中

 ホークアイはナイフを取り出し、布切れで磨き始めた。刀身に付着した血や脂の跡から、自分の斬った太刀筋を見るため、委曲確認しながら丁寧に拭う。彼の武器は装飾が多く、繊細な凹凸を念入りに清めた。ケヴィンの武器は、リースから防汚の魔法を掛けて貰っているため、殆ど汚れが付かない。ホークアイの真似をして、少し布で擦ってみたが、大して綺麗にもならず、すぐに仕舞った。元よりケヴィンは、武器を眺めていても別に面白く感じないのである。他の仲間よりは、己の武器に愛着を持たない性分だった。そうして武器を片付けてしまい、手持ち無沙汰に上方を仰ぐと、枝葉と枝葉のあわいを蓋するように、黄色い満月が覆い被さっていた。こんなに月が大きな夜は、親友と一緒に、小高い岩場の上で遠吠えしたものだった。月に反響して、いつもより高らかに聞こえるような気がしたのだ。
「……カール、元気かな?」
 ケヴィンはふと呟いた。獣人王と仲直りした今現在、父親に任せておけば大丈夫だろうと信頼しているが、それでもケヴィンはカールに会いたくなった。幻術で仮死状態になったと言うのが、彼には良く分からなかったので、何処か体を壊していないか心配だったのである。
「帰りたくなったかい?」
 不意に落とした傍白を、ホークアイが拾った。それが何だか揶揄うような口振りだったので、ケヴィンはいつに無く意地を張った。
「帰らない。カール、無事だった。だから、今度はみんなを助ける」
「そうか」
 と、ホークアイは少し笑った。心なしか寂しげに見えて、ケヴィンは相手の顔をまじまじと見詰めた。
「ホークアイ、帰りたいか?」
 ケヴィンは我知らず、相手の弱い所に踏み込んだ。それが許されるくらいの仲だった。ホークアイは束の間空を見やり、再びケヴィンに向き直った。
「君と同じだよ」
「オイラと、おなじ……?」
 ホークアイは頷き、オアシスの村で待つ、頼もしきニキータと、平癒の兆しが見えつつあったジェシカの姿を思い浮かべた。ホークアイにとってのジェシカは、心安立てに何でも話せる身内であり、絶対に悲しい顔などさせたくない人であり、かつ、帰るべき家としてのナバールの象徴でもあった。本当ならば、片時もそばを離れず、苦しい気持ちを少しでも和らげてやりたいと思っているが、ジェシカの元へ帰ると、何と無く人心地が付いてしまうような、戦うべき決意が鈍るような気がするのだった。最後にジェシカと会った時の、あえかに握られた手の感覚も、汗で貼り付いた額の髪をよけてやった感覚も、未だ指先に残っているが、ホークアイは敢えて思い出さないようにしていた。それは意地を張っているからでは無く、次に会う時は、ホークアイは全てを片付けており、ジェシカは元気な姿で出迎えてくれると分かっているからだった。ホークアイがちょっとした郷愁に耽っていると、ケヴィンの方も、考え事に没頭していた。
「……オイラの母さん、病気だった」
 と、火の音に掻き消されそうな、小さな声で呟いた。寂しげな声色に、ホークアイは顔を上げて、ケヴィンの様子を窺った。ケヴィンは悲しい時に良くする、眉間に皺を寄せた表情でいた。
「オイラの事、おいていったわけじゃなかった。……でも、悲しい」
 焚火の根元の辺りを見ながら、気持ちの整理が付かぬように、ケヴィンはそれだけを口にした。母を失った真相については、知らぬままでも全てを知っても、どちらにしろ、結局ケヴィンは傷付く羽目になってしまった。孤児のホークアイであるが、親を失う悲しみは知っており、ケヴィンに同情を寄せた。彼もフレイムカーンの細君と言う、母親代わりの存在を亡くしていた。早世したため、記憶はあまり残っていないが、彼のみならず、ナバールの子供達に大きく影響を与えた人だった。彼女が亡くなった時、ホークアイとイーグルは意地でも涙を堪えたが、ジェシカは目が溶けてしまいそうなほど泣いて泣いて、二人でずっと慰めてやったものだった。部屋の隅っこに蹲って、静かにしくしく泣いていた、何ともいじらしい姿を思い出し、ジェシカは兄が死んだ時も、たった一人であんな風に泣いていたのだと思うと、もどかしさに唇を噛んだ。ケヴィンも内心では、そんな泣きたい気持ちでいるのだろうと思うと、ホークアイは彼に一入同情する気になった。
「泣きたい時は、思いっきり泣いた方がいいんだってよ。誰かの胸でもかりてさ」
 ホークアイが冗談交じりに話すと、ケヴィンは彼に怪訝な目線をくれた。想像した内容が何と無く察せられ、ホークアイは口早に否定した。
「いや、オレの胸をかりろってワケじゃないよ。それはかんべんしてくれ」
「……そうか。オイラも、いやだ」
 あからさまにほっとした様子で、ケヴィンが息をついたので、ホークアイは思わず失笑した。つられてケヴィンも少し笑った。それで気分も紛れたらしく、ケヴィンは落ち着いた声で言った。
「ホークアイ、悲しい時、泣くのか?」
「オレは絶対泣かないよ。なんたって、オトナの男だからな」
 と、ホークアイは胸を張って答えたが、それが却って子供っぽく見える気がして、ほっぺを掻いた。ケヴィンは生真面目な顔付きで聞いていた。
「じゃあ、オイラも泣かない」
「ケヴィンはいいんじゃないか? ガマンすると、体に悪いよ」
 ケヴィンの眉間に皺が寄った。悲しい時も、怒った時も、考え込む時も、いつでも眉間に皺を寄せる少年だが、考えている事は分かりやすい。今はむっとして、反発を覚えた時の反応だった。
