よりより関係のためのワンステップ
アルスとマリベルは婚約した。教会の前で婚約の誓いを交わし、互いに指輪を送り合った。結婚の誓いを立てるのは、アルスが成人して、網元の跡取りたりうる男となってからと決めていた。しかし、婚約したからと言って、生活が大幅に変わったわけではない。精々、マリベルが少し素直になったくらいで、二人はいつもと変わらぬ日々を送っていた。
その日は安息日だったので、アルスも漁に出なかった。安息日には教会に行って祈りを捧げ、家の中で静かに過ごす。アルスはマリベルの家に行って、お茶を飲みながら、のんびりとしたひと時を楽しんでいた。
「アルス、あたし考えたんだけど」
マリベルがそう言った。二人は彼女の部屋で、小さなテーブルに向かい合って座っている。マリベルの薬指には金色の輪っかが輝いており、アルスは鎖に通して首からぶら下げていた。
「結婚するなら、おたがいに決まりごとを作ったほうがいいと思うのよ」
マリベルは真剣だが、アルスは照れて頭を掻いた。未だに、自分を指して結婚とか婚約とか言った言葉が出て来るのが照れくさいのだ。
「いいと思うけど……どんな決まり?」
「まず、浮気をしたらメラゾーマね」
マリベルは即座に宣言した。そんなことを言いながら、彼女は人に手を上げたことが無い。ちっとも怖くないアルスは、微笑みながら答えた。
「浮気なんてしないよ?」
「どうだか。マーディラスのグレーテ姫と仲よしなの、知らないわけじゃないからね」
と、マリベルは責めるように言った。其処を咎められると、アルスはちょっと困るのだった。グレーテ姫は大事な友達で、アルスとマリベルの関係を祝福してくれている。年頃の男女の恋愛事情に興味津々らしく、姫はしばしばアルスを呼び出して話を聞きたがるのだが、それがまずかったようである。今度はマリベルも一緒に連れて行くべきかも知れなかった。そんなことを考えたアルスは、差し当たりマリベルの疑念を晴らすべく、素直な気持ちを口にした。
「大丈夫だよ。僕、マリベル以外に興味ないから」
はっきりそう言うと、マリベルは頬を赤らめ、誤魔化すようにカップを口にした。お互いにちょっとしたことが照れくさいのである。アルスは、しっぺ返しじゃなくて良かったと思っていた。浮気をやり返されたら、さしものアルスも穏やかではいられない。
「……それと、ケンカをしたら、アルスがぜったいあやまること!」
気を取り直したマリベルは、次の条項を口にした。
「それって、いつものことじゃないか?」
「……そうね」
それにはマリベルも同意した。彼女はアルスに絶対謝らないのである。
「どうしてもあやまれなくて、うちの裏で泣いてたことがあったよね」
と、アルスは小さい頃のことを思い出した。
「あっ、あれは、パパにおこられたからよ!」
マリベルはぎくりとして、口早に弁解した。何の喧嘩だったか忘れたが、珍しくアルスも謝ろうとしなくて、暫く口を聞かなかったことがあった。子供の考える暫くと言うのは本当に短いものである。たった一日顔を合わせなかっただけで、マリベルは寂しがって、アルスの家の陰でぐすぐす泣きべそをかいていたのだった。
「……今思うと、小さい頃のマリベルって、僕にべったりだったよね」
「逆よ、逆。アルスがあたしにべったりだったの」
そう言ってマリベルは否定したが、事実は火を見るより明らかだった。二人の待ち合わせ場所が、どうしてフィッシュベルの砂浜であるかと言うと、マリベルがいつも其処に立って、アルスの名前を呼んでいたからだった。当時のアルスはキーファと遊んでいる方が楽しかったのだが、我儘で泣き虫の幼馴染を放っておくことも出来ず、彼女とも良く遊んでいた。アルスは今になって、マリベルのご機嫌を取っておいて良かったと思った。さもなくば、この関係には至らなかっただろう。
「……あんた、ヘンなこと考えてるでしょ。顔がヘンよ」
マリベルに指摘され、アルスはまたぼんやり口を開けていることに気が付いた。口を閉じ、まともな顔を取り繕ったが、マリベルは満足しなかった。
「これからは、ぽーっとするのも禁止! もっとキリッとしてちょうだい」
「……がんばってみる……」
鼻たれ小僧だった頃のシャークアイがアルスに似ているのだと聞いて、マリベルはアルスに妙な期待を抱いたらしい。シャークアイと自分の関係について、アルスは薄々感付いてはいるものの、彼のようにはなれないだろうと諦めていた。しかし、取り敢えずマリベルの希望に応えてみせようと、眉間に皺を寄せてしかつめらしい顔をした。
