膝を抱えて待っている

 アルス達四人は、謎の神殿の、小さな小屋の中にいた。普段は旅の扉が渦巻いており、部屋一帯が青く明らんでいるのだが、今は無く、薄暗く落ち込んでいる。四人はめいめい好きなところに座って、メルビンを待っていた。
「まだかなあ……」
 ガボは暇を持て余したらしく、爪の間のごみを取って綺麗にしていた。アルスも自分の爪を見て、泥が詰まっていて汚い上、特に人差し指が伸び過ぎていることに気が付いた。何とかしようと思って、ふくろからナイフを取り出し、削ぐようにして爪を切り始める。
「えっ、何してるの?」
 マリベルがびっくりして、アルスの方に手を伸ばそうとした。アルスは手とナイフを見せて、危なくないことを示した。
「ツメ切ってるんだ」
「あぶないわねえ。はさみを使いなさいよ」
「はさみ、持ってないから」
「それに、こんな暗いところで切ってるわけ? 指を切ったらどうするのよ」
 マリベルは滔々と捲し立て、アルスを容易くやり込めてしまった。アルスは、マリベルが怒っているのでは無く、心配して注意しているのが分かるから、素直に聞き入れてナイフを仕舞った。
「わたしも、ずいぶん伸びてきちゃったわ」
 と、アイラが綺麗な指先を揃えた。彼女は剣を得意とし、厳しい根無し草の生活を送っている割に、爪先まで女性らしく気を遣った、可憐で優美な容姿を備えている。マリベルもそうだが、女の人と言うのは、どんな荒事に巻き込まれても、決して男らしくはならないんだなと、アルスは当たり前のことを思った。
 暫く待っていると、不意に耳鳴りがした。アルスは思わず耳に手をやり、他の仲間も顔を顰めたり、耳を塞いだりした。しかし、不快な音は内から鳴り響いているようで、遮ることは能わなかった。絹を裂いたような嫌な音が続き、その中に、何処かで聞いたような声が交じる。耳鳴りは長く尾を引いた後、不意に途切れてしまい、明瞭な声となって響いた。
「……アルスどの。アルスどの、聞こえるでござるか?」
 メルビンの声だった。
「聞こえるよ」
 アルスは中空に返事をした。メルビンの声は、自分の額の真ん中の辺りから聞こえて来て、答えようとすると、どうしても寄り目がちになる。
「オラも聞こえるぞー!」
 遠くに向かって呼び掛けるように、ガボが大きな声を出した。
「わたしも聞こえるわ」
「あたしも!」
 マリベルとアイラも揃って返事をした。メルビンは嬉しそうな笑い声を出し、アルスには、彼が目を細める姿が想像出来た。
「ご婦人に心の内なる声を聞かれるとは、どうも邪念がまじりそうでござるな……」
「もう、何言ってるのよ」
 アイラも笑っていた。
「しっかりしてよ。頼れるのはメルビンだけなんだから!」
 マリベルも安心したのか、明るい声を出した。
「そうでござるな」
 と、メルビンは態度を改め、一呼吸置いた。次に聞こえたのは、思慮深き聖戦士の声だった。
「わしが耳にした話では、どうやらエスタード島以外にも、暗闇に落とされた大地が存在するようでござる」
「この島以外にも? 一体どうして?」
 アイラが尋ねた。メルビンはふむ、と言い、少し言い淀んだ。
「闇に落とされた大陸は、神の瞋恚に触れたと言われているのでござる。人々が、邪神を信仰していたという理由で……」
「そんなわけないじゃない!」
 マリベルが大きな声を出した。メルビンは、すぐには返事をせず、長い沈黙が落ち込んだ。
 神が復活を遂げ、クリスタルパレスと言う城に住まうようになってから、万事平らかに治められ、生けとし生けるもの全てが平和に安らいでいた。異変が起こったのはつい先刻のことである。大いなる神託を受けるべく、アルスはバーンズ王の供として、クリスタルパレスに参上して神と謁見した。神託の内容は特筆するでも無い、慈悲に溢れた内容だった。それまでは何と言うことも無い、至って普通の遠征だった。ところが、帰路に就いた際、アルス達は神の石の上で、エスタード島への道が暗闇に阻まれているのを見た。雷鳴鳴り響く荒天の中、半ば無理矢理に突っ込んで、アルス達はどうにかエスタード島に戻ることが出来たが、それからエスタードは暗澹たる闇に閉ざされたまま、現在に至る。メルビンの言によると、エスタードが封印されたのは、他ならぬ神の思し召しなのだと言う。アルスはそれを変だと思った。何だかちぐはぐなのである。得も言われぬ違和感を覚え、仲間の様子を窺うと、皆怪訝な顔をしていた。何かが決定的におかしいが、その何かについて、誰も口にすることが出来なかった。疑惑を言葉にした途端、自分の信じている絶対的なものが瓦解するような、畏れにも似た感覚を覚えていた。底冷えする寒さを感じ、アルスは冥々の裡に腕をさすった。