「……ホークアイ、時々オイラの事、コドモあつかいする。リースも、する」
「そうかなあ?」
 と、ホークアイはとぼけてみせた。六人のいずれにも言える事だが、風貌とは裏腹に、ケヴィンには子供っぽい所がある。戦闘に於いては一騎当千の活躍をする反面、平生は奥手で温順な性格をしており、その落差が彼を一層子供っぽく見せていた。あのシャルロットと同い年と言う事も与って、十五歳と言うのはまだまだ子供なのだと思わせるのである。そのため、面倒見の良いリースが、ケヴィンに対して姉のように接しており、自然とホークアイも年上らしい態度になってしまうのだった。お座なりに笑いながら、ホークアイはふと気が付いたように、空の月へと視線を移した。
「……さてと、そろそろ交代の時間だな。ケヴィン、もう寝てもいいよ」
「うん」
 それと無く話を擦り替えると、ケヴィンは素直に頷いた。無邪気な様子で、地面の土を払って平らにする。犬が寝る時、その場をぐるぐると回る仕草に似ていた。寝る場所が綺麗になると、ケヴィンは顔を上げ、にっこりと笑った。
「ホークアイ、おやすみ!」
「ああ、おやすみ」
 ケヴィンはごろりと地べたに寝そべり、大の字になって寝息を立て始めた。ホークアイはクロークを一つ取り出し、毛布代わりに、ケヴィンの上に掛けてやった。ケヴィンは何とも気持ち良さそうに、ぐっすりと眠っている。焚火の温もりが心地良く、ホークアイも眠気を誘われたが、未だ当番は終わっていない。欠伸をしながら、手近な枝を拾って火に投げ込み、熟睡している仲間達を羨まし気に見やった。娘達三人は、寄り添い合って、蓑虫のように毛布に包まり、あどけない顔で寝入っている。如何にも暖かで安らかで、見張りを信頼している様子がありありと見え、守ってやりたいと言う気持ちが自然と湧く。ホークアイは彼女らの邪魔をしないよう、静かに交代を起こした。
「おーい、デュラン。起きろ〜」
 声を掛けると、デュランは即座に身を起こした。足元の武器を引っ掴み、鋭い目差しで周囲を窺う。起き抜けとは思えぬ俊敏さに、ホークアイはちょっと面食らった。
「敵襲か?」
 と、デュランが尋ねた。
「残念、交代の時間だよ」
「なんだ、ちがうのか……」
 落胆したような声で、デュランは忽ち脱力した。剣を置き、欠伸を噛み殺しながら、背後に手を伸ばして、兜を探し出して頭に被った。斜めに傾いているが、気にしなかった。
「状況は?」
 先程とは打って変わって、デュランが気の抜けた声で尋ねた。
「異常なし。静かなもんだよ」
「そうか。おつかれ」
 盗賊や傭兵として働いていた頃の習い性で、二人はそんな事を言い合った。互いに夜間の哨戒は慣れっこである。仲間の負担を和らげるため、時間を長めに割り当て、夜半過ぎまで見張りを続けるつもりだった。デュランは頭を振って眠気を払い、片膝を立てる形で座り直した。
「そんじゃ、交代までがんばろうぜ」
「りょーかい」
 ホークアイが崩れた敬礼をすると、デュランもふざけて返礼した。互いに含み笑いを浮かべ、気の抜けたような態度だが、周囲への警戒は怠らなかった。
「がんばりま〜ち……」
 意外な場所から返事があった。アンジェラ達の真ん中、シャルロットが入っている毛布がもぞもぞと蠢き、大きな頭が擡げられた。シャルロットが起きたらしい。火を挟んで向かい側にいるため、ホークアイは心持ち声を大きくして、彼女に話し掛けた。
「起きちゃったのかい?」
「あんたしゃんたちが、おしゃべりだから、おめめぱっちりでち……」
 舌足らずな喋り方が、いつにもまして拙く聞こえる。シャルロットの声は低いものの、咎めるような気色は薄く、ホークアイは笑いながら謝った。
「そうか、ごめんよ」
「うむ、ゆるしまち」
 シャルロットは大儀そうに聞き入れ、大きく伸びをした。それでも彼女は眠そうに、両の拳で目を擦った。
「寝てなよ。明日も早いぜ」
 デュランが気を遣ったが、シャルロットは首を振った。
「だいじょうぶ。シャルロットも、みはりばん、しまち!」
 と、立ち上がり、毛布を引き摺ってデュラン達の間に来た。二人を押し退けて空間を作ると、地べたに毛布を敷いて半分に折り、下側を敷物代わり、上側を掛け布団の代わりとして使い始めた。体が小さいお陰で十分な余裕があった。シャルロットは一度言い出したら聞かない性分だから、デュラン達は好きなようにさせる事にし、黙ってその動作を見守った。シャルロットは暫くの事、毛布がなかなか気に入った形にならず、いそいそと忙しなく動いていたが、やがて落ち着き、毛布を口元まで引き上げた。
「しーんとしてまち……」
 空を見上げて、ぽつりと呟いた。聞こえるか聞こえないかの微かな傍白で、他の二人が相槌を打たずにいると、奇妙な虚しさを伴って夜空に溶けた。シャルロットは心細そうな気振りで、両隣を交互に見た。
「……あんたしゃんたち、さびしくないんでちか?」
「さびしい?」
 デュランとホークアイが異口同音に問い返した。シャルロットが小さく頷く。
「ぱぱもままもいないのに、ふたりとも、へいちゃらにみえまち」
 シャルロットは夢現ながら、ケヴィンとホークアイの会話を聞いていたのだった。思いも掛けぬ質問に、却って戸惑ってしまい、ホークアイはデュランを横目で見やった。
「さびしいも何も……」
「おぼえてないから、よく分かんねえよな」
