おまけ
「……ちくしょう、まだしびれてやがる」
デュランは布団から身を起こしたが、あまりのだるさに引っくり返った。此処二三日の、食事すら取るのが精一杯だった痺れよりはずっとましだが、傭兵業が本分の少年にとって、体の自由が利かぬと言うのは耐え難いものだった。しかし何と言っても自業自得である。デュランが腹を立てるのは、まんまと闇の力なんかに引き摺り込まれた自分自身と、痺れ薬如きにしてやられる脆弱さに対してだった。転がっていたら少し良くなり、起きて布団の上に座っていると、階段を上がって来る音がした。ステラおばさんだった。
「おや、起きてたのかい。おはよう」
「おはよう。ウェンディは?」
「あの子なら、さっき学校に行ったよ」
と言う事は、今はそれなりの時間らしい。昨晩も妹には心配を掛けてしまい、デュランは元気になった姿を見せてやりたかったのだが、いかんせん起きるのが遅かった。おばさんは水差しの古い水を捨て、汲んだばかりの冷たい水を注いだ。
「朝ごはんできてるよ。食べられるかい?」
「食べる」
と、一往は答えたものの、いつもより食べる気がしなかった。
「……動かないと、あんまりハラ減らねえんだな」
「あんた、今まで病気した事ないからねえ」
ステラおばさんも安心したようで、笑いながら布団のそばに来、着替えを渡してくれた。デュランは大人しく着替えつつ、おばさんに尋ねた。
「これ、いつになったら治んの? 医者のヤツ、何か言ってた?」
「お医者様が言うには、安静にして、一月ぐらいはかかるってよ」
ほんの数日程度のような口調で返され、そうかと一瞬納得し掛けたデュランだが、忽ちぎょっとした。
「そんなに!? 剣術大会間に合わねえじゃん!」
「しょうがないだろ。今は治す事だけ考えな」
と、呆れて返された。基本的にデュランのやる事に干渉せず、多少の怪我にも動じない伯母であるが、今度ばかりは流石に見逃してくれなかった。剣突を食ったのは主にデュランだが、倒れた彼が家まで運ばれて来た際、無茶をした仲間達も纏めてお説教されたらしい。おばさんは自分の子供だけで無く、その友達の事も大いに心配していたのだった。義理堅い五人と一匹の仲間達は、どう考えてもデュランが悪いにも拘らず、責任を感じて連日お見舞いに訪れ、中には付きっ切りで看病してくれるようなのもいた。
「おば様、デュラン起きた?」
アンジェラが上がって来た。部屋を覗き、デュランと目が合うと、笑って手を振る。
「ああ。だいぶよくなったみたいだよ」
「そう。よかった」
おばさんの言葉に、アンジェラは心から安堵したようだった。ステラおばさんは甥の脱ぎ捨てた服を拾い上げ、彼女の所へ行った。
「あたし、これから買い物に行ってくるよ。悪いけど、この子の事見てておくれ」
「はーい」
アンジェラが元気良く手を上げた。続いておばさんはデュランを向く。
「デュラン、何か欲しいものは?」
「しびれが治るもの!」
「あったら苦労しないよ」
ステラおばさんは笑いながら、アンジェラに両三の頼み事を言い付け、居間に下りて行った。残されたアンジェラは、心配そうにデュランのそばへ寄って来る。
「だいじょうぶ? 痛いところとかない?」
「ああ。しびれる感じも、もうほとんど残ってねえよ」
デュランが寝込んだ直接の原因は彼女の毒薬であるが、実際は薬にやられただけで無く、蓄積した疲労と怪我の影響もあった。考えてみれば、昼夜を問わず魔物の巣を彷徨いながら戦い続けていたわけで、その間は碌に治療も休息も取っていなかったのだった。故、デュランは極力薬の事には触れず、アンジェラを気に病ませないように心掛けていた。相手も分かっているらしく、殊更に落ち込んだ素振りは見せず、いつも通りの態度でいる。
「お医者様は、一週間ぐらいは全然動けないって言ってたけど……。デュランはじょうぶだし、もっと早く治るのかもね」
「この調子なら、剣術大会にも間に合うよな。よっしゃ、そうと決まればだ!」
と、布団から飛び降り、机の兜を取ろうとした。が、アンジェラに敢え無く没収されてしまい、ベッドに押し戻された。
「ちょっと、どこ行くつもり?」
「訓練場だよ。すっかり腕がなまっちまった」
デュランが答えると、彼女は忽ち怖い顔をした。
