後

 海底の魔人グラコスを倒し、ハーメリアの洪水騒動を解決した三人は、フィッシュベルの村に帰って来た。マリベルは自分のお屋敷へ、他の二人はアルスの家へ戻り、久々に寛いだ気分で夕べを過ごした。アルス達の夕飯は、マーレ母さんの手料理である。
「ガボっ、そんなとこウロチョロしてると、あぶないよ!」
 マーレがガボに注意して、暖炉のそばから下がらせた。何でも食べるガボであるが、マーレの料理はとりわけ大好きらしい。マーレ母さんが台所に立っていると、何を作るのか、何か摘まみ食いさせて貰えないかと、彼女の後をくっ付いて回る。今日の献立は、ムール貝に烏賊や海老など、沢山の魚介をトマトで煮込み、唐辛子で辛味を付けた料理だった。フライパンでぐつぐつと煮立っている食材から、何とも良い香りがして、ガボで無くとも浮き足立ってしまいそうだった。
「おばちゃん、これ食っていい?」
 脇からひょいと手を出して、ガボは貝を拾い上げた。その間、マーレは彼が火傷をしないよう、フライパンを引いて火から遠ざけていた。
「いいけど、やけどしないようにね」
 マーレの了承を得ると、ガボは貝を丸ごと口に入れ、はふはふと息を吐いた。
「かれえ!」
「おや、あんた、辛いのはきらいだったかい?」
 マーレは水を取ろうとして、フライパンを五徳に置き、暖炉に背を向けた。
「いや、うめえ!」
 ガボは満面の笑みを浮かべながら、貝殻を暖炉に投げ捨て、今度は海老を拾って食べた。魚介の出汁にトマトの酸味が良く絡み、唐辛子の刺激が味を引き締めて美味である。味を占めたガボが、もう一つ取ろうとしたら、フライパンから大きなあぶくが弾け、手にトマトのソースが掛かった。
「あちちっ」
 と、ガボは手を引っ込め、手に付いた汁を舐めた。
「ほら、気をつけな」
 マーレは笑いながら、フライパンを揺すって掻き混ぜた。
「アルス、水を出しておくれ」
「はい」
 食卓で大人しく待っていたアルスは、水差しを取り、三つのグラスに注いだ。ボルカノは漁に出ているので、今日は三人である。続いて、食糧庫からパンを取り、籠に盛り付けた。ガボは勿論のこと、アルスも随分食べるようになったので、籠から零れそうなほど山盛りにした。バゲットをナイフで切るついで、ふと思い出したアルスは、台所に向かって声を掛けた。
「母さん、あとで砥石を借りていい?」
「いいけど、何に使うんだい?」
 料理の音に負けないよう、マーレが少し大きな声を出した。アルスもやや声を張る。
「オノの刃をといでおきたいんだ」
「そうかい。手を切らないようにするんだよ」
 と、マーレは慣れた風で言った。物々しい武器を背にして帰って来るアルスに対し、マーレは始めこそ面食らっていたものの、今ではすっかり受け入れてしまい、息子が巨大な戦斧を持っていても意に介さなかった。ボルカノ父さんは、勇ましいと言って褒めてくれるし、このまま力を付けていけば、いずれは立派な漁師になれるような気がして、アルスは敢えて大振りな得物を選ぶようになっていた。
 夕食を終え、温かいお湯で体を拭き、寝る時間になった。何処で寝るかと言う話だが、アルスのベッドは狭いから、二人で床に並んで寝ることにした。予めマーレ母さんが掃除しておいてくれたらしく、床には埃一つなかったので、心置き無く敷物を敷いて、良い匂いのする毛布を被る。お喋りの大好きなガボは、夕食の間も良く喋り、布団に入っても良く喋った。
「明日はどこに行くんだっけ?」
「ハーメリアだよ」
 隣に寝ているアルスが答えた。現代に復活した筈のハーメリアである。アボンとフズの村も、時を経てどうなっているのか確かめに行くつもりだった。特にフズの村は、フィッシュベルを彷彿とさせる風景だったので、故郷の未来の姿を見るような気がするのである。
「あの山奥の塔、どうなってるかな? あんなにボロボロだったし、なくなっちまってたりして」