 デュランも似たような反応だった。
「親はいないけど、親代わりの人がいて、兄弟……って言っても、オレはほんとの兄弟じゃないけどさ、そんな相手もいるしな」
「それに、親がいないぐらいでウジウジしてちゃ、男らしくねえだろ」
 恬然として、互い違い、示し合わせたようにそう言った。シャルロットは不思議そうに聞いていた。
「そう……?」
 大きな青い目を瞬かせ、彼女は空に視線をやった。
「……そういえば、ヒースも、へいちゃらなかおしてまちた」
 いつかのある日の事、早朝に目が覚めてしまい、両親の事でぐずったシャルロットに対し、ヒースは、自分も両親こそいないが、光の司祭や神殿の人達、それにシャルロットがいるから幸せなのだ、と言ってあやしたのだった。シャルロットは彼の両親について、詳しい事を知らない。尋ねると、ヒースを悲しませるような気がしたから、敢えて何も聞かずにおいたのだった。天涯孤独の身にも拘わらず、ヒースはそれを気にした様子も無く、敬虔で温厚篤実な青年として振る舞っていた。そんなヒースが、悪者に攫われて、酷い目に遭い、今や行方さえ杳として知れないのである。マナの女神様は、人に対して相応の報いを与えると言うが、優しいヒースは然るべき酬いを受けていなかった。大好きな神官の事を思い、シャルロットは鼻の奥が痛くなったが、口には出さなかった。
「シャルロットは、ときどき、ぱぱとままのゆめをみまち。ふたりのこと、おぼえてないのに、どうしてでちょうねえ……?」
 と、シャルロットは自分の両親の事を言った。シャルロットも親の記憶が無い。生まれてすぐに亡くしたのである。しかし、顔も知らない筈の両親が、覚えてもいない筈の花畑にて、泡沫の夢として姿を現すのだった。エルフらしいとも言える、一種不思議な体験に、ホークアイは夢想的な意見を返した。
「きっと、シャルロットに会いにきてるんじゃないか? そんな時しか、会えないんだろ」
「ぱぱとまま、あいにきてくれてるの……?」
 シャルロットはまた大きく瞬ぎ、問い掛けるようにデュランを見た。デュランは何とも言わず、只肩を竦めただけだったが、否定したり馬鹿にしたりする風では無かった。シャルロットはきょとんとして、呆けた表情で空を仰いだ。大きな月は、相変わらず森に覆い被さるように浮かんでおり、表面の凸凹まで良く見えた。
「……そういうかんがえかたも、あるんでちね」
 やがて、シャルロットはほっぺを赤く染め、とろけるような笑みを浮かべた。
「……ゆめ、たのしみになりまちた」
 そう言って、大きな欠伸をした。
「もう寝なよ。今ならいい夢、見られるかもよ」
 と、ホークアイが夢路に誘った。
「は〜い……」
 シャルロットはもう一つ、大きな欠伸をして、ホークアイに寄り掛かった。温かくて丁度良いらしい。寝る前に良くお喋りをする彼女は、睡魔に引き込まれながら、うっとりした表情で、何だか意味の通らないような事を喋くった。
「はやく、ヒースをみつけてあげなきゃ。はやくおうちにかえって、みんなといっしょに、あそんで……」
 と、暫く寝言を言っていたが、やがて聞こえなくなった。シャルロットはずるずると崩れるように力を抜き、最終的に、ホークアイの腿に頭を乗せて横になった。大きな目は閉じられてしまい、半開きの口から、深い寝息を立て始める。この格好では収まりが悪いだろうと、ホークアイが毛布に寝かせてやろうとしたが、ズボンを掴んで離さなかったので、諦めた。
「しょうがねえなあ……」
 溜息混じりに呟き、ホークアイは彼女が寝やすいよう、膝を伸ばして、毛布を掛け直してやった。寝ているシャルロットは、懐へ無防備に潜り込んで来るような、人をして和ませる甘やかさを備えていた。ホークアイもその可愛らしさに中てられて、覚えず表情を緩ませたが、デュランは淡泊な反応を見せた。
「そいつ、よだれ垂らすぞ」
「げげ、マジ?」
 と、ホークアイが少し身動ぎした。
「鼻つまんでやれ」
 そう言ってデュランがけしかけたが、ホークアイは鼻を摘まむ真似だけして、そっとしておいた。デュランも本気でちょっかいを掛けるつもりは無く、それきりシャルロットに構わなかった。すぐそばの膝元で眠っているため、二人は声を落とし、暇潰しの雑談を交わした。
「ホークアイは、この旅が終わったらどうするんだ?」
「そうだな……たぶん、ふつうのドロボーにもどると思うよ」
「ふーん。ニンジャにならないのか」
「ああ」
 クラスとしてはニンジャを経験したものの、ホークアイにそれを生業とする心算は無かった。
「そんなに強いんだから、戦士にも向いてると思うんだけどな。傭兵の仕事も悪くないぜ」
 と、デュランはやや相好を崩した。心から職務に忠勤している、誇らしげな表情だった。冗談交じりに、傭兵の仕事に誘われたのだが、ホークアイはそっぽを向いた。
「オレ、人に命令されるのがきらいなんだよ。フレイムカーン様以外からの指図は、ぜったいに受けないね」
 ホークアイは束縛が嫌いで、煩雑な上下関係も苦手だった。盗賊王として尊敬し、父として慕うフレイムカーンの命だからこそ、欣然として従うのだ。その首領に対してさえ、自らの正義に悖ると感じれば、少なからず反発を覚えるほどであった。基本的には衝突を避ける性格だが、自らの信念を意地でも通す、硬骨な一面も持ち合わせていた。彼に輪を掛けて頑固な気質のデュランは、その気持ちを良く分かっていた。
