二
騒がしい一日が終わった。アンジェラはステラやウェンディとの談笑に夢中のようなので、邪魔されないのを良い事に、デュランは早々と自室へ引き上げた。そしてぐっすり寝ていたら、不意に窓の方で物音がした。飛び起きて、間髪入れず臨戦態勢を取る。息を詰め、闇の中に目を凝らすと、窓から逆さのホークアイが覗き込んでいるのに気が付いた。デュランが近寄ると、手を振って応える。窓を開けてやっても、入って来るつもりは無いようだった。
「夜分にこんばんは」
「夜襲かと思ったじゃねえか」
デュランが不審に見やるも、相手は機嫌が良さそうにしている。
「悪いな。ちょっと、君んちの屋根をお借りするよ」
「別にいいけど、何するんだよ?」
疑問を聞きも敢えず、忍者の少年は忽ち姿を消してしまった。デュランも装備を整え、窓から身を乗り出してよじ登ろうとしてみる。が、結局無理で、ホークアイにロープを下ろして貰った。
屋根の上にはリースもいた。淡い金髪が月明かりに良く映える。眠たげに膝を抱え、頭の羽根飾りがしおれているが、デュランを認めるや否や、ぱっと顔を輝かせて迎えてくれた。
「あ、来てくれた。こんばんは、お邪魔してます」
「リースもいたのか」
「他のみんなも誘おうと思ったんだけどさ。気持ちよさそうに寝てたから、そっとしておいたんだ」
と、ホークアイは彼女の隣に座った。
「オレも気持ちよく寝てたんだけど……」
起き抜けのデュランは不機嫌だった。とは言え、折角友達が遊びに来てくれているのだし、少しくらい付き合ってやろうと思い直した。デュランも大人しく、彼に倣って腰を下ろした。思ったより屋根の勾配が急である。流石盗賊と言うべきか、ホークアイの方は闇夜に溶け込み影のようで、向こう側にいるリースがやけに目立つ。空には僅かに欠けた大きな月と、溢れんばかりの星々が鏤められ、眩いほどだった。
「それで、お前達は何してんだ?」
「これからの事を話していたの。私達の故郷の事です」
リースが空から目を側めた。彼女が良くする、思い詰めたような、気難しげな面差しだった。
「お昼間お話したように、ローラントは他国との結びつきを強めたいと考えています。この間、私は理の女王様やジャドの領主様ともお会いして来ました。ナバールとも、できれば関係を修復したいと思うんですが……」
「難しいだろうな」
「ええ」
デュランが率直に返すと、リースも頷いた。間に挟まれたホークアイは、少し身を下がらせ、黙って話を聞いている。
「全て美獣が悪いんだとは分かっていますが、それでもまだ、ローラントの民は心の整理がつきそうにありません。……ナバール軍の方にも、私達が命を奪った人達がいる」
「そうだな。フォルセナにも、未だにアルテナの事を良く思わないヤツはいる。それはローラントも同じだろう」
ナバールとは違い、アルテナは女王が操られていただけで、兵隊は皆各々の意志で戦争に加担していたのだった。アンジェラは英雄王を救った廉で看過されているものの、それでもこのフォルセナに於いて、アルテナ王女である彼女を複雑に捉える者がいないわけでは無い。英雄王はアルテナとの同盟に吝かで無いが、人心がそれに従うかと言えば、答えは否であろう。それはナバールとローラントの関係に於いても同様だった。其処で、黙っていたホークアイが、躊躇いながら口を切った。
「……本当に、ローラントにはすまなかったと思っている。操られたと言っても、美獣の口車に乗せられて、乗り気になっていた仲間がいた事はたしかなんだ」
「けれど、話を聞く限りでは、ナバールはローラントの民を傷付けるつもりはなかった様なんです。眠り草の花で捕虜にして、城を乗っ取ろうと考えていただけ。そこに血を流したのは、美獣の魔術です」
「かばわなくていいよ、リース。本当の事なんだから」
尚も反駁しようとするリースを留めて、彼は続ける。
「それにだ。あくどい連中しか狙わないとは言え、オレ達のやってる事はドロボーだろ。しょせんは日陰者なんだ。そんな得体の知れない連中に、ローラントがあえて近づく必要もないだろう」
自分の仕事に誇りを持つホークアイにしては、自嘲的な言い草だった。そして、話は其処で途切れてしまい。デュランには彼らがどうするのか、どうしたいのか、先の事がさっぱり分からない。まさかこのまま放っておくわけにも行かないだろうしと、尋ねてみたら、実際その通りで、現状維持と言うのが答えなのだった。ローラントとナバールは、これまで通り、お互い関わりを持たずに過ごして行くのだと言う。
