後
次に目を開けた時、辺りは暗闇だった。アルスは自分が死んだのかと思い、身を起こしたが、近くにガボがうずくまっているのを見て、力を抜いて枕に沈んだ。ガボも着替えたようで、いつもの服と青いマントを羽織っている。しかし、何をしているのだか、こちらに背を向け、石と石を打ち合わせてかちかちと音を立てていた。
「ガボ……」
アルスは声を出したつもりだが、掠れたような変な音が出た。耳の良いガボは、アルスが身じろいだ音を聞き付け、すばやく振り向いた。
「おっ、アルス。起きたのか」
ガボは石を持ったまま、アルスの布団に乗って来た。尻で足を踏まれたが、それくらいは慣れっこである。彼は心配そうな顔で、アルスのことをじっと見詰めた。
「大丈夫か? ずーっと寝てて、ピクリともしなかったぞ」
「……マリベルは?」
アルスは相手の質問に答えず、とりあえず頭に浮かんだことを口にした。
「マリベルなら、むこうでなんか作ってるよ。なんだろうな?」
と、ガボは壁を指差した。興味津々な素振りからして、食べものを作っているらしい。しかし、彼はアルスを心配して、枕元を離れずにいてくれたのだった。アルスは感謝を覚えた。基本的に寝たら治る体質なので、貧血はすっかり良くなっている。少し気分が悪いのは、あまりにも空腹で目が回りそうなせいだった。
「ん、マリベルが来るぞ」
ふと、ガボが戸口の方を向いた。アルスも耳を澄ませると、微かな足音が聞こえた。しとしとと木の床を叩く音は、すぐそばで止まり、静かに扉が開かれた。
「あ、起きたのね。ぐあいはどう?」
片手にトレイを持ったマリベルは、アルスと目が合うと、少し表情を綻ばせた。
「もう大丈夫。心配かけてごめん」
何だか酷く情けないところを見せたようで、アルスは照れくさくて頭を掻いた。
「ならいいけど」
と、マリベルは嬉しそうな様子を見せた。アルスやガボが怪我を負うことについて、始め彼女は引け目を感じていたようだが、最近は割り切っている。怪我をしたら心配して、治して、良くなったらお終いだった。そうしてマリベルは機嫌良く近付いて来たが、暗い室内に気付くと、怪訝な顔をした。
「ガボ? あかりはどうしたのよ」
「がんばってるんだけどさ、つかねえんだよ」
そう言って、ガボは両手の石を見せた。その辺の石ころで火を点けるつもりだったらしい。マリベルは呆れて、トレイを持ったまま肩を竦めた。
「バカねえ。宿のおじさんから火をもらってくるのよ」
「なんだ、早く言えよな」
と、ガボは口を尖らせた。燭台はアルスのすぐ隣、小さな机の上にある。ガボは持っていた石を捨て、燭台を引っ掴み、宿の主人に火を貰いに行った。マリベルは机の上にトレイを置き、陶製の器とスプーンを取った。薄暗いせいで、アルスにはスープか何かのように見えた。
「すりリンゴ。食べられそう?」
と、マリベルはりんごを掬って見せた。うるうると果汁を湛えるそれが、空腹のアルスには魅力的に見えた。
「いらないなら、ガボにあげちゃうけど」
アルスの視線に気付くと、マリベルは悪戯心を出し、器をトレイに戻そうとした。アルスは慌てて引き止める。
「お腹ぺこぺこだよ」
「そっ」
マリベルはにっこり笑って、ベッドの端に座り、アルスにスプーンを近付けた。果汁を溢さぬよう、アルスは身を乗り出して口に入れた。ほんのりと塩辛い味がして、りんごの甘みを引き立てる。しっかり者のマリベルは、擦ったりんごの色が悪くならないよう、少しだけ塩を加えてくれたのだった。雪のようなもので、口の中で忽ち溶けて無くなってしまい、アルスは二口目をねだった。マリベルは安心して、またアルスにりんごを食べさせてくれた。
「リンゴなんて、どこにあったの?」
