三
ケヴィンは町外れの川縁で、獣人の姿のまま、怪我の治療をしつつ汚れを洗い流していた。仲間達は今更隠す事も無いと言うが、変身する瞬間の顔はかなり変らしいので、なるべく人に見せたく無かった。それに、狼の顔だと目立たないものの、殴られた口の端がまだ腫れていたから、治すまでそれも見せたく無かった。草に縁取られた暗い水面は、鏡のように滑らかで、白い鼻面を寸分違わず映し出す。獣性を体現したような、初めは憎らしいとさえ思えた風体だったが、仲間を守るためと思えば存外割り切る事が出来、今まで戦いに利用して来た。そして何より、今のケヴィンは獣人の力を過つ事無く使いこなしている。あれだけの激しい戦闘に身を置きながらも、獣人兵は一人も手に掛けずに済み、仲間達も無事に月夜の森を抜ける事が出来たのである。それが大きな慰めと自信に繋がった。ケヴィンは元の姿に戻り、体を振るって水滴を落としてから、ミントスの宿屋に向かった。
入り口向かいのカウンターで、ホークアイが宿の主人と話をしていた。ケヴィンは彼にちょっと声を掛け、そそくさと其処を通り過ぎた。同族と雖も、知らん人には変わり無く、ミントスの住人に対しても人見知りの癖が出るのだった。そして部屋の方へ入ると、中ではリースが防具を留めようとしている最中だった。ケヴィンの姿を見ると、ほっとして微笑する。
「おかえりなさい。よかった、帰りが遅いから、むかえに行こうと思っていたの」
「顔洗ってたんだ。獣人兵、町の近くには来てなかったよ」
ルガーが倒れた事が知らされ、城から獣人達に招集が掛かったのかも知れない。元よりこの町はビーストキングダムの縄張りの外で、互いに関わりを持たないのだった。
「なら、しばらくはだいじょうぶそうね。ケヴィンも休憩しましょ」
そう言ってリースはベッドに座った。装備を外し、ブーツを脱いで楽な格好になる。そしてリボンも解いてしまい、櫛で髪の毛を梳き始めた。元々の防備がしっかりしている上、治療をまめに行うよう心掛けているお陰で、彼女には傷跡一つ残らず、腕も足もまっさらなままだった。ケヴィンは取るようなものも無いから、帽子だけ脱いで帯を緩め、真ん中のベッドに飛び乗った。自分では平気なつもりでも、精神的にはかなり参っていたらしく、寝転んだ途端体がしぼむように溜息が出た。静かな夜の室内に、櫛の通る規則的な音が響く。大の字になって寝ていると、蝋燭の火に照らされ、天井にリースの影が大きく映し出されているのが見えた。頼り無く揺れる火影を見ていると、不意に様々な事が脳裏に浮かんで来た。
「……魂食われたら、どうなるんだろう。天国、行けるのかな?」
「どうしたの?」
ふと呟くと、リースが手を止め、心配そうにケヴィンを見た。奇矯な男の姿が見えた瞬間、ケヴィンは脇目も振らずに飛び出して行ったせいで、遅れた仲間達には会話が聞こえていなかったらしい。僅かに頭を擡げ、彼女の方を向いた。
「死を喰らう男。カール、あいつに食われちまったんだ」
呻るような声が出た。ケヴィンの大切なカールは、ちびの内から母親を亡くし、友達の手に掛けられた挙句、あんな不気味な男に魂を食われてしまった。たった数箇月にも満たぬ、悲しみに満ちた命を思うと、ケヴィンは鼻の奥が痛んだ。返す言葉に詰まった様子で、リースは少しの間黙っていたが、いつも以上に優しい口調で答えた。
「だいじょうぶよ。カールはきっと、天国でお母さんといっしょに過ごせているわ」
天国では誰もが幸せを約束され、別れた人達も再び会う事が出来る。ローラントの人々や両親も其処にいるから、彼女は落ち込まずに旅を続けられるのだった。そう言われて、ケヴィンは少しだけ、母ウルフと共に駆けるカールの姿を思い浮かべたが、すぐにやめた。耐えられそうに無かった。唇を噛み締め、リースから顔を背けた。
すると、ホークアイが戻って来た。ケヴィンの様子を見、一瞬目を丸くしたが、気付かない振りをしてリースの所へ行く。彼女と向かい合うようにして、真ん中のベッドに腰掛けた。やや軋んで、ケヴィンの体も揺れた。
「リース、ごめん。また服やぶいちゃった」
と、彼は真っ先に謝り、畳んであったクロークを持ち上げた。昨日まで新品だった外套は、引き裂かれて見るも無残な有様になっていた。ケヴィンも自分の胴体を見下ろし、腹の部分に三つの穴が開いている事に気付き、帯を結び直してこっそり隠した。リースはクロークを手に取り、瑕疵の具合を見て、少し渋い顔をした。
