怖気を振るった。
ホークアイとリースが出て行き、暇になったアンジェラは、うとうとして来て、机にうつ伏せになって午睡した。夢に見たのは、小さなアンジェラが風邪を引いた時、理の女王が様子を見に来て、枕元に座って本を読んでくれた思い出だった。そばに来た母は良い匂いがして、手の平がひんやりとして、穏やかな声で物語を読んでくれ、とても優しかった。アンジェラは、母親である理の女王に全く放っておかれたわけでは無い。執務に忙殺される中で、理の女王は時折アンジェラの世話をしてくれた。優しい思い出があるからこそ、放っておかれている時が辛くて堪らなく感じるのだった。懐かしい夢を見て、気持ち良く眠っていたアンジェラだが、枕にしていた腕が痺れてしまい、唐突に目が覚めてしまった。もう少し見ていたかったなと思いながら、溶けてぶよぶよになったプラムをもう一度冷凍し、口に放り込んだ。
「アンジェラしゃーん!」
今度はシャルロットがやって来た。元気いっぱいに扉を開け、アンジェラが座って読書しているのを見ると、呆れた顔で肩を竦めた。
「あらあら……アンジェラしゃん、べっどでねてなきゃ、だめでちょー?」
と、えらそうな態度で、アンジェラの腕を引っ張って立たせようとした。ちびのシャルロットは、お姉さんぶって、人に世話を焼けるのが嬉しくて堪らないのである。一方のアンジェラは迷惑千万で、しがみついて来るシャルロットを振りほどいた。
「もう、ベタベタひっつかないでよ」
「いいから、ねなしゃい!」
「だいじょうぶだってば。自分の体調ぐらい、自分でわかってるわよ」
鰾膠も無く一蹴すると、シャルロットはますます意地になった。
「むむ〜……こーなったら、ちからずくで……」
と、アンジェラを一生懸命引っ張ったが、びくともしなかった。腕を引いても、椅子を引いても、足を引っ張っても動かない。精一杯踏ん張っていると、その内疲れてしまって、肩で息をした。
「ぜえぜえ……」
「ドアが開けっぱなしじゃない。しめてよ」
アンジェラは適当な口実をつけ、懸命に引っ付いて来るシャルロットをあしらった。それでもシャルロットは頑張っていたが、やがて諦めて、すごすごと扉を閉めに行った。足音を立てて歩いて行き、わざとらしい所作でゆっくりと閉め、胸を張ってアンジェラを顧みる。
「はい、しめまちた!」
「ありがと。おやつがあるから、そこ座んなさい」
おやつと聞いて、シャルロットはすぐさま戻って来、アンジェラの向かいに座った。おやつは何かと目を輝かせる彼女に、アンジェラは指を差して、プラムの器を示した。
「ぷらむ? さっき、いっぱいたべまちたよ」
「凍らせたの。シャリシャリして、おいしいわよ」
アンジェラはそう言って、プラムを摘んで口に入れた。表面の霜が溶け、汗をかいているのがいかにも瑞々しい。しゃりしゃりと音を立てて噛むと、シャルロットもつられて、プラムを口に放り込んだ。
「……おお、ひんやりでち」
「でしょ」
アンジェラもにっこりした。食べている時のシャルロットは大人しい。漸く落ち着いてくれたと、アンジェラは小さく息をついた。思わず溜息が出たのを、シャルロットはどう思ったのか、上目遣いで彼女を見た。
「アンジェラしゃん、なんか、ほしいものなーい?」
「ないよ。いいから、あんたは外で遊んできなさい」
と、アンジェラは手をひらひら振った。シャルロットが目を眇める。
「……なんで、そんなにジャケンにするんでちか?」
「カゼがうつるからよ」
「うつりまちぇんよ」
「あんたのだいじょうぶは、ぜーんぜん信用できないの」
きっぱり言うと、シャルロットはついに機嫌を損ねてしまい、まんじゅうのように頬を膨らませた。
「せっかく、かんびょーしてあげようとおもったのに!」
「シャルロット、窓あけてくれる?」
アンジェラは一向構わず、話をすり替えて、シャルロットにお手伝いを言い付けた。むくれながらも、シャルロットは素直に立ち上がり、窓の方へ行ったが、ふと気付いて振り返った。