「諸悪の根源だった者達はもういません。私達はナバールをどうこうするつもりはありませんし、このままでいるしかないんでしょうね。……どうにもならないのは、残念ですけど」
そうとは雖も、彼女もやり切れない思いはあるようで、静かに目を伏せた。良いとも悪いとも言い難く、自分の身に抓まされるような気分がして、デュランは返答に窮した。押し黙った彼に、ホークアイが殊更明るく言った。
「という事で、こっちの話はついたワケさ。オレ達の問題ではあるけど、英雄王さんと、いちおうフォルセナの黄金の騎士様にも、お知らせしとこうと思ってね」
「そうか。わざわざすまないな」
「……あの、デュランさんが気にする事はないんですよ。みんな納得した上で出した答えなのだし、これから、もっと良くなるかも知れませんから」
リースがそっと声を掛けた。それでも黙然と考え込むデュランに、二人は術無げに苦笑して、空に目を移した。そして、ホークアイが紺碧の空を指差し、あれはウンディーネの星、あれはウィスプの星と、東の山から順々にそれぞれの名前を言い当てた。
「死んじゃった人達は、みんなお空の星になっているらしいよ。星になって、大切な人の事を見守ってるんだってさ」
古いお伽話の逸話を持ち出し、ホークアイがそう言うと、デュランは胡乱気に答えた。
「……つまり、空が死んだ人間で埋めつくされてるって事なのか? なんかおっかねえな」
「夢のない事を言うなあ……」
と、ホークアイは呆れて笑った。リースもくすくすと笑っている。
「でも、デュランさんのご両親も、きっと見ていてくれているんですよ。そう考えると、うれしくありません?」
「……まあ、そうかもな」
もしも父と母が見ているとするならば、嬉しく感じるよりは、くよくよした情けない姿を見せたくないと思うほうが大きかった。もっとしっかりしなければと、デュランは背筋を伸ばし、奮って面を上げた。空を見上げていたホークアイが、横目で彼を見やる。
「で、そちらさんの景気はどうなんだ?」
「何だよ、やぶからぼうに」
「とぼけちゃってさあ」
デュランがまじくじすると、彼はにやにやしながら肘で小突いて来た。それから心持ちまともな顔になり、きちんと座り直して話を続ける。
「アンジェラの騎士になるんだってな。君が断らなくて、オレ達もほっとしたんだよ」
「デュランさんなら安心して任せられますよね。アンジェラも、とっても喜んでました」
デュランにはさっぱりわけの分からない話だが、ホークアイどころか、リースまでもが両手を合わせて喜んでいた。また肩の辺りがむず痒くなり、デュランは無意識に拳で叩いた。
「待て。オレは良いとは一言も言ってねえぞ。……あのヤロー、ありもしない事を言いふらしやがって」
デュランが忌々しげに呟くと、二人とも呆気に取られて、彼の事を穴が開くほど見詰めた。別に後ろめたい事も恥じ入る由も無いので、デュランも堂々と見返してやる。すると、今度はそれぞれで顔を見合わせた。
「……何だか、話がちがうみたい」
「どうせまた、デュランが意地張ってるだけじゃないの?」
呑気にそんな事を言い合っており、デュランはますます機嫌を損ねた。
「こんな事で意地なんか張らねえよ。オレの剣は黄金の騎士として、我がフォルセナの君主、英雄王陛下に捧げるって誓ってんだ。二君に仕えては剣が鈍る」
と、昼間アンジェラに言ったのと同じ事を言ってやった。ホークアイは閉口したが、リースの方は笑って頷く。
「そのひたむきな意志はすばらしいと思います。英雄王様も、さぞかしお喜びなのでしょうね」
「だろう。戦士のお前だったら分かってくれると思ったぜ」
「残念だけど、大事なのはそこじゃないんだよ」
ホークアイが横槍を入れた。
「確かに、筋を通すのはごりっぱだけどさ。黄金の騎士とは言っても、英雄王さんの騎士になってるってワケじゃないんだろ?」
「そういえば、デュランさん、叙任されてるんですか?」
リースも重ねて問うた。デュランが首を振る。
「されてない。単に黄金の騎士の子で、この間の活躍があったから、そう呼ばれてるだけだ」
「ならいいじゃん」
と、ホークアイ。
「よくないんだってば。そんな軽いもんじゃねえんだよ」
苛立ち紛れに言い捨てると、ホークアイは存外素直に引き下がり、それ以上は何とも言わなかった。リースの方はいよいよ真剣で、心配そうに柳眉を顰めている。彼女も叩き起こされたのか、いつも結んである筈の髪が解いてあり、普段以上にか弱そうに見える。困らせると大いに気が咎めるが、こればかりは譲れなかった。