「……ぷっ!」
すると、マリベルが噴き出した。アルスは照れながらいつもの顔に戻った。
「……決まりごとは、それで終わり?」
相手がまだにやにやしているので、アルスは続きを促した。
「そうね……。あたしを困らせるようなことは、しないでほしいかな」
と、マリベルは今思い付いて言った。段々と、マリベルを怒らせないための十箇条になって来ていた。しかし、アルスは身に覚えが無い。
「僕、マリベルを困らせたことなんてあった?」
「あるわよ」
マリベルが口を尖らせた。
「あたしが忘れるなって言ったのに、わざと忘れ物したり、あたしがイヤだって言ってるのに、わざと山賊のアジトに行ったり! たくさんあるじゃない」
「なんだ、そんなことか」
思わず呟いたら、マリベルがますます機嫌を悪くした。
「あんたって、ぽーっとしてるくせに、いやがらせが上手よね」
ちくりと言われたが、アルスは意に介さなかった。
「マリベルがゆるしてくれるからだよ」
「ふんっ。あたしの海より広い心に、かんしゃしなさい」
と、マリベルは大様に目を瞑った。
「うん、ありがとう」
「ほんと、やさしいってソンよね」
自画自賛して気を良くしたマリベルは、優雅な所作で紅茶を飲んだ。
部屋の扉の隙間から、マリベルの猫がするりと入って来た。赤毛の猫は、飼い主が賞賛する通り、マリベルにそっくりで可愛らしい。猫はマリベルの足元に来て、何度か体を擦り付けた後、ベッドに飛び乗って横になった。二人は何となく微笑ましい気持ちで、寛ぐ猫の様子を見ていた。
「……そういえば、アルスって、怒ったことある?」
マリベルがふと言った。言われてみれば、アルスは滅多に怒らない。魔物に対して怒るのはしばしばであったが、人間に対しては、困惑したり、呆れたりして、表立って怒りを露わにしたことがなかった。先に話したマリベルとの喧嘩も、アルスは怒って口を聞かなかったのでは無く、マリベルに絶交すると言われたから、気まずくて顔を合わせる切っ掛けを掴めなかっただけだった。マリベルが探るように、じっと見詰めて来たので、アルスは試しにこう言ってみた。
「じゃあ、怒ってみようか?」
すると、マリベルが少し身を固くした。アルスはマリベルをじっと見詰める。低い背丈に小さな体、青色の釣り目、つんと上を向いた鼻、小さい口元、ふわふわの豊かな赤毛。気の強い猫のような容姿を、アルスは素直に可愛らしいと思った。惚れた弱みと言うやつである。
「……な、なによ」
マリベルは威嚇するように、眉を釣り上げてアルスを見返した。アルスは意外と、マリベルを困らせたり怒らせたりするのが好きだった。本人が指摘した通り、旅の途中でも、手を変え品を変え神経を逆撫でした。そうした時、マリベルはいちいちむきになって、怒ったりそっぽを向いたり嫌味を言ったりし、アルスにとってそれが面白いのだった。勿論、マリベルが困惑したり、怖がったりするのも面白い。彼女に限らず、アルスは人の反応を見るのが好きなのだが、とりわけマリベルの反応は楽しみだった。
「なによう。怒るんだったら怒りなさいよ」
マリベルは怖い顔を作って、アルスをじろりと睨み付けた。アルスよりずっと小さくて、ずっと弱いくせに、精一杯虚勢を張って気の強い言動をする。それを微笑ましいと感じるのも、やはり惚れた弱みなのだった。そんなことを考えていたら、知らない内ににやにやしてしまい、マリベルに怪訝な顔をされた。
「もう、なんなの?」
「いや、マリベルが面白くて……」
「あんたの顔のほうが面白いわよ」
と、マリベルはつまらなそうに言うのだった。手厳しく返されてしまい、アルスはほっぺたを掻いた。アルスが怒ろうかと思ったのに、何故だかマリベルを怒らせる結果となってしまった。
「話はもう終わり?」
アルスが話に立ち戻ると、マリベルは目を側めて、猫の方を見た。
「……うん、もういいよ」
と、俯き加減に言うのだった。彼女が不自然な態度を取る時は、何か含みがあると言うことである。
「どうしたの?」
以前までのマリベルであれば、アルスがこうして問い掛けても、意地を張って口を噤んでしまっていた。今は、少し信頼してくれているようで、マリベルは躊躇いながらも口を開いた。
「……だって、ほかの女の人を見ないでほしいって言っても、そんなのムリでしょ?」
