そのうち、いつかのお楽しみ

 城塞都市ジャド。マナの力こそ失われてしまったが、各地の争いが平定し、新たな女神が生まれた事で、夕映えの空は希望に煌めくようだった。六人の聖剣の勇者と、ちびウルフのカールは、過酷な戦いを終え、疲れた疲れたと晴れやかに笑いながら、ジャドの酒場に詰めかけた。生傷と埃にまみれ、無骨な武器を携えるその姿に、他のお客は目を丸くしている。かつて獣人兵に占領され、多くの民が避難していたこの町も、すっかり平穏を取り戻し、酒場は暮れの食事を楽しむ人々で賑わっていた。
「こんばんは。お騒がせして、すみません」
 アマゾネスの少女リースが、先んじてカウンターに近寄り、マスターに頭を下げた。美しい金色の髪がさらりと流れ落ちる。
「あの子もいいかい? 迷惑はかけないよ」
 続いてホークアイが、カールを顧みながら尋ねた。枯れ草色の毛皮を持つカールは、戸口の外できちんとお座りしている。このファザードに於いては、酒場や宿で動物が寛いでいる姿も珍しくないが、いかんせん、獣人兵と配下の狼に脅かされた過去を持つこの町では、ちびウルフのカールが歓迎されない蓋然性も十分に考えられるのだった。同じく戸口で待つケヴィンは、眉間に皺を寄せ、じっと店の中を覗き込んでいる。不安の表情だった。
「もちろん! 奥の席があいてるよ」
 マスターは愛想良く笑って、ケヴィンとカールを手招きした。人見知りのケヴィンは、逞しい肩を竦めて含羞みながら、尻尾を振る兄弟分と一緒に入ってきた。
「ありがとさんでち」
 小さなシャルロットが、爪先立ちになり、半ばカウンターによじ登るような形で、マスターと目線を合わせた。相手は訳知り顔で、声を低くした。六人が集まって耳を寄せる。
「あんたたち、ずっと前に、獣人相手に戦ってくれた人だろ? 急にモンスターが大人しくなって、また何かやってくれたんじゃないかってウワサしてたところなんだよ」
「おみみがはやいでちねえ。ごきたいどおり、やってあげたところでち」
 シャルロットがにやつきながら、得意気に胸を逸らせた。勢い、カウンターから滑り落ちそうになったもので、アンジェラが背中を支えて事なきを得る。マスターは深くは詮索せず、好きなだけ食べて良いと言ってくれた。武勇伝を喋りたくて仕方ないシャルロットは、ちょっと残念そうにしながらも、頭の中がご馳走の事で一杯になったらしい。アンジェラの手を借りながら床に降り、マスターに小さく手を振った。
「もうウワサになってるんだな。こっちは、ついさっき帰ってきたってのに」
 案内された奥の席に向かいながら、デュランが呟いた。重くて無骨な剣と盾を、他のお客の迷惑にならぬよう、注意して運んでいる。
「ウワサってそんなものでしょ」
 杖を体に添うよう抱きながら、アンジェラがにっこりした。隣のリースも口を添える。
「いちおう、私達の国には報告してありますからね。いいウワサは、風が運んでくれると言いますし」
「へー、だからあんなにぴゅーぴゅー吹いてたの? 髪がボサボサになっちゃった」
 と、アンジェラは愉快そうに、豊かな紫の髪を手で漉いた。聖域から各国への報告行脚はフラミーが協力してくれたが、この人数では彼女に乗るのもぎゅうぎゅう詰めで、吹き荒ぶ上空の風に振り落とされないよう、大きな羽毛にみんなで必死にしがみついていたのだった。リースも同じく、長い金髪がところどころ縺れて絡まっているが、気にする素振りはなかった。
「ええ。ローラントの風は、嬉しい時もちょっと荒っぽいの。戦士の国ですもの」
 そう言って、リースは悪戯っぽく、くすくす笑った。彼女は生き別れた弟と再会し、難を逃れたローラント国民の無事を確認した事で、すっかり肩の荷が降りたようだった。表情はいつにも増して柔らかく、生来の朗らかな性格を見せていた。