「おまえがそんな顔するなよ」
デュランがそう言っても、彼女はますます困った顔をするばかりだった。
「騎士にならなくても良いんです。アンジェラに、素直な気持ちを話してあげてくれませんか」
「何を話せってんだ。悪いけど、とっくに話はついている。あいつだって他の奴に頼めばいいんだ」
「君、自分でも分かってて言ってるんじゃないのか? いいかげん、素直になっちゃった方がいいと思うよ」
ホークアイが呆れたように言い、リースが強く頷いた。二人はまるで、デュランが如何にもアルテナに行きたいかのような口吻で言い包めに掛かっている。いい加減鬱陶しくなって来たが、相手が両方とも話せば分かる質の人間だから、彼も辛抱強く説き伏せるつもりで構えた。
「何か、お前達はかんちがいしているようだが、オレは剣の道以外興味はないし、フォルセナを離れるつもりも全くない。アンジェラはたしかに大事な仲間だが、剣を捧げるべき主君とはまた別だ」
魔法が使えないのは確かに心許無いだろうが、アンジェラを付きっきりで守ってやるなど余計なお世話だし、相手の方も殊勝に人を頼って来るようなたまでも無い。それに、デュランが渇仰するのは英雄王只一人、こればかりは何があろうと決して揺るぎ無く、陛下の御為だからこそ自身を此処まで鍛え上げたのである。はっきりそう言ってやったら、案に違いて反論はされなかったものの、結局は先程の二の舞だった。途方に暮れて、また二人が顔を見合わせた。
「困ったなあ……。ホークアイ、どうします?」
「……まあ、デュランにとって一番大事な事だからな。これ以上はやめとこうぜ」
「そうね」
と、其処で二人も説得を諦めたのだった。リースは眉を八の字に下げたまま、デュランに向かって笑い掛けた。
「デュランさん、しつこく言ってごめんなさい」
「いや。心配してくれんのは、ありがたいと思うよ」
漸く厄介な話に蹴りが着き、デュランも気が楽になった。リースもほっと息をつく。そして、石頭の傭兵を改めて見詰めるなり、不意にくすくす笑い出した。
「……この事をアンジェラに話したら、きっとまた喜ぶでしょうね」
「何で?」
「だって、アンジェラはあなたのそういう所に憧れてるんですもの。自分の夢に一生懸命になれるって、すごくステキな事ですよね」
まともに褒めて寄越され、デュランがちょっと鼻白んだ。何だか落ち着かない心持ちで、彼女から目を逸らす。
「……そんなもんか?」
「そんなもんだろ。いいとこだと思うよ」
と、ホークアイに振ったら彼も同意したので、取り敢えずデュランもありがたく受け取っておいた。悪い気はしないが、相変わらず話題はアンジェラに立ち返るもので、肩の疼きがどんどん悪化して来た。立ち上がって、腕を伸ばす。
「オレ、帰るわ」
「ああ。起こして悪かったな」
「おやすみなさい。お話、楽しかったです」
あんな会話で本当に楽しかったのか不思議だが、にこにこと綻ぶリースの顔を見たら、聞くまでも無さそうだった。彼女は此処に来てから殆ど笑い通しで、ローラントの件もようよう落ち着き、今回の滞在を心から楽しんでいる様子だった。二人にお休みの挨拶をし、デュランは窓から帰るのを諦め、一旦屋根から地上に飛び降りた。芝生の所を選んで、上手い事音を吸収させる。落ちるのはもはや慣れっこである。心配して覗き込んで来た二人に手を振って返し、家人を起こさぬよう、忍び足で自室へ戻った。
部屋に入るなり、デュランは装備をその辺に投げ捨て、さっさと布団に入ったが、天井の梁が気になってなかなか寝付けなかった。ナバールとローラントはかくの如く決着が付いた。フォルセナとアルテナが今後どう展開して行くかは、君主の手腕如何よりは、人民の意向に依る所が大きいだろう。幸い、互いの国と民に大きな被害は出ず、人死にも殆ど全てが紅蓮の魔導師に依るものではあったが、フォルセナに住まうは血気盛んな戦士ばかり、どいつもこいつもやられたらやり返すのが信条である。喧嘩っ早い半面、単純でさっぱりしているから、もしかしたら早晩過去を水に流して、アルテナと上手く付き合って行く事が出来るかも知れない。両者は海を挟んだ隣国同士故、魔法も無く、慣れぬ寒さを相手取って戦うアルテナを手助け出来れば良いに越した事は無かった。ああ見えてアンジェラは故国を大切に思っており、国の行く末を案じている一面もあるから、そうなればきっと喜ぶだろう。アンジェラに関しては今し方断じた通りなので、それ以上は考えなかった。
