ほつれた傷痕

 その日のデュランは夜番を終えて、フォルセナ城から家まで帰る所だった。城門の下に、何処かで見たような紫色が見えると思えば、向こうも気付いてこちらに駆けて来る。それが良く知る仲間の娘だったから、徹夜明けでぼやぼやしていたデュランも一気に目が覚めてしまった。兜の目庇を開けてつくづく見ても、やっぱりアンジェラだった。彼女はそばに来ると歩度を緩めて、にこにこしながらデュランの顔を覗き込んで来た。
「アンジェラ!?」
「おつかれさま!」
「……お前、一人で来たのか?」
 他にも色々聞きたい事はあったが、デュランは虚を衝かれてしまい、そんな言葉しか出て来なかった。アンジェラは満面の笑みで頷く。
「うん」
「危ないなあ。もう魔法が使えないってのに」
「お説教はかんべんしてよね。……それ、お城の兵隊さんの格好でしょ? 結構かっこいいかも」
 と、アンジェラは小言をさらりとかわし、話題をすり替えた。言われたデュランも、自分の鎧を見下ろした。
「ああ、これが制服みたいなもんだからな」
 デュランの暮らしは旧態依然である。聖剣の勇者だからと言って特別視されるわけでも無く、相変わらず傭兵として英雄王に仕える日々を送っている。翻って、アンジェラの方はちょっと変化があって、以前別れた際、これからは王女として国を支えて行くと息巻いていたのだが、宣言からまだ一月も経たずに遊びに来ているのだった。デュランがその旨を尋ねると、悪びれもせぬ答えが返った。
「アルテナ、あんまり寒くてやんなっちゃった」
「寒さに負けない、熱い心はどうしたよ?」
「たまには気力の充填も必要でしょ。……それと、デュランにお願いがあって来たの」
 アンジェラは意味深に付け足して、片目を瞑ってみせた。
 それで、アンジェラはデュランの家に付いて来た。ステラおばさんには既に話が通っていたようで、暫く此処に泊まる事が決まっており、居間に幾らかの荷物と手土産が置いてあった。今の時間は学校に通っているため、ウェンディが不在なのを残念がったものの、デュランの部屋に通されると、彼女は大喜びでベッドに座った。
「デュランのお部屋、ずっと見たかったんだ。きれいにしてあるのね」
「ああ、妹が掃除してくれるんだ」
 丁度兜を外す途中で、デュランはそちらを見ずに答えた。
「ウェンディちゃん、ほんといい子よねえ。私も妹、ほしかったなー」
 デュランは防具をほっぽり出して普段の格好になった。兵士の鎧は未だに慣れておらず、外すのにかなりややこしい思いをしたが、意地でもアンジェラの手は借りずに済ませた。兜を取り換えると、改めて家に帰ったような気がして何と無く落ち着くのだった。そうして目を離した隙に、いつの間にかアンジェラが剣を持ち出しており、がたがた鞘を鳴らしていた。
「こら、なにやってんだよ」
 デュランが見咎めた時には、刀身が半分鞘から飛び出していた。
「この剣、ずいぶん前に使ってたやつだよね」
「ああ、そうだよ。……だから、いじるのはやめろってば」
 部屋の隅には、父の形見から竜帝に止めを刺した一振りまで、ありとあらゆる刀剣が仕舞ってあり、この周囲だけはウェンディに触れさせず、デュランが自分できちんと手を入れている。変わり種の鋸刀、フランベルジェをアンジェラから取り返し、刀身に傷が付いていない事を確認してから、元のように立て掛けて置く。アンジェラはまだ悪戯するつもりで、きょろきょろと部屋を見回していた。
「何か、武器屋さんみたいだね。でも、デュランのお部屋って感じがするな」
 そう言って楽しそうに笑いながら、枕をぽんぽんと軽く叩いた。デュランは窓を一瞥し、未だ何も見えないのを確認すると、アンジェラに向き直った。
「ところで、話ってなんだよ?」
「まずは、アルテナの話からしよっかな……」
 アンジェラは何だか勿体振った風だった。気も漫ろに、相変わらず余所見しながら話を始める。
「最近、南に不凍港を造るって計画が立ったの。マイアとつながる予定だから、もう少し行き来が便利になるかも知れないわ。これ、提案したの私ね」
 と、得意げに最後の言葉を付け足した。
「エルランドの港、まだダメなのか?」
「ううん。マナがなくなっちゃったせいか、船は出られるようになったよ。でも、またいつ流氷が増えるか分かんないし」
「そうか……アルテナは苦労するな」
「ほんとよね」
 と、溜息をついた。エルランドの港はマナの減少により、以前は流氷の増加によって全く航行出来なくなっていたのだが、いざマナが世界から無くなってしまうと、却って異変が落ち着いたらしい。アルテナも、相変わらず寒い事は寒いのだが、慣れてきたのか暮らしに困るほどでは無くなったらしい。それでも油断は禁物であると、理の女王は依然対処に重きを置いているそうだった。
「それに、まともに戦える兵隊がいなくってさ……。アマゾネス軍にお願いして、特訓つけてもらってるんだけど、まだ時間がかかりそうだし」