「これは……買いかえた方がよさそうかも」
「ゴメンよ」
「気にしないで。やぶかれたのは、私のせいなんだし……」
「ま、名誉の負傷ってヤツさ」
そう言って、ホークアイはクロークを適当に丸めて畳み、倉庫に投げ入れてしまった。リースが気に病まないよう、さっさと話を終わりにしたのだった。其処までは冗談めかしていたホークアイが、少々真面目な顔付きになり、話頭を転じた。
「アルテナの増援は来ないようだよ。小隊が全滅しちゃったわけだし、ここのマナストーンはあきらめざるを得ないだろうな」
「でも、時間の問題でしょうね。マナストーンをねらっているのは、アルテナだけではありませんから」
リースも真剣な顔で肯った。
「そうだな。敵のやつらに見つからないうちに、ここを離れるとしよう」
二人のそんな会話を聞き、ケヴィンは上体を起こした。
「出発するのか?」
「いや、まだ」
と、ホークアイが軽く手を振った。
「少し休んでからにしようぜ。みんなクタクタだろ」
彼は言葉通りのんびりするつもりで、腕輪の留め具を外しに掛かった。森で獣人に殴られたせいか、模様に添って肌が赤くなっているのを、面白がって仲間に見せる。ケヴィンも自分のを外してみたら、同じように痕が付いていた。
「オイラもついてた」
ホークアイの隣に座り直し、赤くなった腕を見せると、彼は自分と見比べて感心した。ケヴィンの方が皮膚が丈夫なせいか、少し痕が薄いのだが、それでも暗がりにはっきりと見えるほどであった。
「獣人の力はすごいなあ」
「いたそう……」
柳眉を顰めたリースに対し、二人は笑いながら腕をはたいた。
「だいじょうぶさ。痛くもかゆくもないよ」
「オイラも、平気だよ」
治療した後でこれなのだから、魔法や道具で消す事は出来ないのだった。例え変身したケヴィンが渾身の力で殴ったとしても、これほどの痕は付かないだろう。其処には膂力のみでは無い、別の力が働いている。森に住む獣人は人間に敵意を持っているのだと、先般ミントスの住人がくれた助言を、ケヴィンはふと思い出した。
「ところで、ケヴィン」
同じ事を考えていたらしく、ホークアイが言った。
「君、仲間とケンカしちゃってだいじょうぶなのかい? 要塞に帰った後で、肩身の狭い思いをするんじゃないか?」
獣人は強い者こそ正義である。肩身が狭いどころか、ケヴィンは今回の件で一目置かれる存在になるのだった。しかし彼は嬉しくも何とも無かった。結局、力では何も解決しないのだ。約束した手前、ルガーとの対決は必ず果たすつもりだが、そうなればまた両方が傷付く羽目になるのだろう。獣人は人間に勝るとも劣らぬ知恵を持っている筈なのに、何故か力に物を言わせずにはいられなかった。獣人王は、今のケヴィンには思い出したく無い名前であるが、暴力のみに頼らない方法で、ビーストキングダムを平和に統治している点は認めざるを得ない。ケヴィンはそれよりもっと進んだ、獣人と人間が共に暮らせる世界を見たいのだが、今の彼にはどうすれば良いか見当も付かなかった。
そんな事を考えていたら、ホークアイの質問に答えるのを忘れてしまった。ケヴィンが黙然と俯いたのを見、二人とも悪い方に捉えたらしい。
「……まあ、そのうちほとぼりも冷めるよ。元気出せ」
と、ホークアイが肩を叩いた。
「そうよ。もしお城に帰りづらいんだったら、しばらくローラントに来てくれればいいわ」
あたふたと慰めてくれる仲間達に、ケヴィンも慌てて弁解した。
「だいじょうぶ。獣人にとっては、いつもの事なんだ」
ビーストキングダムの獣人はそんなものなのだった。野性に目覚めず、戦う力の無い非力な者達でさえ、強者に対し羨望と尊敬の念を示す。半分人間の血が入っているせいなのか、ケヴィンには馴染み難い習性だった。城の仲間は皆優しく、彼らと親しい関係を築いてはいたのだが、翻ってどうしても気持ちが分からない所もあった。
「……あのさ、オイラわかんないから、みんなにも考えてほしいんだけど……」
「なに?」
二人が声を揃えた。
「オイラの父親、獣人王……。でも、オイラの母さん、人間。なのに獣人王、どうして人間に復讐したいんだろう?」
ケヴィンの母親は、どうやら獣人を嫌ってビーストキングダムを出て行ってしまったのだが、一方の獣人王がどう思っているのかは全く分からなかった。しかし、復讐を試みるまでに人間を憎んでいるだとすれば、始めからケヴィンの母親を城に招こうなどとは考えもしないだろうし、肉親としての願望が混ざっているのかも知れないが、何と無く獣人王は今でも母の事を嫌っていないような気がするのだった。今まで親子らしい会話を交わして来なかった間柄故、ケヴィンには獣人王の気持ちが忖りかねた。
