砂粒ほどの感傷
砂漠の夜は冷える。族長ザラシュトロが死に、悲しみに包まれた砂漠の村は、心なしか空気も湿っぽく、底無しの暗闇に沈んでいた。アルス達は、族長の子ハディートの部屋を借り、眠れない一夜を過ごそうとしていた。ガボが妙に塞ぎ込んでいるから、一旦フィッシュベルに帰ろうかとも思ったが、ハディートから明日の式に同席して、ティラノスの骨を葬って欲しいと頼まれたので、残ることになったのである。しかしどうにもいたたまれない。アルス達は所詮部外者だから、この村の哀悼を共有することは叶わない。ただ、彼らの深い悲しみを受け、どうすることも出来ずに落ち込んでいるしか無かった。それでも、呑気なアルスはまだましな方で、人の心の機微に敏いガボは、一方ならず感化されてしまったらしく、うろうろと忙しなく部屋を歩き回っていた。
「食べ終わりましたか?」
と、屋敷の女中が梯子を登って来た。アルスとマリベルは豆のスープを食べ終えていたが、珍しくガボが完食しておらず、金属の器に冷めたスープが殆ど残っていた。
「ガボ、もういらないの?」
「……いる」
マリベルが尋ねると、ガボはうろうろするのをやめ、夕食のところに戻って来た。そして器を手に取って、少し躊躇った挙句、流し込むように傾けて飲んだ。女中はそれを見て、申し訳なさそうに苦笑した。
「たいしたものが出せなくて、ごめんなさいね」
いつもならば此処で、ガボが満面の笑みで美味いと言うのだが、何とも声が上がらなかったので、アルスが美味しかったですと答えた。女中は三人の器を重ねて持ち、落とさないようにしながら、器用に梯子を下りて戻った。
静かになる。今まではスープを食べていたから、喋らないなりに場を持たせることが出来たが、何も無くなってしまうと、全く静かになってしまった。アルスは黙ってベッドの上に座っている。砂漠の村のベッドは、藁のような植物の上に布を敷いた、簡素なものである。この上に乗ると、かさかさと音がして、案外柔らかくてしっかりしている。此処に毛皮や毛織物を掛けて眠るのだった。居心地は悪くないのだが、何だかそわそわと落ち着かず、アルスは気散じに鉄の斧を取り出して、手入れを始めた。ガボは相変わらずうろうろと歩き回っており、マリベルは頭巾を外して、豊かな赤毛を櫛で梳いていた。
「……なあ。族長のじっちゃん、下にいるんだよな」
ふと、ガボが立ち止まって言った。族長の亡骸は階下に運ばれた。其処で家族と最後の夜を過ごし、明朝棺に納められ、ナイラへと運ばれる。砂漠の村に戻ってからと言うもの、ガボは何かを怖がっている様子で、頻りに室内を歩き回り、呻るような、言葉にならない声を出していた。アルスとマリベルも、今夜はざわついた気持ちでいたが、ガボは一際取り乱していた。彼が動くたび、床に置かれた小灯しがゆらゆらと揺れ、如何にも落ち着かない様子だった。
「ガボ、早くベッドに入っちゃいなさいよ」
見かねたマリベルが声を掛けたが、いつものきつい調子では無く、心配しているようだった。
「うん……」
彼女の言う通り、ガボは布団のそばに行った。のろのろとした所作で、横たわって毛織物を口まで引き被ったが、目は開いたままだった。まるで眠り方を忘れてしまったかのように、目だけを動かしてマリベルを見る。
「眠れないなら、ひつじでも数えてなさい」
またマリベルが言った。ガボは素直に頷いて、羊を数え始めたが、段々と声がか細くなり、すぐにやめてしまった。
「ダメだよ、ねむれない……」
と、起き上がり、布団の上にうずくまった。アルスは気の毒に思ったが、どうすれば良いのか分からなかった。こんな時に限って、気の利いた話題は何も思い付かない。ガボの好きな、食べ物の話でもしようかと思ったが、胸焼けでもしたように、言葉が喉に閊えて出て来なかった。
「ガボ、さんぽに行こうか?」
「外、やだ」
精一杯捻り出した提案は、ガボに拒否された。嫌がるのも無理は無く、外の空気は涙に濡れ、しめやかな悲しみに包まれており、アルスとてこの部屋から出るのは辛かった。
「フィッシュベルに帰る?」
「やだよ。オイラ、アルスたちと一緒にいる」
続く提案も一蹴された。そうなると、もはやアルスに手の打ちようは無い。ただ黙って、周章狼狽するガボの様子を見守り、マリベルに困惑した目線を送った。