 六人とカールは窓際奥の席を陣取り、防具を脱ぎ捨て、円形のテーブルの下や端っこの壁に押し込んだ。体が軽くなるなり、給仕の女性に、果実水を六つと、カールのミルクを注文する。散々暴れて喉が渇いた仲間達は、飲み物の到着を今か今かと待っていた。
「あー、つかれた!」
 アンジェラはデュランとリースの間に座り、しなやかな肢体を伸ばして、邪魔くさそうに頭のクラウンを取り払うと、壁際に積んだ荷物の上にぽんと放ってしまった。必死に魔法を唱え続けた喉はすっかり痛んでしまい、平生は綺麗な声が少し掠れている。
「……ジャドの人達、だいじょうぶ? こっち、見てる……?」
 ケヴィンはちょっとびくびくしている。繊細で心優しいこの少年は、他者の気持ちに敏感だった。最前、獣人と人間とを結ぶ架け橋となる、と父親に誓ったものの、そもそもが人見知りである。どんどん獣人らしく逞しくなる自身の風体と、小さいながらも一端のウルフであるカールを見て、周囲が怖がらないかどうか心配なのだった。
「ケヴィンしゃん、よーやくきづきまちたか? みんな、シャルロットのみりょくにみとれてるんでちよ」
 彼の隣から、得意気な、でちでちした稚い声が聞こえた。下を見ると、シャルロットはカールの首に短い腕を巻き付け、背中に凭れ掛かるようにしながら、目が合ったお客さんににっこり笑い掛け、愛嬌を振り撒いていた。ふわふわした金髪の彼女と、もこもこした枯草色のカールが揃うと、ぬいぐるみがぬいぐるみを抱っこしているようにも見える。ケヴィンは納得しかねた様子で、そっと周囲を盗み見ていた。
「気にしないってのもむずかしいんだよな」
 シャルロットの隣、ホークアイがそう言って、不安そうなケヴィンに理解を示した。
「緊張する時は、まわりをプイプイ草だと思えばいいんだってさ」
 と、人差し指を立てて助言する。尤もらしい口振りに、ケヴィンも素直に頷いて、真剣に彼の顔を凝視し始めた。気楽そうに笑っていたホークアイも、心持ち表情を改めて見迎える。暫く互いに目比べし、やがて、ホークアイが軽く肩を竦めてみせた。
「……どうだい?」
「……ホークアイは、ホークアイ。……ゴメン」
 ケヴィンは俯いて、しょんぼりと視線を膝に落とした。ホークアイは首を振る。
「そりゃよかった。じつはオレ、プイプイ草に見えないようにがんばってたんだ」
「ほんと? ……オイラの力、足りないのかと思った」
「ケヴィンは十分がんばったよ」
 安心して顔を上げたケヴィンに、ホークアイはからからと笑った。傍から見ていたシャルロットは呆れているが、彼のちょっとした冗談のお陰で、ケヴィンの緊張も解れたようだった。
 かかるほどに、飲み物が運ばれてきた。熟した洋梨を絞ったもので、透き通ったグラスに満ちる淡い金色と、とろけるような甘い香りが空っぽのお腹を誘う。六つ分のそれらが並ぶと、店に充満した種々の料理や酒の匂いも覆い隠されてしまった。
「そんじゃ、乾杯するか」
 自分のものが来たのを良い事に、デュランはさっさと事を進めてしまおうとした。
「デュランしゃん。まだ、カールのみるくがきてまちぇんよ」
 せっかちなデュランを、斜向かいのシャルロットが諫めた。カールはシャルロットとケヴィンの間で、きちんとお座りして待っている。獣人王の元で手厚く世話されていたこのウルフは、少しだけ大きくなったが、相変わらず温和で人懐っこく、むくむくした犬のようである。太い尻尾が床を擦るように振られているが、屋内は丁寧に掃き清められており、埃一つ立たなかった。
「わり」
 と、デュランも果実水の入ったグラスを置き、暫し待つ事にした。額の兜を取ろうとしないのは、すっかり前髪が伸びてしまい、押さえていないと邪魔で仕方ないからだった。
