鏡映しのきみとぼく

「あたしって、ワガママ?」
 マリベルが唐突に聞いて来た。自分の部屋で、彼女とお茶をしていたアルスは、まじくじしてマリベルを見た。
「えっと……」
「正直に言っていいわよ。怒らないから」
 と、念を押して貰ったので、アルスは正直に答えた。
「たしかに、ちょっとワガママかもしれないな。そこも好きなんだけど」
 そう素直に伝えたら、マリベルが照れて、お茶を口にした。彼女の我儘は可愛いものである。アルスを思い通りに動かそうとして、気に入らない奴を小突けと言ったり、疲れたからおんぶしてと言ったり、何のかんのと命令して来るが、当のアルスは大抵おざなりに聞き流している。マリベルも分かっているから、アルスに期待はしていない。我儘を言っても、それを逐一叶えてやる必要が無いのだ。だから、互いに気にしたことが無かったのだが、珍しく、マリベルは自分の我儘について言及した。
「いきなり、どうしたの?」
 アルスが尋ねると、マリベルは言い辛そうにしながら、小さく呟いた。
「……最近は、おとなしくて、やさしい子がモテるんですって」
 何処で聞いて来たのやら、そんな噂を口にするのだった。
「マリベルはもてたいの?」
「そうじゃないけど……アルスも、おとなしい子が好きなのかなって思っただけよ」
 アルスは頭を掻いた。最近のマリベルは、こうしてアルスの好みを気にしてくるようになった。アルスとしては喜ぶべきなのかも知れないが、返答に困ってしまうと言うのが正直なところだった。今までは全く気付いていなかったが、考えてみれば、アルスは生まれた時からマリベル一筋だった。他に対象がいなかったと言っても良い。フィッシュベルに同じ年頃の女の子はいなかったし、グランエスタードのリーサは、自分にとって妹のようなものだった。故、女の子の理想が全てマリベルに基づいており、どんな性格が良いかなどとは考えたことも無かった。其処で、大人しい女の子の姿を想像してみることにしたが、浮かんだのは案の定、おしとやかにする赤毛の女の子の姿だった。
「マリベルなら、おとなしくてもかわいいと思うよ」
「それって、やっぱり、普段のあたしはおとなしくないってこと?」
「いや、そうじゃないけど……」
 アルスは口籠った。と、図らずも責めるような形になってしまい、マリベルは首を振った。
「……ちがうわ、そうじゃなくて……」
 と、自分の頭を軽く叩いた。何と言うべきか迷って、マリベルはあーとかえーとか言った。
「……たまには、あたしもおしとやかになってみようと思うのよ」
 そう言って、マリベルはまたお茶を飲んだ。マグを口に付けたまま、上目遣いにアルスを見る。
「だから、アルスも……たまには、あたしにえんりょしなくていいよ?」
 アルスは再び考えた。マリベルに遠慮したことは無い。遠慮が無さ過ぎて、デリカシーが無いとか、無神経だと怒られることさえある。しかし、マリベルがこう申し出たと言うことは、無神経だと怒られることさえ無くなるのだ。加えて、普段出来ないことが可能になると言うのは、好奇心旺盛な彼にとってかなり興味深い事態だった。何か面白いことをやってみたいと思って、アルスはふと閃いた。
「それじゃあ……今日は、僕のワガママを聞いてくれる?」
「アルスの?」
 と、マリベルは首を傾げた。アルスが頷くと、彼女は顎に指を当てた。
「ふうん……なかなか面白そうじゃない」
 マリベルはそう言って、挑戦的に微笑んだ。彼女も面白そうなことが大好きである。最近は、婚約と言う大きな刺激を受け、それどころでは無かったが、昔から二人は退屈しのぎに色んな遊びをしていたのだった。
「今日はいつもと逆になるってことね。アルスがワガママを言って、あたしが聞いてあげる。それでいい?」
 要するに立場の逆転である。普段無口で自己主張をしないアルスが、マリベルのように率直に要求を口に出し、気が強くて物怖じしないマリベルが、アルスのようにへらへら笑って受け流す姿は、想像するだけで面白そうだった。