「……しょうがないわね」
髪を梳いていたマリベルは、溜息をつき、座り直してスカートを整えた。
「ほら、こっち来なさい」
そして膝をぽんぽんと叩き、ガボを差し招いた。ガボは素直にそちらへ行ったが、珍しく戸惑った風で、彼女の前に膝を突いた。
「……乗っていいのか?」
「乗るなりなんなり、あんたの好きになさい」
と、マリベルは手を後ろに回し、刑の執行を待つ囚人のようになった。ガボは逡巡した挙句、一挙手一投足を確かめるようにして、マリベルの膝に頭を乗せ、寝転がった。そうして怪訝な表情で、マリベルの顔を見上げる。
「……マリベルがこんなことするなんて、明日はヤリが降るんじゃねえか?」
「あたしだってびっくりよ」
そう言い合いながらも、ガボはスカートの端を握りしめており、マリベルは毛織物を手繰り寄せ、彼の体に掛けてやった。おっかなびっくりと言った様子で、半ば体を浮かせるようにしていたガボも、頭を撫でられたら安心したらしく、マリベルに深く体を預けた。
「あったけえや。ありがとな、マリベル」
「ん。眠れそう?」
「うん」
膝を平らに均すように、ガボは何度か寝返りを打った。それが落ち着くと、心地良さそうに目を閉じる。口を開く頃には、いつもの愛想の良いガボの声だった。
「なあマリベル、毛づくろいしてくれよ」
「毛づくろいね。はいはい」
マリベルはお座なりな返事をして、膝元に置いていた櫛を取り、ぼさぼさの黒髪を櫛で梳き始めた。ガボは快適らしく、ぴすぴすと鼻を鳴らすような音を出した。狼だった頃を思い出しているらしい。そうしていると、ガボは子犬のようで微笑ましく、マリベルは慈悲ある令嬢のように見え、美しい光景だった。優しく髪を梳きながら、マリベルは穏やかに、伏し目がちにガボのことを打ち守っていたが、アルスの視線に気付くと、忽ち仏頂面になった。
「……なに見てるのよ。なんかモンクある?」
「いや、いいなあって思って」
「気持ちわるいわね。あんたには、ぜったいやったげないわよ」
マリベルは嫌悪感も露わに、顰め面で舌を出して見せた。アルスは羨ましいと言う意味で言ったわけでは無いのだが、どうせマリベルには分かっているので、弁解しなかった。悪態でもつかなければいられないほど、彼女は照れているのだ。
「……まあ、ガボは子供だからね。しょうがないでしょ」
と、言い分けるように呟き、引き続きガボの頭を梳った。アルスは二人が気になって仕方無いのだが、そちらに目を向けると、マリベルが凄い顔で威嚇して来る。だから注意を向けないようにして、無心で鉄の斧の刃を磨いていると、やがてマリベルが歌を口ずさみ始めた。優しい子守歌だった。歌詞を伴わないので、其処に眠りの魔力は宿らないが、聞いているだけで心安らぐ、柔らかな旋律だった。
一頻り歌うと、マリベルは子守歌をやめてしまった。アルスはすっかり忘我の内にいて、自分が何をしていたのだか忘れてしまったが、手元に斧があったのを思い出した。
「今の、何の歌?」
ガボが寝ているようなので、アルスは小さな声で尋ねた。
「ゆりかごの歌」
と、マリベルは囁くような声を出した。
「マリベル、そんな歌おぼえてたっけ?」
「おぼえてないけど、歌ぐらいなら分かるわよ」
魔物達を眠らせるゆりかごの歌は、魔物の言葉を歌詞に用いて吟じられるらしい。だから人間が聞いても眠らないのだと、マリベルは本で覚えた蘊蓄を語った。実際的な彼女は、予め職業について調べ上げた上で、どの職に就くべきか吟味しているのだった。歌声が止むと、また静かになり、階下の微かな話し声が聞こえるようになった。何を言っているかは分からないが、アルスは悲しくなった。
「……でも、ガボの気持ちも分かるよね。あたしだって恐かったもん」
マリベルがぽつりと呟いた。
「なにが?」
「骨……とか」
と、彼女は濁して言った。此処数日で、三人は数え切れないほどの遺体を見て、その亡骸を弔った。アルスも怖くないと言えば嘘になる。死とそれに纏わる一切は非現実のものであり、隣にそれが現実として横たわっていることに対し、否が応でも恐怖を感じずにはいられなかった。それでも、根が能天気なアルスは、怖いものは怖いと割り切ることが出来る。しかしマリベルはそうで無く、人の亡骸に対して恐怖を覚えることについて、罪悪感を抱いているのだった。