「どうかな」
 と、アルスは単簡な相槌を打った。アルスは面白いような返事をしない。マリベルからはつまらない男だと言われるが、聞き手としては丁度良いらしく、皆挙ってアルスに話を振った。ガボは楽しそうにして、お喋りを続ける。
「アボンにも行くんだよな? また、山菜の煮物が食えるといいなあ」
「フズの焼き魚も食べられるといいね」
 ハーメリアの魚は、フィッシュベルの魚と違い、色の鮮やかなものが多く獲れるらしい。味は割合淡泊で、脂の乗った魚とはまた違った味わいで美味しかった。ガボは料理の味を思い出したようで、布団の中で涎をすすった。
「でも、やっぱり、アルスの母ちゃんのメシが一番だな! アルスもそう思うだろ?」
「そうだね」
 それにはアルスも同感だったが、出て来る返事は相変わらず、至って簡素なものだった。そんな話をしていると、マーレ母さんが階段を上がって来た。腕に厚手の毛布を抱えている。
「もう一枚おかけ。今夜は寒そうだからね」
 と、マーレは寝ている二人に毛布を掛けてくれた。アルスはごく自然に受け入れたが、ガボは興奮した体で、掛けられた毛布を何度か叩いた。
「おばちゃん、ありがと!」
「ゆっくりおやすみ」
 マーレは優しくそう言って、静かに階段を下りて行った。未だ興奮冷めやらぬガボは、天井を見ながら、弾んだ声でお喋りを続けた。
「あったけえな」
「うん」
 アルスは少々暑いくらいだった。
「メシもすっげえうまかった! 明日の朝メシ、なんだろうな?」
「なんだろうね」
「アルスの母ちゃん、やさしいよなあ」
「そう?」
「そうだよ!」
 アルスが曖昧な返事をすると、ガボは強く肯定した。
「メシはうめえし、オイラのこと、しかってくれるし。なんか、ホントの母ちゃんみてえだよ」
 と、今度はしみじみとした調子で言うのだった。ガボがマーレを気に入って、ちょこちょこと後を付いて回るのは、亡き母親の姿を重ねているからだった。マーレの偉大さとありがたみについて、アルスは最近になって気が付くようになった。職業柄、家を留守がちなボルカノに代わり、家を一人で切り盛りし、アルスをこの年まで育ててくれた人である。フィッシュベルではごくありふれた家庭の形だが、それが当たり前のものでは無いことを、アルスはエスタードの外に出て始めて知った。母親が温かい料理を作って待っていてくれることも、両親が健在であることさえ、ガボにとっては経験の無い幸福なのだ。
「なあ、アルス。おまえんち、また来てもいいか?」
 経験したことの無い、もう二度と得られないかも知れない幸せだから、ガボはそうやってアルスに尋ねる。
「うん、いいよ」
 アルスは優しい答えが返せれば良いなと思ったが、口から出るのは、相も変わらず素っ気無いような返事だった。それでもガボは十分満足したらしい。
「よっしゃ!」
 と、ガボは大きく息を吸い、そのまま寝息を立て始めた。寝付きの良さに、アルスは少々面食らったが、自分も黙って目を閉じることにした。かくして夜も更け、ガボはぐっすり寝入ったようだが、アルスはなかなか寝付けなかった。窓から差す月明かりが眩しく感じられ、目を瞑っても気に掛かって堪らなかった。横になって目を瞑っていれば自然と眠くなると、マーレ母さんは言っていたが、今日は何故だか眠れないような気がする。アルスは目を瞑ったまま、覚えてもいないラリホーを唱えてみたり、羊数え歌を歌ったりしてみたが、それでも寝付けない。妙に居心地が悪く思え、何度も寝返りを打った挙句、アルスは寝るのを諦めた。身を起こすと、隣のガボがむにゃむにゃ言ったが、起きる様子は無かったので、そのまま布団を抜け出して、階下に降りた。家人を起こさぬよう、忍び足で家を出ると、潮騒は賑やかにざわめいており、どうやら海も眠れずにいるようだった。