「でも、これだけはわかってほしい」
 アルスは真剣になって、膝に手を置いた。
「僕はマリベルのワガママが好きだよ。マリベルのいいところだと思ってる。だから、自分がワガママだなんて気にしないでほしい」
「そんなの、いちいち言わなくていいから」
 マリベルはまた照れて、アルスから目を逸らした。アルスの好きな女の子になれるよう、あれこれ悩んで努力するマリベルを知っているから、アルスは好きだと言って肯定するのを忘れない。当然、恥じらうマリベルが可愛らしいと言うのもある。重要なことを伝えたアルスは、満足して、にっこり笑った。
「じゃあ、今日は一日、僕につきあってもらうよ」
 マリベルは、命令させろの支持を受けた時のように、固くなって身構えた。さてアルスはどうするかと言うと、特に何も思い付かなかった。彼はしばしばマリベルを困らせたり、怒らせたりするが、そうしようと思って嫌がらせをするわけでは無い。ぼんやりしているから、頭に浮かんだことが自然と言動に出てしまうだけだった。アルスは少し考えて、結局、いつもと同じ生活を送ることにした。
「とりあえず、遊びに行こうか」
「うん」
 と、マリベルはへにゃりとした、温順な笑みを浮かべた。驚くほど可愛らしかった。アルスが目を丸くしていると、マリベルは忽ち目を眇め、拗ねたように言い分けた。
「なによ。あんたのマネしただけでしょ」
「僕、いつもそんな顔してる?」
「してるわよ」
 アルスは反省した。道理でマリベルにしゃんとしろと言われるわけである。マリベルだから可愛らしく見えるが、自分の顔でへらへら笑っているのはただの間抜けだった。
「それで、どこに行くの?」
 と、マリベルが話の続きを促した。
「ガボのところ」
 アルスは即答した。
 そうしたわけで、アルスとマリベルは木こりの家を訪ねて行った。木々の赤く色付く季節で、森には沢山の落ち葉が積もっており、歩くとふわふわした感触だった。アルスの命令により、手を繋いで歩いて来た二人は、風雅な景色に感嘆の声を上げた。
「わ〜、きれい」
「きれいだね」
 はらはらと木の葉が舞い降りて来る。マリベルの赤いドレスとアルスの緑の服は、染まり行く秋の景色に良く馴染んだ。落ち葉を踏む音も耳に心地良く、二人はゆっくりと木立の間を歩いた。暫くそうしていると、段々と、マリベルの表情が曇って来た。アルスは不思議に思ったが、相手が何も言わないから、黙ってそのまま歩いた。やがて、マリベルが足を止めた。
「ねえ、汗かいてきちゃった……はなしていい?」
 と、繋いだ手を軽く揺らした。しかしアルスは離したくなかったから、マリベルの手を握ったままでいた。いつもならば、マリベルが無理に手を解いてしまうのだが、彼女は小さく溜息をつき、諦めて手を握り直した。
「わかった。今日はアルスの言うことを聞く日だもんね」
「うん、ありがとう」
 アルスがへらへらしながら礼を言うと、マリベルは口を尖らせた。
「ニヤニヤしないの。今日のあんたはあたしなんだから、もっとシャンとしてなさい」
「うん」
 そう言われると、アルスは困ってしまうのだった。最近のアルスは贔屓目のせいか、マリベルが今まで以上に可愛らしく見える。そんな彼女の真似をするなど、男のアルスには到底不可能だった。取り敢えず、男らしい勇ましい顔を作ってみようと、アルスは眉間に皺を寄せた。
「……ぷっ!」
 すると、マリベルが噴き出したので、アルスは照れながらいつもの顔に戻った。
 ガボは動物達を集めて、声を揃えて変な歌を歌っていた。アルスとマリベルには、食事が足りなくて文句を言っているようにしか聞こえなかったが、ガボが節を付けて歌っているから、辛うじて合唱なのだと気が付いた。二人は木陰に立って、歌が終わるのを静かに待っていた。