 アンジェラは焦れったそうに、髪の毛を指に巻き付けた。魔術一辺倒の影響で、アルテナには剣戟や武術の心得が備わっておらず、ひ弱な彼女さえ、今では国一番のつわものに数えられるほどになってしまったらしい。魔法の類は消え去ったものの、魔物達は未だ世に蔓延っており、特にウィンテッド大陸は兼ねてよりサハギン族との小競り合いが絶えなかった地域で、戦力に欠くと言うのは不安な状況だった。聞いた名前が出たので、デュランはまた窓の方を顧みた。
「アマゾネスの連中、この間までアルテナにいたんだってな。今度はこっちに来るってから、待ってんだけど……全然来ねえな」
「この間というか、昨日だよ。リースが来てたんだけど、忙しそうだったし、こっちで遊ぼうと思ってるの」
「何だよ。だったら、お前もあいつらと一緒に来ればよかったのに」
 デュランが呆れて言うと、アンジェラはちょっと舌を出してみせた。
「びっくりさせようと思って」
 彼女はリースを驚かせるためだけに、わざわざ夜行の船に乗り、遥々フォルセナくんだりまでやって来たのだった。お供の一人さえ付けない辺り、理の女王に黙ってこっそり抜け出して来たのかも知れないと、デュランはアルテナの苦労を思いやった。何はともあれ、まずは国王陛下に事の次第を報告せねばと思ったら、既に彼女の方で謁見して来たそうである。唐突な来訪に対しても、英雄王は従容と歓迎したようで、陛下の思し召しならばと、デュランも取り敢えずは気にしない事にした。
「そんな事より、一番大事な話ね! 聞いてちょうだい」
 足を揺らしていたアンジェラが、卒然畏まって言った。つられてデュランも居住まいを正す。そのまま暫く、沈黙が落ちた。構えたは良いが、ローラントの方が気になって仕方無く、デュランは次第にそわそわし始めた。
「何だよ? 早く言えよな」
「……やっぱり、自信なくなってきちゃった……。どうせダメだろうし」
「そんときゃそん時だろ。言うだけ言ってみ」
「ひとごとみたいに言っちゃってさ」
 と、売り言葉に買い言葉で、逡巡していたアンジェラも自棄っぱちのように頼みを口にした。
「デュランに、私の騎士になってほしかったの」
「……ああ、そりゃダメだわ」
「ほら、やっぱり!」
 と、彼女はデュランを指差した。
「そんなの当たり前だろ。オレはずーっと昔から、英雄王様にお仕えするって決めてんだ」
 デュランも負けじと言い返す。すると、今の今まで元気だったアンジェラが、見る見る目に涙を浮かべ始めた。常ならぬ反応にデュランもぎょっとして、慌てふためき言い訳に掛かる。
「……いや、その、別にイヤだとかじゃなくてさ! 二君に仕えては剣が鈍るって事で、お前だって分かるだろ、なっ?」
 懸命に取り繕ってはみたものの、相手は俯いたままでいる。滲んだ涙を拭おうと、アンジェラは目元に手をやった。
「英雄王さんには聞いた。デュランがいいって言うなら、いいよって言ってた」
「いつの間に……」
 今度はデュランが悄気る番だった。竜帝の件で武勲を立てた事も与って、あわよくば国王陛下から騎士に叙されるかも、と内心期待していた折にこれである。この娘に遠慮したとは言え、命を捧げる覚悟を決めた主君から、こうもあっさりと他人に渡す素振りを見せられれば落ち込みもした。拗ねていたら、アンジェラがいきり立って枕を叩いた。
「どうしてあんたがしょんぼりしてるのよ!」
「こっちにだって色々あるんだよ!」
 デュランも負けじと一蹴する。
「とにかく、オレはお前の騎士なんかまっぴらだからな! 陛下にも、もっと認めてもらわなきゃならん」
 そう考えたら俄然燃えて来た。英雄王はデュランの雑念を見通した上で、未だ騎士の位を与えるに足らずと判断したのだ。猛省した上で、彼はこれまで以上の修練を心に誓った。もっと騎士に相応しい男になって、かつて音に聞こえたフォルセナ王子と黄金の騎士のように、自分も英雄王にとって必要不可欠な剣士として認めて貰いたい。そしてデュランが名を揚げれば揚げるほど、フォルセナ、ひいては英雄王の名も音高く聞こえる筈だった。
「ちょっと、また今フォルセナの事考えてたでしょ!」
 アンジェラがまた枕を叩いた。
「デュランったら、そればっかりなんだから!」
「返事ならさっきしたじゃねえか! 断るったら断る!」
 そう言ってデュランが威嚇したが、アンジェラも恨みがましく睨み付けて来た。暫し膠着する。しているとその内、顔を見るのも嫌になって来て、二人してそっぽを向いた。
「ふんだ! こっちこそお断りよ、あんたみたいなヤツ」
「ああそうかよ! そんなヤツに頼んできたのは誰なんだ?」
「私は黄金の騎士様に頼みにきたの! あんたなんかじゃありませんよーだ!」
 と、枕を投げ付けて来た。デュランが手も無く叩き落とす。埃が立つだろ、と投げ返せば、また投げられて顔に直撃した。案外重くて、泥のようにゆっくり落ちた。いい加減腹に据えかね、摘み出してやろうと詰め寄るも、アンジェラがまた口をへの字に結んで俯いているのに気が付いた。デュランの気勢も見る間に殺がれてしまう。彼女は口を尖らせながら、ぽつぽつ不平を零した。