アルスは苦笑した。マリベルはかなりのやきもち焼きである。旅の途中でも、アルスがちょっと女性に優しくすると、機嫌を損ねて嫌味を言ったり、恨みがましく睨め付けて来たりした。その頃のアルスには分からなかったが、マリベルは嫉妬していたのだった。美人でお嬢様のマリベルと、ぼんやりで平凡なアルスを比較して、どうしてマリベルの方が悋気を起こすのかは不思議であるが、とにかく彼女はやきもち焼きなのだった。
「さっきも言ったけど、僕はマリベル以外に興味ないんだよ」
「そんなの、わかんないでしょ」
アルスは優しく言ってみたが、マリベルは信用しなかった。人によっては、やきもちを焼かれるのは嬉しいのかも知れないが、アルスはマリベルに余計な心配をして欲しく無かった。
「僕はマリベルが好きだよ。他の誰でもなく、マリベルがいいんだ」
「……ほんとに?」
「ほんとだよ」
この先何十年経とうとも、アルスは同じことを言い続けるだろう。それだけアルスはマリベルが好きで、ずっとそばにいたいのだ。誠心誠意を持って告げると、マリベルが熱っぽくアルスを見詰めた。アルスも優しくマリベルを見詰め返す。何だか良い雰囲気になった。
「ねえ、アルス……」
慌てふためいたように、マリベルは髪の毛を手で梳き、形を整えた。身繕いをした後、かなり躊躇って、目を瞑る。
「ん!」
そして、ただそれだけ言うのだった。アルスは最初、何が何だか分からなくて、呆気に取られた。
「……ん!」
マリベルはほっぺを赤くして、唇を少しすぼめてみせた。ぼんやりのアルスも、何をすべきか分かって来た。躊躇っている暇は無い。今を逃したら、マリベルは二度と好意を示してくれないだろう。アルスは徐に立ち上がり、マリベルの前に行った。マリベルは赤くなりながら、目を閉じたまま、身を強張らせて待っている。開き加減の唇は、濡れた内側の部分がちょっとだけ見えた。アルスは屈んで、逡巡した後、マリベルの前髪を手で上げて、顔をくっ付けた。マリベルのおでこは熱かった。触れたか触れないかくらいの口付けをして、アルスは顔を引っ込めた。そして、その場にぼんやり突っ立っていた。
「……おでこ?」
目を開けたマリベルは、もじもじしながら、額に手をやった。
「うん、おでこ……」
アルスは間の抜けた返事をした。口にするのはまだ早いような気がして、何となく額に行ったのである。
「……ま、いいわ。いくじなしのアルスにしては、がんばったほうじゃない」
それでもマリベルは満足したようで、目を細めて笑った。ほっとしたやら、照れくさいやらで、アルスはのろのろと席に戻り、冷めた紅茶を口にした。赤毛の猫は、毛繕いにも飽きたらしく、丸くなってまどろみ始めた。
「……さてと」
真面目な顔を装って、マリベルが話の続きを口にした。
「あたしがアルスにしてほしいことは、それだけよ。アルスは何かある?」
アルスは少し考えた。やはり惚れた弱みと言うもので、彼女に対する不満は無い。我儘なところも、意地っ張りなところも、口の悪いところも、全部がマリベルの長所だと思っている。強いて言うならば、と考えて、一つあることに思い当たった。
「マリベルには、もう少し素直になってほしいかな」
「素直って?」
マリベルが不思議そうにまじくじした。
「僕、マリベルに好きだって言ってもらってないよ。婚約してこんなに経つのに」
「それは……」
と、マリベルが口籠った。
「……それは、わざわざ言わなくてもいいからよ」
「よくないよ」
アルスにしては珍しく、きっぱりと否定した。すると、マリベルは目を眇め、胡乱な顔でアルスを見た。
「……あんた、あたしの気持ちをうたがってるの?」
「そうじゃないけど……」
実際、アルスはそんな心配はしていない。生来呑気な性格のためか、マリベルは自分をずっと好きでいてくれると言う、由も無い自信を持っていた。マリベルは照れ屋で、素直になれない性格であるから、それくらいのんびり構えて丁度良いのだろう。しかし、アルスもたまには見返りが欲しいのである。さてどうするだろうかと、相手の反応を待っていると、出し抜けにマリベルが立ち上がった。
「それじゃ、わかるようにしてあげるわよ」
と、アルスを見下ろして言った後、テーブルを迂回してそばに来た。アルスは何をされるのかさっぱり分からなくて、ぽかんとして見上げていた。
「目つぶって」
