潮騒がやかましく騒ぎ立てる 前

 魔王が死んで一年ほど経った。五人の勇者はそれぞれ別の道を歩き、アイラはエスタード城で兵士として務め、ガボは森で木こりと暮らし、メルビンは天上で聖戦士長として多忙な日々を送っている。アルスは漁に出始めたので、以前よりは忙しい生活になった。唯一変わらないのはマリベルである。前と同じくお嬢様暮らしをしながら、たまに漁船に乗せて貰ったり、船からつまみ出されたりする日々を送っていた。
 その日もアルスは漁に出る予定だった。フィッシュベルの沿岸で魚を取って、夕方には村へ戻れる日取りとなっている。アルスは早朝、まだ夜が明けない頃に起き出したが、ボルカノはとっくの昔に港へ向かっていて、家にはいなかった。見習いのアルスも早く港へ行って、投網や撒き餌の支度をしなければならない。慌てて着替えを済ませ、居間に駆け下り、急いで朝食のアンチョビサンドを頬張っていると、台所のマーレが話し掛けて来た。
「マリベルさん、また縁談をことわったんだって?」
 と、マーレは息子が知っている体で言って来たが、アルスは何も知らなかった。がっついて食べ過ぎたところを、水を飲んで一息入れる。
「そうなんだ」
「おや、あんた知らないのかい?」
 マーレは意外そうにして、エプロンで手を拭き、ラスクを皿に盛ってから、アルスの向かいへ座った。パンの耳をかりかりに炒めて、バターとガーリックで味付けしたものである。美味しそうだったので、アルスは水をさっさと飲み干し、皿に手を伸ばそうとした。
「むこうの奥さんが言ってたんだよ。マリベルさんはいい相手がいないみたいだから、アルスにもらってほしいんだって」
 それを聞いて、アルスは水を噴き出しそうになった。流石のアルスも動揺する。以前マリベルの母親は、冗談のような調子で、アルスに娘を貰ってくれと言って来たことがある。その場は適当に笑って済ませたのだが、それがまさかマーレにまで伝わっているとは思わなかった。どうにか水を飲み込み、母親から目を逸らしながら答える。
「……そんなの、ただのじょうだんじゃないか」
「奥さんはほんとに困ってるみたいよ。アルスだったら、網元さんの跡も継いであげられるからねえ」
 マーレはまんざらでも無さそうだった。母はマリベルに好感を持っている。礼儀正しく、聡明でしっかりしているのだから当然と言える。そんな彼女がアルスのお嫁さんになれば、ボルカノとマーレはさぞ喜ぶことだろう。一方のアルスは、ぼんやりだが人当たりは良い方で、漁師としての腕もそこそこである。網元の跡取りを欲しがるアミット家にとって、それなりに魅力的に映らなくも無いだろう。二人の結婚は、村からしても非常にめでたい話で、ついては誰も損をしない縁談なのだった。しかし、其処には肝心のアルスとマリベルの意思が全く無視されている。アルスはともかく、マリベルがこれと結婚しろと言われて、素直に頷く筈が無かった。
「……それで、母さんはなんて答えたの?」
 と、アルスは一応聞いてみた。
「いい話だけど、本人に聞いてみないことにはわからないって答えたよ」
 マーレは当たり障りの無い返事をしてくれたようで、アルスは少しほっとした。美味そうなラスクを掴み取り、今度は少しゆっくり食べていると、マーレが話を続けた。
「でも、私もいい話だと思ったんだよ。アルスはちょっとぼんやりしたところがあるから、しっかりしたお嫁さんがいいでしょう」
「そうかな」
 アルスはお座なりにはぐらかしたが、母はそれなりに乗り気らしい。
「アルスはどうなんだい? マリベルさんのこと」
