雪催いに銀の縁
ランスで雪合戦をした。
ロアーヌに住む若者達にとって、雪と言うのは滅多に見ない天候で、例え降っても、決して触れることの出来無いものだった。それが見渡す限り広がっているのだから、一同白い野面を大いに珍しがって、そこら中に足跡を付けて回った。一方、ハリードは全く興味が無く、冷え込まぬ内に宿を取ろうとはしゃぐ皆を追い立てていた。そうしたら、誰ともなく雪を丸めて投げ始めた。其処からは六人が揃って、雪合戦に夢中になってしまったのだった。やがてすっかり日も隠れ、全身雪だらけにして漸く、一行は暖かい宿に辿り着いた。
合戦の前衛は、溶け掛けた雪でずぶ濡れだったものの、着替えてしまえばちっとも寒くなかった。却って、後方にて一心不乱に雪玉を作ったモニカやサラの方が、体の芯から冷えてしまい、火の前から離れられずにいる。暖炉の前に椅子を持ち寄り、かじかんだ手をかざしていると、居間の方から詩人の調べが聞こえて来た。やがて、サラがハープに合わせて歌い出した。控え目であまり目立たないが、サラは文化的なものなら器用にこなす。エレンがユリアンらと遊んでいた時、トーマスにあれこれと教わった賜物である。モニカも合わせて歌い、つられてエレンも口ずさみ、そうして娘三人が可愛らしく歌っていたら、ちょっとハリードも交ざった。端の方でユリアンと一緒に、武器の手入れをしていたのだった。
ハリードは非常に歌が上手い。初めて披露したのはロアーヌ祝勝の夜、軽く酒も入ったせいで大いに盛り上がった。彼は冷静沈着なトルネードだと自負する節があり、実際そうあるように行動しているのだが、その根はかなりのロマンチストである。殆ど無意識で口を衝いたのか、控え目な調子で吟ずるのだが、それが却って聞く方の興味を引いた。
「冒険するより、詩人やってる方が稼げるんじゃないか?」
「やってたまるか」
ユリアンは結構真面目に提案したが、ハリードは酒場で投げ銭を貰う自分を想像し、即座に却下した。褐色のトルネードがそれでは恰好が付かない。乾布で丁寧に仕上げた、鏡の如く美しい刃に満足すると、窓の向こうに目を移した。
「聖王廟は灯りが点いたままか」
サラも窓辺に来て、雪の斑の向こう、森のあわいからほのぼの明らむ墓所を眺めた。木立が陰になっているところが、星が瞬くようで美しく見える。
「本当だ、きれい」
「行ってみるか?」
ハリードがそう言うと、サラは頷こうとしたものの、ちょっと俯いた。
「行きたいけど、でも、夜のお墓ってちょっと怖い……」
「守ってやるさ。何が出ようとカムシーンの敵じゃない」
「それなら安心ね」
冗談めかした口振りに、サラもくすくす笑って返した。姉の方を振り返る。
「お姉ちゃん、行ってくるね」
「待って。その格好じゃ寒いでしょ」
と、エレンが引き止めたが、サラはそのまま戸口の方へ歩いて行った。
「平気よ。暖炉で暖まって来たもん」
「あっそ。風邪ひいても知らないからね!」
口ではそう言いつつも、エレンは渋る妹を捕まえて、寒くないよう手袋やらマフラーやらで包んでやった。ころころに着ぶくれたサラを肩車すると、ハリードは雪見に出掛けて行った。
エレンはそれでも心配で、妹の後ろ影が見えないかと、窓際にて目を凝らしていた。モニカも隣に来て、寝台に腰掛け、二人して外を眺める。角が曇った硝子は、丸い形に透き通り、鏡のように彼女らを映す。其処に、ユリアンが上掛けを持って行った。
「寒くありませんか」
「大丈夫よ、ありがとう」
モニカは受け取った羽織を抱いたまま、ちらほら降りて来る雪に夢中である。その背後で、羽織を着せてやろうか止しておこうかと逡巡する姿があって、エレンは思わず失笑するところだった。
「きれいだね」
「ええ、本当に」
と、エレンもモニカも、雪に夢中になりながら話した。
「ロアーヌでは、見たことが無かったわ」
「あたしもポドールイで初めて見た。ロアーヌも、昔降ったことがあるらしいんだけどね」
「初めて聞いたわ。いつのお話?」
モニカに尋ねられ、エレンはちょっと上を向き、暫く考えてから答えた。
「サラが生まれた年。あたしもあんまり覚えてないけど、一年中寒くて、全然作物が育たなかったんだって」
「……凄かったよ。ヌシャート湖が凍り付くくらいの大雪だった」
ユリアンが口を添えた。モニカは何とも応えられず、そっとエレンを見上げる。彼にとってのその年は、決して忘れられない記憶があった。意外なことに、ユリアンは彼女にその出来事を伝えてあり、かつ話すほどに二人は近しくなっていたのである。エレンもモニカも、継ぐべき言葉を失って、暫く無言で窓硝子を見詰めた。外はやや降るようになり、粒の大きい泡雪が儚く舞い散った。
「こうしてちょっと降ってる分には、きれいだよな」
エレンは場所をユリアンに空けてやり、自分は暖炉のそばへ戻った。雪で濡れていた装備は乾いており、火の前から退かして、それぞれ持ち主の荷物入れに仕舞ってやった。