「……だってさ。そんなそんなひどい断り方じゃ、私だって傷つくわ」
「そうか……そうだよな、すまん」
 枕を押しやり、膝を突いてアンジェラを見上げる。下睫毛の辺りが透明に盛り上がっていて、それが今にも破れてしまわないか内心びくつきながら、デュランはなるべく親切に話し掛けた。
「さっきの態度じゃ、怒ってもしょうがないよな」
「いいよ。デュランはいつもそうだもん」
 と、アンジェラはそっぽを向いてしまった。
「悪かったって」
 デュランが苦笑しながら再三謝ると、アンジェラの目のうるうるがやや引っ込んだ。それでお互い気安くなり、普段の調子が戻って来る。
「さっきも言ったけどさ、おまえの事がイヤだってわけじゃないんだよ。オレはフォルセナの傭兵として、この国を離れるわけには行かないんだ」
「でも、この前までフォルセナにいなかったじゃない」
「あの時は特別だったんだよ」
「だったら、私のためにも特別になってくれたっていいでしょ」
「それとこれとは話が別だろ。特別は特別なんだ」
 断固拒否すると、アンジェラは足をばたつかせ、デュランの胸の辺りを蹴って来た。拗ねたような声が上がる。
「……ちょっとぐらい、考えてくれたっていいじゃん」
「考えるだけでいいんだったらな。なら、ちょっとは考えてやるよ」
「ちょっとはイヤ。よーく考えて」
 と、アンジェラは上目遣いでこちらを見た。
「それじゃ、よーく考えておく。だが、期待はしないでくれよ」
 姑息な返事だが、此処で撥ね付けてしまえば機嫌を損ねてしまうのは目に見えている。デュランも学習したのだった。アンジェラはひとまず納得したようで、それじゃあ待ってると、漸く顔を上げてくれた。
「デュラン!」
 ステラおばさんの声がした。デュランが階段に寄り、下を覗き見る。
「何?」
「ローラントの子達が来たよ。あんた、ずっと待ってたんだろ?」
「今行く! ようやくお出ましだぜ!」
 そうして振り返ろうとしたら、アンジェラがすぐ後ろまで来ていた。ぶつかって、二人して体勢を崩し、倒けつ転びつ階段を落ちる。尻餅で踏み付けて来たアンジェラを押し退け、その手を引っ張って戸外に出ると、丁度ローラント勢の通り掛かりに出くわした。
 王女リースとお付きのアマゾネス兵達は、フォルセナの騎士に先導され、城下町の大通りを闊歩している所だった。その美しい風情を一目見ようと、通りを囲むように町の人々が立ち並ぶ。群衆を突っ切ってデュラン達が飛び出し、往路に立ち塞がると、リースは驚いて足を止めた。
「アンジェラ! あなたも来ていたの?」
 彼女にしては珍しく、挨拶するのも忘れてしまっていた。アンジェラは大成功とばかり、にこにこ笑ってリースを見詰める。
「へへ、びっくりしたでしょ」
「ほんとにもう、びっくりした……でも、また会えて嬉しいです」
 リースは口元に手をやって、花のようにふわりと微笑んだ。以前よりずっと明るくなったようだ。彼女は笑顔のまま、デュランの方にも顔を向けた。
「デュランさんも、お久しぶり」
「元気そうで良かったよ。こいつの所にも行ったらしいな」
 と、デュランは親指でアンジェラを指した。
「ええ。ゆっくりお話する時間がなかったから、また今度会いたいとは思ってたんです。フォルセナに来てるとは思わなかったけど……」
 往来のど真ん中で話すわけにも行かないので、歩きがてら、リースは各地を訪れるに至った経緯を簡単に話してくれた。ローラント落城の際、何処にも頼れるような寄る辺が無く、生き残りの者達にも大いに心細い思いをさせてしまったので、あのような事態に独力で対処するのは到底不可能である事を、リースは痛感したのだった。それで、他国との結び付きを強めるために、彼女は各地を回っているそうなのだった。その考えは他も同様で、国同士で連携を取るに越した事は無いと、公達も彼女の提言に賛同してくれ、フォルセナとも早晩盟約を結ぶ運びとなっている。この度はご機嫌伺いに参上したのだった。
 成り行きで二人も列に加わり、そのまま王城まで追従した。差し当たり、積もる話は後でしようと、中庭の所で一旦別れて、そのままリースは玉座の間に向かった。残った数名のアマゾネスが、デュランに声を掛ける。
「デュランさん、フォルセナ兵の訓練所に案内してくれませんか」
「ああ」
 頷きながら、彼は相手の顔をまじまじ見詰めてしまった。何処かで聞いたような声だった。アンジェラを見たら、彼女も思案顔で眉を寄せている。アマゾネスが愉快そうに見守る中、あれでも無いこれでも無いと記憶を引き摺り出し、漸く思い当たる名前が見付かった。
「……あ。あんた、もしかしてメルシーかい?」
 デュランが尋ねると、そのアマゾネスは華やかに笑った。
「ええ、大砲のメルシーです。お久しぶり」
 ボン・ボヤジのいとこ、メルシーは愛嬌たっぷりに小首を傾げた。こちらは元から明るかった。