 と、何気無い調子で尋ねて来るのだった。どうと言われても、アルスの胸中は複雑だった。はっきり言って、マリベルが誰かと結ばれるのを見るのは嫌である。しかし、それは遊び相手を取られるとか、きょうだいを取られてしまうとか言った感情に近く、自分が彼女と結婚するかと言われたら、アルスは首を傾げるばかりだった。そもそもマリベルが嫌だろう。彼女の好みは、見た目が格好良くて、頭も良くて、優しく紳士的な、それなりに身分のある男なのだ。自分とはまるで正反対だった。アルスはかしこさとかっこよさの数字だけは高いものの、頭の回転は鈍いし、見た目はこうである。マリベルからも、ぽーっと口を開けるのはやめろとか、背筋を伸ばせとか、しわしわのシャツを着るなとか、ことあるごとに身なりの注意をされているのだった。アルスが何とも答えずにいると、母親も会話を止めてしまい、奇妙な沈黙が落ちた。
「……そろそろ行ってくる」
 いたたまれなくなって、アルスは残りのサンドイッチを口に押し込み、逃げるように席を立った。
 マリベルはアルスに恋愛の話をしない。興味が無いと知っているし、マリベル自身、色恋沙汰にさして関心を示さないからだった。二人にとってどうでも良いことだから、敢えて話題にしようとも思わなかった。それに、二人ともまだ恋愛をするには早過ぎると思っており、友達と遊んでいる方がずっと楽しいのだった。今までも、これからも、アルスはそうやって遊んで暮らすつもりでいたが、マリベルはそうもいかないらしい。網元の娘である彼女は、早い内に跡取りとなる夫を見付け、家を守って行く必要がある。マリベルは比較的自由にさせて貰っている方だが、名士の家の者として、結婚の話だけは逃れることが出来ないのだった。
 その晩、アルスはマリベルに呼び出された。月明かりの眩しい夜で、海面に沢山の星々が映り、波立ってきらきらと輝いている。マリベルは波打ち際に立って、裸足を水に浸していた。アルスも裸足で外に出て、彼女と同じ深さまで歩いて行った。
「おそかったわね」
 マリベルは少し不機嫌だった。
「ごめん」
 こう言う時は素直に謝っておくべきである。頭を下げると、マリベルは片足を上げ、アルスに水を掛けて来た。ズボンが濡れてしまい、アルスは足が寒くなった。この時期の海は少し冷たく、足を浸している内に、体も冷えてしまうだろう。マリベルがこうして水に入っているのは、さっさと話を終えると言うことだった。
「はやく寝たいだろうから、要件だけ言うわ」
 と、マリベルは早速切り出した。
「あんたとあたし、婚約してることにしてほしいのよ」
 昼間の続きがやって来て、アルスはまた噴き出しそうになった。思わず変な顔になったのを、マリベルが見咎めて、ますます機嫌を損ねてしまう。
「なによ、その顔は」
「いや、ごめん……。理由を聞いてもいい?」
 アルスが尋ねると、彼女は肩を竦めてみせた。
「毎日毎日お見合いの話で、いいかげんイヤになっちゃったのよ。アルスと婚約してることにすれば、そういうのも来なくなるでしょ?」
 と、平然として言うのだった。所謂隠れ蓑と言うやつである。アルスとマリベルは、昔から恋仲だと思われることもしばしばで、そうした勘違いに対し、むきになるのも面倒だからと強く否定しないで来た。そのため、二人が恋人同士だと思っている人間も少なくない。つまり、今までと大して変わりは無いのだが、婚約していると大っぴらに嘘をつくのは、アルスの良心が咎めるところであった。アルスは少し考えたが、結局はマリベルの意向に沿うことにした。
「僕はいいけど、マリベルはいいの?」
「あたし? 別にいいわよ。それでめんどうなのが来なくなるんならね」