硝子の縁に、モニカが指を滑らせ文字を書く。ユリアンも書いて答える。遠目のエレンに内容こそ読めないものの、微笑ましいやり取りであることは窺える。笑み交わしていると、雪が窓を掠めて落ち、上手いこと邪魔をされた。やりとりの内容は、ユリアンが掌で掻き消してしまったため、二人以外には知れなかった。
「オレ達も行きませんか」
「ええ」
モニカにお誘いを受け入れられ、ユリアンは嬉しそうな顔で、エレンの方を振り返った。
「よし! エレンも行こう」
「あたしはいいよ。トムが一人になっちゃうもの」
それにエレンは、折角の二人きりを邪魔したく無かった。ユリアンは気落ちした様子も無く、厚着させようとするエレンに甘んじて世話を焼かれた。モニカも勿論例外で無く、くすぐったそうに笑いながら布巻きにされてしまった。二人の出て行く姿は、冬毛の小鳥が連れ立つようだった。
残ったエレンはすることも無くて、トーマスのところに行った。何でも出来る幼馴染みは、今では社長の職務までもを任されている。仕事があったのに、日がな一日遊んで潰してしまったため、その遅れを取り戻そうと今頑張っているのである。これについては誰もが申し訳無く思ってい、今まで構われずにそっとしておかれたのだった。やたらと荷物が多いと思えば、その殆どが書物と資料の類で、小さな机に山ほど積んであった。
「何か手伝うこと、ある?」
エレンが尋ねると、トーマスは紙面から目を離さずに答えた。
「大丈夫だよ。ありがとう」
取り敢えず座れよと、彼は其処で資料から目を移し、椅子を勧めて来た。言われるまま、エレンは大人しく隣に落ち着いた。彼女も仕事は好きな方だが、トムのように器用に何でも出来るわけでは無い。ついでに彼女は、自分が其処まで働き者では無いのだと思っていた。ユリアンはああ見えて仕事を趣味とする真面目な少年で、サラは子供なのだから手伝ってくれるだけでも十分有り難い。それと比べれば、自分など遊んでいるようなものだ。此処まで考えてふと、何の気なしにサラを子供扱いしていることに気付き、これでは嫌がられるのも無理は無い、と自分を改めた。
「……何だかな。あたし、全然役に立ってないみたい」
「良くやってくれてるよ」
ちょっとしたぼやきにも、トーマスは返事をしてくれた。
「ユリアンもサラも強くなっちゃって、今じゃすっかりお役御免よ。自分ではしっかりしてるつもりだったけど、あたしこそ皆がいなきゃ駄目みたい」
「珍しいな、エレンがそんなことを言うとは」
「本当にね」
誰しも何かしらの理由があって此処にいるのだ。ところがエレンの目的と言えば、皆でシノンに帰りたい、と言ったくらいの小さなものしか無かった。
「だからって、このまま家に帰るのも嫌だな……。いっそ、アビスゲートでも閉じてからにしようかな」
「大きく出たな」
「大したことないよ。みんなと同じだもの」
寂しがるエレンだが、同時に彼らが必ず帰ってくるであろう確信を持っていた。いかなる場所に辿り着き、いかなる宿命の相手に邂逅しようと、疲れて戻って来て、ほっと人心地のつく場所はシノンの他に無い。皆もエレンもそれを知っているのだ。しかしこのトーマスだけは、なまじ何でもこなす分、一度シノンを離れてしまえば、何処でもそのままやっていけそうな気がした。見聞を広めるとか何とか言う姿が容易に想像できるのだ。
「トムはどうするの?」
「そうだな……フルブライトさんの依頼が終わったら、シノンに帰ろうかと思うんだ」
「何、ピドナに残らないの?」
エレンがそう聞くと、トーマスは至極当然のように頷いた。
「残らないよ。気掛かりも無くなったことだし」
彼はミューズのことを指して言った。
「その時は、エレンも一緒に帰らないか?」
「そうね……そうする。きっとユリアンはモニカ様と行くだろうし、サラは一人で行きたいって言うし。あたしはシノンが好きだもの」
「オレもだよ。サラだってすぐに帰ってくるさ。あの子が反発するのは、エレンの足手まといになりたくないつもりもあるようだから」
エレンは反論しようと思ったが、それが兄貴分の言うことだったので、やめた。
「トムが言うなら、そうなのかな……」
トーマスは書き物に戻った。エレンは何とは無しにその横顔を眺め、眼鏡を通した世界がぼやけているのを奇妙に思った。小さい頃など、視力の良い皆にとってはその利便性が分からなかったため、それが変てこで珍しい玩具に見えて、しばしば借りて遊んだものだった。きっとトムには自分と違う世界が見えているのだろうと、エレンには何と無く感傷的に受け取られた。今ではトーマスだけでは無く、仲間達皆がそれぞれの世界に生きようとしているのだから、尚更だった。
エレンは小さな燭台を取り、窓辺に行って、出窓の縁のところに据えた。こうすると外からも綺麗で、帰って来る皆にも良く見えるだろう。蝋燭の灯りと、それが硝子に映る明かりと、二つの火影が揺れながら、降り積む雪を赤く染める。炉の温気は火照るくらいで、窓に凭れて景色を眺めていると、ひんやりした冷気が心地良く沁みた。こちらの硝子は良く見える。