「おっ、アルス! マリベルも!」
 二人に気が付くと、ガボは満面の笑みで迎えてくれた。指揮台にしていた切り株から降り、こちらに駆け寄って来る。
「今日は何して遊ぶんだ? すもうか? かけっこか?」
 マリベルは何とも言わず、ただ隣を見上げた。アルスに一任すると言うことである。好きにしても良いと言っても、最低限気を遣う必要はあるだろう。
「もうちょっと、静かな遊びがいいかな」
「静かな遊びかあ……」
 アルスがそう提案すると、ガボは腕を組んだ。
「じゃあ、栗拾いはどうだ? 森にいっぱい落ちてんだ!」
「いいね」
 と、アルスが隣を見ると、マリベルも乗り気なようだった。どうしてマリベルが黙っているのかと言うと、アルスの真似をしているのである。確かにアルスはあまり喋らず、頷いたり首を振ったりして応答することも多いが、マリベルが同じことをすると妙に大人しく見えた。
「おっちゃん!」
 何をするのか決定すると、ガボは小屋へ駆けて行き、扉を開けるなり大声で呼び掛けた。
「オラ、アルスたちと遊びに行ってくっから!」
「おう、気をつけるだよ!」
 と、木こりも大きな声で返事をした。
 三人は森の奥へ入り込み、栗やくるみなどの木の実を取って遊ぶことにした。ガボが大好きなのは、熊や狼と取っ組み合いをして遊ぶことだが、今日はマリベルがいるから、荒っぽい遊びは止したのだった。動物達も付いて来ようとしたが、見付けた木の実を全部食べてしまうから、ガボは彼らを置いて出掛けた。栗の木は、木立の中に紛れるようにして生えていた。根元には沢山のいがが落ちていて、三人はとげとげのいがを足で剥き、中の栗を取り出して籠に入れた。
「今日は、あたしがアルスの言うことを聞く日なの」
 マリベルは栗を拾いながら、ガボにそう話した。
「マリベルが? 逆じゃねえの?」
 ガボは訝しげにマリベルを見た。いつものように、ガボは彼女にずけずけと物を言う。
「そうよ、いつもと逆なの」
 と、マリベルは胸を張って答えた。
「だからって、あんたのワガママは聞かないからね。いい?」
「マリベル、ガボのワガママも聞いてあげてよ」
 アルスが横から口を挟むと、一瞬、マリベルは驚いたようにこちらを見たが、納得したらしい。渋い顔をしながらも、再びガボの方を向いた。
「しょうがないわね……ほら、なんでも言いなさい」
「ほんとか?」
 ガボは目を丸くして、いがから栗を引っこ抜いた。
「じゃあ、あとで毛づくろいしてくれよ」
「はいはい」
 ガボの我儘を、マリベルはいかにも面倒くさそうに肯った。ガボは彼女の毛繕いが大好きである。マリベルは動物が好きで、狼の触って喜ぶ場所を的確に撫でてやることが出来るのだった。
「それと、頭も洗ってくれよ」
「頭ね。はいはい」
 ついでに、ガボはシャンプーの約束も取り付けた。彼はお風呂と言うものを知ってから、体を洗って清潔にすることを覚えたが、せっけんが目に入るから、好んで風呂に入ろうとはしない。しかしマリベルが洗うと、せっけんがしみなくて気持ちいいらしい。いつもの軽口とは打って変わって、マリベルの膝にごろごろと擦り寄るガボの姿を思い浮かべ、アルスは微笑ましい気持ちになった。
「いてっ」
 ぼんやりしていたら、人差し指がちくりと痛んだ。目を凝らして見ると、人差し指の腹の部分に、小さな茶色いとげが刺さっていた。アルスの声を聞き付けると、一生懸命いがいがを剥いていたマリベルが、こちらに顔を向けた。
「大丈夫? ささっちゃった?」
「たぶん」
 アルスは爪で抓るようにして、刺さったとげを抜こうとした。しかし、指が痛んだだけで、なかなか取れそうにない。難儀していると、マリベルが近付いて来て、一緒に人差し指を見た。
「ぽーっとしてるからよ……」
 いつものように怒ろうとしたが、マリベルは口に手を当て、それ以上言わなかった。アルスはそれに甘えて、一つ我儘を言ってみることにした。