 事も無げに言いながら、マリベルはスカートの裾を絡げ、そろりと歩いて水から上がった。そうしてアルスを顧みる。
「……で、どうなの? あんたはそれでいいの?」
「マリベルがいいなら、別にいいよ」
「そっ」
 曖昧な返事だったが、マリベルは納得してくれた。言いたいことを言ってしまうと、肩の荷が下りたようで、機嫌良さそうにスカートの裾を翻す。
「それじゃ、あたしたち、明日から婚約者どうしだからね! 忘れないでよ!」
 手を振り振り、マリベルは屋敷に走って行った。まるで遊びに行く約束でもしたかのようだった。無邪気なマリベルと、他人事のような自分を見るにつけ、結婚など自分達には早すぎる話だと、アルスはつくづく思うのだった。
 アルスとマリベルは十八歳になった。マーレとアミット夫人は、その年頃には既に結婚していたらしい。ボルカノとアミット氏はもっと後で、漁師として修業を積み、一人前になってから妻を娶ったそうだった。その点から鑑みると、マリベルは丁度結婚の適齢期で、アルスはまだまだ時期尚早と言えた。他に適当な例は無いかと考えて、キーファのことに思い当たった。キーファはいつ頃結婚したのだろう。アルスとマリベルが婚約者になったと聞いたら、彼は大袈裟に驚いてみせるだろうが、同時に喜んでもくれ、そのまま結婚しちまえとけしかけて来る筈だった。肘で小突いて来る幼馴染の姿を思い浮かべ、アルスは布団の上でちょっと笑った。他の仲間はどうかと考えて、まず思い浮かんだのはメルビンだった。彼は、アルスの結婚式には必ず呼んでくれと頼んで来た。めでたい祝賀の日に於いて、メルビンは誰よりも朗らかに笑い、宴を楽しむ人だった。もしもメルビンに婚約のことを知らせたら、大いに喜び、それが嘘だと知ったなら、大いに落胆するであろう筈だった。アルスはそこまで考えて、メルビンに今回の件は伝えないでおこうと決めた。天上の世界で忙しくしている彼を、わざわざ煩わせたくなかった。ガボは恐らく、婚約の意味が分からないだろう。婚約と結婚の意味を教えたら、本当にマリベルと結婚するのかと訝しむかも知れない。アイラはいつものように、うふふと笑いながら、アルスも大変ねと言うだろう。彼女はマリベルの本心を知る数少ない人であるから、アイラの反応によっては、今回の件が正解だったかどうか分かるかも知れない。とやかくやと考えて、結局アルスはどうするかと言うと、皆が喜ぶなら結婚するのも良いかも知れないと、消極的な意見を打ち出した。
 次の日、アルスとマリベルは婚約者になった。早速マリベルは張り切って、朝からアルスにお弁当を持って来てくれた。そして、お邪魔してのんびりするのも何だからと、お勝手のマーレを手伝い始めた。
「マリベルさん、座っててちょうだいよ」
「座ってたって、ヒマなんですもの」
 マリベルは井戸から水を汲んで来て、盥に空け、洗い物を始めた。なまじ力があるだけに、一人で何でもやってしまうのである。マーレは済まなそうにしていたが、一方で嬉しそうでもあった。
「マリベルさんはいいお嫁さんになるわね」
 苦笑しながら、マーレは食卓に座って休憩した。マリベルは鼻歌を歌いながら、洗ったお皿を布巾で拭いている。良く働く後姿を見ながら、食後のお茶を飲んでいるボルカノとアルスに、マーレはしみじみと話し掛けた。
「のんびり屋のあんただから、お嫁さんを見つけるのもいつになるかと思ってたけど……こんなに早く決まっちゃうとはねえ」
「うん」
 頷きながら、アルスは非常に後ろめたい思いでいた。今まで散々無茶をして、両親に随分と迷惑を掛けて来たものだが、嘘をついたのは未だかつて無いことだった。
「私たちも安心したよ。アミットさんご夫婦も、よろこんでくれてるし……ねえ、あんた」