「オレだって、英雄王様以外の命令は聞きたかねえよ。それでもうまくやっていけてるのは、傭兵部隊が陛下直属であるおかげなんだ」
「へえ、直属だったのか」
 と、ホークアイは意外そうにした。ナバールもフレイムカーン直属のようなものだが、大国の部隊と地方の一団とでは規模が違う。
「陛下にしかおさえられないような、クセのあるヤツばっかりでさ」
 傭兵と言うのはおしなべてデュランのような性格で、自尊心が高く、これと決めた相手で無いと臣従しない。彼らが従うに値すると考える存在は、他ならぬ英雄王只一人である。だから休暇の申請や暇乞いも、君主に直接謁見して許可を貰う。執務の合間に、騎士団や傭兵の人事まで執り行うわけだが、万事そつ無く処理する英雄王の辣腕を、デュランは尊敬の目で仰いでいた。いつもの事ながら、君主を渇仰する傭兵の姿に、ホークアイも少し理解を示した。
「オレ、王族とかそういうの、大きらいだったけど……みんなに会って、ちょっと考えなおしたよ」
「だろ」
 デュランは自分が褒められたかのように、得意気に笑った。実際の所、ホークアイは悪政を敷く王族と言うものを見た事が無い。そもそもファ・ザードは王族の存在がごく限られているのである。比較的身分のある金持ちが、皆意地の悪いような連中ばかりだったので、大方青い血の奴らも同じなのだろうと決め込んでいるだけだった。ナバールは身内のみで構成された閉鎖的な組織であるから、誰しも外の人間に偏見を持っているきらいがあった。それが図らずも外界に出て、様々な身分や立場の人間に接した事で、ホークアイの見識も広がり、他人を広く受け入れる寛容さを身に付けたのだった。
「ところで、ホークアイって、きらいなもの多いよな」
 デュランがふと言った。
「好きなものも多いよ」
 ホークアイは平然と返した。裏稼業の世界で生きていると、嫌でも色んなものを見てしまうため、それなりに好悪の区別が付く。人を見たら泥棒と思えと言う俚諺は、泥棒の世界に於いても使われるのだった。
 それから、どうでも良いような話で盛り上がった。今日あった出来事、魔物の話、先程しそびれた怪談の続きなど、ともすれば興奮して声が大きくなってしまい、静かにするのに気を遣った。幸い、シャルロットは大変寝付きの良い子供なので、多少騒いだ程度ではびくともしなかった。そうして暫く喋っていると、日付もとうに変わってしまい、交代の時間が訪れた。
「……さーて、眠り姫を起こさないとな」
 と、ホークアイは眠るリースを見やった。こちらに背を向けているため、表情は見えない。頭の中程まで被った毛布から、綺麗な金髪が零れ落ちており、呼吸に合わせてゆるく上下した。アンジェラと寄り添うようにぐっすり眠っていて、起こすのは気が差すような光景だったが、デュランは遠慮無く手を伸ばした。
「おい、リース。交代だぜ」
 と、リースの肩を軽く揺すった。デュランにしては親切だが、やり方としては突っ慳貪だった。突然の出来事に、リースは何が何だか分からず、半身を起こして、ぼんやりとデュランの顔を見た。眠そうな伏し目で、口元も油断して少し開いていた。デュランは膝を突いた格好で、彼女と目線を合わせた。
「交代だぞ」
「……あ、交代?」
 事態を少しずつ理解して来、リースは体に巻き付けていた毛布を解いた。いつもの癖で、羽飾りを撫で付けようとしたが、空振りする。寝る時は外しているのである。アマゾネスらしからぬ気の抜けた様に、ホークアイは笑いを堪えながら、傭兵のざっかけない態度を窘めた。
「もうちょっと、やさしく起こしてあげなよ」
「ん、やさしくなかったか?」
「いえ、だいじょうぶですよ……」
 のんびりと答えながら、リースは目を擦った。丁度深い眠りに就いていた時に起こされ、夢から覚めあぐねているのだった。珍しく寝惚けた様子の彼女に、ホークアイは気を遣った。
「起きられるかい? なんだったら、見はりはオレが代わろうか?」
「ううん、だいじょうぶ……」
 リースは欠伸を手で押さえながら、羽飾りや肩の防具を付け直し、毛布を整えて膝に掛けた。そして羽飾りを撫で付け、表情を凛とした顔付きに引き締めた。
「……よし! さあ、がんばりましょう!」
「その調子……」
 と、欠伸を噛み殺したホークアイに、リースはにっこりと微笑んだ。彼女の緊張の糸が張ったら、反対にホークアイの糸が緩んだ。ホークアイは気怠そうに腕を伸ばし、首を左右に傾けて鳴らした。やたらと良い音がして、リースが苦笑した。
「おつかれさま。ずっと起きてて、ねむたいですよね」
「君達のためなら、一晩じゅうだって起きていられるよ」
 と、ホークアイも微笑み返した。
「ほんとに? だったら、オレとかわってくれよ」
 デュランが冗談交じりに容喙したので、ホークアイも洒落のめして応じた。
「シャルロットのお守りを代わってくれるなら、喜んで」
「……じゃあ、いいや」
 と、デュランは即座に諦めた。極端な反応に、ホークアイは怪訝な顔で、シャルロットを見下ろした。
「……ほんとに、よだれ垂らすんじゃないだろうな?」
「だいじょうぶですよ。私とアンジェラは、何ともなかったもの」
 リースは笑っているが、デュランは胡散気に目を眇めた。
「人を選ぶんだよ、こいつ……」
 自分も多分駄目なような気がするが、結局ホークアイは観念して、シャルロットを膝に乗っけて就寝する事にした。対策を考えるより、とにかく今は眠くて堪らないのである。また欠伸を噛み殺し、少し潤んだ目を擦った。