「ジャドは魚料理がうまいんだよな。いいよな、港町って」
 給餌の女性にお礼を言った後、ホークアイが呟いた。飲み物が配膳されたついで、料理も幾らか頼んだのだった。故郷では魚が殆ど手に入らないためか、ホークアイは魚や貝の類を好んで食べる。カールにも特別に、味付けをしない羊や牛の肉を用意して貰える運びとなった。程なく、カールのミルクも運ばれてきて、全員の飲み物が揃った。ミルクは幅広の深皿に注がれていて、舌で舐め取りやすいよう心配りがなされている。給餌の女性に頭を撫でられ、嬉しそうに尻尾を振ったカールは、口を付けずに待っている。賢い彼は、食前に乾杯やお祈りの言葉を口にするものだと知っているのだ。
「そろいましたね。じゃあ、デュランさん、お願いします」
 テーブルを見回して、リースがそう言った。何となくの不文律で、この六人の仲間は、フェアリーの宿主だったデュランが取り纏める事になっている。当然、乾杯の音頭を取るのも決まっていた。
「あっ、シャルロット! もう飲んじゃったの?」
 カール以外の全員が、グラスを手に取って掲げようとした折、アンジェラが高い声を上げた。
「ゆーちょーにしてるからでちよ」
 満足そうに唇を舐め回しながら、シャルロットが偉そうに答えた。カールのミルクが置かれるや否や、彼女はさっさと果実水のグラスを手に取って、ぐびぐび飲んでいた。物言いたげなアンジェラの視線を意に介さず、シャルロットはにこにこしながら、再び甘い果汁に口を付けた。
「あ、もう飲んでいいの? それじゃオレも失礼して……」
 と、ホークアイも一緒になってグラスを傾ける。文字通り死ぬほど戦って、すっかり疲れてしまったのである。お腹と背中はくっ付きそうだし、喉は渇いてひりつくほどで、礼儀など放り投げてしまいたいところだった。美味しそうな二人の様子を見るなり、デュランもごくごく飲み始めた。デュランとシャルロットの間にいるケヴィンは、きょとんとしながら、金色の目で二人を見比べた。
「……オイラも、飲んでいい?」
「……まあ、いいんじゃないの?」
 アンジェラは呆れて、肩を竦めるだけだった。彼女の返事を聞いた途端、ケヴィンも喜び勇んでグラスを呷る。大人しくテーブルを見上げていたカールも、ケヴィンと目が合うと、忽ちミルクを舐め始めた。隣同士に座ったアンジェラとリースは、顔を見合わせて、小さく溜息をついた。
「……まあ、みんなつかれてますし、しょうがないかな?」
 リースが苦笑した。かく言う彼女も、早く飲みたくて堪らないのである。
「そうね……じゃ、乾杯」
 と、アンジェラはリースに向かってグラスを出した。リースも同じくグラスを差し出す。
「はい、乾杯」
 きんとした、小気味の良い小さな音が立ち、二人も果実水を飲み始めた。濃厚な洋梨の果汁を、アストリア湖から流れる清水で割ったもので、甘やかながらさらりと喉を通っていき、疲れた体に染み入るようだった。
 悪しき者が退けられ、世の中が平和になったと言う報せは、未だこの町には伝わっていない筈である。しかし、酒場の空気は明るく、聖剣の仲間達がちょっとはしゃいでも、忽ち店内の喧騒に紛れてしまうくらいだった。それがまた彼らの気分を高揚させ、思い思いにお喋りを楽しんでいた。
「これ、竜帝のツメのあと」
 ケヴィンが襟元の毛皮をちょっと捲り、デュランに肩口の傷を見せた。辛うじて首と鎖骨を避け、胸元の中心まで続くそれは、生々しい肉色に盛り上がっていた。一番深く残ったのはその傷だが、筋骨隆々の日に焼けた体には、数えきれない程の生傷と、大きな傷跡が幾つも残されていた。元来争いを好まぬ少年だが、仲間を守り、悪者を倒した勲章として、同じく先陣を切って戦ったデュランに自慢しているのだった。
