てのひらにあまるもの
最近、アルスは寝てばかりいる。念願の漁師になったはいいものの、十六まで遊び歩いていたアルスにとって、早朝から仕事に勤しむ規則正しい生活は、なかなか大変なものだった。旅をした経験がなければ、今頃根を上げていたかも知れない。海での漁は本当に疲れるもので、冒険の中で幾つもの死線を潜り抜け、時に四肢をもぎ取られるような思いをする方がまだ楽だった、と思うくらいだった。そうしたわけで、毎日へとへとになって船を降りるアルスは、ほうほうの体で家に帰って、母さんの手料理を空っぽの腹に詰め込んで、面倒くさがりながら体を清めて、後は朝までずっと寝ている。休日はもっと適当なもので、昼と夜の食事を食べる以外は、とにかくひたすらベッドにかじりついていた。だらしないアルスの生活に対して、マーレ母さんは怒ったりせず、漁のない日は昼まで寝かせておいてくれる。アルスのような反応は、新米の漁師にはありがちなことで、今は仕事に慣れることを優先してくれるのだった。
怒ったのはマリベルである。お嬢様らしくなって、お転婆なところが減った彼女は、お屋敷で優雅な暮らしをしている。男の子のように、外で駆け回ることがなくなったマリベルは、やはり少し退屈しているようで、今はアルスと遊ぶのが良い気晴らしになっているのだ。そうなると当然、アルスが遊んでくれなくて、家で寝てばかりいるのは、マリベルにとって面白くない事態となる。だから彼女はぷんすか怒って、寝ているアルスに小言を言いに来るのだった。勿論、アルスが忙しくて、寸暇も惜しんで寝ていたいのは、マリベルも分かってくれている。しかし、アルスに我儘を言って八つ当たりするのも、マリベルの楽しみの一つであり、アルスはそれを強いてやめさせようとも思わないのだった。
「ちょっと、アルス! あんたまた寝てるの?」
安息日のお昼時、いつものようにアルスが寝ていると、梯子の方から声がした。アルスが少しだけ目を開け、寝返りを打ってそちらを向くと、豊かな赤毛が梯子を登ってくるのが見えた。今日のマリベルは、外出用の頭巾を被っていなくて、貴婦人のような薄手の白いドレスを着ている。背中を向けて登っているから、表情は分からなかった。とりあえず見るだけ見たから、アルスはまた目を瞑り、枕に顔を埋めた。瞼の裏で、白い影がこちらに向かってくる気配が見えた。
「なんか、男くさくない?」
マリベルがそう言って、眉を顰める姿がありありと目に浮かんだ。ぱたぱたと足音が西側に向かい、窓を開け放つ。空気の流れる感じがして、少し室内の温度が下がったようだった。
「また脱ぎちらかして……男の子って、みんなこうなのかしら?」
足音がまたこちらに戻ってきた。ぶつくさ文句を言いながら、マリベルは床に散らばった服を拾って、畳んでくれたらしい。アルスの蹴散らした布団の足元に、そっと置かれた。
「あたし、言ったよね? あんたがフケツにしてたら、絶交するって!」
マリベルの捲し立てる高い声は、アルスの鼓膜にきんきんと刺激を与える。不思議なことに、それは小さな子の甲高い声よりも、ずっと響いて聞こえるのだ。当然、再び寝入るわけにもいかなくて、アルスは仰向けになって、やっとの思いで上体を起こした。マリベルの白い姿は、寝ぼけた目には眩しいくらいだった。
「やだー、みっともないわね! 早くなんとかしてきなさいよ」
顔を合わせるなり、マリベルが悲鳴のような声を上げた。それでもまだぼんやりしているアルスは、目やにでも付いているのかと思って、手で目元を擦った。その時に、手の甲が頬の辺りに触れて、じょりじょりした感触がした。アルスもやっとそれで分かった。