問題は自身の身の振りだった。デュランは一箇のフォルセナ兵として、終生この国を離れずにいるつもりだったのだが、アンジェラの思いがけぬ申し出のせいで、進むべき道に初めて迷いが生まれた。世界を導いて行けと言うのが英雄王のお達しでもあるのだし、意固地になって故郷に踏み止まるよりは、情勢の不安定なアルテナを助けてやる方が世の為になるのかも知れない。しかしながら、アルテナに力を貸すとなれば、当然件の騎士の話が付いて回る。アンジェラがどうのと言うより、彼は自分がフォルセナのデュランと言う立場を失うような気がして、何と無く嫌なのだった。以前ならばフェアリーに愚痴ったり相談したりして解消した事柄が、今は何処にもやる方無く、いつまでも低回した。
屋根の上で足音がした。ホークアイ達が帰ったらしい。彼らは兼ねてからの問題が解決した上、新たな目標も出来た事で、態度がすっかり明るくなっていたが、翻ってデュランはどうにも屈託してしまった。紅蓮の魔導師を追っていた頃の方が、気持ちがはっきりして清々していたくらいだった。こう頭がごちゃごちゃするのはみんなアルテナとアンジェラが原因で、やはり碌でも無い国だと改めて思った。取り留めも無く考えていたら、外がぼんやり明るくなって来て、いつの間にか眠りに就いて、デュランは気配で飛び起きた。当のアンジェラがいたのだった。彼女は手を伸ばしかけた格好のまま、猫のように身を竦ませた。
「やだ、びっくりさせないでよ」
アンジェラは火傷でもしたかのように、引っ込めた手を反対の手で握った。
「それはこっちのセリフだよ……まったく、いきなり入ってくるんじゃねえよ」
「ちゃんと声はかけたよ。おはよう!」
と、彼女はいつもの調子を取り戻し、にっこり破顔した。相手が何だか分かると、一気に肩の力が抜けてしまい、再び眠気が襲って来る。アンジェラは威勢良くにこにこしており、寝不足の身では体力が吸い取られそうで、見慣れた筈の派手な風貌すら目にうるさく感じてしまう。デュランは布団を頭まで引き被り、壁際を向いた。揺すって来たが無視した。
「ちょっと、起きなさいよね!」
「ねむい」
「お仕事、遅刻しちゃうよ」
「非番」
「なら、一緒に出かけようよ。みんな外で待ってるのよ。……もう、せっかく遊びに来てくれたって言うのに」
アンジェラがしつこく言い募っていたものの、デュランは無視を貫いた。枕元で騒ぐのさえ気にも留まらず、忽ちうとうとと微睡み始める。暫くして、静かになったと思って寝返りを打てば、アンジェラはまだ部屋にいた。今日は桃色の服を着ている。首を傾げながら、昨晩から開け放しだった窓を閉め、床に転がった兜と胸当てを拾い上げ、机の上に置いた。
「なにこれ? ドロボーでも入ったの?」
「ああ。リースが一緒だった」
「えっ……なんだ、ホークアイの事か。びっくりさせないでよ」
アンジェラが一瞬目を丸くした。
「でもこの部屋って、盗るようなもの、なーんにもないよね。デュランって、いつもここで何してるの?」
「寝に帰るだけだよ。いつもは出かけてるか、そうでなければ下にいる」
「そっか。私も、あんまり自分のお部屋にはいないな。おんなじだね」
そう言われて、デュランはアルテナの事を思い出した。一往フォルセナから連絡は送っておいたが、勝手に城を飛び出した娘に対し、理の女王はさぞかし心配しているに違い無かった。
「お前、まだアルテナに帰らないつもりなのか?」
「こーんなか弱い女の子が、たった一人で帰れるわけないでしょ」
「よく言うぜ」
デュランが上体を起こすと、アンジェラが嬉々として寄って来た。身に纏った朝焼けのドレスは、魔力を失ったせいか、以前あったきらきらした輝きが見えない。手袋を嵌めていない剥き出しの腕は、何だかいつもより貧弱そうに見えた。
「こっちに来る途中で、ケガとかしなかったろうな?」
「ムチャはしないよ。玉のおハダに傷がついたら、大変だもん」
「だったらいいけどさ……とにかく、勝手に一人で行動するのはかんべんしてくれ」
「気をつけます」
アンジェラは悪戯っぽく肩を竦め、両手を組み合わせた。
「ね、心配してくれるんだったら、お城まで送っていってくれない?」
「みんなと一緒に帰ればいいだろ」