 ライザの方は、王女に代わってローラント軍を取り纏めるため、国で留守を任されているそうだった。新人の教育に加え、アルテナ兵の訓練まで担当しているお陰で、多忙ではあるのだが、一同気概に満ち溢れており、忙殺されるくらいが発散出来て丁度良いらしい。しかしながら、せめてリースだけはゆっくりさせてあげようと、アマゾネス達は皆で額を寄せ集め、先に本人が述べていたような職務を進言し、ついでにフォルセナで休養させるつもりなのだった。メルシーと言えば大砲であるが、他国への移動に役立つかと思いきや、好き好んであんな移動手段を選ぶ物好きがいる筈も無く、あれきり持て余してしまっていた。道々、彼女らとそんな話をした。
 アマゾネス兵達と別れ、二人は城下町の方へ戻った。丁度朝市が始まる頃で、ローラントを見に集まった人々は散ってしまい、大通りの軒先ががやがやと賑わっている。見慣れたいつもの光景であるが、今のデュランにしてみれば喧しくて敵わず、遊びたがって頑張るアンジェラの背中を押し、わざと石畳の敷かれていないような道外れを通って帰った。裏通りは打って変わって、朝の静かな空気に満ちていた。
「あっ、いた!」
 何だか声がすると思えば、ケヴィンが目の前に滑り込んで来た。間髪入れずカールが隣に着地する。挨拶する暇も無く、獣人の少年は息急ききって尋ねた。
「リース、来てるか?」
「城の方に行っちまったよ」
 デュランがそちらを指差す間も無く、続いて街角から、シャルロットを肩車したホークアイが、髪の毛を手綱のように引っ張られながら登場した。走って来るなり、こちらも息を切らして、ケヴィンに聞く。
「どうだった?」
「もう行っちまったって」
「あちゃー、遅かったか……」
 と、ホークアイは大袈裟に俯いた。
「だからいったでしょーに。わかったんなら、はやくおろしてくだちゃい!」
 彼の髪の毛を振り回しながら、シャルロットが足をばたつかせた。頭の上で暴れられては敵わず、ホークアイは失礼しましたとばかり、彼女を恭しく下ろした。相変わらず小さいシャルロットは、ぷりぷり頬を膨らませていたが、機嫌の直る早さも相変わらずである。粛々と、デュラン達に向かって頭を下げ、二股の帽子が垂れ下がった。
「どうも、ごぶさたしてまち」
「この前会ったばっかりじゃない」
 と、アンジェラ。
「何だそれ? 何かあったのか?」
 デュランが尋ねてみても、アンジェラとシャルロット、二人で仔細らしくにやにやするだけだった。
「ま、そのはなしはおいおい、しまちょ」
 シャルロットはそう言って、さっさと話題を変えてしまった。
「デュランしゃんのほうも、ぜんぜんおかわりないようでちね」
「おかげさまでな。シャルロット、ちょっとはでかくなったみたいだな」
 彼女の身の丈は、相変わらずデュランの胸にやっと届くくらいだが、心なしか少しは大きくなったように見える。シャルロットはにっこりして、爪先立ちになって背伸びした。
「そうでちょ。シャルロットはスキキライやめたもん」
「あら。この前までデュランにピーマン食べてもらってたって言うのに、あんたも大人になったのね」
 アンジェラも一緒になって褒めると、彼女はますます得意気にふんぞり返った。
「でちょ! もっとほめてもいいんでちよ」
「よい子のシャルロットさん、ちょっとオレにも挨拶させて」
 ホークアイが小さな肩を押した。シャルロットが大儀そうに隣に退けてやる。彼は緩んだバンダナを直し直し、まずはアンジェラに愛想良く笑って見せた。
「ひさしぶり。君はますますきれいになったね」
「ありがと」
 アンジェラも笑顔で挨拶を返した。
「そちらさんはだいじょうぶか? 何か、ずいぶんお疲れのようだけど」
 と言って、彼はデュランの方を見やる。
「こいつが朝っぱらからうるさくてよ」
「なによ、私のせいにするわけ?」
 デュランがアンジェラを指差すと、彼女はむくれて腰に手をやった。
「お二人さんは相変わらずか」
 ホークアイはにこにこしていたが、引っ張られたせいで攣れたらしく、時折後ろ頭を手で撫で付け、しまいにはアンジェラに直して貰い始めた。シャルロットが済まなそうに体を縮こめる。気を逸らしてやろうと、デュランが彼女に話し掛けた。
「お前達もアレだろ? リースの事聞いて来たクチ」
「うん」
 と、忽ち笑顔を取り戻す。
「シャルロットは、おじいちゃんからききまちた。リースしゃんにあうついでに、あんたしゃんにも、おめにかかってあげようとおもったんでち」
「そりゃどうも、わざわざありがとさん」
 こまっしゃくれた物言いも、久々に聞くと嬉しいものだった。つられて笑うデュランに、カールが背を伸ばして飛び付いて来た。小麦の色した狼は、こうして立ち上がると、もはやシャルロットより大きいくらいである。ケヴィンの方も、背が伸びてますます大人っぽくなっていた。
「カールもでっかくなったなあ」
 デュランがカールの背中をさすっていると、ケヴィンもそばに来て、その頭を軽く撫でた。
「カール、もっとでっかくなるよ」