「あんたしゃん、さむいんじゃないんでちか?」
「換気よ、換気」
風邪菌がわんさとのさばる中に置いて、シャルロットに風邪がうつるのを防ぐためである。この宿は珍しい事に、窓が嵌め殺しに作られていず、真ん中から開くようになっていた。窓を開けると、外の涼やかな外気が流れ込み、シャルロットのふわふわの金髪を揺らした。
「うーん、さわやかでち」
「ありがと」
アンジェラは咳をしようとしたが、何とか堪えて、魔法が暴発するのを食い止めた。苦しげに顔を顰めたのを、戻って来たシャルロットが見咎めた。
「……ほんとに、だいじょうぶでちか?」
「だいじょうぶよ。私の事はいいから、早くお外にいきなさい」
「でも、なんか、したいんでちよ」
シャルロットはじれったそうに、軽く地団駄を踏んだ。彼女はクレリックである。怪我や不例の責任は、専ら自分が受け持つものだと思っており、何も出来ないのを歯痒く感じているのだった。アンジェラも、その気遣いを分かっているから、そこに座りなさいと、またシャルロットを椅子に座らせた。
「いい? カゼをひいたのは、私が悪いの。だから、自分で責任もって自分で治すわ」
「うん」
「だから、あんたは自分の体に責任もって、カゼがうつらないようにしなさい」
「でも、シャルロット、くれりっくでちから……」
尚も食い下がる相手に、アンジェラは表情を和らげて言った。
「私はね、看病してもらうより、シャルロットが元気にあそんでる方がうれしいのよ。わかる?」
其処まで言い含めて、ようやっとシャルロットも納得したようだった。俯いて、暫く考えた後、ぽつりと呟く。
「……じゃあ、シャルロット、みんなといっしょにあそんできまち」
「それでよし」
と、アンジェラはにっこりして頷いた。シャルロットは最後にプラムを一つ食べ、元気良く立ち上がった。
「でも、なんかあったら、よんでくだちゃいね!」
「ええ」
「じゃ、いってきまーち!」
弾むような足取りで出て行ったシャルロットを、アンジェラは手を振って見送った。留守番は退屈だが、たまになら、こうして誰かが帰って来るのを待つのも良いかも知れない。開けっ放しになった扉を閉め、窓を閉めて、夕方までどうやって時間を潰そうかと、アンジェラは少し考えた。
かくして夕飯の時間になった。
「だる〜い……」
アンジェラは少し熱を出し、ベッドに入って寝ていた。咳は続いているが、くしゃみは収まり、魔法の被害は格段に減った。しかし、却って具合が悪くなってしまったようだった。そうしたわけで、アンジェラは夕食を受け付けず、五人で食卓を囲む事になった。今日の夕飯は、風邪をひいたアンジェラに配慮して、温かいオーツ麦のミルク粥だったが、食べられないのなら仕方無かった。
「……アンジェラ、どうなるの?」
ケヴィンは困り果ててしまい、お粥に手も付けず、眉間に皺を寄せていた。風邪と言うのは、毒を食らった時のように苦しいものだと聞いて、ますます心配になったのである。アンジェラは頬を赤くして、目元を潤ませ、枕に埋もれるようにして横たわっており、如何にも辛そうなのが、ケヴィンの不安をいやまし煽るのだった。
「だいじょうぶよ。休んでいれば、すぐによくなるわ」
リースが気の毒がってケヴィンを慰めるが、彼の愁眉は開く事が無い。この調子では、ケヴィンまでもが病気になってしまいそうだった。
「お前達、なんかヘンなもの飲ませたんだろ? それが悪さしてるんじゃねえの?」
と、デュランがホークアイ達に言った。
「バカ言うな」
ケヴィンの反応を見て、ホークアイが真剣に否定した。
「おねつがでるのは、からだが、ばいきんとたたかってるしょーこでち。だいじょうぶでちよ」
クレリックのシャルロットもそう言った。丸薬の効き目は灼たかで、一粒飲んだだけのホークアイも、体がぽかぽかと温まっている。アンジェラが熱を出したのは、薬が良い影響を及ぼして、体が風邪の菌と戦い始めたのだと主張した。