アルスは漸く、髭が生えるようになった。フィッシュベルの男にとって髭は格好良いものであり、アルスも早く父さんのようなふさふさした髭を蓄えたいのだが、マリベルには頗る不評である。彼女曰く、あんたのはボルカノおじさまの男らしいヒゲじゃなくて、ホンダラおじさんのだらしないヒゲよ、とのことだった。残念なことに、アルスの髭はまばらで短く、どんなに頑張っても、ホンダラおじさんが剃るのを忘れた無精髭のようにしか見えない。不思議に思って村の大人に聞いてみると、髭というのは、誰にでも立派なものが生えるわけではなく、個人の体質によってまちまちなのだと判明した。あのボルカノの息子なのだし、いずれはふさふさになるかもと言って貰ったが、アルスはがっかりした。それで、マリベルに絶交をちらつかされたのも与って、しぶしぶ毎日剃ることにしたのだった。そうして鏡に向かっていると、ふと、親友のキーファも、妹やマリベルに言われて、面倒くさそうに剃っていたことを思い出した。若い男の髭は女性に不評なのだろう。キーファは旅の途中、手入れが出来なくて顔がぼうぼうとしていたのを、却って喜んでいたくらいだったのだ。
アルスは時々、キーファのことを考える。アルスが髭面をして、むさ苦しい漁船で網と格闘している姿を見たら、きっとキーファはからからと笑いながら、いいじゃんと、一言だけ言うだろう。しかし、アルスは、キーファがこの姿を見ることは無いと知っている。キーファはどんなことがあっても、二年前のあの日にエスタード島を旅立って、違う世界で生きていく。それがキーファと言う男であり、もしももきっともあり得ないのだ。同じように、アルスもキーファが今頃どんな姿をして、どんなところを旅しているのか知らないし、想像もしない。二人にとっては、見た目がどうなったとか、どんな風に生活しているかとか、そんなことはどうでも良くて、ただお互いが自分らしく幸せに邁進している、それだけで十分なのだった。
無論、マリベルは、そんなのは男の子が考える馬鹿なことだと思っている。マリベルにとっては、行く行く網元の跡継ぎとなるアルスがみっともない姿をするのが、網元の娘としてとても恥ずかしいし、アルスがマリベルと遊ばずに寝てばかりいるのも、つまらなくて不満なのである。マリベルは現実的だった。だから、彼女は何処かに行ってしまったキーファのことなど、もはや自分には関係なくてどうでも良いし、勿論アルスの生き方や幸せなどもどうでも良くて、今はただアルスに髭を剃らせたいのだった。
アルスはマリベルに追い立てられるように、寝巻きのまま下に降りて、髭を剃って顔を洗った。不器用だから適当に剃ったら、剃刀で顎の下を傷付けてしまい、呆れたマリベルにホイミで治して貰った。そして、久々に休日の朝ごはんを食べることになった。マーレ母さんも、いつも放っておいてくれるが、アルスが規則正しく生活するのは、それなりに嬉しく思うらしい。丸パンと、マーマレードのジャムと、昨晩の残りの海鮮スープを手早く用意し、木製のトレイに乗せて息子に渡した。
「自分の部屋でおあがり。食べ終わったら、ちゃんと片づけるんだよ」
「うん」
返事をしながら、アルスは意外にも、気分がすっきりしてだるくないのを感じていた。却って昼まで寝ている方が億劫に感じるくらいで、朝きちんと起きる方が体には良いらしい。多分来週の休みにはまた昼まで寝ているのだろうが、今この時のアルスは、来週も朝早く起きようと決めた。
「マリベルさんも食べるかい?」
トレイを持ったまま、アルスがぼんやり立ち尽くしていると、母さんはマリベルにそう尋ねていた。
「いいえ、けっこうよ。お屋敷ですませてきたの」
マリベルはお嬢様らしく、上品に首を振って遠慮した。
「そうかい? まあ、お屋敷のごはんはおいしいだろうからね」
「そんなことないわよ。おばさまのお料理は、うちのメイドに負けないくらいだわ」