 明るい夜で、紺碧の空に三日月と星々が輝いている。海は暗く、濡れ羽色の細波が幾重にも連なり、水面に映る星空を千々に乱していた。暗澹たる海の波打ち際に、寝巻き姿のマリベルが立っており、ネグリジェの裾を絡げ、足を水に浸していた。アルスがそばに行くと、マリベルはちょっとこちらを見た。月明かりに仄見える表情は、少し不満気なようだった。
「ガボは?」
 と、マリベルはそれだけ聞いた。
「もう寝ちゃった」
「そう」
 彼女はそれ以上何とも言わず、足元に視線を落とした。丁度ふくらはぎの終わり、足首の細くなった部分までが水に浸かっており、黒い海からマリベルの足が生えているような、変な風に見える。以前ダーマの魔物に引き裂かれた、深い踵の傷跡は、綺麗さっぱり消えていた。
 アルスとマリベルは、幼馴染の仲間同士だが、其処にマリベルの両親を介すると、少し違った関係になる。アルスにとり、言わばマリベルは大事な借り物で、決して傷を付けず、元のまま両親に返さなければならないのである。マリベルの両親と約束したわけでは無いが、そう言う不文律があった。昔から、マリベルの面倒を見て、彼女を守るのはアルスの役目だったのだ。アルスの方も別段嫌だとか面倒だとかは思わず、それが当たり前だと思っていた。気が弱くて、ひょろひょろで、背丈がマリベルより低いくらいでも、アルスは生まれた時から男なのだった。
「何してるの?」
「べつに。ちょっと、海に入ってみたくなっただけ」
 アルスが尋ねると、いつものつんとした声が返った。マリベルが夜の海を訪れるのは珍しいことでは無い。アルスもそれ以上詮索する気は無く、ズボンを捲り上げ、マリベルと同じところまで入って行った。夜の波は冷たく、細波が何度と無く足を打った。アルスが海に入ると、マリベルは少し満足したらしく、近付いて来て隣に立った。ちょっと前までは同じような体格だったのが、今では随分と差が付いており、アルスがマリベルを見下ろす形になっていた。
 特に話すようなことも無かったから、二人は黙って細波に耳を傾けた。こうじっくりと、フィッシュベルの潮騒を聞くのは久し振りだった。アルスは波の音が好きで、とりわけ、波が砂浜を洗う時の、しゃらしゃらと言う音が好きだった。砂の粒と水の泡が、宝石のように透明な音を立てるのだ。美しいその囁きを聞こうと、アルスは耳を澄ましたが、足元の波は、二人の身体に行く手を阻まれ、ちゃぽちゃぽと間の抜けた音を立てた。
「……ハーメリアで、あんなにこわい目にあったのに、全然こわくないのよね」
 マリベルがぽつりと呟いた。魔人グラコスの力により、大陸が海に沈んで行く様を、アルス達は塔の上から見ていた。耳を聾する轟音と共に、濁流が押し寄せ、木々を薙ぎ倒し、山を遡り、大波が眼前まで迫るのを見た。海底に沈められ、滅びた都市の残骸も見た。波間の牢獄に幽閉され、永久に抜け出すことの出来ない人々をも目の当たりにしたが、それでもアルスは、海が恐ろしいとは思わなかった。自分達を襲った濁流や、牢獄と化した仄暗い海の底は、見慣れたフィッシュベルの海とは似ても似つかぬものだったのである。故郷の海が奏でる波音は、何処までも穏やかで、胸の鼓動と溶け合って、心を優しく落ち着かせた。
「もし、あたしたちが死んだなら、きっと、この海に帰るのよね? ……だから、こわくないのかもね」
 マリベルは親しみを籠めて、海に諸手を差し入れ、水を掬った。星空がマリベルの手の中に収まった。フィッシュベルの人が死んだ時、大抵は亡骸を土に埋葬するが、亡き人の願いにより、海に葬ることもある。海に遺体を浮かべると、不思議なことに、波に寄せられて戻って来たりはせず、遠い海原の果てまで流されて、それきり帰って来ないのだった。この海には全てが内包されている。生きとし生けるものは遍く海に育まれ、海で死ぬ。太古の昔に姿を消した魔物達さえ、海中では、その命を連綿と繋げていた。アルスとマリベルも、自分達が健やかに生きて来られたのは、両親や村の人々だけで無く、海の助けあってこそだと思っているし、死ぬ時は、きっとこの海に帰るのだろうと思っていた。マリベルが掬った水を放り投げると、水滴が星のように煌めいて、暗い海に弾けて溶け込んだ。何の気無しにやった仕草のようだが、アルスには心なしか幻想的に見えた。