「なんの! 見ろよ、このキズ」
 と、デュランは頬の爪痕を指し、得意気に胸を張った。巨竜の鉤爪はあまりにも強大で、皮膚を剥がされ、爛れたような痕になっていた。シャルロットの手で応急処置は施されているが、癒えるまでには時間が掛かりそうだった。
「いたそう……デュラン、すごい」
 目立つ傷だが、改めて示されるとつくづく痛ましく、ケヴィンが眉間に皺を寄せた。
「君達にはかなわないけど……これなんか、なかなか面白いと思うよ」
 向かいのホークアイも、勿体ぶって左の腕輪を外した。デュランとケヴィンが興味津々で覗き込む。浅黒い肌に、腕輪の模様が赤くくっきりと刻まれていた。巨竜の一撃を防いだ際、衝撃で見事に跡が残ったのだった。
「うわ、すげえな! しばらく腕輪いらねえじゃん!」
「……ちょっと、オシャレ?」
 あまりに見事なもので、デュランとケヴィンは目を見張って感心していた。
「いるんだな、これが。こんなの見せたら、ジェシカがまた倒れちまうよ」
 苦笑しながら、ホークアイは腕輪を嵌め直した。幼馴染のジェシカは、魔族の呪いによって体を蝕まれ、長らく病臥の憂き目に遭っていたのだが、今は心身共に回復し、父フレイムカーンと共に元気な姿を見せてくれた。だからこそ口に出来る冗談だった。
「なーにをじまんしてるんでちか……。なおしてあげるから、みせてみなちゃい」
 ケヴィンの隣のシャルロットが、大袈裟に溜息をつきながら、小さな手をちょいちょいと招くように振った。デュランがまじくじした。
「なんで? 名誉の負傷だぜ。残した方がカッコいいだろ」
「……それに、シャルロット、もう魔法使えない」
 ケヴィンが指摘すると、シャルロットは肩を縮こめて、ちょっとしょんぼりした。
「……そうでちた」
 クレリックのシャルロットは、小さな体に見合わぬ根性と強い意志、そして過酷極まる旅路により習得した回復魔法によって、仲間達の危機を幾度も救い続けていた。しかし、マナの樹が小さな小さな芽生えとなり、新たな女神と精霊が眠りに就いた現状に於いて、いかな高位の魔導師や神官であろうと、魔法を操る事は不可能である。再び大気にマナが満ち満ちて、世界に神秘の力が齎されるには、気が遠くなるほどの年月が掛かるようだった。
「ああ、シャルロットのさいきょうのころしもんくが……。なおしてあーげない! っていえば、ごーじょーでいじわるなデュランしゃんも、なんでもいうこときいてくれたのに……」
 口の達者なシャルロットは、目をうるうるさせて、いかにも悲しげに不満を零した。翻って、デュランは上機嫌である。
「そうか、これでおまえの説教ともオサラバなんだよな……。よし、今日は思いっきり飲むか!」
 無茶をしてはシャルロットに治療されを繰り返し、その点で彼女に全く頭の上がらなかったデュランは、いっそ清々したらしい。二杯目の果実水も飲み干して、グラスをどんとテーブルに置いた。隣のアンジェラが、婀娜っぽく目線を送る。
「ザンネンでした。私達のかわりに、ステラおばさまとウェンディちゃんがお説教してくれるわよ。デュランのあーんな事もこーんな事も、ぜーんぶ話してあげたもん」
「いつの間に……」
 出鼻を挫かれ、しんねりと睨め付けるデュランに対し、アンジェラは無邪気にけらけら笑った。彼女は抜け目なく、デュランがまた無茶を仕出かさないよう、フォルセナで彼の家族に注意を促していた。ついでに、後日遊びに行く約束も取り付けたと言うのだから、ちゃっかりしたものだった。