「ケヴィンしゃん、いいからたべなしゃい。たべないと、カゼがうつっちゃいまちよ」
「ウン……」
シャルロットに呆れた風で窘められ、ケヴィンはスプーンを取って、オートミールを口に運んだ。柔らかく煮込まれた燕麦に、蜂蜜と砂糖が入っていて、温かで心のほぐれる味である。一口食べると、やはり腹は減っていたので、ケヴィンはもくもくと食べ始めた。他の皆は既に一杯平らげてしまい、お代わりを貰いに行ったりしていた。
「そういえば、カゼは人にうつすと治るっていうよな」
お代わりを貰って来た後、ホークアイが思い出したように言った。
「よし、アンジェラ。オレにうつせ!」
デュランがそれに乗って、立ち上がってアンジェラの枕元に行った。何でも来いとばかり、胸を張って立つデュランに対し、アンジェラは上体を起こし、秘密めかして目を眇めた。緑の目は薄く涙の膜が張っていて、細めると零れ落ちてしまいそうだった。
「あのね、デュラン……カゼって、どうやってうつすのか知ってる?」
「知らん。どうやるんだ?」
「こうやるの」
と、アンジェラは手招きしてデュランを近付けた。そして自分の手の平に口付け、デュランの額に手を当てた。風邪菌の分け与えが済むと、アンジェラは少しはにかんで、口元を手で隠した。
「よし、うつったな!」
デュランは満足げに頷き、喜び勇んで夕飯の続きに戻った。ちょっとしたおふざけだと分かっているので、皆にこにこしながら見守っている。その中で、唯一ケヴィンは思い詰めた顔でいた。
「……ほんとに、カゼ、うつった?」
「心配なら、ケヴィンもうつしてもらえよ」
お粥を食べながら、デュランが冗談交じりに言った。
「わかった」
笑いながら適当に抜かしたような言葉だが、ケヴィンは真剣に受け取った。意気込んで立ち上がり、アンジェラの枕元に近付いて、先のデュランのように、どんと来いとばかり胸を張った。
「アンジェラ、うつして!」
「しょうがないなあ……」
アンジェラは含み笑いを浮かべながら、先程の伝で、手の平に口付けてケヴィンの額に触れた。
「ケヴィンが元気になりますように」
と、誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟いた。ケヴィンは変化を確かめるように、自分の額を何度も触った。
「……うつった?」
「うん、うつった」
ケヴィンが尋ねると、アンジェラはにっこりした。冗談のつもりで取った行動でも、不思議と心身に影響を与えるもので、アンジェラの顔色は少し良くなった。目元の涙も引いて、緑の瞳に健康的な輝きが戻る。だるさも収まって来たらしく、退屈そうな気振りで腕を伸ばした。
「なんだか、おなかすいてきちゃった……。ケヴィン、おかゆちょうだい」
「わかった!」
ケヴィンは大きく頷いて、風のように部屋を飛び出した。暫し待つと、なみなみと盛られたオートミールの器を手に、台所から駆け戻って来た。器用な事に、どれほど動いても決して零さなかった。
「おかゆ、持ってきた!」
と、アンジェラに器を差し出す。ちょっとスプーンを入れただけで、牛乳が溢れてしまいそうな量だった。
「こんなに食べられるかなあ?」
しかし気持ちは嬉しいもので、アンジェラは笑いながら礼を言い、木の器を受け取った。そして注意しながらスプーンで掬い、熱々のお粥をふうふうと冷まし、少しずつ口に運んで行く。本当に少しで、スプーンの先にちょっと乗るくらいの量を取って、すぼめた口でそっと吸い込む。そうやって食べているさまを、ケヴィンがじっと見ているのに気が付くと、アンジェラは柔らかく微笑んだ。
「ありがと。おいしいよ」
「そうか。よかった」
食事を食べるアンジェラを見、ケヴィンは漸く安心して、食卓に戻って夕飯を食べ始めた。
「オートミールは、よく噛んでゆっくり食べるのよ」