 手持ち無沙汰に、マリベルは浅瀬を歩き始めた。最初は波を立てぬよう、そっと歩いていたが、段々と、足を蹴り上げるように動かして、アルスに飛沫を飛ばして来るようになった。始めアルスは大人しく濡れていたが、何と無くやり返す気になって、水を蹴り上げてマリベルに引っ掛けた。マリベルが小さな悲鳴を上げた。
「ちょっと、あたし寝巻きなんだけど!」
 マリベルもやり返し、足で水を蹴り上げ、アルスにぶつけた。最初は足だけだったが、次第に躍起になって、両手で水を掬い上げ、お互いに掛け合った。頭の上から爪先まで、濡れていない場所が無いようにと、競い合って水を投げ付ける。夢中で遊んでいると、いつしか頭の帽子が外れてしまい、沖に流されそうになっていたので、アルスは慌てて拾いに行った。ずぶ濡れの頭巾を絞りながら、波打ち際に戻ると、マリベルも髪の水気を絞っているところだった。ふわふわの巻き毛は、濡れると驚くほど嵩が減り、何だかしょんぼりして見える。マリベルはネグリジェの裾を絞り、腿の辺りで縛って、水に浸からないようにした。
「あーあ、もうビショビショ……アルスのせいだからね」
 肩で息をしながら、マリベルはアルスを睨めつけたが、殆ど笑っているせいで威力は無かった。アルスは無闇と体力があるせいで、この程度で息は上がらない。同じくにやにやしながら、落ち掛けたズボンの裾を捲った。
「マリベルが先にやったんじゃないか」
「なによ、あたしのせいにする気?」
 マリベルは足を上げ、アルスに飛沫を浴びせた。アルスはとうとうやり返さず、頭巾をポケットに突っ込んだ。マリベルもそれきりお終いにして、萎んだ赤毛を手で梳いて、格好を整えた。
「アルス。手、見せて」
 そう言われ、アルスは右手を差し出した。
「そっちじゃなくて、左手よ」
 と、マリベルは左手を取って持ち上げた。彼女の手はすっかり冷え切っており、火照ったアルスの手に心地良く感じた。マリベルは、濡れて貼り付いた袖を捲り、手首を見て、顔を顰めた。
「……うわ、すっごいアトになってる……」
 アルスの左腕は、赤く熱を持ち、肉が盛り上がって、焼け爛れたように腫れていた。グラコスの猛毒を浴びたら、こんな痕が付いたのだった。アルスにとっては、ちょっと痒いくらいで何とも無く、盾で防いだ線に沿って、一部が真っすぐな形になっているのが面白く見えるのだが、驚くのは周囲の人間である。そのため、袖で隠して、余計な心配を掛けないようにしていた。マリベルは心配そうに爛れを撫で、その下の、生まれ付きの痣に目をやった。
「へんなアザ」
 と、端的な感想を述べた。何処かで見たような気がすると言いながら、アルスの手を傾けて、違った角度で見ようとする。手が捻られそうになり、アルスは腕を捩りながら、相手の動きに従った。アルスの持つ変な痣は、うねうねした蛇のような模様で、完璧な形を象っているとは言い難く、変だとしか表現のしようが無かった。痣をじっと観察しながら、マリベルは指で紋様をなぞった。
「あたしにもアザがあったら、なにか面白いことが起こったのかしら?」
 そう言って、手の平をアルスの痣に押し付けた。暫く押した後、手を確認したが、当然模様が写る筈は無い。マリベルはつまらなそうにして、自分の手を撫でた。
「……でも、あたしとあんたに同じアザがあったら、いっしょにいられないのよね?」
 と、彼女はいつか聞いたようなことを言った。
「そうじゃなくて、結婚できないんだっけ? ……ま、どっちでもいいか」
