花に宿りてかわひらこ
「ねえ、アイラは結婚しないの?」
ある日の午前中、お茶を飲みながら、リーサ姫がアイラに尋ねた。向かいでお茶を飲んでいたアイラは、唐突な話だったので、何のことかと思ってまじくじした。しかし、リーサ姫が真剣な面差しで待っているので、聞き間違いでは無かったらしい。
「わたしは……そうですね、子どもがほしいとは思っています」
少し考えて、アイラは当たり障りの無い返答をした。
「そう……」
浮かない顔で、リーサ姫は目を伏せた。兄がいなくなってからと言うもの、リーサは一人で物思いに耽ることが増えた。最初は痛々しくて目も当てられない有様だったそうだが、やがてバーンズ王に胸襟を開くようになり、アイラが近衛兵に着任するようになって、リーサはその胸に秘めた思いを披瀝する機会が増えた。そして、以前のような明るさを取り戻すようになったのである。しかし、元々が思慮深い性格のためか、時折こうして俯いてしまうこともある。そばにいる時間が長い分、アイラは彼女の気持ちを理解している。言葉を選んだつもりだったが、失敗したらしい。
「でも、まだ結婚は考えていませんわ。グランエスタード城をはなれるつもりもありません」
アイラは迂遠な言い方をやめ、はっきりと意思を口にした。
「そう?」
すると、リーサが上目遣いでアイラを見やった。アイラは頷く。結婚に憧れが無いわけでは無い。いつか素敵な人が現れたら、とは思っているが、それは小さな少女が夢見るのと同じようなもので、今のアイラにはあまり現実味のある問題だとは捉えられなかった。この生活は充実していて、現状に満足しているのである。そう伝えると、リーサの表情が俄かに明るくなった。
「よかった。私、アイラがずっとお城にいてくれればいいと思っていたの」
そう言ってにっこりした姫に、アイラも笑顔を返した。根無し草の生活を送っていたアイラは、家を持って一所に落ち着く暮らしに憧れのようなものを持っていた。両親や先祖の墓を建てたのも、其処へお参りをして守り続けるつもりだったからである。それがこうしてグランエスタードに呼ばれ、自分の部屋と居場所を与えられたのは、運命的な神の計らいだったのだろうと思っていた。踊り手の末裔としての使命を終えた彼女は、ただのアイラとして、この優しい姫君に寄り添って生きて行くのだ。
「今日はいい天気ね」
お茶請けのクッキーを食べたリーサ姫は、話頭を転じて、光の差し込むテラスの方を見た。
「ええ。風もないし、あたたかくていい日よりですね」
アイラも頷いた。こんな日は海に行って、潮風を浴びながら景色を眺めるのが好きだった。
「おさんぽにぴったりね」
と、リーサは悪戯っぽく微笑んだ。
「あのね、アイラ。昨日、お出かけのことで、お父さまからお話があったでしょう?」
「ええ」
最近のアイラとリーサは、城をこっそりと抜け出して、外国の町へ遊びに行くようになった。勿論バーンズ王は良い顔をしないが、娘を可愛く思っている王は、説教もそこそこすぐに放免してしまうのだった。普段のリーサ姫ならば、素直に父親の言うことに従うのだろうが、外出の楽しみとちょっとした背徳感が病み付きになってしまったらしい。にこにこしながら、甘えるように頼み込んで来られれば、アイラとしても引き受けないわけには行かなかった。
「お父さまは、外出は許可しないけど、おさんぽならゆるして下さるって言ってたの」
「はい」
相槌を打ちながら、アイラは意味合いを理解しあぐねていた。外出禁止で散歩は許可するとなると、許されるのは城の周りや城下町をうろつく程度だろう。それでどうして、姫がこんなに嬉しそうにしているのか分からなかった。
「お兄さまはね、私を外に連れ出してくれなかったのよ。リーサはあぶないから、って言って」
リーサはまた少し話題を変え、唇を尖らせた。昔は冒険の話を聞かせて貰えるだけで十分だったが、考えてみれば、自分も冒険に連れて行って貰いたかったと、拗ねたように言うのだった。
「キーファ王子は、姫の安全を考えておいでだったのでしょう」
「でも、マリベルはいっしょに連れていってもらっていたのよ? 私も、エスタード島の探検がしたかったわ」
リーサの世界は狭い。専ら、王の居室で静かに過ごすか、テラスで植物の世話をしたり、外を眺めているかのいずれかである。キーファがいた頃は、時折城下町に連れ出して貰っていたらしいが、町の外には一歩も踏み出したことが無かった。奔放なように聞いているが、キーファ王子は意外と過保護だったのだなと、アイラは微笑ましく相槌を打った。冗談交じりに、リーサは兄を責めるような口振りをしてから、ちょっと笑ってアイラを見上げた。
「……だから、アイラ。私をおさんぽに連れていってくれる?」
アイラは其処で、彼女が言うお散歩の意味を理解した。苦笑しながら、姫の意に沿う返事をする。
「わかりました。どこに行きましょう?」
「よかった!」
アイラが頷くと、リーサは目を輝かせ、少し身を乗り出した。