そうするとお腹に優しいのだと、リースに言われて、ケヴィンはゆっくりと、味わうようにしてお粥を咀嚼した。早食いかつ大食いの気がある他の仲間も、それを聞いて、スプーンを運ぶ手を一旦止めた。一般に穀物は消化に悪いとされ、ゆっくり食べないと、後でお腹が張って苦しくなるのだった。アンジェラも一生懸命噛んでいたが、一向に減らないお粥の山を見て、ついに音を上げた。
「あーん、やっぱり食べきれないかも……ぱっくんトカゲになっちゃう」
お腹をさすりながら、デュラン手伝って、と助けを呼んだ。呼ばれたデュランは、返事をしながら、自分のオートミールを一気に掻き込んだ。そして空になった器を手に、またアンジェラの枕元に行った。
「ほら、こっちによこしな」
「ありがとう」
アンジェラは食べられる分だけを残し、デュランの器にお粥を分けた。殆どそっくり移動してしまった。デュランはその場で流し込もうとしたが、最前のリースの言葉を思い出し、食卓に戻ってちびちびと食べた。かかるほどに食事の時間は終わり、腹がくちくなったアンジェラは、うとうとしてすぐに寝入ってしまった。仲間達は夕方の薬を飲ませようかと思ったが、アンジェラがあんまり安らかに眠っていたので、起こさずにそっとしておいた。彼女はそのまま目を覚まさず、苦しそうな様子も無いので、仲間達も安心して眠りに就いたのだった。実のところ、アンジェラは夜半前に一旦起きた。しかし、まだ皆が起きていたので、薬を飲まされないように寝たふりをしていたのだった。
翌朝、アンジェラはすっかり回復して、誰よりも早く起きた。窓を開けて新鮮な空気を取り入れ、心配を掛けた宿屋の主人に、挨拶がてらお手伝いをしに行き、仲間達が起きる頃には、朝食の支度を整えていた。
「さあ、今日はがんばっていくわよー!」
気力を充填し、元気いっぱいになったアンジェラは、朝食のスープも沢山食べた。体の温まる、根菜とベーコンのスープである。他の仲間もいつも通り、沢山美味しく頂いたが、唯一の例外がいた。
「シャルロット、どうしたの? 早く食べないと、さめちゃうわよ」
アンジェラが気付いて、声を掛ける。珍しく、シャルロットが朝食に手を付けていなかった。
「なんか……むずむずしまち」
シャルロットは鼻を摘まれたような、何とも言い難い顰め面をしていた。
「ふ……ふ……」
と、いよいよ泣きそうな顔になったので、周囲は心配して、スプーンを置いて彼女の様子を窺った。シャルロットはのけぞるようにして、むずむずする鼻を高く上げた。
「ふえーーっくちっ!!」
バクハツした。シャルロットが大きなくしゃみをし、目の前のスープを吹き飛ばした。飛沫は其処ら中に飛び散り、六人残らずスープの洗礼を受ける羽目になった。シャルロットはむず痒い鼻を掻き、晴れ晴れと顔を上げた。
「ふいー、すっきりすっきり……。およ? シャルロットのすーぷが、からっぽでち」
あんたしゃんたべた、と隣のホークアイに尋ねたが、水も滴る何とやらは、顔に付いたにんじんを取っていた。続いて、反対側のケヴィンを見るも、彼もほっぺたに付いた玉ねぎを取っていた。
「やだー、もう!」
アンジェラが素っ頓狂な声を上げ、ハンカチを出して顔を拭き始めた。幸いにしてと言うべきか、飛び散ったのは色の薄いスープだったが、ベーコンやらにんじんやらが其処ら中に張り付いている。アンジェラとリースは自分を拭いた後、席を立って周囲の掃除を始めた。周りを見回し、漸く事態に気付いたシャルロットは、照れくさそうに頭を掻いた。
「えへへ、ごめんちゃい……」
「ごめんはいいけど、今度はおまえがカゼひいたのか?」
デュランが聞くと、シャルロットは胸を張って答えた。
「だいじょうぶ。いまのくしゃみで、とんでいきまちた!」
「……とりあえず、カゼのばいきんは出ていったのね」
と、リースが開いている窓の方を見やった。アンジェラを苦しめた風邪菌は、シャルロットの大爆発によって退散したようである。二度と戻って来る事は無いだろう。全員元気を取り戻して、これにて一件落着だった。
「……なーに? 私の体より、シャルロットのくしゃみの方が強いってわけ?」
アンジェラは不満そうだった。