「ああ……」
 ボルカノは珍しく、歯切れの悪い返答をした。ボルカノは息子の婚約について、一応喜んではいるものの、アルスをじっと観察するようにして、冷静な目で見詰めていた。もしかしたら、父は気付いているのかも知れない。アルスの父は、アルスがこれと決めたことには口出ししない質だから、今度の件も、息子自ら打ち明けるまでは、このまま静観するつもりなのかも知れなかった。アルスはそれに甘んじて、マリベルが偽りの婚約に飽きるまで、ボルカノには黙っていて貰うことにした。
 かくして、そうした関係が数日続いたのだが、今度はアルスがマリベルを呼び出した。場所はいつもの浜辺で、時刻はいつもの夕食後である。曇りの日で、海は空恐ろしいまでに黒々としている。風が強くて寒かったので、今日は海には入らず、二人ともブーツを履いて来た。アルスは一日悩んだが、結局どう伝えるべきか分からなくて、迷いながら口重に切り出した。
「マリベル、弁当のことなんだけど……」
「なによ。いやなの?」
 と、マリベルは口を尖らせた。
「いやじゃないけどさ……」
 アルスは訥々と、下手くそな説明をした。曰く、お弁当を作ってくれるのも、家に来てくれるのも嬉しいが、これではあまりにも親密過ぎる気がする。二人は仮初の婚約者同士なのだから、そんなに仲良くし過ぎて、周囲に勘違いさせると後が面倒になるだろう。アルスはそれでも構わないが、マリベルの方は、後に本物の婚約者が出来た時、アルスとの関係が汚点になってしまうかも知れない、と。非常に不調法な語り口で、そんなような説明をした。あまりにも下手だったので、マリベルには伝わらなかったらしく、彼女は眉を釣り上げた。
「……つまり、なに? あたしと婚約者ごっこするのがイヤだってわけ?」
「そうじゃないけど……」
 アルスは我ながら情けなくなるほどぐずぐずしていた。アルスがはっきりしないでいると、マリベルはますます機嫌を悪くする。
「じゃあ、なによ」
「あとでマリベルが困らないかって思うんだ」
 マリベルにせっつかれ、漸くアルスは意見を言った。飽くまでも相手を尊重しようとするアルスに、マリベルは呆れてしまい、風に吹きまくられる髪の毛を掻き上げた。
「あんたって、ほんとに優柔不断よね。あたしじゃなくて、あんたの気持ちはどうだって聞いてるのよ」
 そう言われて、アルスはまた考えた。別に嫌なわけでは無いが、先に話した通り、マリベルに迷惑が掛かるかも知れないのだ。アルスのことは全く以てどうでも良いのだが、肝心なのはマリベルの立場と気持ちだった。
「僕は、マリベルが嫌じゃないならいいよ」
「……あたしは、別にイヤでもないんだけど」
 マリベルがぽつりと言ったが、ほんの小さな呟きで、アルスの耳まで届かなかった。風の音が五月蠅過ぎるのだ。
「今、なんて言った?」
「なんでもないわよっ」
 と、マリベルは少し大きな声を出した。
「とにかく! 今までどおりがいいって言うなら、そうするわ」
「うん、ごめん」
 アルスは心から申し訳無く思った。マリベルの行動は本人の厚意によるもので、アルスも来訪を楽しみにしていたし、弁当も美味しく頂いていた。立場さえ許せば、この待遇を喜んで受け入れるところである。
「べつにいいよ」
 と、マリベルは首を振った。
「あたしも、ちょっとやりすぎかなって思ってたし」