「メモリアリーフという町を知ってる? 町全体が大きなハーブ園でできているんですって」
「ええ、存じております」
「ハーブ園の園主さまも、とても面白い人なんですって。一度お会いしてみたいわ」
「ええ……」
と、アイラは曖昧な微笑を浮かべた。マリベルに言わせれば、あそこの主人はヘンタイである。アイラも同感だった。あの怠け者で好色な主人をリーサに会わせたいかと言うと、出来れば近付けさせたくも無い。何とか誤魔化して、そばにあるハーブティーの店に連れて行けばいいだろうかと、アイラは頭の中で計画を練った。壮麗なギュイオンヌ修道院を見せて差し上げたいが、姫の足で山道を歩くのは厳しいだろう。リーサが歩くことに慣れて、体力が付いてから案内しようと思った。リーサ姫はすっかり乗り気になって、いそいそとお茶を飲み干した。
「それじゃ、お茶を下げてもらうわね。アイラは例のロープを持ってきて」
と、囁き声で言うのだった。
「わかりました」
城を抜け出す算段については、テラスでルーラを唱えれば事足りるが、二人は敢えてロープで脱出するようにしていた。アイラは力があるから、姫を腕に抱いてロープを降りて行くのだが、それがいたくリーサの気に入ったらしい。アイラとしても、怪盗のようでなかなか面白いと思っていた。リーサが秘密めかして口にした例の品を取りに、アイラは一旦王の居室を後にした。
自室に戻った。物置にする予定だったと言うこの部屋は、アイラのものでは無い私物が幾つか置いてある。練習用の木刀や、長くてしっかりしたロープ、虫眼鏡やお日さまボールなどである。城の兵士やメイドから、それはキーファ王子が使っていたものなのだと聞いていた。アイラはそれらを一番端のクローゼットに仕舞い、時々利用させて貰っていた。
「キーファ王子、お借りしますね」
アイラは一言断って、脱出用のロープを取り出した。いずれも大切な思い出の品であるが、アイラには誰かの声で、使って欲しい、役立てて欲しいと聞こえるような気がしていた。アルスが漁で見付けた石版と、城の学者の綿密な調査により、ユバールの歴史は明るみになりつつある。アイラは踊り手ライラの子孫であり、グランエスタード第一王子キーファはライラと婚姻を結んだ。このことから、アイラの来歴も朧気ながら判明している。しかし、アイラとグランエスタード王家の関係は変わらない。アイラはこの城に懐かしみと床しさを感じながら、リーサ姫の近衛兵として仕えているし、バーンズ王とリーサ姫は、アイラに親しみを持って重用してくれる。それで十分だった。
「あなたのおかげで、わたしはここにいることができます。ありがとう」
クローゼットの戸に触れながら、もう何度目になるか分からない感謝の言葉を、アイラはキーファに向かって言った。彼の存在は絵姿にしか見たことが無いが、アイラは兄に対するような尊敬の気持ちを抱いていた。この城に来てから、常にキーファ王子の影を意識している。それはとても懐かしい気持ちがして、身の引き締まるような思いがするのだった。アイラはキーファの代わりになれないが、アイラと言う一箇の人間として、城の人々と新しい関係を結び、出来る限り皆を喜ばせてあげたいと思っている。そうすればきっと、キーファ王子も笑って、ありがとなと言ってくれる筈だった。
「ただいま戻りました」
ロープを隠し持ち、アイラが王の居室に戻ると、リーサ姫は席を立ってそわそわしていた。アイラに気付くと、手招きして呼び寄せる。
「みんな下がっているわ。アイラは大丈夫だった?」
「ええ。見張りの兵士はあくびをしています」
二人で目配せしながら、小さな声で報告し合った。姫の御身については、アイラがいるから大丈夫だろうと思われている。あまつさえ、伝説の勇者が四人も集うエスタード島であるから、ともすれば警備の手も緩みがちなのだった。アイラが戸口を見張っている間、リーサは帽子を外し、ふわふわした金髪を手で整えた。そして、アイラがこっそり用意した、町娘の質素な格好に着替えれば、リーサ姫もただの可愛らしい女の子だった。着替えが済むと、アイラはそっとテラスの戸を開け、周囲の様子を伺った。屋上を見ると、いつも見張りをしている剣士と目が合ったが、彼は懐柔済みである。アイラは軽く手を上げて、今日も行って来るのだと知らせた。
「今なら大丈夫です」
「アイラ、急いで」
そう言いながら、リーサはテラスから身を乗り出して下方を見ていた。そのままころりと落ちそうな、見るからに浮足立っている様子で、アイラは思わず笑ってしまう。
「こういう時は、急がず慎重に動くべきですよ」
「そ、そうね。しずかにしているわ」
と言って、リーサは体を引っ込め、それきり静かにしていた。アイラは手摺にロープを縛り付け、何度か引いて緩まないのを確認した。脱出の準備は整った。
「それでは、行きましょうか」
手摺の上に飛び乗り、アイラはリーサを顧みた。
「ええ、おねがいね」
そう言って、リーサは片手を差し出したが、アイラはその腰を引き寄せて抱き上げた。リーサが小さくきゃっと言った。