 ちょっと首を傾げたが、真実どうでも良かったらしく、マリベルは適当に話を切り上げた。ユバールの民の間では、生まれ持った痣が特別な意味を持つらしいが、アルスが持つのは単なる変な痣である。たまに光ったり疼いたりするだけの、少し不思議な模様に過ぎなかった。
「でも、マリベルにアザがなくてよかったよ」
 この痣が疼いたり、光ったりすると、気持ちが悪くなるのである。体中の血が全て集まってしまったように、左手が無性に熱くなり、頭は血の気が引いてふらふらする。ジャンやライラは何とも言っていなかったが、彼らも気持ち悪くなったりしていたのかも知れない。よしんば痣が何かの役に立つとしても、マリベルにそんな気分を味わわせたくは無かった。だから、アルスはそのままが一番良いのだと思っていた。
「そうね」
 と、マリベルは一歩踏み出し、アルスに近付いた。元々近い位置にいたもので、アルスは半歩下がって、適度な間隔を空けた。
「あたしには、へんなアザなんてないわ。……だから、ジャンみたいに、あんたがどこかに出て行く必要はないの。いい?」
 マリベルはアルスをじっと見上げ、挑戦的とも取れる口調で言った。
「分かった」
 アルスはなるべく、真摯に聞こえるように答えた。マリベルは訝し気に、尚もアルスを睨めつける。
「ほんとに分かってる?」
「大丈夫、分かってる」
「ほんとに?」
「ほんとに」
 底意を見透かそうとばかり、マリベルはアルスを見詰め続けた。アルスは誠意のある表情を見せようと思ったが、やり方が分からなかったので、いつもの顔のままでいた。
「……そっ。それなら、いいけどさ」
 暫く目比べした後、マリベルは漸く納得してくれて、くるりと回ってアルスに背を向けた。肩の力も抜けたらしい。どうやらマリベルは、キーファがいなくなったことについて、自分なりに整理して受け入れたようだった。問題はアルスにあったらしい。網元の一人娘であるマリベルは、家を守ると決まっているから、フィッシュベルを出て行くことは決して無い。翻ってアルスの方は、自分がそう望みさえすれば、故郷の村を出て好きなように生きることが出来る。それをマリベルは不安に思い、寂しく感じているのだった。恐らく彼女は、これからもずっと不安に思い続けるのだろう。形ある約束が無いのだから仕方無い。アルスはそれでも構わなくて、マリベルが尋ねて来る限り、ずっとここにいると言い続けるつもりだった。
「帰ろうか」
 マリベルが欠伸を手で押さえたので、アルスはそう言った。
「そうね、もうおそいし……」
 気怠そうに返事をしながら、マリベルは砂浜へ上がって、置きっぱなしにしていたブーツを拾い上げた。アルスも浜へ上がり、自分の靴を探そうとしたが、裸足で出て来たのを思い出した。砂だらけの足で履くつもりにはなれなかったらしく、マリベルはブーツを片手で持って、アルスを顧みた。
「今日は、あんたの家で休ませてもらうわ」
「うん……」
 曖昧に頷いたアルスの顔を見て、彼女は理由を付け足した。
「だって、こんなベタベタのまま、あたしのベッドに入りたくないんだもの」
 どうせガボと二人で床に寝てるんでしょ、と、ベッドが空いていることは見透かされていた。アルスはそれで構わなかったが、いつもの癖で、つい余計なことを聞いた。
「僕のベッドはぬれてもいいの?」
「じゃあ、アルス。あたしのために、今からお湯をわかしてくれる?」
 マリベルは可愛らしく首を傾げ、アルスが答えられないのを見ると、ふふんと笑った。此処でもしも、火を焚き湯を沸かしてみせたならば、マリベルに一杯食わせることも出来るのだろうが、アルスに彼女をやり込めるつもりは無かった。口では決して敵わないのが、アルスとマリベルの関係なのである。
「さっ、早く帰るわよ。明日も大いそがしなんだから!」
 マリベルは得意そうにして、アルスの自宅へ踵を巡らした。

2016.11.16