「……わしは、神を心から尊敬してござる」
 メルビンが呟いた。声は微かなものだったが、確固たる意志が籠められていた。メルビンは神によって選ばれた、神のために仕える戦士だった。彼の存在意義は即ち神に帰結する。アルス達でさえ、足元の覚束無い、不安定な気持ちを抱えていると言うのに、神を拠り所とするメルビンの胸中は計り知れなかった。
「……世界がどうなってるのか、もっと調べてみないとわからないね」
 と、アルスは少し話を逸らした。
「そうでござるな」
 メルビンも気を取り直し、落ち着いた声様で言った。じっとしたまま疑念を膨らませるよりは、実情を把握して行動する方が建設的だった。そうは言っても、今のアルス達は何処にも行けない状態だから、メルビンに下駄を預ける他無い。メルビンはコスタール王の許諾を得て、漸く聖なる種火への端緒を掴んだところだった。
「今から大灯台に向かうつもりでござる。聖なる種火を届ければ、神殿も元の姿を取りもどすでござろう」
「ありがとう。気をつけて」
 と、アルスはメルビンの旅路を労った。
「メルビン、たのんだわよ」
「がんばれよー!」
「一人なんだから、無理しないようにね」
 仲間達も口々に応援し、アイラが気遣うと、メルビンはまた少し笑った。
「一人ではござらんよ。皆がついているでござる」
 と、しっかりした声でそう答え、しからば、と、念話を打ち切った。途端に、辺りが静かになる。今までは会話に集中していたから、周囲の様相を忘れていたが、声がしなくなると、小部屋の暗く沈んだ雰囲気が際立って感じられた。
「なーんか暗いのよねえ……う〜、やだやだ」
 マリベルが身震いし、自分を抱き締めるように腕を回した。
「そうね……みんな、さむくない?」
 アイラが尋ねると、全員が頷いた。冷たい外気に晒されて、身体の表面から冷えて行くのでは無く、体の中に重い氷を飲み込んだような、内側から凍える寒さで、エスタード島が封印されてからずっと、このような重苦しい空気に包まれていた。
「オイラ、暗いのニガテだな。明るいほうがいいや」
 と、ガボもそんなことを言った。仲間にそう言われると、アルスも明るい方が良いような気がして来た。
「ちょっと待って」
 マリベルが目を閉じ、少し集中して、メラミの呪文を唱えた。指先に大きな火の玉が灯り、周囲を明るく照らし出す。マリベルがそっと放り投げると、大きな火の玉は、空中をふわふわと揺れながら、小部屋の中心、旅の扉が渦巻いていた場所に着地した。部屋一帯が煌々と照らされると、気持ちも少し温まって来る。四人は炎の周囲を取り囲み、車座になった。
「ガボ、あんた、あったかいわね」
 動いた時に体が触れて、マリベルがそう言った。
「まださむいのか? ほら、もっとくっつけよ」
 と、ガボとマリベルは体を寄せ合った。普段はあまり触れ合いたがらないマリベルだが。真実寒いらしく、ガボにぴったりと寄り添った。
「ありがと。あたし、さむいのニガテなんだ……」
 いつも元気な筈の彼女も、封印の空気に中てられてか、しおらしい様子を見せていた。まさかエスタード島が封印されるなど、予想だにしていなかったのである。アルスは持ち前の楽天的な性格により、外の封印された世界のように、エスタードも解放出来るだろうと思っていたが、マリベルの不安な気持ちも理解出来た。今までは、飽くまでも対岸の火事だと思っていたものが、眼前に迫って来ているのだ。
「アルスはさむくない?」
 そう言ったアイラも、少し肌寒いらしく、膝を抱えていた。
「僕は大丈夫」
「そう」
 と、アイラは微笑んだ。
「アルスは元気があるみたいね。やっぱり、マリベルがもどってきてくれたから?」
「うん」
 アルスが素直に頷くと、マリベルは目を逸らし、自分の髪をいじくった。