「マジかよ」
 カールも頷くように、太い声で吠えた。今でさえ重たくて敵わないのに、これ以上となると押し潰されかねない。カールはそれでやっとデュランに伸し掛かるのを止めてくれ、ケヴィンの隣できちんとお座りした。尻尾を激しく振るもので、地面の芝生が抜けて散らばった。其処に髪いじりを終えたアンジェラが、膝を突いてカールの毛皮を撫でてやる。頬を舐められてくすぐったそうにする。撫でながら、彼女は喜色満面で仲間達を見上げた。
「デュランもリースも、すごくびっくりしてたわよ。みんなにも見せてあげたかった!」
「いいなあ。シャルロットも、デュランしゃんのはなをあかしてみたかったでち」
 シャルロットが羨ましがる隣で、ホークアイとケヴィンもにやにやしており、どうやら四人全員が共謀者のようだった。デュランとリースはそれぞれの職務で忙しいから、二人がフォルセナに集まる今度を好機と思い、皆で予め約束を取り付けていたらしい。其処にアンジェラが抜け駆けし、一人で先んじてフォルセナを訪れたのだった。仲間達は大いに楽しそうだが、してやられた方のデュランは全く面白くなかった。
「で、それと肩車に何の関係があるんだよ?」
 尋ねると、途端にホークアイが渋い顔をした。いつもの癖で、爪先で地面を叩く。他の二人も似たような反応だった。
「ボン・ボヤジの大砲を使ったら、あのオヤジまーた失敗しやがってな」
「また、モールベアの高原に落ちたんだ。いたかった……」
 ケヴィンもそう言い、続いてシャルロットが後を引き継いだ。
「そしたら、こーげんのむこうにリースしゃんがみえたんでち。このひとたち、いそげばおいつくとかいいだしまちて……」
「で、このおじょうちゃんはあんまり足が速くないだろ。だから、少しオレがお手伝いをしてやったというワケさ」
 と、ホークアイが見下ろすと、シャルロットはますます不機嫌になってしまい、腰に手をやった。
「まったく、よけーなおせわでちたけどね。シャルロットは、どーせまにあうわけがないっていったんでち」
「だけど、オイラ楽しかった。な、カール」
 ケヴィンがそう笑い掛けたが、いかんせん、カールは他に夢中で聞いていなかった。アンジェラにこれでもかと撫でさすられ、ついに降参して腹を見せる。満足したアンジェラが立ち上がり、膝に付いた葉っぱを払い落とした。
「私、お城でリースを待ってようかな」
「オレも行くよ。君と話したい事もたくさんあるし」
 と、ホークアイが申し出た。
「そう。それじゃ、一緒に行きましょ」
 彼女はホークアイに笑い掛けると、カールを振り返ってキスを投げた。
「カール、また後で遊んだげるからね」
 それで二人は連れ立って行ってしまった。
 道端には三人と一匹が残った。夜番の上、交代がなかなか起きて来なかったせいで、デュランは寝不足だった。やたらと肩が凝って来て、首を傾けたら滅法痛そうな音が鳴った。
「そんじゃ、オレは帰るとしようかな。お前達は、子供どうしで遊んでなよ」
「ざんねんでちけど、あそびにきたんじゃありまちぇんよ」
 と、シャルロットは首を振った。
「シャルロットは、しんぜんたいしのオシゴトをまっとーしにきたんでち」
「何だよ、それ?」
 行き掛けるも、耳慣れぬ言葉に足を止める。シャルロットは顎に指を当て、誰かに言われたらしい事を思い出していた。
「んとね、ほかのくにのいろんなひとと、なかよくするんでち。シャルロットがうぇんでるのだいひょーで、みんなのなかをトリモチするんでち。せきにんじゅーだいでちょ」
「そりゃじゅーだいだ、と言いたい所だが、いまいち信じられんな。ほんとにあるのかよ?」
「あるってば。だって、おじいちゃんのいいつけなんでち。ヒースにきいたら、それって、しんぜんたいしのオシゴトなんだっていいまち」
「なるほどな。それで、ケヴィンも付き合わされちまってるのか」
 漸く合点が行き、デュランはにやりと笑った。それらしい大人っぽい肩書が付けば、シャルロットは何事も乗り気で取り組むのだ。長年面倒を見ているだけあって、ヒースは彼女の乗せ方を良く分かっているのだった。そうしてケヴィンに話を振ると、彼は応とも否とも言い切らず、曖昧に首を捻った。
「オイラよくわかんないけど……シャルロット、ここにいれば、勉強しなくてすむから来たんだ。ウェンデルだと、勉強しなきゃいけないから」
「たまにはいいでちょ。シャルロットだって、はねをのばすじかんがいるんでち」
 頬を膨らますシャルロットのそばに、カールが寄って行って、宥めるように手を舐めた。シャルロットは依然むくれながら、膝を突いてカールに手を伸ばした。
「みんな、シャルロットのくろうをぜんぜんわかってまちぇん! わかってるのは、カールだけでち」
 そう言ってぎゅうと抱き締めると、ふわふわの巻き毛とふかふかの毛皮に埋ずもれ、シャルロットの姿が殆ど見えなくなってしまった。親切にもカールは同情してやり、鼻声でぴすぴす鳴いていた。呆れたような、いっそ面白いようなで、デュランとケヴィンは一連の寸劇を黙って傍観する。打てば幾らでも響くので、彼女の事情はひとまず置き、二人で話す事にした。