「オレにもよく分からんが……君のお母さんだけ特別だったとか?」
と、ホークアイは首を捻った。リースも真剣に考えている。
「そうだとしても、復讐を考えるほど、人間の事を憎むのかしら……」
「それに、獣人、今まで復讐なんて考えてなかったんだ。人間にいじめられたの、大昔の話。誰もおぼえてない」
ビースト城の獣人は人間が嫌いで、いつか明るい世界に出てみたいと言う願望こそ持っていたが、月夜の森に馴染んで気に入っている面もあり、これまでは仲間同士で平和に暮らしていた。それが人間を討伐して征服しようと言い出したのは、つい最近の話だった。そもそも、獣人王ほどの実力者となれば、彼我の力量差は戦わずして知るもので、獣人兵とウェンデルの神官がぶつかればどう決着が付くのか、端から承知していたはずだった。みすみす負け戦を仕掛けたようなものである。血気に逸ったとしか考えられないような、杜撰で性急な作戦だった。
「……そういう時には、たいてい裏で手を引くヤツがいるんだよな」
ホークアイが呟いた。
「獣人達も、あの死を喰らう男にだまされているのかも知れないわね」
リースが後を引き取り、ケヴィンも頷いた。考えてみれば、獣人王の意向だと嘯きながら、獣人達に人間への憎悪とウェンデル侵攻を唆したのは死を喰らう男なのだった。ビーストキングダムがおかしくなったのはあの男が現れてからの事で、全ての原因は死を喰らう男にあるのかも知れない。とは言え、獣人王が今回の計画に一枚噛んでいる事は確かだった。死を喰らう男を倒した所で獣人達を止められるかどうかは分からないし、一旦焚き付けられた人間への憎しみが収まるとも考え難い。どうすれば良いのか自分にはさっぱりで、ケヴィンは低く呻いた。
「……あの、ホークアイ。私も気になる事があるんです」
リースが躊躇いながら言った。ケヴィンの方に向き合っていたホークアイが、そちらに視線をやる。
「どうした?」
「ジェシカさんは、マナストーンの封印を解く触媒のために、火炎の谷まで連れていかれたのよね?」
「ああ」
ホークアイは虚を衝かれたようだった。嫌な思い出だったせいか、少し態度を強張らせたが、リースが話を続けようとしたので、そのまま黙って聞いた。
「エリオットがさらわれたのも、マナストーンの封印を解くためなのかしら? だとすれば、エリオットはもう……」
「いや、その可能性は低いと思う」
リースの語尾が沈んだのを、彼は言下に否定した。相手を安心させる気休めでは無く、根拠ありきで答えた。
「あいつらは、マナストーンを解放するためだけに、わざわざ人間の子供をさらっていくようなマネはしないよ。使うのは誰だっていいんだから」
と、口にするのも嫌そうにした。美獣がジェシカの呪いを解いたのは、ナバールに彼女の他適当な人間がいないからだった。心を操られている者達には別の利用価値があり、そうで無い者はとうに要塞から逃れていたのである。だから、ホークアイの口を封じる役割を終え、用済みとなった彼女を使おうとしたのだった。人の命を何とも思っていない連中は、不要とあらばいとも容易く手に掛け、必要に迫られれば手近なものを調達して来る。エリオットはわざわざバイゼルの奴隷商から買い求めており、単なる生贄にしては変に手が込んでいた。
「あの赤い目の男が、黒の貴公子がエリオットを必要としていると言ってただろ。おそらく、エリオットには他の誰にもできないような役目があるんだ」
「……でも、あの子はふつうの子なんですよ」
リースは戸惑った風で、膝元に視線を彷徨わせた。
「ローラントの王子だっていうだけの、ふつうの男の子なの」
「しかし、あいつらにとってはそうじゃないようだ。それがエリオットを生かす理由になっている」
ホークアイはそれきり押し黙った。生真面目なリースは元より、彼もこうした話題に於いては深く考え込む性質の人間だった。それに、砂漠に残して来たジェシカの事を思い出しているのだろう。彼女は多分ホークアイにとって、ケヴィンにとってのカールと似たような存在なのだった。ケヴィンには妙案も浮かばないし、二人を励ませるような言葉も出て来ないから、ただ黙って聞いていた。