ふと、アルスは気になって尋ねた。りんごはアルスの食べ慣れた、懐かしい味がする。霧が薄い日中の内に、宿の主人が仕入れて来たのだろうかと思った。
「アルスが寝てるあいだに、フィッシュベルにもどったのよ。着がえをとってきてあげたわ」
マリベルはにこにこしながら、何でもないように答えたが、彼女の返答は意外なもので、アルスは暫し目を見張った。
「……まさか、二人で行ってきたの?」
アルスにしては珍しく、声を低くした。マリベルもそれに気付いて、言い分けるように口早に付け足す。
「せいすいをまいて、走っていったから大丈夫よ。まだ明るいうちだったし……」
「こんなに霧が出ていて、大丈夫なはずないだろう」
今日の天気は特に酷かった。霧が大陸中に蒼然と垂れ込み、殆ど視界が効かないような状況である。疲れ切った二人が石版まで行き、またこの宿屋まで戻って来るだけでも、大きな危険を伴う筈だった。どちらにも戻り付けない可能性さえあったのだ。
「そうだね……ごめん」
マリベルは反駁せず、悄然として俯いた。いつもアルスは、下らないことで彼女を困らせたり、怒らせたりするが、叱って言い伏せるのは、恐らく今日が初めての筈だった。元病人だと思ってか、マリベルが言い返さないのが一層奇妙な状況である。アルスは残酷なことをした気になって、頭を掻いた。
「……いや、無事だったならいいんだ。ガボもついてたんだし」
「火ぃもらってきたぞー!」
アルスの言葉におっ被さるように、ガボが元気良く部屋に入って来た。
「ちょっと、ふりまわさないでよ」
マリベルは気を取り直し、迷惑そうに蝋燭をよけた。ガボは威勢良く燭台を机に据え、マリベルの隣に並んで座った。アルスはまた足を踏まれた。三つの蝋燭は部屋を橙色に暖め、アルスの心を落ち着かせた。
「おっ、さっきのリンゴか? うまそうだな」
ガボは器に顔を近付け、匂いを嗅ごうとしたが、マリベルがすりりんごを遠くへやってしまった。
「ダーメ、アルスのなんだから。ほらアルス、あーんして」
と、マリベルはまた一口食べさせてくれた。アルスの口が食べるのに合わせて、ガボも口を開いて閉じる真似をしており、アルスは思わず失笑してしまった。笑っているアルスに気が付くと、マリベルは視線を追って身を捩り、今にもよだれを垂らしそうなガボを見た。
「なに? あんたもやりたいの?」
「うん」
ガボは期待の眼差しで、何度も頷いた。
「じゃあ、はい」
と、マリベルは彼に器とスプーンを渡し、自分の手を膝に置いた。ガボはすっかり当てが外れて、すりりんごとマリベルの顔を見比べた。
「……あり? 食べさせてくれるんじゃねえの?」
「あんたがアルスに食べさせるんでしょ」
マリベルは当然のように言い返した。ガボは納得行かない風だったが、そう言うことならばと、アルスに覆い被さるようにしてのし掛かって来た。
「よし、アルス。あーんしろ、あーん」
アルスが口を開けると、すぐにスプーンが入れられた。マリベルは優しく、舌の上にりんごを落とすように動かしてくれるが、ガボは喉の奥まで届けようとしてくれる。アルスは体をややのけ反らせつつ、相手の厚意を受け取った。アルスがりんごを飲み込んでいる間、ガボは我慢ならないと言った風に、眉間に皺を寄せて身悶えしていた。
「う〜、うまそう……なあマリベル、オラにもやってくれよう」
「自分で食べれば? 別にいいわよ、ひとくちくらい」
対するマリベルは素っ気無い。ガボは布団越しにアルスを踏ん付けながら、移動して彼女の隣に戻った。
「自分で食べるんじゃ、おいしくねえんだよ。な?」
と、同意を求めて来たから、アルスはとりあえず頷いた。マリベルは反対側を向いているから、表情は見えなかったが、どうやら呆れたらしい。肩が少し持ち上がって、溜息をついた。
