どきどきはどこからくるの

 アンジェラはデュランの事が好きである。それはもはや周知の事実で、色恋沙汰にてんで興味の無いデュランすら、それとなくは感付いていた。アンジェラも隠すつもりは無く、自ら公言するほどでは無いものの、噂になっても否定はしない。積極的な彼女は、しばしばデュランの家に押し掛け、女房のように世話を焼くようになった。ステラおばさんの家事を手伝い、デュランの送り迎えをし、ウェンディの相手をして、そのまめまめしさに、周囲、特にアルテナの人々は驚くばかりだった。デュランの方は、面倒くさそうな態度を見せるものの、アンジェラを拒絶したりはしない。フォルセナくんだりまでやって来て、何くれと無く世話を焼いてくれるアンジェラに、感謝の意を示すこともしばしばである。それで二人は十分満足して、暫くは平和に過ごしていた。
 変化は唐突に訪れた。その日のアンジェラは、シャルロットと一緒に、ローラントのリースの部屋に招かれていた。リースはあまり奢侈な方では無いから、部屋は簡素でこじんまりとしている。小さなテーブルを三人で囲み、お茶をしながらのんびりと過ごしていた。今日のおやつは、ばあやの焼いたブラウニーである。マフィン型に入れて焼き、綺麗な二枚貝の形に焼き上がっている。焼きたてのブラウニーを食べながら、ふと、アンジェラが不満そうな顔をして、こう言ったのだった。
「私、デュランに家族だと思われてるみたいなの」
 それを聞いた相手方の二人は、良い事なのでは無いかと思った。しかし、アンジェラの表情を見、それが良くない事であるとすぐに気取った。リースは何と答えるべきか迷って、ええとと言った。
「それのなにが、ふまんなんでちか?」
 リースが上手い返答を思い付く前に、シャルロットが口を開いた。目線はブラウニーに釘付けである。
「かぞくって、いいもんじゃありまちぇんか。デュランしゃんにかぞくだとおもってもらえるなんて、しあわせなことでち」
 両親のいないシャルロットが言うには、少々重苦しい文句であったが、本人は飄々としている。アンジェラもそう深刻には捉えず、口を尖らせて言った。
「家族はいいけどさ……私は、デュランときょうだいになりたいわけじゃないの。もっとトクベツな関係がいいの」
「とくべつ……?」
 シャルロットは首を傾げて、漸くブラウニーから顔を上げた。アンジェラはフォークを唇に当て、婀娜っぽく目配せをした。
「ま、シャルロットにはわかんないだろうけど」
「わかるようにせつめーしなくちゃ、りかいのしよーがないでち」
 と言って、シャルロットは説明を求めたが、アンジェラにそのつもりは無い。
「リースはわかる? この気持ち」
 そう話を向けられて、リースは苦笑した。
「よくわからないかも……」
 リースは異性の知り合いが少ない。デュランと、ホークアイと、ケヴィンと、それくらいである。長い旅を経て、三人とは家族ぐるみの付き合いをしており、お互い兄弟姉妹のように大切に思っている。リースはそれで満足しているし、それ以上の素晴らしい関係は無いと思っている。しかしアンジェラは、それ以上を求める気持ちがあるのだった。
「なんて言えばいいのかしらね……」
 アンジェラは溜息をついて、ブラウニーをフォークでつつき始めた。ばあやの焼き加減は絶妙で、さくさくした香ばしい生地の中に、とろりとした濃厚なチョコレートソースが閉じ込められている。焼きたてだから熱々で、シャルロットはふうふう言いながら一生懸命頬張っているが、アンジェラはほんの一口しか手を付けていなかった。それをフォークで崩すものだから、折角のソースが皿に零れてしまい、冷えて固まり始めていた。アンジェラはそれにも気付かず、無心につつき続けている。
「好きな女の子が近くにいたら、ふつうはドキドキするでしょ?でも、デュランは全然ドキドキしないみたいなの。それって、私の事をなんとも思ってないって事じゃない?」
 アンジェラは女の子らしい表現で、自らの不満を訴えた。それならリースにも理解出来た。要するに恋愛の悩み事だった。
「デュランしゃんがどきどきするのは、びっくりしたときと、しにそーなときだけでちよ」
