たらちねの母に見ゆるは

 プルミエールは、養母ヌヴィエムの所へ会いに行くことにした。何と言う切っ掛けがあったわけでは無い。グスタフが従兄デーヴィドに会いに行く姿を見たり、ジニーの家に寄寓して、家族が仲睦まじく暮らしているのを見たりして、プルミエールなりに心が動かされ、ある日はたと訪ねるつもりになったのだった。さて何処へ行くかと言うと、プルミエールの生家は既に他人の所有地となっており、十五まで育ったラングフォルド邸も、すでに空き家となっていた。しかして義母の足跡を辿ってみると、ヌヴィエムはラングフォルド邸を引き払い、とある片田舎で隠居暮らしを始めていると言う話を聞いたので、プルミエールは辻馬車に乗り、長閑な田園地帯の屋敷を訪ねて行ったのだった。
 半日近くも車上で揺られ続け、プルミエールはすっかり参ってしまった。田舎の悪路は体を跳ね上げるようにがたがたと揺れ、気の休まる暇が無い。少々遠いが、やはり歩いて来た方が良かったかと思いつつ、御者に教えられ、漸く近付いて来た小さな屋敷を遠目に見やる。かつて義母が住んでいた屋敷とは打って変わって、ジニーの家より狭いくらいの、小ぢんまりとした家だった。先触れなどは出さず、本日いきなりの訪問であるから、もし義母が不在ならば帰ろうと思っていた。プルミエールにしては珍しく、義母と会うのに緊張していたのである。馬車を降り、御者に駄賃を払ってから、身に馴染んだ槍を携え、屋敷に続く細い小道を歩いて行く。玄関口で襟を正し、ごめんください、と案内を乞うと、年嵩のメイドが出て来て、プルミエールを見るなり目を丸くした。
「まあ、プルミエールお嬢さま」
「ごきげんよう、オジエ」
 オジエと言う、長らくラングフォルド家に仕えていた女中だった。屋敷を引き払う際ヌヴィエムに付いて来たらしい。彼女は委細心得たりと言った風で、奥様は裏のお庭にいますよと、プルミエールを案内してくれた。小さな屋敷は、漆喰の真っ白な壁に煉瓦の屋根を乗せていて、もしもプルミエールが終の棲家を探すとしたならば、こうした家を選ぶだろうと思わせる、瀟洒で落ち着いた雰囲気を醸している。中には入らず、プルミエールと女中は玄関から裏手に回って、垣根に囲まれた小さな庭へ歩いて行った。屋敷の裏庭は、ヌヴィエムの好きな紅白のつるばらと、幾つかの樹木と、良い香りのするハーブが植えてあった。オジエの他に使用人はいないようなので、どちらかが手入れをしているのだろう。いずれも青々とした葉を茂らせていた。プルミエールの義母ヌヴィエムは、とねりこの木の下のテーブルで、縫い物をしている所だった。以前は肩のくらいで切り揃えていた赤毛を、少し伸ばしたようで、高い位置で綺麗に結い上げてある。遠目からでは、有閑の貴婦人と言った風に見えた。
「奥さま、プルミエールお嬢さまがいらっしゃいましたよ」
 オジエにそう声を掛けられて、静かに顔を上げたヌヴィエムは、見違えるほど美しい女性の顔をしていた。プルミエールが、自分には無いものだと思っている、慈愛に満ちた母親の面差しだった。これが、復讐と言う狂気を失った、ヌヴィエムお義母様本来の姿なのだろうと、プルミエールは自然とその変貌を受け入れた。ヌヴィエムは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに落ち着いた、穏やかな表情を取り戻した。
「プルミエール」
 と、呼ぶ声は昔と変わらぬものだった。凛然として、知性を湛えた声様である。
「お久しぶりです、ヌヴィエムお義母さま」
 挨拶したきり、緊張していたプルミエールは、いつに無く言葉に迷ってしまった。何を伝えるべきか、何の話をすべきなのかは、前以て決めてあったのに、いざ母親を前にしてみると、その全てが頭から抜け落ちてしまった。余りにも義母が凪いだ様子だったので、かつての出来事を持ち出し、その心に細波を立てるのが憚られたのである。ヌヴィエムは微笑みを浮かべ、気遅れした様子の娘を打ち守っていた。
「座りなさい」
 と、優雅な所作で促され、プルミエールは黙したまま、持っていた槍を木に立て掛けてから、母の向かいの椅子に座った。そよ風が吹くと、とねりこの葉がさらさらと揺れ、涼やかで居心地の良い場所である。
「お茶の用意をして参りますね」
 オジエは気を利かせたのか、そう言い置いて、勝手口から屋敷に引っ込んだ。そうして、母子二人になった。
「刺繍を始めたのよ」
 プルミエールが何か言う前に、ヌヴィエムは持っていたハンカチをテーブルに置き、刺繍針を針刺しに休めた。白いハンカチに、葡萄の蔦と、青い鳥の頭までが縫い付けてある。まだ上手には出来ないのだけれど、と話す義母に、プルミエールは首を振った。