と、デュランは言ってから気が付いた。仲間と一緒に帰った所で、わざわざアルテナ城に送ってでも貰わない限り、結局途中からは一人きりになってしまうのである。皆だって忙しいようだし、アンジェラのために迷惑は掛けていられなかった。デュランは寝ぼけた頭から勤務日程を引っ張り出した。
「ちょい待ち。やっぱオレが行くわ。今日何の日だっけ?」
「ルナの日」
「来週でいいか」
「ずいぶん先ね」
「ウンディーネの日な。悪いけど、休みがないんだよ」
「そう……」
と、小さく息をつく。
「私はいつでも構わないからさ、気にしないで。ありがと」
「フォルセナに飽きたからって、勝手に帰るんじゃねえぞ」
「分かってるわよ」
お座なりに手を振られたのが引っ掛かるが、取り敢えず腰縄は付けられたようで、デュランは安心したらまた眠気を思い出した。再び布団に埋まる。その様子を見、上機嫌だったアンジェラが大人しくなった。ベッドの端に重みが掛かり、ひんやりした手が額に触れて来て、視界に肌色の影が差した。
「……ねえ、調子悪いんじゃないの?」
「ちがうよ。寝不足なんだ」
「そっか。ごめんね、ジャマしちゃって」
デュランは手を退かそうと思ったが、相手が邪魔で為果せず、仕方無いから反対側を向いて押し黙った。自分が寝ていて相手が起きていると言うのは気恥ずかしいものがある。それを知ってか知らずか、アンジェラが指先で前髪を弄んで来て、ますます居た堪れない気分がした。あれだけ杖を振り回していると言うのに、掌には肉刺の一つも無く、滑らかなのが不思議だった。やけに長い沈黙が降り、膠着していると、控え目な声が落とされた。
「……ねえ、デュラン。たまにはお休みした方がいいよ。ちょっと、ムリしてるでしょ」
「まさか。毎日ヒマでしょうがないぐらいだ」
「ヒマなら、なおさらよ」
「休んだらもっとヒマじゃねえか」
尚も手っ張るデュランに対し、アルテナに行ったら案内したい場所があるのだと、彼女はそっと囁いた。その名を聞かされ、流石の意地っ張りも反抗を止めた。と言うよりは寧ろ、虚を衝かれて硬直した。
「やっぱり」
アンジェラが溜息をつく。
「ムキになってがんばってるのはそのせいね。お仕事で気をまぎらわしたって、どうにもならないでしょうに」
「……そんなんじゃねえよ」
図星を突かれ、デュランはぶっきらぼうに言い捨てた。起き上がろうとするも、アンジェラの手に押し返された。
「どうだか。……とにかく、ちゃんと連れて行ってあげるから、お休みも取るって約束してちょうだい。分かった?」
デュランが何とも返さずにいると、アンジェラもそのまま黙ってしまった。了解するまで梃子でも動かないつもりらしい。この気詰まりな状況から逃れるには、頷く他どうしようも無さそうで、デュランは拠所無く口を開いた。
「分かったよ。……なんだよ、こんな時だけ年上ぶりやがって」
「素直でよろしい」
じくねた恨み事に対しても、普段とはまるで別人のように、アンジェラは鷹揚と応じた。それきり、また静かになってしまう。間が持たないのが嫌で、拗ねたデュランはぐちぐち零した。
「しょうがないだろ。オレは剣術しか能がねえんだ。それを疑るような事があったとしたら、頼るものすらなくなっちまう」
「だいじょうぶ、デュランの腕はみんな認めてるよ」
「こんな程度で足りるもんか。もっと修練して、騎士の名に恥じない男にならなきゃいけないんだ」
アンジェラがまた嘆息した。呆れた風だが、声色は相変わらず優しい。
「がんばるのはいい事だけどね。今すぐお父様に追いつこうとしないで、ゆっくりやって行けばいいじゃない。英雄王さんもそう言ってたわ」
「陛下が?」
と、デュランが思わずそちらに顔を向けると、紫のたっぷりした髪の陰から、穏やかに微笑しているのが見えた。
「英雄王さんも心配してるのよ。でも、デュランばっかり贔屓できないし、なるべく言わないようにはしてるみたいだけどね」
「そうか。……分かった、今後は改める」
気を張る余り、主君を煩わせる事になっては元も子も無い。思わぬ所で英雄王の胸裡を知り、デュランは反省したついで、教えてくれたアンジェラにも感謝を覚えた。
「すまないな、心配かけて」
「どういたしまして」
最後にそっと撫でられて、額の手が離れた。
「私、これからバイゼルに出かけてくるね。ウェンディちゃんも一緒だから。遅くなっても、心配しないでちょうだい」
寝台が微かに軋んで、おやすみと最後に言い置き、アンジェラは出て行った。約束が気に掛かったものの、額のひんやりがまだ残っており、デュランは気持ち良く二度寝出来た。