 マーレおばさまにも、却って迷惑になっているかも知れないと、彼女はすんなり納得した。かかるほどに、アルスとマリベルの関係は平常通りに戻ったのだが、マリベルは漁の日にお弁当を作るようになった。その根底には、ついでに漁にも付いて行こうと言う下心も含まれているのだが、いずれにせよ彼女はまめまめしく働いた。屋敷の家事を手伝いながら、足繁くアルスのところに通いつめて、マーレを手伝ってまでくれているのだった。一方のアルスは、マリベルに何もしていない。マリベルが漁に付いて行きたいと言った時、彼女の味方をしたり、駄目だった時に宥め賺したりするくらいだった。ぼんやりのアルスも、流石にこれは不味いと思って、何かしようと思い立った。そして一生懸命考えた挙句、贈り物をすることにした。
 その日の漁は、マリベルが一緒に付いて来なかった。そうした日に船がフィッシュベルに帰着した時、アルスは真っ先に彼女に会いに行くのだが、今度はルーラでマーディラスに向かった。そして閉店間際の防具屋に滑り込み、贈り物を買ってから、夜のアミット邸を訪ねて行った。
「こんばんは」
 玄関口で挨拶すると、いつものメイドが出て来て応対した。栗色の髪にそばかすの、愛想の良い女性である。訪ねて来たのがアルスだと分かると、彼女はにこやかに、小走りで玄関までやって来た。
「こんばんは、アルスさん。おじょうさまにご用ですだか?」
「うん。ちょっと呼んでくれる?」
「はいはい。お待ちくださいな」
 メイドは含み笑いを浮かべながら、機嫌良くマリベルを呼びに行った。このメイドはアルスをそこそこ気に入っているらしく、マリベルとの婚約を宣言してから、ずっとこうした温かな対応だった。アルスとしてはこそばゆい。メイドが二階に上がりながら、良く通る声で、お嬢様アルスさんが見えましただよ、と呼び掛けると、すぐにマリベルが返事をした。
「おそかったじゃない。どこ行ってたの?」
 マリベルは寛いでいたらしく、頭巾の紐を結び直しながら下りて来た。そうしてマリベルを呼んだは良いものの、問題は此処からだった。こう言う時、何と言って渡すべきか分からなかったアルスは、贈り物を差し出して端的に言った。
「これ、あげる」
 持っていたのは金の髪飾りだった。ただの鍍金で、彼女が持っている銀の髪飾りよりずっと価値が低い。アルスにそんなことは分からないから、ただ金色で、珍しそうなものを選んだのだった。
「ありがと」
 マリベルも多くは語らず、それだけ言って受け取った。無言になる。用は済んだので、後は帰るだけなのだが、何故だか離れ難いような心持ちがして、アルスはそのままぼんやりと突っ立っていた。マリベルも何となく気まずそうにして、髪の毛を手でいじくった。
「……アルスがあたしに何かくれるなんて、はじめてよね」
「そうだっけ」
「そうよ」
 と、非難するような口ぶりで言った。
「あたしがあんなによろず屋さんに通ってたのに、あんた、何にも買ってくれなかったじゃない」
「そっか。ごめん」
 以前のアルスは、思いやりとは違う意味での、他人の気持ちを察する配慮に欠けていた。自分に興味が無くて、何も欲しいと思わなかったから、マリベルにも何か買ってやろうと思わなかったのである。彼女が評するところの、気が利かないと言うやつだった。マリベルはむくれていたが、ふと、アルスを責めるような格好になっていることに気付き、態度を和らげた。
「……ま、べつにいいんだけどさ。ありがとね」
 と、髪飾りを両手で持って、笑いながら肩を竦めた。アルスは未だに面映ゆいような、ぎこちない気分でいて、徐に踵を返そうとした。
「じゃあ、帰るよ」
「ごはん食べたの? うちで食べていけば?」
 背中を向けたアルスに、マリベルの声が掛かった。アルスは振り返らずに答える。
「いや、母さんが待ってるから」
「そう? じゃ、また明日ね」
「うん、じゃあね」