マリベルはにこにこしながら、アミット家とアルスの家の、両方を立てるようなことを言った。こんな風に愛想が良くて、時々家事を手伝いに来てくれるものだから、マリベルはマーレ母さんに頗る好かれている。母さんはしばしば、うちにも女の子が欲しかった、と口にして、マリベルが訪ねてくるのを楽しみにしていた。
トレイを片手に持ったまま、アルスは器用に梯子を登って、自室のテーブルで朝食を食べることにした。この小さな屋根裏部屋は、家具を下から運んでくることが出来ないため、大したものはない。あるのは、小さなテーブルと、ベッドと、箪笥と、それくらいだった。昔父さんが作ってくれた、丈夫なテーブルにトレイを置いて食べ始める。寝巻きでぼさぼさの頭をしたアルスとは対照的に、きちんと身なりを整えたマリベルは、白いマグにお茶を淹れて貰い、アルスの向かいで優雅に飲んでいた。
「ガボは?」
「さあ、森にいるんじゃない?」
アルスが聞くと、マリベルは軽く肩を竦めた。近所の森に住んでいるガボは、毎日のようにフィッシュベルへ遊びに来ていたのだが、最近はあまり来なくなった。アルスが遊んでくれないと知っている上、ガボも自分の仕事が忙しいようである。ガボは木こり見習いとして、森で畑仕事をし、木を切って家具を作ったり、炭を焼いたり、鍛冶のようなことをして暮らしている。故郷と呼べる場所で生き甲斐を見付けたガボは、アルスに負けじと、毎日一生懸命働いていた。
「……マリベル、さみしいの?」
と、アルスは再び尋ねてみた。マリベルは丁度マグを傾けているところで、目だけアルスの方へ向けた。
「……別に、さみしくないわよ」
紅茶を飲んだマリベルは、マグを下ろしてそう答えた。彼女はそれを挑戦だと思ったのか、気の強い瞳でアルスを見返した。
「アルスのほうこそ、ガボがいなくてさみしいんじゃないの?」
「さみしくないよ」
マリベルの反問に、アルスは即答した。
「じゃあ、あたしもさみしくないわよ」
マリベルはそう言って、話は終わってしまった。アルスはガボと出会った時から、彼を一人前の男だと思っているから、ガボが自分の道を見付けて、自分らしく生きるのを喜ばしく受け止めている。マリベルは口ではああ言っているが、寂しがりな性格だから、ガボがいなくて内心物足りないのだろう。アルスはスプーンでジャムを掬い、丸パンにつけて、千切って口に運んだ。夏らしく、甘酸っぱいマーマレードのジャムが爽やかである。いつも朝飯は船の上でがっついているから、こうしてゆっくり味わうのは久々だった。
マリベルは紅茶を飲み終わり、頬杖を突いてアルスのことを観察していた。マリベルは時々こうして、アルスのことを値踏みする。網元の跡継ぎとして不足がないよう、文句の付け所を探しているのだ。こんな時は、青い目を眇めて、機嫌の悪そうな表情で、じっと見詰めてくるのだった。
「……あんた、手がボロボロじゃない」
マリベルが今度着目したのは、アルスの手だった。気遣いの口振りだった。文句を言われるのは全然構わないが、心配されるのは苦手である。アルスは手を隠そうとしたが、マリベルに睨まれて、大人しく両手をテーブルに置いた。アルスの手はお世辞にも、綺麗とは言えない。爪は欠けてごみが挟まっているし、ささくれもあるし、傷もあって、塩水でがさがさに荒れている。まだ漁に慣れていないアルスは、何をしてもへまをする。間違えて鮫を釣り上げたことなど可愛いもので、荒波に揉まれて海に落ちそうになり、ボルカノ父さんに襟首を捕まれ、寸でのところで助かったこともある。新米がやりがちな、手に釣り糸を巻き付けて手繰り寄せ、大怪我をする一連の流れも経験した。釣り糸は細くて肉に食い込み、下手すれば指を千切り取ってしまうのだ。傷跡もまだ新しく、手の小指側の側面に、釣り糸の食い込んだ凹みがありありと見える。マリベルはそれを心配して、不機嫌そうに眉を顰めていた。