快適過ぎて起きたのは昼前だった。ステラおばさんも予め言い含められていたようで、これだけ寝坊したにも拘わらず、特に何とも言われずに済んだ。朝とも昼とも付かぬ食事は、珍しくサンドイッチで、おばさんに尋ねた所、何とアンジェラお手製だそうである。料理を頑張っている事に感心しつつ、ありがたく頂いた。
支度を済ませて家を出たら、入り口そばでホークアイが待ち伏せしていた。木陰に凭れて通りの方を眺めていたが、デュランに気付くと、軽く手を挙げる。デュランも挨拶を返した。
「よう!」
「おそよう。昨日は悪かったな、夜警だったとは知らなかったんだ」
「気にすんなよ」
デュランと同じく、ホークアイもいつもと同じ格好だが、帯にめったやたらと花が差し込んであった。能天気な様相で、デュランが思わず妙な顔で見たら、ホークアイは手首の辺りから次々花を取り出し、軒先をちょっとした花畑に変えてしまった。この手の手品が得意なのである。周囲を見回せど、彼の他には誰もいないようだった。
「他の連中は、みんな出かけちまったのか?」
「女の子達はね。バイゼルまで買い物だってさ」
女だけで大丈夫なのかと思いきや、フラミーに乗って行った上、護衛としてアマゾネス達も同行しているらしい。彼女らもやはり女の子で、たまのお出掛けを楽しみにしていたのだった。
「めずらしいな、ホークアイがついて行かないなんて」
「行きたいのは山々なんだけどな。こう見えてオレ、けっこう多忙の身なんだぜ」
「ふーん……」
「ほんとだって」
と、ホークアイは苦笑いを浮かべ、足元の花を軽く蹴散らした。
「フォルセナの学者さんに聞きたい事があるんだ。デュラン、悪いけど、ちょっと口利いてくれないか」
現在ナバール盗賊団は本業を暫し休んで、広大な砂漠に緑と水を取り戻すべく尽力していた。フォルセナは比較的植物に造詣の深い国なので、ホークアイは何か手掛かりになるような事柄を探しにやって来たのである。ついでに帯の花の事を聞いたら、押し花にして持って帰るつもりなのだが、どれが良いのか分からないから、手当たり次第取って来たのだと返された。忍術とか手品の仕掛けに使うのでは無かったようだ。
「ジェシカにあげたら、喜ぶだろうと思ってね」
「わざわざそんなもん作らんでも、連れて来て見せてやればいいじゃねえか」
「病み上がりだし、まだ無理はさせられないんだよ。もっとよくなったら、世界中の色んな景色を見せてやるつもりさ」
その上、フレイムカーンがジェシカを手放したがらないようだった。知らない間に息子を喪ってしまった首領は、その悲しみも未だ癒えぬ内、娘までもが何処かに行ってしまうのを内々心苦しく思っている。勿論ホークアイも心配されているし、自分がジェシカのそばについている方が良いとは思っているものの、仕事は仕事だった。こうして気楽に出掛けられるのも、いつでも要塞に帰れると分かっているからだよなと、彼はしみじみ呟いた。
「ところで、ケヴィンは?」
デュランが尋ねると、ホークアイは帯から花を一本抜いた。
「これ摘むのを手伝ってくれたんだけど……いつのまにか、どっか行っちまったんだ」
噂をしたら、ケヴィンとカールがやって来た。草原の彼方から町まで駆けて来、柵を軽やかに飛び越え、二人の前に着地する。何故か全身濡れ鼠である。ケヴィンは腕いっぱいに真っ赤なりんごを抱え、落とさないよう難儀しながら、一つ取ってデュランに差し出した。水滴が付いたためか、りんごがますます瑞々しく見えた。
「くれんの?」
「うん。みんなで一緒に食べよう」
「ありがとよ。そんじゃ、遠慮なくっと……」
と、デュランは受け取りながら、ケヴィンの毛先から落ちる水の粒々が気になって仕方無かった。
「ずぶぬれじゃねえか。一体何してたんだよ?」
「カールと、川で遊んでた」
ケヴィンはそう答えた途端、示し合わせたように、カールと同時に体を震わせた。水飛沫が飛び散る。揺すった拍子、りんごが一つ転がり落ちて、ホークアイによって拾い上げられた。物珍しそうに、しげしげと見詰める。
「これ、日持ちするかな? ナバールに持って帰ろうかな」
「いるなら、もっと取ってくるよ」
ケヴィンはもう一つ落としてしまったが、屈んで器用に拾い上げた。
「ああ。行く時は、オレも一緒に案内してくれるかい?」
「うん、いいよ」
カールは先ほどの花畑に興味を示し、鼻先を突っ込んで匂いを嗅いでいた。くしゃみをする。噴き出しそうになったホークアイが、彼の頭を撫でてやった。