 シャルロットは未だ良く分かっていないながら、そんな事を言った。デュランは恋愛に興味が無い。それどころか、異性に対する感情が絶無であると言っても良い。デュランはぶっきらぼうで喧嘩っ早くて、初めて会う人を萎縮させかねない性格であるが、ああ見えて異性からの評判は悪くない。ローラントのアマゾネスからは一目置かれ、アルテナのマジシャンから好かれている。しかし、デュラン当人は、種々の評判よりも英雄王陛下の評価を至上としている。彼の人生の中心には英雄王とフォルセナ国があり、他の一切は周囲を巡る星々のようなものだった。彼が落ち着いてフォルセナ以外に目を向けられるようになるには、英雄王から騎士に叙されるのを待つしか無いのだろう。しかし、アンジェラの不満はそこにある。アンジェラはデュランから、フォルセナより自分を優先して貰えるほどの愛情を受けたいと欲しているのだ。幼い頃から愛情に飢えていたアンジェラは、そうしたところで、愛情の大きさを比べてしまわずにはいられないのだった。
「……それで、私、気がついたの。デュランの私に対する態度って、おばさまとウェンディちゃんにする態度と同じなんだって」
 アンジェラは机をどんと叩こうとしたが、はしたないから、フォークの柄で机を優しく叩くに留めておいた。それが彼女の言う不満に繋がるのだった。そもそも、デュランの身近には女性が多い。女家族が二人いて、アンジェラとシャルロットがいて、リースもいる。デュランからは、それらが一緒くたに女として扱われている。特別も何も無く、彼にとっては全員が近しい女性なのだった。其処まで聞いて、漸くリースも不満の全容が見えてきた。黙ってうんうんと頷いていると、アンジェラは心の拠り所を得たとばかり、更にぶつぶつと文句を言った。
「不公平じゃない? デュランは全然ドキドキしないのに、私ばっかり……」
「アンジェラしゃんは、デュランしゃんに、どきどきするんでちか?」
 アンジェラの不平不満を遮って、シャルロットが聞いた。すると、アンジェラが目を丸くした。ややあって、ほっぺを赤くし、またブラウニーをつつき始める。
「……ヒミツ」
 小さな声でそう言ったのを聞き、リースはちょっと笑いそうになった。アンジェラは今まさに、本人の憧れていた素敵な恋愛をしている真っ最中なのだった。アンジェラのデュランに対する態度は、傍目からは以前と一向変わらず、寧ろ積極的なように見えるのだが、内心彼女はどきまぎしていたのである。
「どうしたら、デュランをドキドキさせられるのかしら……」
 アンジェラは頬杖を突き、ついに考え込んでしまった。
「おっきいこえで、わっ!! っていえば、どきどきしまち」
 シャルロットの頓珍漢な助言も耳に入らず、アンジェラは憂い顔で窓に視線をやった。リースにとっても難問である。デュランに恋のどきどきを味わわせるなど、アンジェラを逞しい男性に変える事くらい、到底不可能な芸当に思える。リースは考えて、文通から始めてみてはどうかと思い付いたが、デュランが筆不精だった事を思い出した。
「やっぱり、おいろけ攻撃かなあ……」
 思い詰めたアンジェラは、そんな事を言い出した。しかし、アンジェラは奔放なように見えて、厳格に躾けられて育った王女である。投げキスをしたり、ふくよかな体をちらりと見せる以上の真似は出来なかった。第一、デュランは女性に興味が無い。みっともないからやめろと怒られるのが関の山だった。
「アンジェラしゃん、それ、もらっていい?」
 シャルロットは自分のブラウニーを食べてしまい、アンジェラのぐずぐずに崩れたそれに目を付けた。何だか良く分からないから、アンジェラの悩みよりおやつの方がよっぽど重要なのである。アンジェラは漸くブラウニーに目をやって、自分がすっかりつつき倒してしまった事に気が付いた。
「あ、ごめん、ぐちゃぐちゃだけど……」
「いいでちよ。なやめるせーしょーねんにめんじて、ゆるしてあげまち」
 と、シャルロットはえらそうな顔で首を振り、アンジェラの皿を自分の方へ引き寄せた。
 翌日、リースの元をホークアイとケヴィンが訪ねてきた。今日のおやつは、ばあやの作ったマフィンである。白いココット型に入れ、ふっくらと焼き上げたものだった。三人でおやつを食べながら、テーブルを囲んで話をしている内、話題は自然と昨日の件へ向けられた。二人は男性だから、デュランの気持ちが分かるだろうかと思い、リースは聞いてみる事にした。ケヴィンは混乱してしまい、頻りに首を傾げていたが、ホークアイは笑っていた。