 と、アルスは顔だけ向けて挨拶した。そうしてマリベルと別れ、少し肌寒くなって来た、夜の家路を歩いた。マリベルは嬉しそうだった。たったあれだけのことで喜んでくれるなら、もっと早く何か買ってあげるべきだったなと、ぼんやり考えながら歩いていたら、階段を踏み外して転びそうになった。
 それから、マリベルはいつもの頭巾をしなくなった。髪飾りを付けるためである。何と言う髪型なのかは知らないが、頭の横の毛をそれぞれ三つ編みにして、頭の後ろで一つに留めると言う編み方をしていた。如何にもお嬢様らしくて可愛らしいものだった。金色の髪飾りは、豊かな赤毛に良く似合っていたが、あっと言う間に鍍金が剥げてしまい、みすぼらしくなったから、マリベルに頼んで捨てて貰った。まさかそんなに喜ぶとは思わなかったのだ。偽りの婚約と同じで、変にマリベルを糠喜びさせ、気負わせてしまったような気がして、アルスは何とも後ろめたくなり、それきり贈り物はやめてしまった。
 良く晴れたある日の朝、アルスは木こりの家へ行った。木立のあわいを抜け、森にぽつんと立っている小さな家を訪ねると、ガボは農作業の最中だった。木こりの家には小さな畑があって、今は丁度冬野菜の種を撒く時期なのである。鍬を振るうのに一生懸命だったガボは、彼にしては珍しく、アルスの来訪に気付くのが遅れた。最初に出迎えてくれたのは、ガボの育て親である狼で、アルスは彼女の頭を撫で撫で、ガボのそばへ行った。
「ガボ」
「おっ、アルスじゃねえか!」
 顔を上げたガボは、瞬く間に表情を綻ばせた。泥だらけの手で鼻を擦って、顔が真っ黒になっている。
「おっちゃん、アルスが来たぞ!」
 大きな声で、小屋の方に向かって呼び掛けると、種の袋を持った木こりが、大急ぎで中から出て来た。
「おお、アルス! 待ってただよ!」
 木こりはいつも朗らかだが、今日はいつにもまして機嫌が良かった。
「お前さん、マリベルと婚約しただってな! オラたちは、きっとそうなるだろうと思ってただよ!」
 お祝いをするべと、木こりは満面の笑みを浮かべた。果せるかな、噂は森まで届いていた。しかし、流石の動物達も、その婚約が偽りだとまでは知らなかったようである。アルスは誤解を訂正し、二人に謝ろうとした。
「おじさん、その話は……」
「ほれ、中さ入って、くわしく話を聞かせてくんろ。こんなめでたい話もないやな!」
 木こりは種の袋を置き、アルスのそばへ来て、背中を押して小屋に招き入れようとした。アルスはいの一番に事情を説明しようとしたのだが、ガボまでもが鍬を放り出し、一緒になって背中を押してきたもので、押し込まれるような形で家に入った。しかして食卓に着いたアルスは、漸く事情を説明することが出来た。喜色満面の人間が、見る間に意気消沈して行く様を目の当たりにするのは、いたく気の毒で、何とも申し訳無い気持ちになったが、この二人には伝えなければならなかった。
「はーっ、婚約ってのはウソだっただか!」
 木こりが目を丸くした。
「だけんど、オラはてっきり……まあいいべ、余計なことは言わんでおくだ」
 何か言いたげな様子だったが、木こりは口を噤み、暖炉でお湯を沸かし始めた。アルスはお茶を淹れて貰い、食卓に座って二人と話をした。お茶はハーブで作っているらしく、爽やかな良い香りが鼻に抜ける。こじゃれた茶器は無いから、カップにハーブの葉っぱを入れて、上からお湯を注いで飲む形のお茶だった。木こりは肉を食べないらしい。動物と話が出来るのだから当然とも言える。畑で野菜を育てたり、森で木の実を採集したりして、自給自足の生活を送っていた。ガボは肉が大好物だが、木こりの生活に合わせて、基本的には野菜を食べる暮らしをし、たまに狼と分け合って、町で買って来た干し肉を食べている。今回も、お茶を飲みながら干し肉をかじっていた。アルスも食うかと勧められたが、断った。そして、恬然としているガボを不思議に思った。