「そんじゃ、お前は何で親善大使様と一緒にいるんだ?」
 大人しい性格のケヴィンは、人に強く言い出す事が出来ないせいか、シャルロットのような子供にすら負けてしまう。またいつもの伝で森から引っ張り出されてしまったのだろうと思ったら、意外にも彼は首を振った。
「オイラとカール、今ウェンデルでお世話になってるんだよ」
「へえ。そりゃまたどうして」
「勉強、教えてもらってる。人間の事も、獣人の事も、もっと知らなくちゃいけないから」
 ケヴィンは以前モンクのクラスに就いていた繋がりで、少し聖職者の職務について興味が出たらしい。それで、ウェンデルで人間の事を学ぶついで、神官達の慎ましやかな生活を体験しているそうだった。性格からしても、そうした暮らしが性に合っているようだった。
「そしてシャルロットも、ケヴィンしゃんにまけまいと、がんばっておべんきょーをしてるんでち。がんばって、おじいちゃんとヒースのおてつだいをしなくちゃ、いけまちぇんので」
 シャルロットが漸く顔を出した。以前は難しい言葉が全く読めず、絵本を開くのがやっとだった彼女も、ケヴィンに影響されて少しずつ勉強を始めたらしい。今度お手製の詩集をくれると言われたが、デュランは謹んで辞退した。
「お前達もがんばってるんだな。オレも応援してやるぜ」
「シャルロットは、あんまりうれしくありまちぇんよ」
 彼女はそう言って、少し口を尖らせた。
「ケヴィンしゃん、ゆーとーせーなんでちよ。シャルロット、あっというまに、おいてかれてまち……」
「でも、オイラ、まだ知らない事がたくさんある。もっと勉強しなきゃ」
 そう言ったケヴィンを、シャルロットは恨めしそうに見やった。
「もうじゅーぶんでちよ。ほどほどにしときなちゃい」
 ともすれば喋りまくるシャルロットをいなしつつ、デュランはウェンデルの件を突っ込んで聞くと、ケヴィンはそちらと月夜の森を行ったり来たりしながら、時々勉強したり、時々シャルロットの相手をしたりで、それなりに忙しくしているらしかった。この間アンジェラと会ったばかりだと言う事については、いずれアンジェラ本人がいる時に話すだろうと、シャルロットはいやに秘密めかして韜晦する。ケヴィンの方もどうやら知ってはいるようだが、話すに気が進まない様子だったので、デュランもそれ以上詮索しなかった。
 デュランはケヴィンを誘って、ローラント兵の加わった訓練風景を見に行った。シャルロットも呼んでみたが、そんなものは面白くも何とも無いと、彼女はアンジェラ達の方に行ってしまった。そんなわけで二人だった。カールは、城内に動物の立ち入りを禁じるような規則も無く、狼と言うよりは、大柄で足の太い犬に見えなくも無いので、付いて来ても誰にも咎められなかった。ケヴィンの兄弟分と言うだけあって、あまり鳴かない、温和で心の優しい狼だった。訓練場は城の裏手にある。仲間達は英雄王との謁見でしか城を訪れる用が無かったから、こちらに連れて来るのは初めてだった。
 美しい女兵士達は、男だらけのフォルセナ軍に於いて一際異彩を放っていた。只でさえ女性の姿が目立つ所に持って来て、ローラント人の金髪碧眼がまして華やかである。フォルセナ側の反応はそれぞれで、良い所を見せようと張り切る者、緊張して鯱張る者、気にせず普通の兵隊と同じように扱う者など、ざわざわして取り留めが無い。始め見学しているだけだったアマゾネス兵も、やがて演習に参加するようになり、長物の間合いを遺憾無く発揮していた。あそこで一旦下がれば良いのに、弾き返して蹴りを叩き込んでやれば良いものを、だけど女に蹴りは不味いか、デュランは見物しながらあれこれ批評し、五分と見ない内に加わりたくてうずうずしてきた。それで、軽く飛び入り参戦してみたまでは良いが、メルシーを派手にすっ転ばせてしまい、同僚達から顰蹙を買ったので、すぐにやめた。元より女に剣を向けるのは好かないせいか、デュランも思ったより身が入らずにしまった。しかし、見ているだけではもどかしくてならないのだった。広場の隅、ケヴィンの隣で歯噛みする。争い事が嫌いなせいか、ケヴィンも実はそんなに興味が無いらしく、演習を見るよりはカールと遊ぶ方に忙しかった。
「ちくしょー、何かスッキリしねえ……」
「オイラ、相手になろうか?」
 と、しゃがんでいるケヴィンが見上げて来た。
「本当か? 頼むわ」
 そう言いながら、二人揃って南の空を見上げる。王宮に阻まれて見えないが、空の明るさからして、太陽が未だ沈む素振りの無い事は良く分かる。デュランが視線を下ろして隣を見れば、物静かな琥珀色と目が合った。どう見ても変身出来そうには無い。
「まだ無理だよな」
「うん」
「じゃあ、そのまんまでいいや。行こうぜ」