 ジャドは豊富な海産物の他、ラビの森で採取される果実や香草、聖都ウェンデルから運ばれる小麦や野菜、肉などの食材により、様々な料理が味わえる。六人と一匹は好きなものを次々注文し、たっぷり食べて、思うさま喋った。六人とも宿願を果たし終え、随分気楽になったものだから、いつも以上に砕けた調子で、互いを労ったりふざけたりしては笑い合った。じきに夜も更けて、いつの間にか灯されていた燭台の蝋が、随分と短くなっていた。この町はぐるりを城塞に囲まれており、窓から空の様子が見えるわけでもなくて、気付かぬ内に夜が更けていたのである。暖炉の炎がぱちぱちと乾いた音を立て、隅の席にも仄かな明かりと温もりが伝わってくる。客足も途絶え、店内は賑やかな食堂から、静かに酒を嗜む場所へと変わっていた。
「シャルロット。ねむたいの?」
 お腹がくちくなり、ちょっとぼんやりしていたアンジェラが、ふと、シャルロットを気遣った。シャルロットは大きな頭が何度も船を漕ぎ、まぶたが落ちかけていた。
「ねむくありまちぇん……」
 シャルロットはようやっと返事をし、一旦顔を上げたが、睡魔と重力に逆らえず、また頭が傾いでしまう。アンジェラは閉口して、周囲の仲間に目をやった。美味しい肉をたらふく貰ったカールは、テーブルの下で丸くなり、すやすや眠っている。最も健啖家であるケヴィンも、すっかり満腹になり、ウルフの兄弟分を起こさぬように、そっと背中を撫でていた。アンジェラは何か言い掛けたものの、結局やめてしまった。重く眠たげな空気が、一層静まり返る。溶けかけた蝋燭と暖炉の火に照らされ、微かに揺らめく浅い影と、人々のゆるやかな所作が起こす小さな物音が、いやにはっきりと感じられた。誰しもが、この場に最も相応しい、アンジェラの言わんとする言葉を知っている。知っているが、口には出さなかった。
 ややあって、しっかり者のリースが、憎まれ役を買って出た。
「……みなさん、もう帰りましょうか?」
 返事はない。他の仲間達は勿論、提言したリース自身も、気の進まない様子だった。
「やだ〜……」
 いやに長い沈黙の後、テーブルに突っ伏したシャルロットが、いつにも増して拙い、むにゃむにゃした声で答えた。リースが柳眉を顰めながら、彼女の方を向き、優しく声を掛ける。シャルロットは少し頭を擡げたが、視線は落としたままだった。
「でも、シャルロット……。ウェンデルの人達が心配しているわ。あなたもおうちに帰りたいでしょ?」
「へいきでち」
 シャルロットはリースの顔を見まいとし、わざとらしくそっぽを向いた。体をもじもじさせるものだから、椅子から滑り落ちそうになってしまい、アンジェラが慌てて支えてやった。
「そんな事言ったって、帰らなくちゃどうしようもないでしょ? ずーっとここにいるつもり?」
 アンジェラもそう言って窘めたが、シャルロットはわざとらしく、椅子ごと回してテーブルから背を向けてしまった。楽しかった集いの場は一転して、寂しい別れの席となった。背中を向けたシャルロットが、俯いて、ぼそぼそと小さく呟く。
「……だって……だって、もうみんなにあえないんでちょ?」
 世界は平和になった。悪は討たれ、倒すべき敵も、果たすべき使命も、全てが終わってなくなった。共に旅をしたフェアリーも、マナの聖域で別れを告げ、新たな女神に姿を変えて眠りに就いている。この仲間達にも、帰るべき故郷があるのだから、いずれ席を立ち離れていかねばならない。誰もがそう思っていて、分かっている筈なのに、ぐずぐずとジャドに集まって、ずるずると夜更けまで過ごしている。何故かは誰もが知っていた。仲間との別れが惜しいのだ。
「そんな顔しなさんなって。またすぐ会えるんだからさ」
 ホークアイが取りなそうとしたが、シャルロットは思い詰めた面差しで、口早に問い質した。
「すぐって、いつ? あした? あさって?」
「……まあ、そのうち……だよな」