「ダメ! 寝てなさい!」
「じゃあ、素振りは?」
「ダメ!」
「外走るのは?」
「ダメ」
「散歩」
「ダメ」
「剣の手入れ」
「ダメ」
「じゃあ寝てる」
「ダメ……あ、違う!」
「やーい、引っかかってやんの!」
指差して笑っていると、アンジェラが頬を真っ赤にして詰め寄って来、流石のデュランもおののいた。
「……待て、やめろ! 病人を殴るつもりか!?」
おっかなびっくりで後ずさるデュランに、アンジェラは大きく嘆息し、額を指で弾くだけで済ませた。
「言っとくけど、私、人をぶった事なんて一度もないわよ。お姫様育ちで、あんたと違ってオトナだから」
と、今度は額を人差し指でつついて来た。肩透かしを食らったデュランは、半眼で相手を見やった。
「……殴らなくても、突き飛ばすのはいいのかよ?」
「あれはデュランのせいでしょ。ふつう、知らない相手の寝顔をのぞく人がいる?」
最初にジャドで会った頃の出来事を、二人とも良く覚えているのだった。デュランとしては、あんな状況で呑気に寝こけている奴の顔を拝んでやろうと覗いたのだが、アルテナの刺客に怯えていたアンジェラは内心戦々恐々だったのだろう。後で本人に聞いたら、疲れて寝ていた所にいきなり戦士然とした男が現れ、相当肝を潰したらしい。アンジェラはデュランを怖そうな男だと思い、デュランも彼女をおっかない女だと思ったのだった。お互い第一印象は最悪に近かったわけだが、それがこうまで長い付き合いになるとは思ってもみなかった。
アンジェラは窓の方へ行き、硝子を開け放して風が入るようにした。外は雲の少ない晴天で、絶好の訓練日和である。戦闘狂癖はすっかり影を潜め、戦いたいとは思わないものの、部屋でじっとしているのは退屈で堪らない。デュランはベッドの端に座り直し、足を下ろしてぶらぶらさせた。外を眺めるアンジェラに声を掛ける。
「……お前、どっか行かねえのか?」
「行ってほしい?」
と、アンジェラは気を遣った風で反問した。
「そうじゃないけどさ。ここにいたってヒマだろうと思ったんだよ」
「ヒマじゃないよ。病気の時って、一人でいるとさびしくなっちゃうでしょ」
別にデュランは寂しくも何とも無いが、相手の表情が不思議と優しげだったので、口にするのはやめておいた。アンジェラは彼の隣に座り、手袋を脱いでりんごを手に取った。先程ステラおばさんに言われた、食欲が無さそうだから軽いものでも食べさせておけとの言いつけを、律儀に守るつもりらしい。机上からナイフを取り、果実の真上から刃を入れようとした。
「切らなくていいよ。そのままくれ」
デュランが手招きすると、彼女は悪戯っぽく笑った。
「うさぎさんリンゴ作るの」
「……オレいらねえぞ、そんなガキっぽい食いもん」
「じゃ、私が食べるからいいよ。デュランは指くわえて見てなさい」
それきり、アンジェラの意識はりんごに集中した。彼女とリースは、どうやらホークアイから教わったらしく、ナイフの扱いが手慣れている。りんごを櫛型に切り分け、一つだけ取って他は皿に乗せておく。芯の部分を落とし、背中に切り目を入れ、半分だけ皮を剥くと、赤い耳のうさぎが完成した。
「はい、あーん」
と、食べさせようとする手からりんごを奪い取り、デュランは丸ごと口に放り込んだ。少し固めのりんごで、汁気は少ないが甘味がたっぷり詰まっていた。
「……うん、うまい」
「でしょ」
アンジェラもにこにこしながら、皮の切れ端を口にした。
「食欲出た? じゃあ、朝ごはん持ってくるね」
「後でいいよ。それより、リンゴくれ」
この時期外れの果物は、エルランドの雪の中で保存されていたそうで、体に良いからと仲間達が買ってきてくれたのだった。デュランは皮付きのまま食べようとしたのだが、当然アンジェラが許す筈も無く、うさぎの形に仕上げるまで触らせようともしなかった。長閑な春の室内に、りんごを切るしゃくしゃく言う音が響いた。
「……私、あんまり病気しないこどもだったんだけど、時々、そんな風に寝込んじゃった事があるんだ」
アンジェラが手元を見ながら、控え目に切り出した。
「ふーん。ヒマだったろ」
「ぜんぜん!」
と、満面の笑みを浮かべる。
