ここ暫くのミカエルの機嫌は悪い。魔龍公のゴタゴタは片付いたし、カタリナとマスカレイドは無事帰って来たし、領地は着実に拡大しつつあり、執政の方も万事滞り無く進んでいる。ロアーヌ候国は祝着極まりない情勢である。領主の不機嫌は妹モニカにあった。
 彼女の家出などは彼にとり、さしたる問題では無い。ツヴァイク公爵家輿入れの件は、立場上袖にすることが叶わないものの、内心ミカエルは妹を笑止がっていたのである。故、後の始末が厄介だとは思いつつ、屋敷を飛び出したモニカを探そうとはしなかった。彼女の性格からして、思い詰めて出奔したところで、兄に何の連絡もせずに済ませられるわけが無い。いつか帰ってくるだろうと気長に待っている。お供のユリアンは、新参ながらなかなか信頼の置ける人間である。が、問題は其処にあった。何とも遺憾なことに、巷では彼らが駆け落ちしたことになってしまったのだ。当然ミカエルは浮薄な流言だと看做している。出来るものならやってみよ、逆さ磔ののち釜茹で打ち首獄門は免れない。そんな男をプリンセスガードと認めた自分やハリードの沽券にも関わる。第一、駆け落ちにしては仲間が余りに多すぎる。聞いた話では、ユリアンの幼馴染み達を始め、少なくとも五人ほどで旅していると言うのだ。そう言う次第なので、心配は無い筈だった。
 ミカエルは自室にカタリナを呼んだ。彼は戦友が出来、漸く損得無しの人間関係を知ったため、人を招いて世間話をする機会が増えた。美しいカタリナは、主人の勧めでまた髪を伸ばし始め、やっと纏められるくらいになった。最近の侯爵が妙に優しげなせいで、もしやこれも偽者では無いか、いやミカエル様を疑うなど無礼千万、内心葛藤し、向かいに座ってどぎまぎしながら、最初の一言を待っている。侍女が運んで来たのは、モニカが好むお茶とお菓子だった。
「モニカはどうしているのだろうな」
「イルカを探していらっしゃるそうです」
「会ったのか?」
「いえ、雪だるまから聞きました」
 と、カタリナは真面目に答えた。モニカとイルカと雪だるま。奇妙な組み合わせである。正確にはイルカでは無く、その像がバンガード発進の鍵で、彼らは遥々グレートアーチまで探しに行ったのだった。暑いのは嫌だから、雪だるまは留守番なのだ。それで仲間達と別れ、寒いところを目指してポドールイまで来る途中、彼はカタリナに邂逅し、モニカの足跡を伝えるに至ったらしい。
「いかが致しますか」
「放っておけ。いつまでもそうしているわけにも行くまい」
 カタリナは、殆ど唯一とも言って良い兄妹の理解者である。ミカエルの不器用な優しさと、モニカの儚い願いを思い、気の毒そうに目を伏せた。
「きっとモニカ様は、ミカエル様のおそばにいたいのでしょう」
「侯爵家の娘に生まれたのだ。あれや私が望もうと、許されることでは無い」
 嫌なのは仕方の無いことで、だから少しでも不自由の無い家に出してやろうと思ったのだが、却って彼女を追い詰める羽目になってしまった。あの温順な妹が屋敷を飛び出すほど、政略結婚とは嫌でたまらないものか、それをカタリナに尋ねると、彼女も頷いた。
「結婚だけには限りませんわ。誰しも、本当に好きだと思う方のそばにいたいものです」
「お前もそうなのか?」
 カタリナが固まった。続いて、もしも嫁ぐならば何処へ行きたい、と追撃。ミカエルは義侠心を起こしたつもりだ。妹もさることながら、不憫にも青春を兄妹のお守りに費やしてしまったカタリナであるから、彼女にも普通の幸せを贈ってやりたいのだった。
 対するカタリナは、いよいよ相手の正体を訝った。敬愛する人を二度も騙るなど言語道断。此処は一つ芝居を打って、騙された振りを装い、相手が油断したところで斬り捨ててやろうと考える。手には愛刀を握り締め、眼差しを決する武人の顔で、良くもミカエルが身の危険を感じないものだった。
 長い沈黙ののち、おもむろにカタリナが言った。
「憚りながら、ロアーヌ侯爵のおそばでございます」
 言ってから気付いたが、カタリナは侯爵が本物だった場合を忘れていた。取り繕おうにも、嘘では無いから否定は出来ないし、笑って誤魔化すことも叶わない。冷静な反応からすると、どうやらこの侯爵は正真正銘ミカエルその人であると判明したが、後はどうにもならなかった。とりあえず短刀から手を離し、カタリナは表情を隠すように、俯いてお茶のカップを傾け、先方の出方を待った。傍らに控える女中達も、心なしかそわそわしていた。
 押し黙っていたミカエルが、急に笑い出した。
「カタリナ、貴殿の忠義は私も良く存じている。しかし添い遂げる相手までロアーヌとは……」
 幸か不幸か、彼は大いに意味を取り違えていた。予想だにしなかった反応に、暫し呆気に取られていたカタリナも、嫣然と笑って返した。
「ええ。私はこれからもずっと、侯爵にお仕えする所存です。どうか、おそばに置いて下さいませ」
「そうか。それが望みと言うならば」
 それからミカエルは、カタリナの身の振りについて一切触れず、出掛ける際はいつも彼女を伴って行った。ちょっと形は違うが、カタリナの願いは叶ったのである。女中達がものすごくやきもきしたのは言うまでも無い。