「……お城の骨には、恐くてさわれなかったけど……たぶん、あんたの骨だったら、ぜんぜん平気なんでしょうね」
目を伏せながら、マリベルは懺悔するように言った。長らく魔物に荒らされ、砕けて散らばった骨を、ハディートは大方の当てを付け、一人の亡骸として纏めて、それぞれの墓穴に埋葬した。何も言わなかったが、恐らく殆どが知り合いなのだろう。アルス達は名も知らぬ骨だから、その人個人への思い入れよりも、死そのものへの畏怖が勝るが、それがもしも身近な人の亡骸ならば、親しみや愛おしさが勝る筈だった。
「……あたし、何言ってるんだろ」
ぼんやりしていたマリベルは、ふと我に返ったらしく、照れくさそうに言った。彼女はそれで、しめやかな気分に切りを付けたが、アルスは依然として深刻だった。
「僕も、マリベルの骨だったら平気だと思うよ」
と、アルスは口にしてみて、何処か空恐ろしい感じを覚えた。
「あたしの骨かあ……あたしのことだから、骨までキレイだったりして」
頬を撫でさすりながら、マリベルは冗談めかして言った。アルスは変なことを口走ったのを後悔した。アルスは、魔物の攻撃によって命を無くしたマリベルの身体を、何度か見たことがある。しかし、それは飽くまでも一時的なものである。もしも、マリベルの身体から永遠に命が失われて、単なる抜け殻になってしまうと考えたら、ただそれだけで、他の何よりも恐ろしいような気がした。其処でアルスは、どうしてマリベルがガボを膝に乗せたのか、その理由を何と無く察した。失われた命を見て恐怖を感じると、命ある体に触れて、その生を確かめて安心したくなるのだ。だから、二人は互いに寄り添い合って、心の安寧を得ているのだった。
「ねえ、マリベル」
「なに?」
「触ってもいい?」
「別にいいけど……なによ、あらたまって」
マリベルは怪訝な顔をしながらも、アルスに近い方の、左手を差し出した。燭台の火に照らされて、肌の肌理が艶やかに光を帯びている。いつもは何の気無しに取る手だが、不用意に触ると壊してしまいそうな気がしたので、アルスはなるべくそうっと引き寄せた。マリベルの手は、少し冷たくて、皮膚が柔らかくて、さらりとした清潔な感触がする。手の平を親指で揉むように押してみると、ふよふよとして頼り無いが、確かに血の通った弾力があった。其処に命の温もりを感じると、不思議とアルスの心も落ち着いた。マリベルは触れられる距離にいて、ガボは安心して寝息を立てている。少なくとも今この時間は、傷付けられることなく、朽ち果てることも無い。これまでの旅路でも、アルスは沢山の死に直面して来たが、今日は取り分け、命が儚いものとして感じられた。始めはされるがままであったマリベルが、ふとしたきっかけで、アルスの手を握った。反応を返して貰ったことは嬉しいが、指の感触がくすぐったく感じ、アルスは急に気恥ずかしくなった。
「……なんだか、今日はヘンな気分だよ」
妙に居心地が悪くなり、空いている方の手で頭を掻いた。
「あたしも……」
マリベルも、気まずそうに眼を泳がせた。アルスの気持ちは落ち着いたが、それは水底のように低い場所で落ち込んでおり、何をしても浮ついた気持ちにはなれなかった。族長ザラシュトロは死んだ。ティラノスの命はとうに果てていた。一条の光も差し込まぬ、失意と暗闇に閉ざされた砂漠に於かれては、さしものアルス達も鬱屈した気分になっていた。
「……ま、こんな日だもの。いつもと違ったって、しょうがないよね」
と、マリベルは観念したように息をついた。
「明日になったら、きっと何かが変わるわよ。それまでは、じっとしてるしかないわね」
「……そうだね」
アルスは繋いだ手を離そうかと思ったが、そうしたくは無かったので、素直に繋いだままにしておいた。ガボのように子供らしくは甘えられないが、アルスも人の温かみが恋しかったのである。この暗澹たる一夜は、そぼ降る雨の日のようなもので、憂鬱な時が続いても、いずれは晴れるだろうことが分かっている。だから、今は感傷の赴くまま、座して時を待つ他無い。静かな夜は、そうして深沈と更けて行った。