「ガボはおどろかないんだね」
「オラ、よくわかんねえからさ」
 そう言いながら、ガボは婚約の意味を尋ねて来なかった。木こりに聞いたらしい。狼に分けるついで、干し肉のにおいにつられた猫の夫婦達にも、千切った肉をあげていた。
「ケッコンって、いっしょに暮らすことなんだろ? アルスはマリベルと暮らすの、イヤなのか?」
「いやじゃないけど……マリベルがいやがるだろうと思ってさ」
「マリベル、素直じゃねえからなあ」
 と、ガボは子細顔で頷くのだった。ただ一緒に暮らすと言うだけなら、マリベルも頷いてくれるかも知れないが、話はもう少し複雑だった。しかし、それを何と説明すべきなのか分からない。アルスが黙っていると、ガボは話を続けた。
「オイラは、みんなでいっしょに暮らせたらいいのになって思ってるよ。ケッコンしたら、アルスはマリベルとずっといっしょにいられるんだろ? いいよなあ」
「そうかな」
「あ、でも、毎日マリベルといっしょにいたら、毎日おこられちまうよな! アルスはそれがいやなのか?」
「いや……」
「ガボ、アルスが困ってるだよ」
 良く喋るガボを、木こりが優しく窘めた。アルスは空っぽのカップを傾けたせいで、口の中に葉っぱが入ってしまった。苦いから、カップの中に残して飲むべきものである。吐き出すのもみっともないと思い、アルスはそのまま飲み込んだ。四苦八苦していると、空のカップに気付いた木こりが、お湯のお代わりを注いでくれた。
「マリベルっちゃあ、網元さんのおじょうさまだからなあ……。アルスも大変だあな」
「僕たち、本当は結婚なんてしたくないんだ」
 アルスは真情を語った。アルスもマリベルも、面倒くさい恋愛事などほっぽっておいて、友達と遊んでいたいのだ。マリベルの両親もそれを分かっているのだろうが、放っておかないのは周囲の人間である。マリベルは年頃で、容姿は美しく、名家の生まれで資産も持っている。其処に持って来て、彼女にはアルスと言う仲良しの幼馴染がいる。このぼんやりした男に取られないようにと、早めに唾を付けておかねばならないのだろう。
「オイラにはわかんねえなあ……。コンヤクも、イヤならやめちまえばいいんだろ?」
 と、ガボが首を捻った。
「そうだけど、僕から断るわけにはいかないんだ」
 このぼんやりした男に袖にされたとなれば、マリベルの矜持に傷が付く。今回の話は、飽くまでマリベルが気まぐれに持ち出して、気まぐれに取りやめたと言う形にしなければならない。そうしたわけで、マリベルがこの婚約に飽き飽きするまで、アルスはあれこれと思い悩み続ける羽目になるのだった。
「めんどくせえな!」
 干し肉を噛み千切りながら、ガボはそう結論付けた。アルスも全く以て同感だった。
「アルスも大変だあな」
 苦笑しながら、木こりはまた言った。
「……でも、ここで話せて、少しスッキリしたよ。ありがとう」
「そうか。それならよかっただ」
 と、木こりはにっこりした。先ほどから心配そうな表情ばかり浮かべていたので、アルスは申し訳無く思っていたのだが、それを見て漸く安心した。其処からは、婚約の話とは全く関係無い、グランエスタード城の噂とか、ホンダラの話とか、ちょっとした外国の事件の話などをして過ごした。帰り際、いつでも相談しに来ると良いと、木こりに優しく言って貰い、アルスはまた申し訳無く感じたが、一方で、拠り所を見付けて安堵する気持ちにもなった。