「学者んとこ行くんだろ。とっとと済ませちまおうぜ」
デュランはごしごしと服で擦ってから、りんごに齧り付いた。残った分をおばさんに届けると、煮詰めてジャムにしたり、丁子を刺して香りの良い飾りに出来るのだと教えられ、それでジェシカへのお土産は決まったのだった。
連れ立ってりんごを食べ歩きつつ、三人で王宮に繰り出した。カールも尻尾を振り振りついて来る。昨晩ステラおばさんは、犬の世話なんかした事無いと困惑しながらも、彼の為に薄味のスープを作ってくれ、それをケヴィンが味見して、カールのご馳走だと太鼓判を押していた。そんなわけでカールはまだお腹が膨れているのだった。
王宮にはロキの知り合いが数多く勤めている。大半がその息子とも顔見知りの間柄故、学問とまるで縁遠いデュランでも、学者の一人にホークアイを紹介するくらいなら容易い事だった。彼が図書館に案内された際、ついでだから、デュランとケヴィンも其処で勉強する事にした。デュランは始め、兵法書やら剣術の手引きやらを開いてみたのだが、読んでいる内に実践したくて堪らなくなり、止めて別の本にした。次にマナストーンの謎と言う本を試したら、自分が実際に見たのとは違う事が書いてあり、もどかしくなってこれも止めた。室内は影がぼやけるくらいの判然しない明るさで、黴っぽいような埃臭いような空気が満ち、いつぞやの幽霊船を彷彿とさせるためか、変に警戒心が湧いてしまう。ホークアイは窓際の机に座り、真剣に学者の話を聞いている最中で、終わるまで暫く掛かりそうである。ケヴィンを見れば、これまた真剣そのものの顔で、書架の下に座って本を読んでいる。机の下に蹲るカールを見れば、前足を枕にぐっすりと寝入っており、夢でも見ているのか、足や耳がぴくぴく動いた。カールに会ってからと言うもの、ウェンディが頻りに犬を欲しがるようになってしまったのだが、その気持ちはデュランにもちょっと分かった。
ケヴィンが戻って来た。目をしょぼしょぼ瞬かせ、デュランの向かいに座るなり、上体を机に投げ出す。寝ているカールに気を遣ってか、物音一つ立たなかった。
「うー……」
「暗い所で読むからだよ」
余程目が疲れたらしく、ケヴィンは暫くそのまま突っ伏していた。間近に置かれた手を見ると、親指から小さな小指まで、全ての爪が鋭く研ぎ澄まされており、一体どうしたらこうなるのか、デュランは自分の手と比べてしまった。しているとケヴィンが身じろいで、机に顎を乗せる格好になった。
「ツメ切らなくちゃ」
「それ、勝手にそうなんの?」
デュランが聞くと、ケヴィンも尖った爪を気にして、指先でいじくり始めた。
「うん。ほんとは、丸いほうがいいけど……」
獣人とはそう言うものなのだった。鋭い爪は拳を握ると掌が痛くなるし、間違って何かを引っ掻いたりする事も間々あったりで、本人は不便に思っている。旅をしていた頃は適当に手や歯で毟ってしまっていたが、ウェンデルでシャルロットが爪を切って貰っているのを見、ケヴィンは自分もきちんと切る事に決めたらしい。しかし、思い付いたら気になるもので、ケヴィンは爪の白い部分を折り曲げたり、切れ目を入れようとし始めた。後でアンジェラとかリースにやって貰えと言い含め、デュランはやっといじくるのを止めさせた。
「なあ、ウェンデルの暮らしってどうなんだ? 神殿って色々めんどくさそうだけど」
「フォルセナとおなじだよ。厳しいの、神官の人だけ」
「そうなんだ。確かにそうだよな。きつかったら、シャルロットなんか暮らしていけないもんな」
「でもシャルロット、クレリックなのに、いいのかな?」
神殿に暮らす聖職者達は、酒は勿論、肉を食べるのにも制限があるし、シャルロットの大好きなお菓子も、普通ならば滅多に食べられないそうだった。シャルロットは特別に用意して貰っているらしい。ウェンデル近郊はフォルセナに負けず劣らず恵まれた環境であり、野菜も無論美味しいだろうが、折角ああした環境に置かれながら、限られた食物しか口に出来ないと言うのは何とも勿体無い話だった。ケヴィンはウェンデルでの暮らしぶりを話し、ちょっと口元を緩めた。
「町の人達、みんなやさしいよ。アストリアの人は、獣人のオイラにちょっと冷たい。……でも、しかたないんだ」
「アストリアって、生き残りがいたのか?」
デュランが思わず身を乗り出すと、ケヴィンは頭を擡げて頷いた。