「前からこうだったよ」
アルスは旅していた頃を持ち出して、誤魔化そうとした。自分でも不思議なのだが、アルスは痛みにかなり鈍い。その割に、他人の怪我には敏感である。だから戦っていた時も、平気で仲間を庇って死にそうになり、その度にマリベルから絞られていた。マリベルは鈍いアルスに代わり、鋭敏に痛みを察知して、すぐに治してくれるのだ。マリベルは海のような青い目で、アルスの手をじっと見詰めていた。
「ほかの漁師さんたちは、そんなにケガしてないでしょ」
と、マリベルが指摘した。
「うん、僕、ぼーっとしてるから……」
言葉ではとても敵わないアルスは、思い付いたことを口にして、おざなりに終わらせようとした。ちょっとくらいの傷なら、箔が付いて格好良いくらいだと思うのだが、そんなことを言い出したらまた怒らせてしまう。アルスもそれくらいの予想は付いていた。口をへの字に結んだマリベルは、少し考えて、唐突に席を立った。
「ちょっと待ってて。それ、早くかたづけちゃいなさい」
そう言い残し、マリベルはさっさと梯子を降りて、何処かへ行ってしまった。残されたアルスは、言われた通り朝食を平らげて、マリベルのお茶と一緒に、母さんのところへ下げに行った。
「女の子はきれいでいいわね」
顔面は綺麗になったものの、未だ寝巻きで、寝ぐせだらけの頭をしたアルスを見て、母さんはそう言った。別に咎める意味ではなかったのだろうが、流石のアルスも気になって、二階に戻っていつもの服に着替え、寝ぐせを整えた。だらしない自覚はあるが、小さな鏡くらいは自室に仕舞っておくようになった。
アルスは大分髪が伸びた。前髪は適当な頻度で切っているが、後ろは殆ど手を入れていない。理由はまた単純なのだが、マリベルが何とも言わないからだった。彼女は長髪が嫌いではないらしく、アルスが襟足を適当に伸ばしていても、寝ぐせさえ整っていれば構わないようだった。マリベルさえ気にしないのなら、切って床に散らばった毛を掃除するのも面倒だし、漁の邪魔になったら紐か何かで縛ろうかと思った。そうして、ぼんやりと鏡を見ていたら、ふと、マール・デ・ドラゴーンの老人に、頭領が洟垂れだった頃に似ていると言われたことを思い出した。すると、何だか急に気恥ずかしくなって、後ろはばっさり切ってしまおうと決意した。
戻ってきたマリベルは、透明な口の長い小さな瓶と、濃い青色の、親指くらいのもっと小さな、口の短い瓶とを持ってきた。アルスは不思議に思って、マリベルが再び席に着く間、じっと小瓶を見詰めていた。
「座って」
ぼんやりベッドのそばで突っ立っていたアルスに、マリベルはそう促した。アルスは頷いて、先程と同様に、マリベルの向かい側の椅子に座った。
「これ? 精油よ」
アルスが何も聞かないので、マリベルは自分から説明してくれた。
「せいゆ」
アルスは鸚鵡返しに言った。せいゆとは、一体どのような綴りで書くのか考えていると、マリベルは青い瓶のコルクを抜いて、アルスの鼻先に近付けた。ふわりと、朝食のマーマレードのような、甘酸っぱい柑橘の香りがして、アルスは口の中に唾が出てきた。俄然興味を持ち、くんくんと匂いを嗅ぐアルスを見て、マリベルは満足したようだった。
「この香り、きらいじゃない?」
マリベルはにやにや笑いを噛み殺しながら、アルスにそう尋ねた。
「うん」
「そっ。じゃあ、これ、あんたにあげる」
と、マリベルは小瓶をテーブルに置いた。
「ありがとう……」
アルスはこの瓶をどうしたら良いか分からなくて、手を伸ばしかけたまま、暫し考えた挙句、困ってマリベルの方を見た。マリベルはもう一つ、やや大きめの瓶を出していた。