 障害の無い所で思い切りやり合えるように、二人はモールベアの高原へ行った。もぐらの少ない、なるべく平らな場所を探して探し回った挙句、丁度良い広さの丘に辿り着く。危ないからカールに離れて貰うように頼むと、彼はもぐらを追い掛けて、丘を走って下って行った。
 素手だからって手加減はいらんと言い付けたら、ケヴィンは言葉通り容赦無く掛かって来た。拳と蹴りを防ぐばかりで反撃も敵わず、やっと一撃食わせたと思えば、片手で軽くいなされる。している内に、視界からケヴィンの姿が消え、背後から腕を取られて投げ飛ばされた。受け身を取って、投げ返してやろうと掛かるも、相手は飛び退って距離を置く。そうしてデュランはしつこく挑みかかっていたが、終いには巴で投げられてしまい、草の上に倒れ込んだ。上から、ケヴィンが心配そうに覗き込んで来る。
「だいじょうぶ?」
「ああ。やっぱケヴィンにゃ敵わねえな」
「十分強いと思うよ。デュラン、すごくじょうぶ。獣人とおなじぐらい」
「オレなんかまだまださ。もっと精進しなきゃ」
 そう言って、デュランはちょっと痺れた自分の腕を見た。単純な力比べなら変身したケヴィンにだって負けないのだが、実践となると手も足も出ず、剣を使ってさえ到底敵いそうに無かった。訓練のやり方が悪いのか、腕立ての時ウェンディにでも乗って貰おうか、それともアンジェラの方が重くて良いだろうか、それともいっそ武者修行の旅にでも出ようかと、あれこれ勘案する。ふとアンジェラが頭に浮かぶと、つられて朝の一件をも思い出した。
「……あいつ、何でいきなりあんな事言い出したんだろ」
「アンジェラか?」
 と、傍白をケヴィンが拾った。
「アンジェラ、何言ったの?」
「よりによって、オレが絶対に聞いてやれない事を頼んできたんだよ。……なのに、断ったらすんごく落ち込んじまってさ。何かこっちが悪いみたいじゃねえか」
 ぶつくさ零していたら、唐突にケヴィンが噴き出した。デュランの咎めるような目線を受け、誤魔化すようにバンダナを縛り直しながら、隣に腰を下ろす。それでもにやつきは収まらず、終いには拳を口に押し当てて無理矢理止めていた。
「二人とも、ほんとに仲いいな」
「そうかな……ケンカばっかりしてる気がするけど」
「ケンカしても、いつも一緒にいるよ。ふつう、キライなやつの所いかない」
 いつに無くケヴィンの視線が生暖かく感じ、デュランはむきになって応戦した。
「オレは近寄ってなんかいないぞ。つっかかってくるのだって、いつもアンジェラの方からだ」
「アンジェラ、さびしいんだよ。昔のオイラとおんなじだ。……でもオイラ、カールに会って、さびしくなくなった。デュランもやさしくすればいい」
 相変わらず穏やかに話すが、口振りは存外真剣だった。彼にそう諭されてしまっては、デュランも頷く他余儀は無い。いつの頃からか、人からアンジェラの事を言われると、肩の辺りが変に落ち着かないようになっていた。其処は随分と前に焼かれた傷で、旅を始めた時分にはとっくに治っていた筈なのに、今更になってまた疼き出していたのだった。痛みでむず痒さを掻き消すように、肩を小突きながら、不承不承肯じた。
「……いちおう、努力はしてみる」
 デュランは今朝に見た、零れそうに潤んだ緑色を思い出した。あれは相手の突っ慳貪な性格を承知の上で、アンジェラなりに勇気を奮った言葉なのかも知れなかった。しかしながら、そもそも優しさとか温かさとか言った代物をデュランに求める事に無理がある。いかな黄金の騎士の肩書きを持つからと言って、わざわざ自分なんかを選ばず、何処か他の親切な人間に頼めば済む話だった。覚えず先般の出来事を引き摺っており、デュランは寝転がったまま、頭を乱暴に掻き乱した。
 視界に狼の頭が突き出した。驚いて、思わず身を起こそうとするも、前足で肩を押さえ付けられてしまい、顔中を舐められる。手で突っ張っても暖簾に腕押しだった。デュランは顔を背けながら、カールを懸命に押し返した。
「おい、こら、ケヴィンに行けってば!」
 ケヴィンは止めるどころか、面白そうに笑っていた。
「心配してるんだよ。カール、デュランが元気ないって分かってるんだ」
「元気ならまだまだあり余ってら! よっしゃ、もう一本!」
 と、弾みを付けて起き上がったが、反対にケヴィンは地面へ寝転がってしまった。
「もうやめようよ。オイラ疲れちゃった」
 そう言って、大きく伸びをした。デュランはカールをようやっと押し退け、立膝をして座る。其処にカールが顎を乗せ、ちらりとこちらを見て来た。金色の目は何処までも温順である。この狼が狼らしからぬのは、性格の事も勿論だが、毛並みが綺麗に生え揃って、恰も飼い犬のように見えるためだった。デュランが横っ腹の辺りを撫でてやると、見た感じは枯れ芝みたいで硬そうな割に、根本の毛は軟らかくて触り心地が良い。まだまだ遊び足らないらしいカールは、勢い付いてケヴィンに突撃し、もつれ合いながら川沿いの土手を転がり落ちて行った。デュランの位置からはすっかり見えなくなってしまったが、何処からとも無く鼻を鳴らす笛のような音と、大きな笑い声が聞こえた。暫くすると、消えた方向の反対側から飛び出して来た。モールベアの穴に落ちたらしかった。二人とも地面に投げ出され、ちょっとの間伸びていたが、やがてケヴィンがカールを抱き上げ、デュランの所まで歩いて来、隣にどっかり座った。担がれたカールは目を白黒させていた。