 それには答えようもなく、ホークアイは口籠りながら、それとなく目を逸らし、誰に宛てるでもなく視線を彷徨わせた。シャルロットは物言いたげに唇を震わせたが、それきり噤んだ。いじらしい様子を笑止がり、五人はやるせなく顔を見合わせた。
 しめやかな沈黙の折、温かいミルクが運ばれてきた。ざらざらした手触りの、乳白色のマグが六つと、小さな器が一つあって、砂糖の塊が幾つか盛られている。気の利くリースが、先般頼んでおいたのだった。ほこほこと湯気を立てる厚手のマグに、アンジェラが砂糖を二つ摘まんで落とし、シャルロットに手渡した。淡い茶色の砂糖が、液面に張られた白い膜に包まれて、ゆっくりと沈んでいった。
「はい。これでも飲んで、おちついたら?」
「……そんなコドモだましに、シャルロットはひっかかりまちぇんよ」
 口ではそう言いつつも、シャルロットは素直に受け取り、ほんのりと香ばしく色付いていくミルクをじっと見詰めていた。しかつめらしい顔を装って、唇を尖らせているが、目元は雄弁である。
「……おさとう、もいっこ、くだちゃい」
「はいはい」
 小さな要望に、アンジェラが含み笑いを堪えながら、もう一つ砂糖を落としてやった。シャルロットはマグを両の手で持って、ぐるぐる回しながら、飲みやすい温度に冷めるのを待った。他の仲間達も、めいめい好きな分だけ砂糖を入れ、行儀悪く指でかき混ぜてみたり、ゆっくりと溶け落ちるのを待ったりしながら、うら寂しい気持ちを和ませた。甘く温かいミルクは、とろりと優しく口を緩ませ、心までぽかぽかと満たすようだった。猫舌のシャルロットは、ミルクをふうふうと冷ましながら、飴玉を舐めるように、少しずつ口に含む。素直なもので、忽ち元気を取り戻すと、ケヴィンに無茶を言い始めた。
「ケヴィンしゃん。カール、うぇんでるにつれてっていーい? シャルロット、カールともっとあそびたいでち」
「……だ、ダメ。カール、月夜の森で、一人前のウルフになる。遠吠えとか、練習しなきゃ」
「じゃあ、かえりまちぇん!」
 たじろぎつつも、はっきり拒否したケヴィンに、シャルロットは思いきりほっぺたを膨らませた。獣人の少年はいよいよ鼻白み、逞しい体を縮こめた。
「強情ねえ……」
 アンジェラが苦笑しながら、マグに唇を寄せた。しかして、小さな意地っ張りに目配せする。
「あんたはオトナじゃないから、分からないかもだけど……会えない時しか楽しめない、ステキな事もあるものよ」
 と、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
「何だよ、それ?」
 すかさずデュランが容喙した。むくれたシャルロットも、恨めしげにアンジェラを見上げ、答えを求めた。アンジェラは思わせぶりに微笑んだが、何も思い付かなかったようで、天井の梁に目をやった挙句、リースの方を向いた。
「……んーと、色々? ね、リース」
「なんだ、おまえも分かってねえじゃん」
 デュランが口を尖らせた。一方、真面目なリースは、マグの液面を見詰めて沈思黙考し始めた。気の利くホークアイは心付いたようだが、他の仲間は話題を続けていた。
「説明したって、どうせデュランには分からないでしょ」
 開き直ったアンジェラは、つんとしてそっぽを向いてしまった。
「……確かに、アンジェラの言いたい事は分からんが……」
 と、そこで、デュランが心持ち真剣な顔になった。仲間達の注意が集まる。
「オレはフォルセナに戻ったら、改めて剣の腕を磨くつもりだよ。草原の国と、英雄王陛下の名に恥じないようにな」
「デュランしゃん、いっつも、けんのことばっかりでち……さびしいとか、おもわないんでちか?」
 シャルロットが咎めるように尋ねた。
「そりゃ、さびしくない事もねえよ。だが、それも修行のうちだ」