「それじゃ、後はまかせたよ」
「おう」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 ホークアイは膝のシャルロットに気を遣い、彼女に手を添えながら横になった。流石に眠かったようで、額のバンダナを目深に下ろすと、すぐに寝入ってしまった。シャルロットは体勢を変え、ホークアイの腹を枕に、隣に引っ付くようにして眠り始めた。
「かわいいですねえ」
 リースがくすくすと笑った。寝ているシャルロットは稚い子供そのもので、ホークアイの服の裾を握っている小さな手や、押し付けられて潰れた頬などが、肉厚で何とも柔らかそうだった。乗られた方は重そうだが、温かいらしく、退けようとはしない。リースは微笑ましげに見ているが、翻ってデュランの方は、普段小生意気な口を叩かれたり、膝に寝かせたら涎を垂らされたりしたせいで、シャルロットの愛に愛持つ仕草に絆されない。まあなと適当に返事をし、物憂い所作で背中に手をやった。
「地べたで寝ると、背中いてえや……」
「使いますか?」
 と、リースが自分の毛布を剥ごうとしたが、デュランは首を振った。
「べつにいいよ」
「なら、はんぶんこします?」
 今度は毛布の端を上げ、足が入れるようにする。
「いいって。あったかいと、ますます眠くなっちまう」
 デュランは再三拒否し、足元の剣を拾い上げた。ついで布切れを取り出し、丹念に磨き始める。作業でもしていないと転寝しそうなのだった。欠伸を我慢しながら、体液と脂の跡で汚れた刀身を拭き清めた。リースは毛布を持ち上げ、埃を払い落とし、ケヴィンの所へ行って彼に被せてやった。ところが、ケヴィンは小さく呻きながら、足で毛布を蹴散らしてしまう。いくら繰り返しても邪魔そうにどかされるので、リースも諦めて、腹に掛かっているクロークを掛け直すのみに止めた。しかして再びデュランの所へ戻り、自分の槍を取り出して、布切れで拭き始めた。三叉の複雑な形状と、まじないの彫り込まれた繊細な穂先を持つが、戦乙女の息吹が籠められているため、彼女の武器や防具は汚れを寄せ付けず、美しく保たれる。デュランの方は、ホークアイと同じく、汚れで太刀筋を確かめる癖があり、敢えて魔法を掛けずにいるのだった。デュランが黙って手入れを行うので、リースも彼に倣って静かに磨いた。とは言え、新品のように綺麗な武器なので、真似をしているだけのようなものだった。先般のざわめきとは打って変わって、森中が寝静まったようで、只火の粉の弾ける音ばかりが冴え渡った。かくして無言が続いたが、やがてデュランが音を上げた。
「ねむいなあ……」
「だいじょうぶ?」
「なんとか……」
 と、デュランは頭を振った。
「オレ、昔から夜番はニガテでさ……おまえ得意?」
 同じ兵隊同士だからと、当然の如く話を持ち掛けたが、リースは首を振った。
「私、夜の見はりはやった事がないんですよ」
「あ、そうなの?」
 リースはちょっとばつの悪い気持ちで、素直に頷いた。彼女は王女として大切にされていたので、夜警のような負担の大きい任務は回されなかった。無理を言って受け持った事もあったが、結局他のアマゾネス達に余計な気を遣わせてしまうから、其処については納得して諦めた。だから、今回の分担を内心楽しみにしていたのだった。
「夜の当番って、いいですよね。なんだかすごく、はたらいてるって気になれます」
「変わってるな。ふつうはみんな、めんどくさがるのに」
 と、デュランは如何にも怠そうにした。
「たぶん、楽しいのは、はじめのうちだけなんでしょうね」
 リースも苦笑した。アマゾネスの軍団長とは言い条、リースはミネルバの娘で、王女だったからと言う理由でリーダーに任命されたに過ぎない。兵隊としてはまだ新米そのもので、日常の任務一つ一つが目新しく、楽しいものとして映るのだった。デュランは十五の頃から傭兵をやっているので、殆どの職務に慣れ切ってしまい、退屈なものとして映るのだった。彼は剣を火に翳し、反射の具合を確かめた。丁寧に仕上げたつもりだが、全体に屈折が異なるのに気付き、荒っぽく布で擦り落とした。ポロビンやマタンゴは体表に油を塗っているため、斬ると油が纏わり付いて落ちにくいのだった。比較的短い刀身を持つ、カッツバルゲルと言う武器は、塗り伸ばされた脂で鈍く明らみ、夕暮れの霞のような輝きを湛える。デュランはぼんやりと剣を見据えた。彼も新兵の頃は、奮って夜番に勤しんだものだった。それがいつしか日常と化し、何事も無く明ける一夜が、退屈で眠たくて仕方無くなって行ったのだった。
「……でも、ねむくなるぐらい退屈なのって、いい事なんだよな。それだけ平和だって事なんだからさ」
「そうですね……」
 しみじみと実感しながら、リースは空に目を向けた。大きな月が今にも落ちて来そうだった。木に相反する月の力が強いためか、密林は息を潜めており、時折、宵っ張りの鳥の鳴き声がするばかりだった。デュランはカッツバルゲルを綺麗に磨き上げ、満足気に眺めた後、剣を仕舞って別の一振りを取り出した。銅製の剣だった。柄は少々古びているが、刀身は未だ美しく、鏡のように玉を散らした。リースはとっくに磨き終えてしまい、手持ち無沙汰に毛布を被り直して、デュランが作業している姿を眺めていた。人が作業している所を邪魔する気にはなれず、再び沈黙が続いたが、デュランがふと視線に気付き、目をやったので、リースは話をする切っ掛けを得た。