「いえ、お上手だと思います」
 ヌヴィエムは元々器用な女性だから、刺繍もそつ無くこなしていた。其処から始まって、いつから刺繍をやり出したのか、一つ良く出来たのがあるから、プルミエールにあげる、などと、幾つか言葉のやりとりをした。ヌヴィエムは打ち解けた様子で喋るが、プルミエールは胸が閊えたように、上手い言葉を返せなかった。
「……お義母さま」
 一頻り話し終えた後、プルミエールは勇気を奮って、愛想も素っ気も無いとまで言われる、生来の意志の強さを取り戻した。これを伝えなければ、義母と和やかに会話をする資格など無いのだ。
「私は、お義母さまにおわびを言いに参りました。ひどい事を言って……お義母さまを否定するような事を言って、ごめんなさい」
「ああ、そんな事」
 頭を下げた娘に、ヌヴィエムは何でも無いように言った。聡明な彼女は、どうして娘がよそよそしい態度を取っていたのか、それで察したらしい。
「そんな事を気にしていたのね」
 と、ヌヴィエムは微笑しながら言った。プルミエールは、エッグとの戦いを終えた後、ナイツの家で世話になっていた。其処でヴァージニアの母ディアナに、義母と自分の関係を話したことがあった。すると、ディアナは今のヌヴィエムのように微笑みながら、子供に何を言われたって、母親は全て赦してしまうものなのよ、と答えたのだった。事実、ディアナは家出をして出戻って来た娘に対し、辛いことは無かったか、ちゃんとごはんは食べていたかと、娘の帰宅を喜んで、心配ばかりを口にしていた。母親とはそう言うものらしい。しかし、何事も白黒付けたがる性分のプルミエールは、母親から赦しを貰わねば気が休まらないと思い、尚も言葉を続けようとした。
「お義母さま、私は……」
「プルミエール、私は、あなたの言った事が正しかったのだと分かったわ」
 ヌヴィエムは静かな、しかし有無を言わせぬ語調で言った。プルミエールは自分の言った言葉を良く覚えている。ヤーデ伯憎しで世界中を駆け回って、何が残ったのかと。義母の持つ矜持が戦争を起こし、沢山の命を奪って行ったのだと。母の半生を否定する、余りにも酷薄な言葉で、プルミエールの心に滓のように溜まっていたものだった。しかし、ヌヴィエムはそれが正当だったと言う。
「チャールズが死んでも、私の心には何の感情も浮かばなかった。あなたを失った事への後悔と、世界を擾乱に陥れた後悔が募るばかりだった」
 後悔しても、プルミエールが戻るわけでは無い。それを悟ったヌヴィエムは、何もかも空しくなってしまったけれど、せめて自分の行いにけじめを付けようと、旧臣を動かしてヤーデ伯に加勢した。其処では口にしなかったが、ヌヴィエムが肉親であるオート候家の者を次々と断罪し、処刑した事も、プルミエールは知っている。耳汚しになると思って娘には語らないのだろう。まるで憑き物が落ちたかのように穏やかなヌヴィエムは、何もかもを失って、空っぽになってしまった女性の姿でもあった。
「プルミエール、もう行きなさい」
 話を終えると、ヌヴィエムは以前のような、決然とした声を出した。
「もう一度会えただけでもう十分よ。あなたの人生に、もう私は必要のないものであるはず。行きなさい」
 と、突き放すような物言いをした。ヌヴィエムは元々、一族と肉親を何よりも大切に思っていた人である。だから、オート侯爵家再興を成し遂げようと躍起になって、自身の血を謗ったチャールズを深く憎んだ。その大切な肉親を、自らの手により失ったヌヴィエムは、終生自身を罰して生きようとしているのだった。だから娘と顔を合わせる資格など無いと思っていて、プルミエールにもう二度と会うつもりは無いと言うのである。義母の言葉は、時に娘であるプルミエールをして圧倒するほどであるが、今のプルミエールに従うつもりは無い。怖めず臆せず、はたと義母を見据えた。
「お義母さま、私はお義母さまにおわびを言いに来たんです」
 口にしたのは二度目の反抗だった。
「私は、お義母さまの生き方を否定しません。私を育ててくれた人の生き方ですもの、否定できるはずがない。その生き方が間違っていたとしても、お義母さまにはそれを正す力があった」
 プルミエールは、今ならば義母の気持ちが理解出来るような気がした。かつての人々は、義母のように、争いの中で自らの権勢を振るい、自らの領土を守ることしか出来なかったのだ。サンダイルの歴史は争いによって形作られていた。其処から時代が移り変わり、人々は対話によって互いを尊重し合うことを知った。その時代の趨勢の中で、義母は旧式のやり方に則って、一族の領土と誇りを守ろうとしたに過ぎなかった。そのヌヴィエムも、旧式の筆法を捨て、新たな時代に迎合したことを、行動で示している。