「ドキドキ、なあ……。デュランにはむずかしいと思うよ」
「ドキドキ……?」
 ケヴィンは不思議そうにして、自分の胸に手を当てた。逞しい大胸筋の下には、十五歳の純真な心が収まっている。
「ドキドキ、してる……。カールも、ドキドキ」
 そう言って、ケヴィンは足元に屈み込み、カールの胸毛に手を突っ込んだ。ケヴィンとカールはいつも一緒にいる。ケヴィンが来ると言う事は、カールも来ると言う事である。まだ小さい狼の心音を聞いて、ケヴィンは何だか安心したらしい。暫く胸毛に手を入れていた。大人しいカールは、何をされても嫌がらなかった。
「ホークアイは、ドキドキした事がありますか?」
 ケヴィンには分からないようだから、リースはホークアイに尋ねた。
「うーん……」
 と、ホークアイはほっぺを掻いた。ややあって、何か閃いたらしい彼は、悪戯っぽくリースに笑い掛けた。
「リースがもうちょっと近くに来てくれたら、するかも」
「はい?」
 素直なリースは、言われるままにホークアイのところへ行った。席を立ち、ホークアイのそばへ近付く。ホークアイも机の方から、リースの方へ体を向けた。膝と膝が合わさるくらいの距離まで詰めて、リースは流石に近すぎるように思った。二人とはずっと一緒に旅をしてきた間柄だが、異性としてリースに最大限の配慮をしてくれていた。不用意に触ったり、こんなに近付いたりはしなかったのである。リースは半歩下がって、座っているホークアイを見下ろした。リースと同じくらい、ホークアイも困惑していた。
「……します?」
 と、リースは首を傾げてみた。長い金髪がさらりと揺れて、地面の方へ流れ落ちた。
「うーん……」
 ホークアイも首を傾げた。曖昧な微笑を浮かべながら、二人は複雑な気持ちになった。する、と答えれば、異性として意識している事になり、気まずい思いをする。しない、と答えても、まったく意識をしていないようで、相手に悪いような気がする。年頃のいとこ同士のようなもので、二人は何とも微妙な距離にあった。リースは三秒待ってから、そろそろと後へ下がり、元いた席に着いた。ホークアイもほっとしたようだった。
「……ケヴィンは、女の子にドキドキした事がある?」
 気まずい空気を払拭しようと、リースはケヴィンに話題を向けた。その頃には、ケヴィンも椅子に座っていた。カールと触れ合って、おやつを食べて、幸せそうな顔をしていたケヴィンは、忽ち表情を曇らせた。
「……女の子、ニガテ……」
 と、俯いてしまった。リースはそれで思い出したが、ケヴィンは人見知りで、初対面の相手にはなかなか話が出来ない少年だった。特に女性を相手にすると、好意的などきどきとは全く違った意味で、ひたすらどきまぎしてしまうのだった。仲間内で遊ぶ、人懐っこいケヴィンばかりを見ていたものだから、リースはすっかり忘れていた。そうしたわけで、三人はどちらかと言うと、アンジェラよりはデュランに近い感覚を持っているのだと判明したのだが、それで解決策が見出せるわけでは無かった。
「……オレ達じゃ、アンジェラの力になれそうもないな……」
 ホークアイがまたほっぺたを掻いた。
「そうですね……」
 リースも頷いた。何だか、この仲間達とこんな会話をするのは、変であるように感じた。六人でいつもくっ付いていたし、旅ではいつも一期一会の関係ばかりを築いていたから、恋愛事などまるで縁が無かったのである。ホークアイとリースは、六人の中では大人びた感覚を持つと言われる方だが、それでも恋だの愛だのと言う感情は考えた事が無かった。
「……でも、デュランがドキドキしてたら、なんかヘンじゃないか? あいつらしくないよ」
 にやりとしながら、ホークアイがそう言った。
「それは、デュランさんに失礼ですよ」