 デュランは頷き、足元のブレイブソードを見下ろした。剣は心を映す鏡。如何なる時も、自らを決して失う事なく、静かに心を保ち続ける。父の遺言に則り、国を守る剣士として再び研鑽を重ねるつもりだった。
「オイラも、さびしいけど……キングダムで、やりたい事がある。カールと一緒に、がんばるよ」
「だろ? これから、もっと忙しくなるぜ」
 ケヴィンが決然と応じれば、デュランはにやりと笑った。
「フェアリーも、マナが元にもどるには何千年もかかるとか言ってたけどよ……そんなの誰にもわかんねえだろ。あいつの事だし、そんなにぐーすか寝てらんねえよ、きっと」
 口調こそ茶化すような気振りだが、フェアリーと最も近しく過ごした分、聖域で交わした最後の言葉も感慨深く、名残惜しく感じられるのだった。
「そうですね」
 静かに耳を傾けていたリースが、つと口を開いた。
「私達には、会えなくなってしまった人がたくさんいるけれど……一緒に過ごした時間も、優しい姿も、ずっと心に残っています。いつか別れる事を知っているから、今この時を大切にしたいと思えます」
 そう言って目を伏せ、在りし日を愛おしむように微笑んだ。悲しい記憶は時を経る内、少しずつ柔らかく解れていき、今は温かく優しい思い出ばかりが蘇る。そして顔を上げ、今ここにいる仲間達に目を向けた。
「私、みんなのおかげで、これからがんばっていける気がするんです。一日でも早く、美しいローラントの景色を見せられるようにって」
「リースは十分がんばってるよ」
 ホークアイが優しく労った。彼女は弟のエリオットを案じながら、敢えて旅の終わりまで顔を合せなかった。曰く、戦い抜く決意が揺らいでしまわぬように、との事だった。ひたむきで、ともすれば思い詰めてしまいがちなその姿を、ホークアイは良く気に掛けていた。
「そうそう、たまにはゆっくり休みなさい。私がリースの分まで、立派な王女としてがんばってあげるから。……アルテナで、だけどね」
 アンジェラは含み笑いを浮かべながら、じゃれつくように寄り掛かった。リースも思わずつられて、ころころと小さく笑い、上体を傾げて凭れ合った。シャルロットもようよう気が変わったらしく、マグを大きく傾けて、溶け残った砂糖を口に含んだ。飴のようで好きらしい。
「……シャルロット、ちょっと、かえりたくなったかも? おじいちゃんと、ヒースにあいたいし……」
 と、丸っこい目で天井を見る。誰もが忘れかけるくらいだが、日暮れ前のシャルロットは、故郷で祖父の平癒を目の当たりにし、無事に帰ったヒースに抱き着いて、わんわん泣いたばかりだった。いつぞやの花畑の国にて、大好きな人を助けるまで泣かないと誓った彼女は、溜まりに溜まった涙が爆発したらしい。泣き虫で甘えん坊の割に、良く我慢して頑張ったものだと、仲間達も感慨深く再会を見守ったものだった。
「それがいい。だーいすきなヒースとみんなに、かわいい顔を見せてあげなよ」
「いわれなくても、そうしまち」
 ホークアイに乗せられて、シャルロットもにっこりした。小さな彼女が笑っていると、自然と空気も明るくなり、心が和むものだった。
「あんたしゃんも、おうち、かえれば? なばーるのみんな、まってまちよ」
 すっかり戻るつもりになったらしい。シャルロットはけろりとして、ホークアイにそう促した。ホークアイは容体振って肩を竦める。
「君が帰るって言いだすまで、ここで待ってるつもりだったんだよ。一蓮托生ってやつ」
「そんな事言って、帰りたくなかったクセに」
 アンジェラがにやにやしながら、半畳を入れた。
「……バレた?」
 と、ホークアイはほっぺたを掻いた。いつもあっけらかんとしているが、故郷ナバールの状況はとりわけ難儀なもので、帰ってじっくり現状や同族の無事を確かめたい筈だった。しかし、いつでも帰れると言う安心が、席を立たない理由となったらしい。