「だから、私はこれからも、お義母さまに会いに来ます。私達はただ、生き方の違う人間だと言うだけなんです」
 プルミエールはきっぱりとそう言って、改めて義母の目を見詰めた。胸が清々として、これで漸く臆面無く義母と向かい合えるように思う。一方のヌヴィエムは、聡明な彼女にしては、全く予想だにしていなかったと言った風で、娘のことをまじまじと見詰めた。プルミエールはいつものように、真っすぐな目で義母を見返す。
「……私に、その資格があるのかしら?」
 義母から迷いの言葉が出るのは、初めてのことだった。
「きっと」
 と、プルミエールは自然と笑みを浮かべた。このヌヴィエムは、父から見捨てられた自分を拾い上げ、蒲柳の身だった母の代わり、此処まで大切に育ててくれた人だった。プルミエールは、人から犬の子と呼ばれたり、子沢山の家の子と軽んじられたことが無い。それは、ヌヴィエムが口さがない世の人々からプルミエールを守ってくれたお陰だった。厳しいながら、愛情深い姉であり、母だったのである。そんな母に対し、プルミエールが返せることと言えば、こうして会いに来て、共に時間を過ごすくらいであった。しかし、母にとっては、ただそれだけで十分なのである。プルミエールにもそれが分かっていた。
「お待たせしてごめんなさいね。お茶が入りましたよ」
 待ち設けていたように、オジエが勝手口からやって来た。持って来たトレイから、りんごの甘い馥郁たる香りがする。紅茶に皮や果肉を漬けた、アップルティーのようだった。オジエは手慣れた所作でお茶を注ぎ、プルミエールとヌヴィエムにカップを渡した。
「ありがとう」
 と、親子の声が重なった。温かい紅茶は、りんごと砂糖の甘みが舌に心地良く、心を落ち着かせる。お茶菓子はりんごのタルトで、さりさりとしたりんごの果肉が甘やかで美味しい。お茶を頂いている間、プルミエールは家を出てからの話をした。あれだけの旅路を経ていながら、義母にはまだ何一つ伝えていないのである。初めの三年は東大陸で冒険をし、どうせならば誰も知る者の無い新天地に向かおうと思って、ノースゲートに向かったこと、道中の船でジニーと言う女の子を拾ったこと、ロベルトとグスタフに出会ったこと、ウィリアム老やミーティア嬢が旅の仲間に加わったこと、エッグのこと。辛かったことや嬉しかったことなど、旅の中では胸に秘めたきり、決して口には出さなかったことも、ヌヴィエムの前では心安立てに披瀝した。あまり道筋の整っていない、不調法な語り口だったが、ヌヴィエムは疑問を差し挟まずに聞いてくれた。今はどうしているかと聞かれて、ジニーとウィリアム老に言われるまま、ナイツの家に世話になっていると伝えると、ヌヴィエムは安心していた。やはり娘がどう暮らしているのか心配だったらしい。話が長くなり、何度もお茶のお代わりを貰いながら、プルミエールはタルトを二切れもご馳走になってしまった。お腹がくちくなったのを見て、ヌヴィエムはオジエにトレイを下げるように言う。
「オジエ、私の刺繍を持ってきてくれる? プルミエールに渡したいものがあるの」
 片付けをするオジエに、ヌヴィエムが言い付けた。
「分かりました」
 温順なメイドは、プルミエールの話に容喙することも無く、母と同じに黙って聞いていてくれた。オジエはプルミエールを労うようににっこりして、また勝手口の方に入って行った。彼女もプルミエールのことを心配してくれていたのだ。初めて訪ねた場所であるが、此処は間違い無くプルミエールの家と呼べる場所だった。
「お義母さま。ハンカチですが、三ついただけますか? きっと、ジニーとミーティアさんが喜ぶと思うので」
 先程出た名前を口にすると、ヌヴィエムが微笑んだ。
「あなたのお友達ね」
「ええ」
 と、プルミエールも笑って返した。先程の話では、旅の梗概にしか触れていないので、彼女達の人となりはまだ話していなかった。ジニーは甘えん坊で呑気者で、時にプルミエールを困らせることがあったり、ミーティアは自分より年上で、真面目でしっかりしている割に、猪突猛進で妙に抜けているところがあると言うことも、義母に知って貰いたい。ロベルトと言う、単純だが気の良い兄貴分のことも、ヤーデ伯爵家の子であるグスタフと仲間同士になったことも、今の義母が聞いたならば喜んでくれるだろう。話すことは沢山あるのだ。

2016.12.18