「お父様の形見、いつもきれいですね」
「そうだろ」
 得意気にして、デュランは剣を掲げて見せた。切れ味は他の武器と比ぶべくも無いが、何よりも誇りと思い入れが詰まっている逸品だった。そんな言葉を交わしながら、二人は自然と目線を落とし、金髪に結ばれたリボンを見た。リースのリボンも、結び目が付き、くたびれてしまっているが、かけがえの無い宝物だった。二人は何と無く懐かしい気分になって、昔の話をした。
「デュランさんのご両親は、どんな人だったんですか?」
「それが、ほとんど覚えてねえんだ」
 一度に色んな事があったせいかなと、そう呟きながら、デュランは手を伸ばし、枝を拾って火に投げ込んだ。炎が大きく踊り、灰と火の粉が俄かに巻き上がって、仲間達の影も揺らめいた。
「葬式はいっぺんにやったんだ。オヤジは行方不明になっちまったから、家にあった一番いい剣を、母さんといっしょに埋めてもらった」
 口調はあっけらかんとしたものだったが、リースは何とも答えられず、黙って聞いていた。デュランの両親が早くに亡くなった事は知っていたが、それ以上の事情に踏み込んだ事は無かったのである。昔の記憶は殆ど残っていないものの、父親の剣を抱いて眠る母の姿は良く覚えていると、デュランは懐かしそうに銅の剣を見下ろした。
「オレも、いずれは剣といっしょに埋めてもらうつもりなんだ。どれにしようか、今から考えてるよ」
 デュランは両親の死について、寂しいとは感じたものの、あれで良かったのだろうと思っていた。父は騎士としての責務を果たし、英雄王の命を救って死んだ。母は、そもそも不治の病であったらしい。どうにもならない体を、最後まで隠し通そうと努め、気丈で優しい母親として振る舞った。どちらも誇りに思える存在であった。だから、両親を思い出す時、デュランは悲しみを覚えない。欲を言えば、ウェンディのために、もう少しだけ生きていて欲しかったと思うだけだった。尊敬する両親の事を思い出し、微笑を浮かべる横顔を見て、リースはぽつりと呟いた。
「……デュランさんは、前向きですね」
「そうか?」
 如何にも意外そうに返したデュランに対し、リースは頷いた。
「強いですよ。両親を亡くしても、そんなふうに明るくふるまっていられるんですから」
「……ま、クヨクヨしたってしょうがねえからさ」
 まさかそんな事で褒められるとは思ってもいず、デュランはちょっと照れくさがって頭を掻いた。
「それに、落ち込んでると、ウェンディに怒られちまうし」
「ウェンディちゃん、しっかり者なんですね」
 リースも微笑んだ。ウェンディは、デュランが騎士の規範足り得ると信じており、兄が騎士道から少しでも逸脱しようものなら、容赦無く叱責して来る。その点に於いては伯母より手厳しかった。妹のお陰で、デュランは傭兵になってからと言うもの、一度たりとも喧嘩をせず、隠忍自重して英雄王に仕えたのだった。守るべき庇護者であり、仮借無い監督者でもある、弟妹と言うのはそういうものなのだろうと、デュランはごく普通に受け入れていたが、リースの反応を見るに、必ずしもそうでは無いようだった。
「……お前の弟、怒らねえの?」
「あっ、ダメですよ! 思い出さないようにしてるの」
 と、リースは早口に言った。まじくじしたデュランに、俯いて弁解する。
「……エリオットの事を考えたら、ローラントからはなれられなくなりそうなんです」
 エリオットは無事ローラント城に帰り、姉の帰りを待ち侘びているらしい。その事は、天の頂を守るアマゾネスから伝わったので、彼女を介して、お互いの消息を知らないわけでは無いのだが、リースはエリオットの事を極力頭から追い出すようにしていた。生き別れた日の事を思うだけで、全てを投げ出してでも会いに行きたいと言う衝動に駆られるのだった。しかし彼女は、微力ながらも、聖剣の一行にアマゾネスの力を役立てたいと誓ったから、全てが終わるまでローラントには帰れなかった。弟の姿を思い出すと、胸が締め付けられるようで、リースは口を尖らせて、ちょっと咎めるように言った。
「……やっぱり、デュランさんは強いですよ。私なんて、帰りたいのをいっしょうけんめいガマンしてるのに」
「そりゃ、しょうがねえよ」
 デュランは彼女に同情を示した。そもそも二人は立たされた状況が違う。デュランは帰ろうと思えばいつでも帰れる、言わば後ろ盾を持っているような状況だが、彼女は一時など全てを失っていたのである。デュランは、よし自分が家族を亡くしたならば、とてもリースのようには振る舞っていられないだろうと思っていた。尊敬する英雄王を侮辱されただけで、地獄の底まで相手を追ってやろうと思い詰める性分である。その復讐心は測り知れないものだった。決意を曲げるつもりは無いが、敢えて家に帰らない現状が、とても贅沢であるような気がして、デュランは家族の事を思いやった。
「……オレ、うちに帰ったら、ウェンディにやさしくしてやろうかな……」
「そうしてあげてください」
 と、リースはにっこりした。
「私は、エリオットに元気な顔を見せられるように、前向きにがんばりますから」
「そうだな。そのためにも、早く神獣をやっつけちまおうぜ」
「ええ」