 口ではそう窘めつつ、リースもくすくす笑った。デュランは恐らく、アンジェラの求めるような恋に落ちる事は無いだろう。それがデュランなのだから仕方無い。デュランは彼なりのやり方で、アンジェラを大切にして、家族のように迎え入れるのだ。アンジェラもそれは分かっているのだろう。ただ、十九歳の複雑な乙女心は、それに異議を唱えて、どきどきする恋愛模様を演出してみたいと求めてしまうのだった。そうしてホークアイとリースが出したのは、自分達はデュラン達に干渉しないで、暖かく見守って行こうと言う結論だった。アンジェラはこれからもやきもきするのだろうが、その不満を自分達が聞いてあげれば、少しは彼女の心も晴れる筈だった。二人はそれで納得して、美味しいマフィンの続きを食べる事にした。小麦粉とバターを泡立てた卵白で膨らませたお菓子で、ふわふわして美味しい。カールもケヴィンから一かけら貰い、満足げに口の周りを舐めていた。アンジェラの悩みについては、それで話が終わったつもりだったが、ケヴィンは一人で考えていたらしい。マフィンを食べながら、ふと、こう言った。
「……オイラ、女の子にはドキドキしないけど……みんなといると、ドキドキする」
 ホークアイとリースが顔を上げ、彼の方を見た。ケヴィンの表情を見ると、はにかんだように、微笑を浮かべていた。
「いっぱい冒険して、いっぱい遊ぶ。ドキドキ、ワクワクする。しないか?」
 それを聞いて、ホークアイとリースも破顔した。
「するよ」
「するわ」
 二人の答えを聞き、ケヴィンもにっこりした。何ともケヴィンらしい言葉だった。恋愛の事は全然分からないけれど、仲間と一緒にいれば、楽しくて、幸せな気持ちを沢山味わえる。それは二人も同じだった。
 数日後、アンジェラはまたデュランの家に行った。暫く会いに行かないで、焦れたデュランがアルテナまで会いに来るのを待つつもりだったが、生憎彼は忙しい。だから拠無く、デュランをぎゃふんと言わせるべく、アンジェラの方から会いに行ったのだった。長閑なフォルセナの、勝手知ったる友達の家である。アンジェラは扉を開けて、ひょっこり顔を覗かせた。
「おばさま、おはよう!」
「おや、また来たのかい?」
 ステラおばさんとウェンディは丁度、朝食を取っているところだった。トマトのスープの良い香りがして、アンジェラも相伴に与ろうかと思ったが、その前に当初の目的を果たすのが先決だった。遠慮なく中へ上がり込み、食卓のそばへ近寄る。ウェンディもすっかり慣れたもので、アンジェラが来ても特別喜んだり歓迎するような事は無くなってきていた。
「おはよう、アンジェラお姉ちゃん」
「おはよう。おいしそうね」
 と、アンジェラはにっこり笑った。小生意気なシャルロットと違って、ウェンディは素直で良く懐いてくれる。アンジェラも妹のように可愛がっていた。
「お姉ちゃんも食べる?」
 と、ウェンディはステラおばさんに視線を送ったが、アンジェラは首を振った。
「悪いけど、デュランに用があるのよ。いるでしょ?」
「お兄ちゃんなら、まだ寝てるよ」
 夜番だったデュランは、今朝帰宅したばかりで、自室ですやすや眠っているところだった。普段のアンジェラならば、下でデュランが起きるのを待っているところだが、今日はとにかく、何とかしてあの男をどきどきさせようと奮起していた。故、遠慮無く二階へ上がり込み、ぐうぐう寝ているデュランの枕元に近付いた。
「どうやって起こそうかな……」
 アンジェラは顎に指を当て、どうしたものかと考えた。
敵と戦う時には、まず相手を知る事が肝要である。アンジェラはデュランの脇に手を突いて、顔をつくづく観察してみた。不機嫌そうに、口を引き結んでいる。彼は起きている時もこうした表情を浮かべることが多く、それが武骨で取っ付き辛い風貌を醸している。しかしアンジェラは、彼がそうではない事を知っている。デュランは良く表情が変わるものだし、十七歳の少年らしいところも沢山ある。デュランはアンジェラに対し、年上に見えないだの子供っぽいだのと言うけれど、それはデュランも同じだった。アンジェラはそんな事を考えて、少し笑った。アンジェラの笑う息遣いを感じてか、デュランは表情を和らげて、すやすやと眠り始めた。これでも歴戦の戦士であるデュランは、人の気配を感じると飛び起きる習性がある。しかし、家族や六人の仲間に対しては、気を許しているためか、近付いてもぐうぐう眠りこけている事が多かった。全く油断している相手を見、アンジェラはちょっと愉快な気分になった。
「魔法が使えればなあ……」
 この世界にまだマナが残ってさえいれば、枕に魔法を掛けて、デュランが飛び起きるような悪戯を仕掛ける事が出来る筈だった。そんな事を考えていると、殺気に気付いてか、デュランがはたと目を開けた。アンジェラは彼を覗き込むような姿勢でいたから、至近距離で目が合った。