部屋の戸を叩く音がした。ホークアイが返事をすると、獣人の女性が室内へ入って来た。宿のおかみさんだった。獣人によって変身の度合いは様々で、この人は獣の姿でいる方が多いらしい。両手に木製のトレイを持って、人の良さそうな微笑を浮かべていた。
「パンが焼けましたよ。冷めないうちに、どうぞめしあがれ」
「ありがとうございます」
と、リースがトレイを受け取りに行った。部屋に小麦の香りが広がる。おかみは三人の姿を見、安心したように言った。
「あなた達のケガは、だいじょうぶそうですね」
「私達の前にも、どなたか来ていたんですか?」
「ええ。アルテナの魔導師がいたんです」
リースが思わず固まってしまった。ホークアイも初耳だったらしく、目付きが鋭くなり、張り詰めた声でおかみに問うた。
「……そいつら、村の人達に何かしませんでしたか?」
「いえ……ひどいケガをしていたので、ここで休ませてあげたんです」
意外にも、ルガーや獣人兵に致命傷を受けず、月読みの塔から村まで転進して来たアルテナ兵が存在したのであった。ミントスの人々は驚き戸惑いつつも、怪我をしているのだからと宿まで連れて行き、手厚く看護してやったらしい。魔導師たちは厚意を拒む気力さえ無く、やがて迎えの飛空挺に乗るべく海辺へ向かったそうだった。思いがけぬ報せに、三人とも絶句してしまい、危うくおやつの礼を言いそびれる所だった。
「……ミントスの人達、ほんとにやさしいのね」
おかみさんが出て行った後、リースが瞬いだ。
「アルテナの連中も、まさか助けてもらえるとは思わなかったろうな」
ホークアイは呆気に取られたような感心したような、どうとでも取れる声様と表情だった。アルテナ兵と自分達の関係を鑑みると、ケヴィンはどう受け取って良いのだか分からず、首を傾げた。
「……生きてて、よかった?」
「もちろんよ。きっと、アンジェラがよろこぶわ」
と、リースが頷いた。
ともあれ、差し入れのパンを頂く事にした。パンは焼き立てで、かじった端から湯気が出た。まん丸の大きなくるみパンである。月の光で育った小麦は、挽いて粉にすると、きめ細かくて香りが良い。練り込まれた大粒のくるみも、普段のものよりマナが濃密で、食べると元気が湧くようだった。ケヴィン達は熱いのも構わずかぶりつき、リースは冷ましながら、千切って少しずつ口に運んでいた。
「アンジェラが言ってたわ。月の光は、他の元素よりもマナの力が強いんですって」
その力は、マナの樹に最も近しい木の元素にも比肩するらしい。故、月の光を沢山浴びて育った植物の実も、マナの力をより多く取り込む事になるのだと。リースからそんな説明を受け、他の二人はパンを見詰めた。
「へえ。月のマナって、おいしいんだね」
「月のマナ、あまいね」
ずれた事を言う二人に、リースは苦笑して答えた。
「そうね。このパンも、やさしい味がするわ」
食べながら、ケヴィンは二人に月夜の森での暮らしぶりを話した。獣人と言っても、野性の強い者以外は人間とそう変わり無いのだが、月華の下に生きる者の暮らしは外の人間にとって興味深く映るらしい。今では日の当たる暮らしにすっかり慣れたケヴィンも、始めは世界の眩しさに戸惑ったものだった。そんな中で、このホークアイとリースに出会い、多くの友達と知り合った。六人とも、大切なものを失ったり守るべきものがあったりで、何処と無く気持ちの分かり合える所があり、一緒に旅していて心強く思える、何より大事な友達だった。
食後のお茶を頂き、三人は出発の支度を始めた。道具屋で消耗品を補充し、脱いだ防具を付け直し、使った部屋を軽く整えておく。全て終わった所で、ホークアイがケヴィンに声を掛けた。
「これで、月夜の森とはお別れだな。心残りはないか?」
「うん」
ケヴィンは即答した。強いて言うなら、獣人王との落とし前が付いていないのだが、目下決着を付けるつもりは無かった。なんなれば、以前アンジェラと、自分達は実の親が健在なのであって、互いの関係がどうであれ、それはとても幸せな事なのかも知れないと言う話をしたのだった。だからと言って獣人王を赦す気にはなれないが、気持ちは少しだけ軟化した。これまではカールと同じ目に遭わせてやろうと思っていたが、こてんぱんに叩きのめすだけに止める事にしたのである。それが今出来る最大限の譲歩だった。しかし、現在のケヴィンでは力不足だし、獣人王と会う前に考えておきたい事も沢山ある。決着を付けるにはまだもう少し時間が掛かりそうだと、彼は窓の外を見やった。