「マリベル、とってくれる?」
 と、右手を差し出すと、マリベルはその手を引き寄せた。
「みせて」
 彼女はアルスの指をじっと見詰め、親指で指の腹を押した。そして引っ掻くようにして、とげの先端を浮き上がらせて押し出した。少し痛んだが、アルスは我慢して、とげが取れるまで大人しく待っていた。マリベルは手を軽く払って、指にくっ付いたとげを落とした。
「はい、とれた」
「ありがとう」
 お礼を言いながら、アルスは何か我儘を言えないかと考えていた。意外と難しいのである。
「そうだ。ついでにホイミもしてほしいな」
「ホイミね。いいわよ」
 調子に乗り過ぎだと怒られるかも知れなかったが、意外にも、マリベルは嫌な顔一つせず聞き入れた。小さな声でホイミと呟き、緑の光がそっと灯される。温かな光で包んで貰い、アルスはちょっと幸せな気分になった。回復魔法は気持ちが良いのだが、神の教えとして、魔法に頼るべからずと言う条項がある。マリベルはその教えを遵守して、普段は滅多に魔法を使ってくれないのだった。二人がホイミをしている間、ガボは栗拾いに飽きたらしく、落ち葉を集めて山を作り始めた。そこそこの高さに積み上げると、少し後退って、勢いを付けて体を突っ込ませた。
「ガボったら、何やってるの?」
 マリベルはそう言ったが、瞳は好奇心に輝いていた。落ち葉を積むとふかふかで、布団のように居心地が良いのである。仰向けに寝転がったガボは、両手を使って葉っぱを巻き上げた。
「二人も来いよ!」
 うずうずしていたアルスとマリベルは、早速飛び込みたかったが、山が小さくてガボに衝突する虞があった。しかして自分達も落ち葉を積んで、三つの山を並べて作り、心置きなく上に寝そべった。空を見上げると、枝葉のあわいから蜂蜜色の光が差し込んでいて、如何にも暖かで眠たくなるようだった。アルスが目を閉じていると、不意に、顔にかさかさした葉っぱが掛けられた。
「よし、アルスを生き埋めだ!」
 いつの間にか起き上がっていたガボが、一生懸命アルスの体に葉っぱを被せている。これは本当に埋まりそうだなと思っていたら、マリベルまでもが一緒になって葉っぱを掛け始め、アルスはどんどん埋もれて行った。これが案外暖かくて気持ち良いのだ。二人が顔をよけてくれたので、口に葉っぱが入ることも無かった。アルスが一頻り生き埋めを楽しんだ後、続いてはガボを生き埋めにし、最後にマリベルも生き埋めになった。枯れ葉が服の中に入ってちくちくするが、葉っぱを撒き散らしながらわいわいと騒ぐのは、本当に楽しくて、三人で息が切れるまで笑って遊んだ。
 沢山の木の実を持ち帰ると、木こりは目を丸くして喜んでくれた。お茶を淹れて貰い、栗のシロップ煮を食べて一息ついたのだが、ガボは毛繕いとシャンプーの約束をしっかり覚えていて、まだかまだかと頻りに催促した。マリベルは休憩したがっていたものの、やがて根負けし、木こりに風呂の準備をお願いした。
 木こりの小屋では、大きな盥を風呂桶代わりに使う。其処を沸かしたお湯で満たし、手桶で頭や体にお湯を掛けて洗うのである。
「ひゃっほー! フロだフロだ!」
 お湯を沸かしている間に、ガボは服を脱ぎ散らかしてすっぽんぽんになった。当然マリベルの顰蹙を買う。
「ちょっと! いきなりハダカにならないでよ!」
「でも、ハダカにならないとフロに入れねえぞ」
 と、こちらを向いたガボに、マリベルは眉を顰めて顔を背けた。
「アルス、なんとかして!」
「わかった」
 アルスはガボを捕まえようとしたが、はしゃいだガボはするりと逃げ出し、焚火の周りを駆け出した。
「ほっほーい!」
「ガボ、待って……」
 ガボははぐれメタルより素早い。行きつ戻りつ、裸で走るガボを追い掛け回し、アルスはようやっと彼を押さえ、腰に布を巻いた。恥ずかしくない格好になると、ガボは空の盥の中に入り、お湯が来るのを今かと待ち侘びた。