「お前達、いつまでフォルセナにいるつもりなんだ?」
 尋ねると、ケヴィンは少し考える素振りを見せた。
「……たぶん、リースが帰るまでじゃないかな」
「じゃあ、しばらく泊まってくんだな」
 リースは王城の客間に招かれているので、残りの三人は暫く宿屋で過ごすそうである。デュランは宿の主人に口を利いて、宿代を安く上げて貰おうかと思ったが、頼んでいるのだか強請っているのだか分からんような状況がまざまざと目に浮かび、やっぱり考え直した。
「だったら、みんなもうちでメシ食ってけよ」
「食べたいけど、おばさん、迷惑じゃないかな……?」
「たった四人増えるだけだろ」
 そう言った拍子、デュランはカールと目が合った。
「カールも入れて五人か。……まあ、何人いようがメシ作んのは同じだよな」
「……そうかも?」
「そうだよ。いっぱいいた方が、おばさんもウェンディも喜ぶしさ」
「うん、分かった」
 ケヴィンは楽しそうに頷いたが、ふと潮が引くように、表情から笑みが消えてしまった。俯いて、カールをしっかと抱き寄せる。カールはされるがまま、少年の頬に濡れた鼻を押し当てた。そうして暫く黙っていたが、やがてケヴィンが呟いた。
「……うらやましいな、家族」
 そう言われても、彼の兄弟分は首を傾げるだけだった。ケヴィンは原っぱの草を見据えたまま、誰に対するとも無く話し続ける。
「……オイラの母さん、獣人がイヤで逃げたんじゃないって分かった。……よかったけど、ほんとはオイラ、どこかで生きてるんじゃないかって思ってたんだ。でも、病気で死んじゃって、もう会えない。すごく悲しい」
 母親が自分達を嫌って逃げたのだとしても、死んでしまっているよりは、何処かで元気に暮らしている方がずっと幸せだったのではないかと、ケヴィンはそう言ったのだった。デュランが何とも答えられずにいると、ケヴィンは悄然として、ますます毛皮に埋もれてしまった。
「ごめんよ。へんな事言っちゃった……」
「いや、気持ちは分かるよ。オレだって親いないし」
 同情を示すと、ケヴィンは少し顔を上げ、横目でデュランを見た。
「デュラン、さびしくなかったか?」
「……母さんが死んだ時はな」
 デュランは両親を一度に亡くしたわけだが、父親については、その伝説じみた逸話を聞いて育つ内、自分も当代無双の剣士になりたい、家長として皆を支えて行きたいと、憧れるばかりで他に感懐を差し挟む余地が無かったのだった。その父親に言い付けられた通り、母親の死に際しても、意地でも泣かずにぐっと堪え、小さなウェンディを一生懸命あやしてやった記憶がある。だから自分が寂しがるよりは、家族の思い出さえ残っていない妹を可哀想に思う事の方が大きかった。デュランにとってはステラおばさんが母親みたいなものだし、三人ながら恙無く暮らす事が出来、時勢にしては幸せな家庭環境だった。
「だいじょうぶ、オイラもう平気。だって、おまえがいるだろ」
 出し抜けにケヴィンが言った。心配して舐めて来たカールに対してだった。凭れ掛かる大きな体を、毛並みに逆らって粗く撫でる。ちょっと思い出して言ってみただけだと、弁解するように兄弟分を宥めていた。
「カールもだけど、お前には親父もいるだろ。今からでも、家族らしい事をしておくといい」
 デュランの言葉に、ケヴィンは一往頷こうとしたが、首が中途半端な角度で固まってしまい、渋い顔でカールの足先を見詰めた。あんまり顰めたもので、眉間に皺の後が残ってしまった。
「獣人王、戦い以外の事も、教えてくれるようになったけど……だけど、あんまり、父さんっぽくない」
「獣人だからなあ。やっぱ、人間のジョーシキとは違うんじゃねえの」
「オイラ半分人間なんだし、半分はふつうにしてほしいや」
 そう言って、ケヴィンは拗ねたように口を尖らせた。常識と言えば、獣人は森の中で自然と育つのが当たり前だそうなのだが、その事を教えてくれた当のケヴィンは例外で、母親が亡くなるまでずっとその膝元で育てられていたらしい。彼が獣人王と今一つ折り合いを付けられないのは、そうして身に付いた人間らしい部分が影響しているのかも知れなかった。ただし話を聞く分には、想像するよりも獣人王は冷血と言うわけで無く、種族の常識なりに、我が子に対し愛情を持って接していた様子である。ケヴィンにもそれが分かって来たから、関係は以前よりずっと良くなりつつあるのだった。
 他の仲間は、どうやら皆で出掛けていたらしく、日が暮れる頃になって漸く戻って来た。家に帰って、おばさんに夕飯の件を報告したら、何でもっと早く言わなかったのかと剣突を食らう羽目になったが、食事はしっかり八人と一匹分用意してくれた。