「まったく、おこちゃまねえ……いいわ、かしなさい」
「やったっ!」
ガボははち切れんばかりの笑みを浮かべた。そうと決まれば、いても立ってもいられず、ガボはマリベルに器を渡すなり、前のめりになって布団に手を突いた。動物が獲物を狙うような恰好だった。彼が瞬きもせず見守る中、マリベルはちょっと容体振った風で、すりりんごを掬い、雫を溢さぬよう持ち上げた。
「はい、あーん」
「あーん!」
ガボは大きく口を開け、すりりんごを食べさせて貰った。ほんの少しの量だから、あっと言う間に飲み込んでしまったが、余韻を楽しむように口をもごもご動かした。
「うめえなあ……」
と、いかにも幸せそうに、にやにやと頬を緩ませた。其処まで喜んで貰えるならば、マリベルとしても悪い気はせず、含羞みながらりんごを掬った。
「今度はアルス。はい、あーん」
また、アルスもりんごを食べさせて貰った。エスタード島のりんごの味は懐かしく、優しい甘みがいつもより美味しく感じられた。そうして、アルスとガボの二人とも、すっかりマリベルに餌付けされてしまい、次の一口を大人しく待っていた。ところが、マリベルはアルスに器を預け、ベッドから立ち上がった。
「それだけ食欲があるんなら、ゆうごはんも食べられそうね。待ってて、もらってくるから」
「えっ」
アルスが思わず声を出すと、行き掛けたマリベルが立ち止まり、不思議そうにこちらを見た。
「なに?」
「いや……」
アルスは口籠った。まじくじするマリベルを前に、何とも言えずにいると、代わりにガボが口を開いた。
「もう終わりか? オイラ、ちょっとしか食ってねえのに」
「ちょっとしかないのよ」
ガボの言葉を一蹴し、マリベルはまたアルスを見た。アルスは気まずかったから、目を逸らして燭台を見ていた。マリベルはすぐに理由を察した。
「……もしかして、食べさせてもらえると思ってたの?」
図星だった。マリベルが自然と食べさせてくれるから、終いまでそうしてくれると思ったのだった。アルスは照れくさくなって、そっと彼女を盗み見た。マリベルはあからさまに軽蔑して、アルスを白い目で見下ろした。
「あきれた。おこちゃまを通りこして、赤ちゃんね、赤ちゃん」
と、大袈裟に溜息を付き、再びベッドに腰を下ろした。アルスが何とも言わない内に、さっさと器を奪い取り、りんごを掬って、アルスの鼻先に突き出した。
「はい、赤ちゃんのアルス。あーんして」
アルスは少し躊躇したものの、断ると相手の機嫌を損ねそうだったから、素直にスプーンを口に入れた。滑らかで噛む必要が無くて、確かに赤ん坊の食べるような食べ物だった。マリベルは続いて、反対側に座っているガボの方を向いた。こう言う時、ガボは素直に甘えられる性格である。
「あーん!」
言われなくとも口を開け、マリベルにりんごを食べさせて貰った。次の一口は、アルスも抵抗が無くなってしまい、素直にスプーンを口に入れた。そうしてまたガボの順番が終わると、マリベルは器とスプーンをトレイに置いて、片付けを始めた。
「マリベル〜、イジワルだぞ」
わざと終わりにしたと思って、ガボは恨みがましく非難した。マリベルはむっとして、ガボに器を傾けて見せた。空っぽなのだ。しかし、ガボの機嫌は直らない。口を尖らせて、マリベルを責めるように見上げた。
「マリベルぅ……」
「しょうがないでしょ。半分しかすってこなかったんだもの」
「もっと作ってくれよ〜。オイラ、こんなんじゃぜんぜん足りねえよ」
ガボの食に対する旺盛さは、いっそ微笑ましいものがある。マリベルもちょっと面白がっているらしく、態度はえらそうだが、目元が笑っていた。
「さ、ゆうごはんの時間だわ。あたし、持ってきてあげる」