「ほれ、お湯が入るだよ!」
 其処へ、木こりがお湯の入った鍋を運んで来て、ガボの入った大きな盥に注いだ。ガボは体の向きを変え、頭から熱いお湯を浴びた。
「ちっとあついべか?」
「あつくねえよ!」
 ガボは平気な顔で、ばしゃばしゃとお湯を掬って体に掛けた。浸かっている間に冷めてしまうから、少し熱いくらいに沸かすのだった。しかして、木こりとアルスが何度かお湯を運び、冷めない程度の量で盥を満たした。マリベルは一旦フィッシュベルに戻り、家から一番良い匂いのする石鹸を持って来て、丁寧に泡立てた。ガボが鼻を動かした。
「ん、ペペのにおいがするな」
「そうよ。ハーブ園で買ったせっけんなの」
 ガボはハーブの香りが好きなようで、頻りに匂いを嗅いでいた。マリベルは、顔に落ちないように気を付けながら、ガボの頭に泡を落とし、頭を洗い始めた。ガボはすっかりご機嫌で、にこにこしながら鼻を鳴らしていた。一方のマリベルは真剣だった。ガボは髪の毛が多く、一本一本が太くて硬いので、恰も栗のいがのようになっている。其処に石鹸の泡を付けても、弾いてしまってなかなか地肌まで届かないのだった。
「あんた、ちゃんとおフロに入ってるの? ぜんぜん泡が立たないわ」
「そうか? 洗ってるけどなー?」
「すまんすまん。オラがぶきっちょなもんで、きれいに洗えてないんだべ」
 と、薪割りの支度を始めた木こりが答えた。木こりが風呂に入れているらしい。マリベルは呆れて、少し手を止めた。
「その年になって、一人でおフロにも入れないわけ?」
「入れるよ。でも、人に洗ってもらうほうが気持ちいいだろ?」
 ご機嫌なガボは、鼻歌交じりに答えた。
「まあ、そうだけどさ……」
 マリベルは溜息をついたが、それ以上は叱らなかった。彼女もつい最近まで、メイドさんに頭を洗って貰っていたのである。小さな頃、アルスと一緒にお風呂に入った時も、彼女はアルスに頭を洗わせた。小さなマリベルの髪の毛は、今よりも細くて柔らかく、アルスが触るとぐちゃぐちゃに縺れてしまって、マリベルを泣かせてしまったものだった。そんな懐かしいことを思い出しながら、今髪の毛を洗わせて欲しいと言っても、マリベルは許してくれないだろうと思って、口にするのはやめておいた。アルスはすることが無かったから、木こりを手伝って斧を取り出し、薪を割り始めた。斧を振るうのは久々である。旅した日々を思い出しながら、手早く要領を掴んで真っ二つに割って行った。マリベルはガボのぼさぼさした毛を隅々まで洗い、手桶でお湯を掬って流した。泡が無くなると、毛先を絞って軽く水気を取った。
「はい、体は自分で洗いなさい」
 と、マリベルはガボの頭を軽く押した。
「えー? マリベル、やってくれねえの?」
「あたしは女の子なのっ。あんたの体なんてさわりたくないわ」
 鰾膠も無く断られ、ガボは良く分かっていない様子だったが、大人しく自分で体を洗い始めた。その間、マリベルは背中を向けて見ないようにしていた。
「あなたも入りたい?」
 と、マリベルは狼に声を掛けた。動物達は濡れるのが嫌いだから、小屋から離れて森で遊んでいるが、ガボの育て親だけは近くでお座りしていた。雌の狼はマリベルを見上げ、頷くように尻尾を動かした。
「よし、来い!」
「あ、ちょっと!」
 ガボが呼ぶと、マリベルが止める間も無く、狼は弾みを付けて桶に飛び込んだ。大きく水飛沫が上がり、ガボと狼は勿論のこと、マリベルまでもびしょ濡れになってしまった。マリベルは濡れると髪の毛が窄まり、何だか小さくなったように見える。彼女は俯いて、無言で雫をぽたぽたと垂らしていた。
「……ガ、ガボ?」
 ガボが首を傾げながら、恐る恐るマリベルの様子を窺った。しかし、結局マリベルは怒らなかった。濡れてしまった服は諦め、大きな溜息をついた。
「……ま、こうなるだろうとは思ってたわよ」