「やっぱり? マリベルに会いに行く時、いつもうれしそうだったものね」
 にこにこしながら、アイラがそんなことを言うもので、マリベルはいよいよ照れくさがった。
「そんなの、今言うことじゃないでしょ……」
 アルスは淡白な性格なので、マリベルが一行から抜けたことも、至極あっさりと受け入れていた。マリベルはお嬢様なのだから、苛烈さを増す旅路に付いて行けなくなっても、それはそれで仕方無いと思っていたのだ。先般彼女が戻って来た時も、ごく自然な成り行きでそうなったので、またしてもあっさりと受け入れた。そんな飄々としたアルスだが、全く無感動なわけでは無い。他人から見れば、マリベルに会う時は嬉しそうにしているらしいし、彼女が戻って来てからは、収まるべきところに収まったような、不思議としっくりする感じを覚えていたのだった。
「オイラもうれしいよ。マリベルがいねえと、みょうに静かでさみしいもんな!」
 ガボも嬉しそうに、寄り添っているマリベルに深く凭れ掛かった。
「あたし、そんなにうるさくないわよ」
 と、マリベルもガボに凭れ掛かり、彼を押し返した。
「あんたたち、ほんとにノンキよねえ……。あたしがもどってきたからって、そんなに喜んじゃってさ」
 そう言いながら、マリベルは含羞んで肩を竦めた。其処へアイラが近付いて、何やらこそこそと耳打ちすると、マリベルは口を尖らせて、アイラにこそこそと内緒話を返した。アイラがくすくすと笑う。マリベルはほっぺたを赤くして、誤魔化すように咳払いをした。
「……とにかく! ノンキに話してる場合じゃないでしょ!」
「でも、何するの?」
 アルスが答えると、マリベルはいつもの半眼で見返した。
「頭を使いなさいよ。今世界がどうなってるか、考えるの!」
 そうぴしゃりと言われたので、各々真面目に考える時間になった。しかし、アルスはあまり考えたく無かった。面倒くさいのでは無く、触れてはいけない領域に触れるような気がしたのである。翻って、気が強くて真の通ったマリベルは、単刀直入に切り込んだ。
「あんまり言いたかないんだけどさ……あの神さまって、ちょっとあやしくない?」
「うん、あやしい!」
 ガボが大きく頷いた。アイラは思い詰めた表情で俯き、アルスは心ではそう思ったものの、頷くことは出来なかった。人々にとって、神は最も身近な存在の一つであった。アルスはあまり信心深く無い方だと自覚しているが、それでも、漁に出る父親の無事を神に祈ったし、困った時は教会の神父に相談し、伝統的な神事にもしばしば参加した。大いなる存在は、生活の一部に組み込まれているため、特別それと意識しなくとも、当たり前にその恩恵に浴しているのだった。神を疑い、敵視すると言うのは、単なる罰当たりと言うだけで無く、自分の父や母を裏切ることのように罪深いものだった。
「それは、復活の儀式が失敗したからなの……?」
 アイラはそう言ったが、マリベルは否定した。
「そんなことないわよ。昔、ライラさんとジャンがやってたのと、おんなじことをやってたもの。ね?」
「オイラ、あんまりおぼえてない……」
 ガボは首を傾げながら、ほっぺたを掻いた。そうよねと、マリベルが念を押すようにアルスを見たので、アルスは頷いて答えた。
「そうだといいけど……」
 と、アイラは剣呑な顔で言った。アイラは時に奔放だったり、おっとりしていたり、時に勇ましかったりと、色とりどりの万華鏡のような性格をしているが、その根本は至極廉直である。神の復活を担う踊り手として、ユバールの宿願と嘱望を一身に背負っており、もしも儀式が失敗したとすれば、たった一人でその責を抱え込んでしまう女性だった。復活した神を否定することは、即ち彼女を否定することに繋がるのである。
「あたし、考えたんだけど……あの神さまのこと、神さまだって思わないほうがいいと思うの」
 反駁を顧みず、マリベルは真剣に提案した。兼ねてから抱いている違和感は、そうと仮定するならば、全てに説明が付くのだった。
「……ん? でも、ギシキはうまくいったんだろ? なのに、復活した神さまは、神さまじゃないのか?」
 ガボは自分でそう言って、ますます混乱してしまった。
「儀式が成功したかどうかは、このさいどうでもいいのよ」
 と、マリベルはアイラに気を遣った。