 それから二人は、眠気覚ましに雑談をしながら、時々しりとりなどで遊んで、残りの時間をそれなりに楽しく過ごした。森に覆い被さっていた月は、少し遠くなり、南東の空が覗くようになったが、未だ夜は明けない。やがて交代の時間が来て、次はアンジェラとリースの番になった。
「よし、アンジェラを起こすか」
 と、デュランは勇んで立ち上がろうとしたが、ふと気が付いて、屈んだまま動きを止めた。
「そうだ、オレが起こすと、やさしくないんだっけ……。リース、頼むわ」
「わかりました」
 話しながら、二人は左隣を見やった。アンジェラはぐっすり眠っており、頬が緩んで幸せそうな表情を浮かべている。リースは他の仲間を起こさぬよう、地面に片手を突き、アンジェラの耳元に顔を近付け、肩を優しくぽんぽんと叩いた。デュランはその仕草を見、そうやって起こすべきなのかと納得した。
「アンジェラ、アンジェラ。交代の時間ですよ」
「ん〜……」
 アンジェラは顔を顰め、眩しそうに薄目を開けた。長い睫毛が目元に覆い被さり、殆ど瞑っているように見える。僅かな視界から覗き見て、起こしているのが誰なのか分かると、体を一層丸くして、再び微睡み始めた。リースは諦めず、最前と同じ伝で肩を叩いた。
「アンジェラ、起きて」
 すると、アンジェラの毛布が持ち上がり、リースを包んで取り込んでしまった。毛布に包まれたアンジェラは、目を瞑ったまま、にやついた顔をしている。リースは苦笑しながら、大人しく毛布の中に入ったまま、アンジェラに抱き付かれていた。
「……次、私達の番ですよ」
「だって、ねむたいし……。ねえ、いっしょに寝ちゃおうよ」
 と、アンジェラは甘やかな声を出した。リースもつられて、囁くような声を出す。
「でも、デュランさんを寝かせてあげないと……」
「このさい、みんないっしょに寝ちゃえばいいのよ。ねえ、いいでしょ……?」
 アンジェラは睡魔の権化のように、リースに抱き付いたまま、片方の手で頬をくすぐった。そうして二人は楽しそうに、毛布の中でもぞもぞと動いていたが、デュランはすっかり呆れていた。
「おい、いつまでやってんだよ?」
「……すいません」
 しょんぼりとして、リースが毛布を捲って起き上がった。アンジェラはその腕に巻き付いていたが、デュランが叩き起こそうと動いたのを見て、諦めて手放した。
「デュランのいじわる〜……」
 と、毛布の中で口を尖らせた。
「何がいじわるなんだよ? やりたくねえんだったら、代わってやるよ」
「いいよ。もう、目がさえちゃったし……」
 言葉とは裏腹に、アンジェラは緩慢な所作で身を起こし、懶く目を擦った。
「う〜、ねむ……。お水ちょうだい」
「お水? はい、どうぞ」
 リースが水筒を取り出し、彼女に渡した。アンジェラは欠伸を我慢しながら、時間を掛けてゆっくりと飲んだ。のろのろとした動作に、見かねたデュランが声を掛けた。
「やい、しっかりしろ! そんなじゃ見はりはつとまらねえぞ!」
 すると、アンジェラは弾かれたように顔を上げ、毛布を蹴飛ばして片寄せた。いつもの気の強そうな顔で、豊かな髪が火に照らされ、燃えるような赤に染まっていた。アンジェラはどうだとばかり、デュランに肩を聳やかして見せた。
「はいはい、起きました! 起きましたよーだ!」
 顰め面で舌を出したアンジェラに対し、デュランは満足気に頷いた。
「うし、やればできるじゃねえか」
「もう、せっかくいい夢みてたのに……」
 アンジェラは恨みがましく彼を睨め付けた。二人のやりとりは、口調こそ荒っぽいものの、器用に声を小さく抑えていた。アンジェラは髪を纏めながら、目を眇めてデュランを見ていたが、不意にリースの方を向き、にっこりと破顔した。
「おはよう! お水、ありがと」
「ええ、おはよう」
 リースも微笑んで返し、水筒の袋を受け取った。アンジェラは遠慮して、少ししか飲んでいなかったため、殆ど減っていなかった。リースが水を飲んでいる間、アンジェラはてきぱきと活動を始め、寛げていた身なりを整えた。デュランが欠伸をしているのを見ると、にんまりと笑みを浮かべる。
「さ、デュランは早く寝なさい。なんなら、子守歌でも歌ってあげましょうか?」
「いらねえよ」
 ぶっきらぼうに一蹴し、デュランは腕を枕に、仰向けに寝転がった。そうして、暫くは眉間に皺が寄っていたが、やがて表情が安らぎ、すやすやと眠り始めた。
「ふう、やっと静かになった……」
 穏やかな声で呟きながら、アンジェラは蹴散らした自分の毛布を拾い上げ、デュランに掛けてやった。ついで、小さく子守歌を口ずさみながら、シャルロットの毛布を整えた。吟じられるあえかな旋律は、リースも良く知る曲だった。小さな声で一緒に歌いながら、リースは自分の毛布を拾った。アンジェラに抱き付かれた時、思わず放り出してしまったもので、どうしようか迷った挙句、取り敢えず畳んで膝の上に乗せた。アンジェラはシャルロットの髪を手で梳き、軽く整えてやり、向かいを見やった。
「ケヴィンは、さむくないのかな?」
 ケヴィンは気持ち良さそうに、大の時になって眠っていた。腹にホークアイのクロークが掛けてあるが、大きく手足を広げて寝るため、体は殆どはみ出していた。
「毛布をかけても、はいじゃうの。あついのかも」
 リースが答えた。
「あついの? 私なんか、ちょっとさむいぐらいなのに……」
 と、アンジェラは自分を抱き締めるように腕を回した。起き抜けで体が冷えているのだった。