「……せいゆって、何?」
「はじめから聞けばいいのよ」
自分が知っていてアルスが知らないことがあると、マリベルは得意気にして、お姉さんぶって教えてくれる。今日もマリベルは機嫌良さそうに、立ち上がって椅子を持ち上げ、アルスの隣に移動させた。ふわふわの赤毛が隣に座った。袖をちょっと捲ったマリベルを、アルスはまたぼんやりと見ていた。
「……ま、やりながら教えてあげる」
マリベルは、透明な瓶のコルクを開け、軽く傾けて中身を少しだけ手に付けた。中身も透明で、少しとろみがあって、こちらは無臭だった。油か何かのようだった。続いて彼女は、精油の方を逆さにし、軽く振って一滴落とした。オレンジの香りが広がった。そうして軽く手を擦り合わせると、マリベルの手の平が油のようなもので濡れて、きらきら光を反射した。
「手、かして。マッサージしてあげる」
そう行って、彼女はアルスに両手を広げて見せた。女の子と言うのは、時に、男の子が到底知り得ないような、小洒落た良い感じの趣味を知っている。マリベルは、精油と言う名の不思議な油を、肌に優しい植物の油と混ぜて、アルスの手を労わってくれるつもりなのだった。アルスも興味を持って、シャツの袖を捲り、右手を差し出すと、マリベルが両手で包み込んでくれた。いつもは少し冷たくて、さらりとした清潔な感触のする手が、油で擦り合わせたためか、温かくて、濡れた滑らかな感触がした。元々、アルスはマリベルの手が好きである。その掌はいつも優しくホイミをかけてくれて、呪文を唱えない時でも、触れてくれるだけで痛みや辛さが癒されるのだった。マリベルはアルスの手の全体を撫でて、油を全体に馴染ませてから、指を一本ずつさすってマッサージを始めた。マリベルのすべすべした指が触れても、ささくれや傷に染みる感じはなくて、ただ気持ちが良かった。
「なに、その顔」
マリベルは悪戯っぽく笑いながら、アルスのぽかんと口を開けた間抜けな表情を指摘した。アルスは慌てて口を閉じたが、いつの間にか口が開いてしまい、またマリベルに指摘された。マリベルは猫を喜ばせるのが上手で、お屋敷の赤毛の猫も、いつもはつんと余所行きの顔をしているのが、マリベルに撫でられると何とも言えない顔でくねくねするのだが、その気持ちが何となく分かったような気がした。指の間の水かきのような部分を軽く押されたり、指の側面を順繰りに摘ままれたり、手の平を親指でぐっと揉まれたり、色んなところを刺激されて、どれも全部気持ち良かった。仲間のアイラは、弱くてかわいい魔物が相手の時、冗談でぱふぱふと言う攻撃をしていたが、アルスはそれを食らったスライムと同じ状態だった。
「……お仕事、大変でしょ」
アルスは危うく聞き逃すところだったが、マリベルがそう尋ねてきたのに気が付いた。すっかり口は開けっ放しだったが、もはや彼女は何も言わずにいてくれた。
「楽しいよ」
アルスは心からの思いで、ただそう答えた。生まれた時からそうなるのが当然であり、強い憧れであり、かねてからの念願だった漁師に漸くなれたのだ。見習いとして連日漁船に乗って、誰もが厳しく教え込んでくれ、アルスが一人前の漁師になるのを手伝ってくれる。今となっては旅のことさえ、この日々のために体力や膂力を付ける礎になったと思うくらいだった。
「そう? ならいいんだけど」
マリベルは何気ない様子で、同じく単純に返事をした。アルスは知っている。マリベルはつまらないお嬢様である自分を変えたくて、小さな頃からずっと、一生懸命楽しそうなことを探し回り、退屈な日常をどうにかしようと頑張っていたのだ。今は、あみもとのむすめと言う自身を受け入れ、自分の見方と考え方を変えることで、大好きなフィッシュベルの暮らしを享受している。きっと数年前の彼女なら、漁に出るアルスをずるいと非難して、船に乗りたがっただろう。それがこうしてアルスを労わり、港で毎日待っていてくれるのだ。嫉妬の対象であるせいで、マリベルの悩みを聞かせて貰うことすら出来なかったアルスにとって、それはとても嬉しくて、安心出来ることだった。