 そう言って、彼女は袖を捲り直し、手桶で狼にお湯を掛けた。ガボは却って戸惑ってしまい、盥の端に寄って、膝を抱えて小さくなった。
「うう〜、なんかヘンな感じだぞ……」
「マリベルはやさしいね」
 ガボが虎の尾を踏む前に、アルスはマリベルのことを褒めた。
「うふふ」
 すると、マリベルが口元に手をやり、可愛らしく笑ったので、アルスはまたぽかんとして目を見張った。
「……なによ。あんたのマネしただけでしょ?」
「そうなんだ……」
 同じ気の抜けた笑顔でも、する人間が違えば大違いだった。マリベルは普段、意志の強そうな生き生きとした表情をしている。それが不意に、目尻を下げて柔和な笑みを浮かべると、アルスにとって不意打ちを食らったような気持ちになるのだった。そうして暫くマリベルを凝視していると、彼女はちょっと含羞んで、狼を洗う方に集中した。
「アルス、手がとまってるだよ」
「あ、ごめんなさい」
 木こりに優しく促され、アルスも仕事に戻った。
 焚火で体を乾かし、木こりに昼食をご馳走して貰った後、アルスの家に戻った。
「う〜、つかれた……」
 大きな狼と少年一人をまるごと洗ったマリベルは、ぐったりしながらベッドに座った。アルスも手伝ったが、大部分はマリベルが綺麗に洗ってしまった。ガボは大きく逞しくなり、小さな子供とは呼べなくなって来た。彼に付き合って遊び回るには、それなりの体力が必要になる。漁で鍛えられたアルスはともかく、お嬢様暮らしで以前の旅を忘れつつあるマリベルには、結構堪えるものだったらしい。
「少し寝る?」
「ううん……」
 アルスが尋ねると、マリベルはぼんやりした様子で答えた。普段の元気一杯の彼女ならば、この程度でくたびれたりはしないだろう。自分と変な約束をしたせいで、気疲れしてしまったのかも知れないと、アルスはちょっと反省した。
「……あたしって、ヘンだよね……」
 自分の膝の辺りを見ていたマリベルが、ふと呟いた。其処で、忘我の内に妙なことを言ったと気付いたようで、それきり彼女は黙した。
「どうしたの?」
「なんでもない」
 尋ねても、マリベルは首を振るばかりだった。アルスはマリベルをじっと見詰めた。そう意図してやったわけでは無いが、視線を送っただけで、話せと命令したのが伝わり、マリベルは俯きながら口を開いた。
「……あたし、アルスに命令されるの、ぜんぜんイヤじゃないの……。これってヘンよね」
「ふーん……」
 相槌を打ちながら、アルスも妙な気分でいた。自分の我儘にマリベルが付き合っている姿は、どう考えても普通では無い。そして、困ったように眉を顰めながら、諾々と命令に従う彼女は、何だかとても可愛らしく見えた。結局のところ、アルスの惚れた弱みである。
「僕も、マリベルに命令されるのはイヤじゃないよ」
「そうなの? じゃあ、アルスもヘンなのね」
 マリベルは顔を上げ、納得して言った。彼女の我儘や毒口が、自分に対する好意や甘えの裏返しであることを、アルスは無意識の内に知っていた。だから今まで、どんな無茶な要求を言われても、平然としてへらへら笑っていられたのだ。自分達は昔から、お互いがお互いを好きだと言う絶対的な信頼に基づいて、気の置けない関係を築いて来たのだった。かくして、本人から嫌では無いと保証されたので、アルスはまた我儘を言ってみることにした。沢山遊んで、腹一杯食べて、少々眠くなって来た。一緒に昼寝をするのは良いかも知れない。
「昼寝でもしようか」
 思い立ったら行動は早い。帽子と靴を脱ぎ捨て、布団を捲り、中に体を潜り込ませた。アルスがごそごそしている間、マリベルは靴と帽子を拾って、それぞれを整えて置いてくれた。
「お昼寝はいいけど……あたしはどうすればいいの?」
「マリベルもいっしょに寝ようよ」
 と、布団を開けて誘ってみると、マリベルは動揺して、赤くなりながら髪をいじくった。
「だ、だって……まだ結婚もしてないのに……」
「いっしょに寝ようよ」