マリベルは話を切り上げ、すりりんごのトレイを持ち上げた。
「僕も行くよ」
と、アルスは布団を剥いだ。
「アルスは寝てなさい。まだ顔色悪いわよ」
アルスはベッドを降りようとしたが、マリベルにそう言われて、大人しく布団の中に収まった。ガボはどうするか迷って、アルスを見ていることにしたらしい。マリベルは一人で部屋を出て、夕食を取りに行った。
暫くすると、マリベルがトレイを持って戻って来た。シチューの良い匂いがする。夕飯はかぶとベーコンのシチューに、黒パンだった。
「ひゃー、うまそ〜!」
ガボは飛び付かんばかりに喜んだが、全員に器が行き渡るまできちんと待っていた。アルスもベッドから出て、椅子が無いから床で車座になる。しかして食前の祈りを捧げ、遅い夕飯が始まった。ガボとマリベルは、アルスに気を遣って、今まで食べるのを待っていてくれたのだった。シチューは具材が少ない代わり、クリームをたっぷり加えて煮込まれており、甘くて濃厚な味わいだった。三人とも空腹だったから、一杯目は黙々と完食し、二杯目から落ち着いて雑談を交わした。
「なあアルス、オイラにあーんしてくれよ」
と、ガボがさっきのことを思い出して言った。アルスは丁度シチューを口に入れていたので、返事をするのが少し遅れた。
「いいよ」
アルスは自分のシチューを掬い、少し冷まして、ガボの鼻先に近付けた。ガボは大きく口を開け、シチューを取って行った。もくもくと咀嚼しながら、難しい顔をする。
「う〜ん……マリベルのほうがうまいな」
「そう?」
真面目な顔で批評され、アルスは苦笑した。やはりと言うべきか、男の自分が食べさせるより、マリベルの方がずっと良いのだろう。マリベルはお嬢様なのに、何故だか人の世話を焼くのが上手いのだった。
「誰がやったって同じでしょ」
当人は冷淡だった。マリベルはシチューを食べるのをやめ、黒パンをナイフで薄く切り分け始めた。普段の彼女は、高級な白いパンを食べ付けているから、却ってこのような硬いパンが美味しく感じるらしい。アルスとガボは何でも良いので、マリベルからパンを受け取り、もちもちと頬張った。身が詰まっていて、噛んでいると甘みが出て来て美味しい。少量でも腹持ちするから、旅人に好まれる種類のパンだった。一頻り味を楽しむと、アルスはパンをシチューに浸して食べ始めた。アルスが始めると、ガボも真似をしてパンにシチューを浸ける。二人がそうしていると、マリベルもつられて同じ食べ方をするのだった。
「なあなあマリベル。リンゴはまだ残ってるんだろ? さっきのやつ、また作ってくれよ」
すりりんごの味が忘れられないようで、ガボはパンを食べながら、マリベルに擦り寄った。
「自分でやってよ。すりおろすの、けっこうたいへんなんだから」
そう言って、マリベルはつんとそっぽを向いた。座ったまま移動し、ガボから距離を取る。懲りないガボは、じりじりと動き、またしてもマリベルにくっ付いた。三人で並ぶ形になった。
「じゃあさ、オイラが作ったら、あーんしてくれるか?」
「そうね……」
マリベルはちょっと考えて、何と無くアルスの方に目をやり、またガボに視線を戻した。ガボはパンの食べ差しを持ったまま、期待の籠った目で彼女を見詰めていた。マリベルは暫し彼を見返していたが、やがて根負けした。
「……ほんとに、自分で作ってくれるんならね」
「やったっ!」
一応の了承を得、ガボが拳を突き上げた。嬉しさのあまり、遠吠えの真似をしようとしたが、家の中で吠えてはいけないと言われているのを思い出し、手で口を塞いだ。そうと決まれば、ガボは忽ちそわそわし始めた。パンを丸ごと口に放り込み、掻き込むようにシチューを平らげ、自分でお代わりを貰って来ると、それも大急ぎで完食した。自分の食事が終わると、マリベルが食べ終わるのを今か今かと待ち侘びて、彼女のことをじっと見詰めた。マリベルは始め素知らぬ風をして、上品にシチューを食べていたが、次第に気にするようになって来て、終いにはガボに背中を向けてしまった。