「だって、お母様がお見舞いにきてくれるんだよ。お母様、忙しいはずなのに、私が眠るまでずっとそばにいてくれるの」
彼女が言うには、病気で寝ている日には、理の女王が部屋を尋ねて来て、優しく声を掛けたり触れてくれたりしたらしい。仮病を使った日には来てくれないが、本当に具合が悪い時には必ずお見舞いに訪れる。幼い頃から寂しい思いをし続けていた彼女にとり、母親が自分を忘れていない事、不安な時にそばにいてくれると言う事は、何よりも有り難く感じたのだった。アンジェラは郷愁に目を細めながら、そんなような事を話した。
「そうか。……うれしいんだろうな、そういうのって」
「うん」
アンジェラは少し含羞んだ。うさぎがまた一つ完成し、皿に乗せられる。
「デュランだってあるでしょ? カゼひいちゃった時、お母様やおば様に、すごくやさしくしてもらったんじゃない?」
「ねえよ」
即答したら、何故かアンジェラは酷く衝撃を受けたようだった。ナイフの手が止まり、驚愕の眼差しでデュランを見る。
「……うそでしょ?」
「ほんとだよ。自慢じゃねえが、オレ、今まで病気一つした事ないんだぜ」
「あ、そっちか……」
拍子抜けした顔で、彼女はりんごの皿を取った。全て完成したらしい。ようやく手を付ける事を許され、デュランが一遍に二つ頬張る傍ら、アンジェラはりんごを尻尾の方から食べ始めた。りんごの美味しさに気を取り直し、再び機嫌良さそうな笑みを浮かべる。
「とにかく、病気の日っていうのは、みんなにやさしくしてもらえる日なのよ。だから、私もデュランにやさしくしてあげるね」
「別にいいって……」
そう言い掛けたが、デュランは途中で考え直した。
「……なら、やさしくすると思って、一つ頼みを聞いてほしい」
「なに?」
「剣術の訓練させてくれ」
「あんたもけっこうしつこいわね……」
アンジェラが眉間に手をやった。驕り高ぶるつもりは無いが、聖剣の勇者にして大陸一の剣士と名高いデュランは、今回の出場を周囲に期待されているのだった。それが参加を辞退したり、あるいは万一負けるような事があれば、フォルセナや英雄王陛下の沽券にさえ関わって来る。そう考えると気持ちが焦れて仕方無いのだった。真摯に訴えると、大袈裟に肩を竦めたものの、アンジェラの反応は悪くなかった。値踏みするようにデュランを見詰め、少し息をついた。
「……ま、その様子ならだいじょうぶそうよね。おば様にお願いしてみましょ」
「やりっ! やっぱアンジェラはやっさしいな!」
「調子がいいんだから」
大喜びのデュランに、アンジェラは呆れ半ば、仕方無いと言った風に苦笑した。いつの間にか痺れもすっかり治まっており、そうと決まればいても立ってもいられず、早速支度を始めようとしたが、出掛けるのはおばさんに許可を取ってからだと、またしても捕まってしまった。大人しく座り直し、最後のりんごを平らげたが、浮ついた気分はどうしても抑え切れず、また足をぶらぶらさせた。
「優勝したら、みんなにうまいもんでもおごってやるよ」
「ほんと?」
と、アンジェラは緑の目を輝かせた。
「私達からも、デュランにお祝いしてあげるからね。楽しみにしてて」
「そうか。だったら、なおさら負けるわけにはいかないな」
アンジェラはどんな美味しいものをご馳走して貰えるのか、デュランはどんなお祝いをして貰えるのかと、二人がそれぞれ思いを馳せている内、外から話し声がするのに気が付いた。アンジェラが窓の方へ行き、ちょっと外を見た途端、食い付くように身を乗り出した。
「ねえデュラン! みんなが来てくれたよ!」
「もう来たのか?」
「だって、もうお昼だもん。おーい!」
彼女はすっかり外に夢中で、仲間達に手を振った。デュランがその頭上から外を眺めやれば、町の大通りで四人と一匹が手や尻尾を振っているのが見えた。デュランが姿を見せると、喜んで一層わいわいと喋り出す。カールが一目散にこちらへ駆け出し、追ってケヴィンも走り始めた。
「デュランしゃーん! びょーき、もうだいじょうぶなんでちかー?」
シャルロットが声を張り上げた。
「おかげ様でな!」
デュランも大声で返し、すぐに中へと引っ込んだ。慌しく靴を履き、取り敢えず兜を引っ掴み、それからアンジェラを引っ張って階下へ走った。