 アルスは枕を叩き、もじもじするマリベルを再度誘った。マリベルは尚も言い訳めいたことを呟いていたが、アルスが笑顔で待っていると、諦めて靴を脱ぎ、布団に潜り込んで来た。そのまま、こちらを向いて横になるのかと思ったら、寝返りを打ち、背中を向けてしまった。アルスはそれでも満足だった。童心に返ったようで楽しいのである。マリベルに布団を掛けてやって、枕を隣にずらして譲った。
「いっしょの布団で寝るなんて、何年ぶりだろうね」
 子供の気分になって、アルスは声を弾ませた。昔は良く互いの布団に入り込んだものだが、いつしか、一緒に寝ることは無くなってしまった。旅の途中でも、マリベルやアイラは特別扱いされており、必ず一人でベッドを使っていた。アルスも全く無神経なわけでは無いから、そのくらいの区別は当然だと思っていたが、やはり久々となると心が浮き足立った。大好きなマリベルと眠れるのだから、気分の良い昼寝になるだろう。
「いいから、早く寝なさいよ」
 マリベルは背中を向けたまま、それだけ言った。
「うん、おやすみ」
 仰向けになったアルスは、大きく息を吸って、即座に寝息を立て始めた。羊飼いの時に習得した特技、ねる、である。久々に昼寝の時間を取ることが出来たせいか、夢も見ないでぐっすり眠れた。
 自然と目が覚めた。清々しい気分だが、もう少し惰眠を貪っていたかったアルスは、目を瞑ったまま寝返りを打った。すると、何かが腕に触った。枕か布団か何かだろうと思い、アルスは手元に引き寄せて抱きかかえようとした。したら、どすんと言う衝撃と悲鳴が起こった。敵襲かと思い、飛び起きて武器を探したが、そばには何も無かった。
「……マリベル?」
 起き抜けの混乱が落ち着いたアルスは、改めて状況を確認した。ベッドの脇にマリベルがへたり込んでいる。彼女は今にも破裂しそうな、真っ赤な顰め面をしてアルスを睨み上げていた。
「……その、ごめん」
 良く分からないが、確実に自分が悪いことを悟り、アルスは取り敢えず謝った。
「それで……どうしたの?」
「見ればわかるでしょ。ベッドから落ちたのよ」
 マリベルが低い声で答えた。
「そうだね。ごめん」
 と、アルスは頭を下げた。こんなに機嫌の悪いマリベルは久々に見た。眉を釣り上げて怒る彼女にびくびくしながら、恐る恐る尋ねてみる。
「……よく眠れた?」
「ぜんぜん。あんたがコロコロ寝返りうつから、全く落ちつかなかったわ」
「そっか。ごめん」
 アルスはもう一度頭を下げた。マリベルは大きく溜息をつき、ベッドに飛び乗るようにして座った。使い古しのキルトとか綿とかを詰め込んだマットレスは、ぼよんぼよんと良く跳ねた。
「……でも、あんたは気持ちよく眠れたんでしょ? なら、いいわ」
 と、横目でアルスを見やった。
「うん」
 其処は正直なアルスなので、気の抜けた笑顔で答えた。マリベルはせっけんの良い匂いがして、そばにいると心が和む。マリベルの寝ていた布団からは、せっけんの残り香が仄かに香っていた。
「……なんか、バッカみたい」
 マリベルは気勢を削がれたようで、また溜息をつき、天井を見上げた。口振りからすると、アルスを貶したのでは無く、自嘲のつもりで言ったようだった。アルスは少し危殆を抱いた。
「……マリベル、怒ってる?」
「べつに。あたしばっかりドキドキして、バカみたいだって思っただけよ」
 マリベルは投げやりにそう言った。アルスは足りない頭を捻り、かしこさの数字を目一杯使って、相手の今の気持ちを忖度した。マリベルはどきどきしている。その原因は恐らくアルスにある。アルスが何をしたかと言うと、一緒に布団で寝ていた。つまり、マリベルは布団で寝たことにどきどきしているのである。アルスのせいで。理解しても尚、間の抜けた顔をしているアルスに対し、マリベルは訝しげに見やって来た。
「……アルスはあたしと一緒にいて、ドキドキしたりしない?」
