時経り葛折り
ケルヴィンは書斎にて、溜まった仕事を片付けていた。火のツールはクヴェルと違い、一度灯せばそれきりと言うわけで無く、時折アニマを籠め直さねばならない。それはそれで時の流れが分かって便利なのだが、何度も点け直す必要に迫られるのが面倒なのだ。頻りに灯すほど、夜半まで書き物が終わらないのだった。
目下の課題は木材や鉄鋼の輸出だった。質の割に使い道の無かったようなものが、ハン・ノヴァの興隆により、今では高値で取引されている。経済が潤うのは結構だが、清濁併せてこその政である。森を拓き山を崩す時、大気に還ったアニマは、再び宿るべき寄代を失うことになる。現実、術法の力を持つ彼は、ハンへ伺候する際、僅かながらも息苦しさを覚えた。鉄が術に取って代わるわけも無し、いずれは需要も落ち着くのだろうが、何時になるのか知れたものでは無い。ハンの君主は両立を目指していると言うが、自らの立場故にか、少々鉄に傾き過ぎるきらいがあった。
そして、ギュスターヴがいる限り付き纏う問題だが、ナ国への体裁も鑑みねばならなかった。ハンはいやまし力を蓄え、我が君主はその権勢を危惧する情状。ヤーデの輸出は敵に塩を送るようなもので、以前ショウ王にそれとなく箴言を仄めかされたことさえあった。しかしながら、今や鉄産業が経済の一翼を担うのは事実。労働者がこのような事情を知る由も無く、規制を掛けるにも、まずは道を説き理解を得る必要がある。ヤーデのみならまだしも、産業は近隣の領地へ波及しているため、其処をどうして薫陶してくれようかと、ケルヴィンは頭を悩ませるのだった。
戸を叩く音がした。使用人の誰かが来たのだろうと思っていれば、入ってきたのはマリーだった。後背は暗闇で、唯一手元の小灯しが彼女を照らす。ケルヴィンが戸口まで行って迎えると、微笑んで礼を述べた。
「レスリーは?」
「時間も遅いので、下がって貰いました」
つい其処まで供をしてくれたのだと聞き、得心する。あのレスリーが、夜更けに一人きりで歩かせる筈が無いのだ。
「すまないな。今暫くかかりそうだから、暇でも潰していてくれ」
「はい」
マリーは書棚から本を取り、そばにあるソファに落ち着いた。遅れて、火のツールが明かりを灯した。興味を惹くものなど無かろうに、ケルヴィンがこの部屋で書き物をしていると、いつも彼女は訪ねてくれる。夫人の責務でここまで尽くすとは思えず、自惚れで無く、好意ありきの所作と取れる。経緯が経緯で、無理に口説き落としたような形だった故に、これには彼もほっとした。
六つも年が離れていると、二十半ばの細君も随分と稚く見える。特に髪を下ろし、湯浴みをしてほんのり頬が赤くなっている姿など、まだ少女そのもののようだった。本来ならば心行くまで、ナ国の町を案内したり、彼女の趣味に付き合ってやりたい。ところが、現状それは父トマスやレスリーの役目だった。これには、年老いた父の負担を和らげるべく、彼が伯爵の責務を引き受けていることも大きいが、しばしばハンへ伺候に訪れるためでもあった。あの昔馴染みは現在ハン・ノヴァ落成と中原統一に向けて動いているようだが、一体この先何処まで行くつもりなのか、もはや彼には見当も付かない。そもそも焚き付けたのは他ならぬケルヴィン自身であるが、こうも勢いづくとは予想だにしなかった。
「あいつの考えは理解出来そうも無いな……」
「ギュスターヴお兄様のことですか?」
独り言が口を衝いて出、マリーに返された。
「ああ」
「ご自分がどこまで出来るのか試してみたいのだと、レスリーはそう言っていました」
「そうか。レスリーは良く分かっているのだな」
「ええ。あなたの手助けがあるお陰で、お兄様も安心していられるだと思いますわ」
それが困るのだと抗議したいのだが、マリーがにこにこして言い切るものだから、ケルヴィンも二の句を継げなくなってしまった。
ことの起こりは父からの言い付けと、ソフィーの遺言に任されたことである。故にギュスターヴに対し何かに付け干渉しているわけだが、ただそれだけの理由でも無い。勿論彼の追求する理想に賛同していることもあるが、ギュスターヴに手落ちがあれば、まるで自分の失態のようで、過ちを正さずにはいられないのだ。何だか放って置けないと、レスリーも似たようなことを言ったが、あちらはもっと別な感情に拠るものである。かつて虐められていたフリンさえも、彼を慕って地の底までも付いて行く所存で、ギュスターヴは不思議と人を惹き付けるような男なのだった。
「あの、ケルヴィン。レスリーのことですけれど……」
話しても邪魔にならないと思ってか、マリーが躊躇いながら切り出した。
「できれば、お兄様のおそばにいさせてあげる方が良いと思うのです」
「私もそう思うんだがな」
恐らく、ギュスターヴが妻を娶ることは無い。理由は知らんが、ケルヴィンにすらその腹積もりは見て取れる。であるにも関わらず、彼女を余所にやるつもりも毛頭無いのだ。本人は手放した気になっているところが益々手に負えなかった。寄せて返しての顛末を、十余年間も端から見ていれば、いい加減焦れったく思えて来る。近くにいるから低回するのだ、いざ離れてしまえば惜しくなるだろうと、レスリーをヤーデに呼んでみれば、両人とも懐かしがる素振りさえ見せぬ。彼女は暮らしに満足しているようだし、暇をくれる理由も無いため、状況は膠着する一方で、今更ながらケルヴィンは後悔するのだった。しかしながら、ことマリーの身辺において、彼女に助けられた面は大きい。お節介を抜きにしても、こちらに招かぬわけには行かなかったろう。マリーだけでなく、フィニー時代から姫君に付き添う侍女をもヤーデに招いているため、彼女らが環境に慣れるまでレスリーに頼りきりだったのである。
「しかし、ヤーデに来たのは彼女から言い出した話なんだ。本心は分からんが、好きでこっちにいるんだろう」
「そうなのですか?」
「お前を気に入っているらしいのでな。頃合を見てハンに帰すから、心配しなくて良い」
レスリーはヤーデにて過ごした期間が長いため、友人や同僚の殆どが領内に住まっており、古い友達と会いにグリューゲルへ行くこともある。それにつけても、強ち我を張ったわけでも無いだろう。妻に余分な憂いを与えぬよう、ちょっと微笑み掛けてみせると、マリーは心持ち声を弾ませた。
「安心しましたわ。……本当は、出来ればそぱにいて欲しいのです。私にもしもお姉様がいるのなら、きっとレスリーのような方なのだと思いますから」
彼女はそう言って、静かに夫のそばに来、ちらちら明滅していた灯りを点け直してくれた。声様こそ明るいものだが、安堵したような寂しがるような、曖昧な微笑を浮かべており、その姿が何ともいじらしく思えた。
心配無いと言い切った上、そう結論付ける理由もあるにはあるのだが、ケルヴィンの性格柄お節介を焼かずにはいられなかった。こちらの暮らしが落ち着き次第、何とかレスリーをハンに返す糸口を掴まねばならない。仕事の件も相俟って、ますます頭痛の種が増えてしまい、彼は息をついた。