「そうと決まれば、さっさと行くぞ」
 話が纏まったところで、デュランが早々に立ち上がった。このまま延々と話し続けてしまいそうなところだが、一人動けば皆も追従するものである。名残惜しさと、眠気と満腹とで重くなった体を急き立てるように、各々黙って支度を整えた。酒場を出る頃には、あれだけ賑やかだった店の中も、眠りこけた数人の客と、手持無沙汰なマスターや給仕の女性が残っているのみだった。
 ジャドの町は一体を外壁に囲まれ、硬質な煉瓦作りの家屋が闇に沈み、夜は殊に物々しい感じがする。見上げた月夜が青く輝くようだった。一行は少し町を出て、ラビの森に続く小さな平野でフラミーを呼ぶ事にした。デュランが風の太鼓を叩いても、夜空に白い影は現れそうもない。どうやらフラミーも寝ぼけているようだった。
「……私達、この町で出会ったんですね」
 ふと、リースが呟いた。長い長い旅の始まりだった。各々が失意の中、聖都ウェンデルに住まう光の司祭を唯一の頼みとして、この港町に集う事となった。
「そんな事もあったなあ……。君達と仲間になるなんて、昔のオレには信じられないだろうな」
「ええ」
 ホークアイが同調すると、リースも嬉しそうに微笑んだ。ジャドが獣人兵に占領され、逗留する羽目にならなければ、繋がらない縁だったのかも知れないのである。不思議なものだった。
「……オイラも、びっくりしてる」
 つくづく噛み締めるように、ケヴィンが頷いた。ホークアイはにやりとして、獣人の少年に目配せした。
「だろ? 人見知りだもんな、オレ達」
「……ホークアイ、人見知り……?」
 思わずケヴィンが怪訝に見やるも、ホークアイは何食わぬ顔で空を仰いでいる。かつては名も知らぬ旅人同士だった少年達が、いつしか六人の仲間となり、助け合いながら、悲喜こもごも数えきれないほどの経験を重ねた。その大きな切っ掛けを作ってくれたのが、今はマナの聖域で眠りに就く、フェアリーというもう一人の仲間であった。
「あり? シャルロット、おぼえてまちぇん……」
 シャルロットが首を傾げた。
「でしょうね。あんただけ、ジャドにいなかったんだもん。ザンネンだったよね、あんなに面白かったのに……」
 と、アンジェラが勿体ぶった風に、婀娜っぽく口元に手を当てた。シャルロットは大きな青い目を丸くして、彼女の腰のひらひらした燕尾を引っ張った。
「なんか、あったの? シャルロットにもおしえてちょ」
「べつに、面白くも何ともねえよ。夜を待って寝てただけだ」
 デュランが手を拱き、端的に答えた。不満気だった。獣人兵の事は気に食わなかったが、元傭兵の勘で、迂闊に手を出さぬよう息を詰めていたのである。後でホークアイ達から、散々暴れて撹乱した挙句、獣人の移動手段である鳥を奪い取ってやったのだと聞いて、自分も加わりたかったと大いに臍を噛んだのだった。外の空気を吸い、すっかり目が冴えたカールが、大きく頭を擡げて、細い声で遠吠えを始める。
「カール、じょうず」
 嬉しそうに顔を綻ばせたケヴィンは、負けじとばかりに意気込みながら、町を騒がせぬよう、声を抑えて夜空に吠えた。一度きりで止めにしたが、高々とどこまでも響くようで、誰ともなく、フェアリーにも聞こえてるかな、と呟いた。
「……あ、来ましたよ、フラミー」
 風の声に敏いリースが、まだ見えない内から声を上げた。仲間達が彼女の目線を追うと、紺碧の北の空から、流れ星のように、小さな白い影が滑る様が見えた。まだ幼い、翼あるものの眷属の名は、今ここにいない仲間が付けたものだった。
 一行は再会を誓い合い、フラミーに乗って飛び立った。秋深まる夜の空は、少し肌寒く、どこまでも高くて、満月と星々にきらきらしく照らされていた。