「じゃあ、いっしょに使いましょ」
 リースが毛布を広げて誘うと、アンジェラは喜々としてそちらに戻り、座って毛布を膝に掛けた。そして、すり寄るようにリースに凭れたので、リースも真似して体を傾け、アンジェラの肩口に凭れ掛かった。お互いの毛先が頬をくすぐり、こそばゆくて、何ともおかしく思え、暫く互いにじゃれ合っていると、少し体も温まって来た。アンジェラは上機嫌だが、意識は何処か別な場所を向いているような、遠い目をしていた。付き合いが長いため、リースにはその理由が何と無く分かった。
「どんな夢をみていたの?」
「……お母様とお父様と、三人でいっしょに暮らす夢」
 アンジェラはやや俯き、含羞みながら肩を竦めた。彼女の父親は、母親が話してくれないため、誰なのか全く分からない。だから直接姿を見たり、言葉を交わした事は無いのだが、アンジェラはあれこれと想像を膨らませ、理想の父親を思い描いていた。
「お父様の事、お母様は話してくれないけど、とっても大切に思ってるみたいなの。ステキよねえ……」
 と、アンジェラはうっとりと空を見上げた。昔、彼女が父親について尋ねた時、理の女王はほんの束の間、柔らかな表情を見せたのだった。実の娘に対してさえ、冷静沈着な態度を崩さぬ理の女王が、思い出すと相好を崩すような存在である。もしもアンジェラが二人の間にいたならば、温かく受け入れて貰えるだろうか、家族の楽しい時間を分けて貰えるだろうかと、叶わぬ空想をしたものだった。寂しい思いをした分、アンジェラの家族への憧憬は一際強かった。アンジェラはにっこり笑って、リースの方を向いた。
「私、いつか自分に家族ができたら、みんなで仲よく暮らすつもりなの。暖炉の前でいっしょに座って、たくさんお話して……」
 と、温かな家族の偶像を語ったが、ふと我に返ったように、アンジェラは口を尖らせた。
「……でも、そういう事を考えるのは、まだちょっと早いかなあ。今は、みんなと遊んでるほうが楽しいもん」
「そうね。私も、こういう時間が一番好きだわ」
 アンジェラとリースは、少女と大人の境にいるため、空想的な面と実際的な面を併せ持つ。将来の事は、物語の世界と同じで、遠巻きに見て憧れるのは好きだが、自分の身に置き換えようとは思わないし、現状、なり代わっても困るだろうと言うのが本音だった。
「リースのお父様とお母様は、どうだった? 仲がよかった?」
 と、アンジェラはリースの方に話題を向けた。
「そうね……」
 今度はリースが空を仰いだ。彼女は幼い頃に母を亡くしたため、殆ど記憶に残っていない。デュランと同じく、城の者達に聞いた母の武勇に憧れ、彼女のような戦士になりたいと研鑽していたのだった。そのため、父と母がどのような関係であったかも、人伝にしか知らなかった。少し考えて、リースは両親の仲を窺わせる逸話を口にした。
「……ローラントに、女神像があるでしょ? あれは、母をモデルにして、父が職人につくらせたものなんですって」
「あ、だから、リースにそっくりなんだね」
 アンジェラにそう褒められて、リースは含羞みながら、曖昧な返事をした。父ジョスターは寡黙な人だったが、家族を何よりも大切にしている事は言外に示されていた。忙しい執務の中にあっても、家族と共に食事を取るのは忘れなかったし、リースやエリオットのちゃんばらにも良く付き合ってくれた。盲目ながら優しさを湛えた眼差しは、今尚リースの心に残っている。父を失った悲しい記憶は、時を重ね、温かい仲間達と共に過ごした事で、柔らかな思い出に変化しつつあった。父を偲ぶ時、最後に見た血まみれの姿では無く、優しい微笑みを思い浮かべられるようになったのである。リースは、父や母と同じように、たとい遠くへ去って行ってしまっても、残された人に優しい影響を与えられる人になりたいと思っていた。と、其処まで考えて、リースもまた現実に立ち返った。
「……でも、やっぱり、私にはまだ早いような気がするわ」
 影響を与えたい人として、まず彼女が思い浮かべたのは、まだ見ぬ自分の家庭では無く、身近にいる仲間達や、城の人々の姿だった。家族が出来て幸せになると言う事は、一箇の人間として責任を負う事でもある。リースはこれから、弟と共に国を立てて行くつもりだから、それ以外の重責は極力避けたいと言うのが正直なところだった。今のように、気の置けない友達と過ごして、何でも無いような事を楽しむくらいが丁度良いのである。この六人で旅をするのは、本当に楽しくて、早く全てを終わらせなければと思う反面、出来るならばずっと一緒に旅していたいとも、リースは内心思っていた。
「……この旅が終わったら、みんなそろって遊ぶ機会も、少なくなっちゃうんでしょうね」
 と、リースが呟いた言葉は、思いの他寂しげに響いた。
「そうかなあ? あんまり変わらないと思うよ」
 アンジェラが首を傾げ、リースの肩に乗せた。柔らかな紫色の髪がこそばゆく、リースはちょっと笑いながら、相手のつむじに頬を押し当てた。同じ石鹸を使っているので、二人の髪からは同じ香りがする。
「なんとなくだけど、アルテナとローラントって、仲よくやっていけそうな気がするの。もし国交をむすべたら、私達、これからもいっぱい遊べるね」
 と、アンジェラが甘やかな声を出した。リースも目を閉じて、優しい囁き声を出す。
「そうね。みんなで助けあっていけたら、もっとよくなると思うわ」