「問題は、あの神さまがホントの神さまじゃなさそうだってこと! 何のつもりで、あいつがエスタード島を封印したのかよ」
 ついに、マリベルは神さまをあいつ呼ばわりした。しかし、彼女の意見にはアルスも同感だった。鳥を魚とするくらいの思い込みが必要だが、クリスタルパレスの神は神では無いと考えねばならない。少なくとも、アルス達が求める神では無かった。よしメルビンがエスタードを封印から解放したとしても、あの神様が現世に存在する限り、再び闇に封じられる危険性が付き纏うのだ。エスタードを平穏に導くためには、神に翻意を促すか、或いは滅ぼすか、いずれにせよ神に手向かう覚悟が必要だった。何だかまずいことになったなと、流石のアルスも危機感を覚えた。
「アルス、あんたびびってるでしょ」
 アルスの顔を見て、マリベルがふふんと笑った。
「あたしは全然こわくないわよ。神さまだろうが何だろうが、エスタード島に悪さするヤツはゆるさないわ」
 挑戦的に言い放ったが、マリベルとて怖いに違いなかった。気が強くて口が悪いが、彼女の感性は至って常識的である。神様に対して大きな口を叩くのも、本当は単なる強がりなのだと、長い付き合いのアルスは分かっていた。
「マリベルは強いわね」
 と、アイラが羨むような眼差しを向けた。
「わたしは……すごく恐いわ。今までの自分の世界が、すべて壊れてしまうような気がする」
 そう言って、アイラは寂しげに膝を抱えた。儀式が成功したにせよ、失敗したにせよ、彼女は辛い現実に直面することになる。その気持ちを推し測ることは出来ないが、アルスは気の毒に思った。それでもアイラは気丈に、穏やかな微笑を浮かべた。
「ガボはこわくない?」
「オイラ、よくわかんない」
 ガボは精一杯考えたが、結句そう答えた。
「でも、あの神さまは悪いヤツなんだろ? 悪いヤツなら、ぶっとばしてやろうぜ!」
 ガボの考えることは至って単簡だった。獣に神は存在しない。彼らの世界では単純に、縄張りに侵入して生命を脅かすものと、そうでないものに二分される。ガボにとり、復活したクリスタルパレスの神は、第二の故郷であるエスタード島を脅かす敵であった。
「神と戦うなんて……」
 アイラが慄然と呟いた。いつになく気弱な彼女に、ガボは昂然として言った。
「こわいんだったら、アイラはフィッシュベルでるすばんしてろよ。神さまをぶちのめすのは、オイラたちがやるからさ」
「……ううん、わたしも行くよ」
 と、ついにアイラも眦を決した。
「わたしには、復活の儀式を行った責任があるわ。神が何者であるにしろ、最後まで見届けなければいけない」
 腹を括ったアイラは強い。一旦こうと決めれば、神に意見することも厭わず、刃を向けることさえ臆さないだろう。そうして全員が覚悟を決めた。肝心のアルスはどうするかと言うと、自分が最初の方に誓った約束を守ることにした。アミットさん達に頼まれた、マリベルを守ることである。マリベルが神様に喧嘩を売って、神様と戦うと言ったなら、アルスは彼女の味方をしなければならないのだ。大したことも出来ない彼は、せめてそのくらいの約束は守ろうと思っていた。
「アルスは、もちろんあたしについてくるのよね?」
 だから、マリベルにそう聞かれた時、アルスは即座に頷くことが出来た。マリベルは当然とばかり、またふふんと笑った。
「それでよし。見ないあいだに、おりこうさんになったじゃない」
 それを聞いて、アルスも少し嬉しくなった。寒がったり怖がったりするマリベルで無く、いつもの横柄な彼女が見たかったのだ。
「オイラ達がそろえば、神さまだってこわくねえや。そうだよな?」
 と、ガボが言った。アルスも頷く。神様を相手にするなど畏れ多い話だが、アルス達は、神様よりも恐ろしい魔物達や、醜い人の心に触れて来たのだ。恐怖を感じるなど今更だった。かくしてガボはやる気まんまんで、アイラは腹を括り、アルスも勇気を奮い建てた。戦う覚悟は出来ている。
「……ま、こんなところで大口たたいてたって、しょうがないんだけどさ」
 と、マリベルが冷や水を浴びせた。神と戦う精鋭達も、現状は、閉じ込められて、ちっぽけな小部屋に詰め込まれているに過ぎない。じたばたするのは諦めて、メルビンを待つしか無かった。

2017.01.03