すべすべしたマリベルの手にも、かつては固い胼胝が出来ていた。凶暴な魔物に太刀打ちするべく、仲間達に少しでも追い付くべく、武器や盾を取って戦っていたのだ。あの時のマリベルはあまりにも必死だった。アルスは冒険が楽しくて仕方なくて、何を置いても続けようとして、マリベルも当然同じ気持ちなのだと思っていた。外の世界に旅立つことについて、マリベルはいつもアルスと同じ期待と興味を示していたから、彼女もきっと退屈を忘れて、夢中で歩みを進めているのだと思っていた。鈍いアルスは、マリベルが男の子に負けないよう、虚勢を張って、無理をしていたのだと、後々本人から聞かされて納得した。言われてみれば、一度マリベルが一行から抜けた後は、拠無い理由でもなければ、自ら付いて来ようとはしなくなっていたのを思い出した。馬鹿なアルスは、薄々感付きながらも、結局自分のことばかり考えていたのだった。
「マリベルは楽しい?」
マリベルが今度、水竜の紋章が刻まれた左手を取り、優しくほぐし始めた際、アルスはそう尋ねてみた。マリベルは母親に倣って、アミット家の屋敷を治める貴婦人になるべく、色んなことを頑張っている。
「楽しくなさそうに見えるなら、そうなんじゃないの」
と、マリベルは天邪鬼な口振りで言った。目元は伏せているが、それは互いの手を見下ろしているからで、答えは明らかだった。アルスは馬鹿なことを聞いたと反省した。
「ごめん。分かってるつもりだけど、確かめたくて」
いつも言葉の足りないアルスは、敢えてそう言い訳した。すると、マリベルは目線を上げて、ちょっとこちらを見た。
「……あたし、いちおう幸せなんだけど」
恥ずかしがりで意地っ張りのマリベルは、素直な感情を口にする時、憎まれ口を叩いたり何でもないと取り消して、忽ちうやむやにしてしまう癖がある。そんな彼女が、りんごのようなほっぺたをますます赤くしながら、アルスをじっと見詰めて伝えているのだから、つまりはそう言うことだった。
「うん、僕もだよ。マリベルがいてくれるから」
同じ気持ちを、アルスも正直に言葉にすると、マリベルはついに俯いて、黙って手のマッサージに集中し始めた。アルスは別れを恐れないが、唯一離れたくないと思う存在が、この赤毛の幼馴染だった。まだ口約束の段階だが、誰もがアルスを網元の跡継ぎと目しており、マリベルは網元の夫人になると決まっている。これからもずっと一緒だった。そして、エスタード島には苦楽を共にした仲間達がいて、天上からも手紙をくれる仲間がいる。最高の親友は、違う時代で今も幸せに生きている。アルスの手では抱えきれないくらいの、満ち足りた毎日だった。マリベルと二人で一緒に抱えても、却って倍以上に増えてしまうに違いない。
「僕もやってみていい?」
何か相手にお返しがしたくて、アルスはマリベルにそう提案してみた。彼女は束の間マッサージを続けていたが、きりの良いところでやめた。
「……いたくしないでよ? あんた、手加減ってものを知らないんだから」
マリベルはちょっと渋りながら、アルスの手を放し、自分の右手を差し出した。アルスにとって、女の子とはすべすべでふわふわでいいにおいがするものなのだが、マリベルは特別そんな風に感じられるし、そもそも、他の女の子のことは知らなかった。気軽に触れられる関係になったのを嬉しく思いながら、アルスはその手をそっと取り、彼女がしてくれたように、優しく優しく揉んであげようとした。