「獣人兵が侵攻した時、村の人をジャドに連れていったみたいなんだ。みんな、デュラン達が乗った船で、いっしょに逃げたらしい」
「マジかよ。聞いてねえぞ」
「オイラも、ウェンデルに行くまで知らなかった」
考えてみれば、確かに獣人兵達はジャドの人々に危害を加えなかったのである。その標的がウェンデルのみならば、敢えてアストリアの民を皆殺しにする必要も無い筈だった。ジャドからマイアに辿り着くまで、同乗した仲間達は自分の事情に一杯で、周囲の顔振れに気付きもしなかったらしい。思いがけぬ吉報に、デュランは知らず知らず笑いが込み上げて来た。
「そうか……よかった、何かすげーうれしいな。オレはてっきり、全員やられちまったのかと思ってたよ」
ケヴィンも嬉しそうに含羞んでいたが、忽ち剣呑な顔をした。命あっての物種とは言うけれど、未だアストリアの民に帰るべき町は無く、ジャドやウェンデルに身を寄せざるを得ない情状なのであった。彼は身を起こし、きちんと椅子に座り直した。
「獣人達も、力があるだけじゃ意味がないって事、この間の争いで分かってきたみたいなんだ。でも、それが認められないヤツもいる。強さ以外に自信が持てる、他の種族に負けない所がないから」
「耳が痛いや」
「だけど人間は獣人の事、力があるせいで怖がるんだ。きっとデュランみたいに、オイラ達と渡りあえるような人間だったら、もっと分かりあえると思うけど……」
「そうかも知れないな。仲良くするのに、獣人だけが譲歩したってしょうがないし」
しかしケヴィンは首を振った。
「でも、みんながデュランになれるわけじゃない。やっぱり、力だけじゃなんにも解決しないんだよ」
「……と言っても、あいつら、口で言っても通じねえだろ」
「ムリにでも聞かせればいい」
そう言って、ケヴィンは不敵に口角を上げた。次の瞬間には、いつもの真摯な顔付きに戻っており、デュランはちょっと目を疑った。ケヴィンは何事も無かったかのように、更に続ける。
「みんなに話聞いてもらうには、まずこっちの強さを認めさせないとダメなんだ。だからオイラ、戦う事をやめないよ」
ケヴィンは獣人としての力を使いこなせるようになり、自分のそれを恐れたり、厭うのを止めた。争い事は嫌いだが、自分が戦って守ってやらなければ、人間は勿論、迫害される獣人も傷付く羽目になってしまうのである。誰もが仲良くしていける平和な世の中のためには、種族の性質から鑑みても、まず獣人王のような有無を言わせぬ力を以てして、同族を纏め上げる必要があるのだった。彼は強気に言い放った後、足元のカールに視線を落とした。
「……それに、ルガーと約束してる。いつになるかは分かんないけどさ、オイラが弱かったんじゃ、ガッカリさせちゃう」
かつてルガーと交わした再戦の約束が、何年先になるか分からない事が、ケヴィンにとっては修行を続ける原動力になったようだった。果たすべき目的と好敵手があるからこそ彼は強いのだろう。未だ足元の覚束無いデュランにとって、その姿は羨ましく思えるもので、つい独り言ちた。
「……何か、いいよな。そういうのって」
「じゃあ、デュランも、約束しよう」
ケヴィンが顔を上げた。思いがけぬ切り返しに瞬いで、反問する。
「約束ったって、何を?」
「オイラ達、やりたい事はおなじだろ。もっと強くなって、大事なものを守ってやるんだ」
そう言って、ケヴィンは拳を突き出した。暫し面食らっていたデュランも、相手の気勢に励まされ、破顔する。同じく拳を固めて出したら、ケヴィンも笑って応えた。
「そうだな。やる事ったら一つに決まってるか」
「うん。一緒に、がんばろ!」
二人で頷き合って、拳を強かぶつけた。お互いいつでも相手になると約束して、デュランも彼に負けないよう、もっと自分を鍛えてやると誓ったのだった。
以降、デュランはこれまで以上に身を入れて働き始めた。街道で商人の護衛をすると言えば飛んで行き、裏手の山脈に魔物が出たと聞けば蹴散らしに走り、空いた時間は訓練に費やし、昼日中は殆ど剣を手放さなくなった。其処にアンジェラ曰くの逃げが含まれていようが、仲間達がはしゃぐ様子を横目に見ようが、そんな事をいちいち気にするのは止めた。仲間達と遊ぼうにも、今更休暇は取り直せないのだし、アンジェラの約束は後で守れば良いのである。お陰でくさくさしていた気分も雲散霧消して、後は数日後に控えたアルテナ行きを楽しみに待つばかりとなった。唯一の悩みは、傭兵仲間も騎士達も、誰もデュランの相手をしたがらなくなった事だった。