「するよ」
 アルスは反射的に答えた。あまりに早かったので、空々しいと取られたらしい。マリベルは青い目を眇めた。
「ほんと?」
「本当だよ。ほら」
 と、アルスはマリベルの手を取って、自分の心臓に当てた。びっくりして飛び起きたせいで、心臓は早鐘のように鳴っていた。マリベルは胸に手をぴったりと付け、心臓の音を確かめた。
「……ほんとだ」
「ほらね」
 こんなにもどぎまぎしたのは久々だった。アルスにとって、マリベルよりも自分をはらはらさせて、見ていて落ち着かない気分にさせる相手はいなかった。
「そう、アルスもドキドキしてるんだ……」
 マリベルは少し満足したらしく、アルスの胸を平手でそっと押した。アルスはいつも彼女に傷を治して貰う。そのためか、マリベルの手が触れると、触れた先から癒されるような、快い気持ちがするのだった。アルスがその手に自分の手を重ねてみると、小さなマリベルの手はすっぽりと収まった。マリベルはちらりとアルスの顔を見上げ、安心したように笑みを深めた。何となく親密な、良い雰囲気になって来たので、アルスは最後の我儘を言ってみることにした。
「マリベル」
 と、アルスは気が急いて、既に両目を瞑っていた。
「な、なに?」
 ずっと胸に手を当てていたのに気が付いて、マリベルは慌てて手を引っ込めた。
「……ん」
 アルスは目を閉じたまま、ぎこちなく言った。自分が言うと恐ろしく可愛くなかった。暫し無言になり、何も起こらないのを不思議に思って、片目を開けて様子を窺った。
「……それもマネする?」
 マリベルは気まずそうに目を逸らしていた。マリベルが、ん、と言って目を瞑るのは、二人の間だけで通じる合言葉である。それをアルスが真似したのだが、思った以上に照れくさかった。再び目を閉じ、駄目かと思いながら待っていると、相手の動く気配がした。マリベルは素早く顔を近付け、素早く頬に口を当てた。当てたと言う他無かった。少し遅れて、せっけんの匂いがほんのり香った。目標は達成されたが、いつ頃開ければ良いのか分からず、アルスは長いこと目を瞑っていた。
「開けていいわよ」
 マリベルに促され、目を開けて見たら、相手は思った以上に遠くまで逃げていた。マリベルもそれに気付いたようで、そろりと足を前に踏み出し、アルスの隣に来て、ぎこちない所作でベッドに座った。二人とも、何も語らず、空気が重くなった。
「……そろそろ、おしまいにする?」
 マリベルが躊躇いながら提案した。
「そうしようか」
 アルスも頷き、かくして立場の逆転生活は終わりを告げた。マリベルは安堵したような、気の抜けたような態度で、大きく溜息をついた。
「ふう……なんだか、すごくつかれたわ」
「うん」
 マリベルほどでは無いが、アルスもくたびれていた。我儘を言うのは意外と気を遣う。相手に拒絶されないか、呆れられないかと、終始瀬踏みするような心持ちで構えなければならないのである。これならば、我儘を聞く立場の方が余程楽だった。しかし、今日は一度も拒まれず、アルスの真似をすると言いながら、マリベルは全ての頼みを叶えてくれた。それがアルスには嬉しかった。
「マリベル、今日はありがとう」
「いつもありがとう、でしょ」
 と、マリベルはいつもの口吻で言った。
「そうだね。ありがとう」
「どういたしまして」
 マリベルは満足げに笑い、裸足をぱたぱたと揺らした。
「あー、なんだか眠くなってきちゃったな……。アルス、ベッドかしてね」
 言うなり布団を捲ろうとしたので、アルスは体を浮かせて踏ん付けないようにした。布団に入ると、マリベルは本格的に眠るつもりらしく、頭巾を外して枕元に置いた。アルスはさっきの続きのつもりで、自然と隣に潜り込もうとした。
「ちょっと、入ってこないでよ!」
 ところが、怒ったマリベルに押し出され、アルスはベッドから転げ落ちてしまった。

2017.2.28