「どわあっ!!」
 忽ち、デュランが飛び起きた。アンジェラが反射的に体を引っ込めなければ、額がぶつかって酷く痛い思いをするところだった。アンジェラも大層びっくりして、どぎまぎしながら身を縮めた。図らずも叩き起こされる形となったデュランは、何だか腹立たしそうな顔をして、アンジェラを半眼で見やった。
「びっくりしたあ……おまえ、何やってんだよ?」
「なんにもしてないわよ。デュランが勝手にびっくりしたんでしょ」
「おちおち寝てもいらんねえ……」
 ぶつくさ文句を言いながら、デュランはベッドの上にあぐらを掻いた。寝ている時は上着を脱いでいるから、やたらと逞しい半身が剥き出しになっている。アンジェラはお姫様なので、人の裸を見るような事はせず、デュランの顔の方に視線を合わせていた。
「……で、何の用?」
 と、デュランの方から話を振って来たから、アンジェラは先だって抱いている不満を、洗いざらい相手に伝える事にした。自分はどきどきする。しかし、デュランはどきどきしない。それは不公平であると。睡眠不足で不機嫌なデュランは、しかめ面をして聞いていた。聞かないと、アンジェラが怒ってだだを捏ねるのだ。
「オレにどうしろってんだよ?」
 無茶苦茶な言い分に、デュランは困惑して、ますますむっつりした顔になった。
「そんなのカンタンよ。ドキドキすればいいの」
 それが挑発的な態度に見えたアンジェラは、相手に負けまいと、気の強い顔で反撃した。
「今してたよ」
「そんなのじゃなくて! もっとステキなドキドキよ」
「ねむい……」
 眠いデュランは、いつもの癖で頭を掻き乱した。アンジェラは腕を組み、えらそうにデュランを見下ろす。
「ドキドキしたら、寝てもいいよ。ドキドキするまで寝かせないから」
 デュランは布団を被ろうとしたが、アンジェラが両手と尻で布団を押さえつけたせいで、失敗した。無視して横になろうにも、アンジェラがベッドのど真ん中に陣取っているから寝られない。アンジェラは布団を押さえながら、デュランをじっと睨めつけた。デュランも睨み返そうとしたが、その前に欠伸が出た。
「……そんなに言うなら、お前がさせてみろよ……」
 欠伸を噛み殺しつつ、デュランは面倒くさそうに言った。したら、アンジェラがきょとんとして、まじくじした。
「……どうやって?」
「そんなの知るか」
 と、デュランはそっぽを向いてしまった。しかして、彼をどきどきさせる方法を、アンジェラは一生懸命考え始めた。その隙に、ベッドと布団を取り返せないかと、デュランは好機を窺っていたが、いかんせんアンジェラはまだまだ踏ん張っていた。両手で布団を押さえつつ、アンジェラは長い事沈思黙考していたが、やがて閃いた。
「デュラン」
 と、アンジェラは靴を脱ぎ、ベッドの上にきちんと座った。妙にかしこまった態度に、デュランも布団を狙うのをやめ、彼女の事を見た。
「なんだよ」
 アンジェラは答えず、長い間デュランの顔を見上げていた。太陽が南の空へ昇り、デュランの部屋には暖かな日差しが差し込んでいる。開け放たれた窓からは、長閑なフォルセナの空気が流れ込む。時折、小鳥の囀りが聞こえるばかりで、静かだった。静寂の中、アンジェラの息を吸う音が、微かに聞こえた。
「……スキ」
 アンジェラは含羞みながら、デュランに聞こえるよう、はっきりと告げた。デュランは意外に思って、アンジェラの顔をまじまじと見た。アンジェラは頑張って、少しの間相手を見返していたが、段々顔が赤くなっていった。恥ずかしがったアンジェラは、足をベッドから下ろし、靴を履き始めた。
「……ドキドキした?」
 ブーツに足を通しながら、アンジェラはちらりとデュランの方を見た。対するデュランは、別段動じた素振りも無かった。
「したした。したよ。したから寝るわ」
 と、面倒くさそうにして、布団を引っ張り上げようとしたが、またしてもアンジェラに阻まれた。
「ぜったいウソでしょ!」
 アンジェラは忽ち怒り出し、憎らしげに布団を手で叩いた。
「ウソじゃねえよ……」
 相変わらず眠いデュランは、もはや欠伸を隠そうともしなかった。おざなりな態度に、アンジェラはますます怒って、紫の髪が逆立ちそうだった。
「ウソばっかり!」