マリベルに促され、アルスは素直に目を瞑った。相手の動く気配がした。そして、頬に柔らかいものがちょっとだけ触れ、すぐに離れてしまった。掠めた程度だったので、アルスは頬が痒くなり、指で掻いた。そして目を開けてみると、マリベルが今にも逃げ出しそうな顔をしていたが、頑張ってその場に留まっていた。
「……わかった?」
「……よくわかんない」
「バカ」
マリベルは口をへの字に曲げ、猫を撫でようとベッドの方へ行ってしまった。アルスはまた紅茶を飲もうとしたが、入れ物は空っぽだった。今日はメイドさんも休みの日で、お茶はマリベル手ずから用意してくれたものだった。ベッドに座ったマリベルは、わざとアルスに背を向けていた。
「マリベル?」
アルスが呼んでも、マリベルは返事をしない。無視して猫の顎を掻いている。
「マリベル」
もう一度呼んだが、マリベルはまだ知らんぷりをしている。仕方無いから、アルスがそちらに行って、隣同士で座った。
「マリベル」
と、顔を覗き込んだが、マリベルは顔を背けてしまった。赤毛の猫は知らん顔をして、丁寧に前足を舐めている。
「マリベル、ごめん。機嫌なおしてよ」
ぼんやりのアルスは、大事な時に迂闊な発言をするのも欠点だった。思ったことをすぐ口に出すから、すぐにマリベルを怒らせてしまう。照れ屋のマリベルが勇気を出してくれたのだから、結果がどうであれ、アルスは喜ばなければならないのだった。
「……さっきの、もう一回やって」
のんびり待っていると、マリベルが小さな声でそう言った。さっきのとは何だったかと、アルスが思い出していると、マリベルが漸くこちらを向き、目を瞑った。
「ん!」
アルスはほっぺを掻いた。もう一回やらねばならないらしい。今度はどうしたものかと、散々逡巡した挙句、またしても前髪をよけて、額に顔を寄せた。口を付けた途端、マリベルがぴくりと身じろぎし、額が熱くなった。アルスは顔をくっ付けたまま、今度は心の中で三数えてから、ゆっくり離れた。ややあって、目を開けたマリベルは、不思議そうにおでこを撫でた。
「……だから、どうしておでこなの?」
「なんでだろ……」
アルスは憔悴したような気持ちで、座ったまま後退り、マリベルから少し距離を取った。マリベルも溜息をつき、疲れた様子を見せた。お互いに、戦っている時よりずっと緊張して、息の詰まる思いをしていたのだった。
「婚約って、けっこう大変なんだね……」
「かもね……」
火照った顔を手で扇ぎながら、マリベルも頷いた。アルスも暑かった。慣れないことはするものでは無い。マリベルはぽーっとした、しまりの無い表情を浮かべており、恐らくアルスも同じ顔をしている。困ったのは、マリベルがこれを大変喜んでいて、アルスも嫌では無いと思っているところだった。
「……練習したほうがいいかな」
「えっ、練習するの?」
思わず呟いたら、マリベルが目を丸くした。
「ど、どうやって練習するのよ?」
「……ネコ……とか?」
視界の端に猫がいたので、アルスはそう口走った。もはや自分でも何を言っているのか良く分からない。アルスは混乱していた。
「そう、ネコねっ。いいかも知れないわ」
焦ったマリベルも、良く分からないことを言って頷いた。アルスは現実逃避をしたくなって、猫と顔をくっ付け合うマリベルを想像した。微笑ましい光景だった。ところが、その猫が不意に自分と擦り替わってしまい、急いで頭を振った。今は何を考えても駄目なようで、アルスは息をついた。
「……やっぱり、婚約って大変だね」
アルスはつくづくそう思った。
「そうね……」
マリベルも同意して、上を向いてまた溜息をついた。アルスはちょっと楽な格好になろうとして、手の置いている位置をずらしたら、指先がマリベルの指に触れた。どうしようかと少し迷ったが、そのまま彼女の手に乗せて、重ねてみた。マリベルはちょっとびくりとして、心持ち手を丸めたが、嫌がる素振りは見せなかった。
「……ま、なにごとも練習よね。ちょっとずつやっていけばいいわ」
マリベルは天井を見上げながら、視線だけをアルスの方にやった。
「そうだね」
アルスも頷いた。愛の告白すらままならない二人同士である。上手く行く筈が無いのだから、人並みに恋愛しようとは思わないで、自分達の歩度でゆっくりやって行くしか無かった。取り敢えず今は、手を触ってるだけでも十分幸せだと思って、アルスはマリベルの手を離さなかった。