 彼女は普段の羞恥心も忘れて、デュランの胸に手を当てた。寝ていたデュランは、いつもの通り、上に何も着ていない。分厚い胸板の下からは、全くいつも通りの脈動が感じられた。
「ほら、してない!」
 苛々したアンジェラは、デュランの胸をぐいぐい押したが、それくらいで相手はびくともしなかった。デュランは無理を通す男だが、流石の彼も、この場で鼓動を早める事は出来ない。どうしようもないから、アンジェラが落ち着くまで放っておく事にした。アンジェラは怒っていても、大抵の場合、すぐに興奮も収まってくるのである。気が済むまでぐいぐい押すと、アンジェラは意気消沈して、大きく溜息をついた。
「……デュランにも、この気持ちが伝わればいいのに」
 アンジェラはデュランの胸に手を当てたまま、ぽつりと呟いた。アンジェラの胸には、言葉には出来ないような、素敵な気持ちが詰まっている。こうしてもどかしく感じたり、腹が立ったりもするけれど、どきどきして、楽しくて幸せな気分にさせてくれるものだった。それをデュランにも感じて欲しい。この気持ちは、大切な仲間達とも、家族とも共有出来ない、デュランとアンジェラだけのものだった。
「……あのさ、くすぐったいんだけど」
 ふと、デュランが不服そうな顔をして言った。アンジェラはいつの間にか、心の奥を探ろうとしてか、デュランの胸をまさぐるようにして動かしていた。
「ごめん」
 お姫様のアンジェラは、異性に不用意に触れてはならないと躾けられている。恥ずかしがりながら、手を引っ込めた。デュランは相も変わらず、全く平然とした体で、眠そうに目を擦っていた。
「とにかく、話なら起きてから聞いてやるからさ。今は寝かせてくれ」
 寝る寝るとしつこく繰り返すデュランに、アンジェラはまた腹を立てた。緑の目を眇めて、相手を睥睨する。
「デュランって、戦う事と眠る事しか考えてないでしょ」
「食う事も考えてるよ。おやすみ!」
 と、デュランは布団を思い切り引っ張った。流石の膂力に、布団はアンジェラごと宙に跳ね上がり、空いた隙間にデュランが素早く体を潜り込ませた。飛び跳ねたアンジェラは、また布団の上に着地し、デュランの体を踏んづけないように端へ寄った。暫く黙って、恨みがましくデュランを睨みつけていたが、ふと、相手が目を開けた。
「おまえも寝るか?」
 と、デュランが布団を持ち上げ、人の入れるような空間を作った。アンジェラのほっぺが赤くなった。
「おことわり!」
 アンジェラははっきりと答え、あっかんべえのおまけも付けた。デュランはあっさりと引き下がり、忽ちすやすやと寝入ってしまった。
「なによ、人の気も知らないで……」
 アンジェラはぷりぷり怒りながら、紫の髪を手で梳いた。デュランはどうやら、アンジェラが自分の事を好きだとは知っているようだが、その好きの気持ちが、どのようなものかを知らないのだった。仲間に対する好きや、家族に対する好きと同じだと思っているのだ。だから、デュランはどきどきしない。家族のように思っているから、近付いても平気だし、一緒に眠る事さえも平気なのだった。アンジェラは、今のような気の置けない関係も良いと思っている。変に意識して、二人の距離が離れてしまうのは寂しい事である。しかし、時々は年頃の恋愛らしい気分を味わってみたいのだった。この複雑な気持ちは、単純なデュランには決して分からないのだろう。だから、アンジェラが一人で悶々とし続けなければならない。それが彼女には不公平だと感じるのだった。考えると、またデュランに腹が立ってくるから、アンジェラはベッドを離れ、窓の方へ行った。南の窓からは、平和なフォルセナの街並みが見え、その奥にはでこぼこしたモールベア高原が広がっていた。アルテナは春の帳を失い、随分と景色が変容してしまっているが、フォルセナは何一つとして変わらない。アンジェラはフォルセナが好きだった。穏やかで暖かいし、何だか懐かしいような感覚に捕らわれるのだ。窓枠に手を掛けて、ぼんやりと景色を眺めていると、波打つように起伏の激しい高原の遥か彼方に、点々のような人影があるのに気が付いた。
「……あ」
 目の良いアンジェラには良く見える。四人と一匹の仲間達が、フォルセナに向かって歩いているところだった。アンジェラは忍び笑いを漏らして、デュランに仕返しする絶好の機会だと考えた。叩き起こして、皆と遊びに連れ出すのだ。

2018.5.14