「……そんなに見ないでよ。食べにくいじゃない」
「マリベルってスズメみたいだな。チビチビ食べてて、ぜんぜん減らないぞ」
と、ガボが感心して言った。マリベルの観察が意外と面白かったらしい。ガボは急かすのをやめ、彼女の口元に注目した。アルスも不思議だった。マリベルは食事を人並みの量食べ、ごちそうさまをするのはアルスと殆ど同時である。あんなに優雅な所作で、あんなにちょっとずつしか口に運ばないのに、いつの間にか器は空になっているのだった。
「レディはがつがつ食べないのよ」
マリベルは顎を聳やかして、一層ゆっくりと食べ始めた。スプーンでシチューの具を一つだけ掬い、雫を溢さぬよう持ち上げて、口を窄めて冷まし、漸く口に入れる。アルスは彼女の真似をして、かぶの欠片を一つだけ拾って口に運んだが、少な過ぎて味が良く分からなかった。ガボは手持ち無沙汰なのか、黒パンの塊を取ってかじっていた。アルスは今まで、ガボが満腹だと言ったところを見たことが無い。いつか立ち会ったグリンフレークの宴では、腹一杯食べる寸前まで行ったようだが、生憎の悪天候で流れてしまったらしい。その底無しの胃袋も不思議なものだった。
「ちょっと、あたしの分がなくなっちゃったじゃない」
パンを食べるガボを、マリベルが見咎めた。黒パンは硬いから、薄切りにして少しずつ食べるのだが、ガボは丸ごと鷲掴みにして食べていた。
「あ、わりいわりい。ほら」
と、ガボは食べ差しのパンを差し出した。マリベルはむくれながら受け取って、ガボが手を付けていない側を切って自分のパンとした。マリベルのパンの食べ方は、小鳥そのものである。小さく千切っては口に運び、鳥がつついたような跡を付ける。ほんの少量しか口に入れないが、パンを千切る手が忙しなく上下して、いつの間にか食べ切ってしまうのだった。
「ごちそうさま」
ちびちびと食べていたマリベルは、またアルスと同時に食事を終えた。ガボはまだ食べていたが、二人が完食したのを見て、残りのパンを丸ごと口に放り込んだ。噛むのもそこそこ、ごくりと飲み込んで、弾みを付けて立ち上がる。
「マリベル、リンゴだぞ、リンゴ! 忘れてないよな?」
「お片づけが先」
マリベルがぴしゃりと言った。ガボは気勢を削がれたようだが、すぐに気を取り直し、自分の食器をトレイに戻し、服に付いたパンくずを払い落した。此処できちんと働けば、マリベルの心証が良くなると知っているのだ。アルスも食器を戻し、トレイを運ぼうとしたが、二人に止められた。
「アルスは座ってなさい」
「オイラが持ってくよ」
ガボが横から手を出して、トレイを自分の方へ引き寄せた。
「ああ、ありがとう……」
と、アルスが言っている間に、二人はトレイを持って出て行った。アルスは一人になった。暫くはぼんやりと扉を見ていたが、ふと思い立って、汚れた装備の手入れをすることにした。
りんごは結局マリベルが擦ったらしい。約束は反故になったものの、ガボはマリベル手ずからりんごを食べさせて貰い、ついでにアルスも相伴に与った。アルスは何と無く知っていたが、ガボは食事を分け合って食べるのが好きだった。狼は集団で獲物を狩り、群れの中で共有して食べる。ガボは幼い頃に人間へと変えられたため、それほど獣の習性が残っているわけでは無いのだが、ふとした時に狼だった頃の記憶が戻るのかも知れなかった。
食事が終わると入浴である。風呂が無いから、小さな桶にお湯を溜め、濡らした布で体を拭く。まずマリベルが綺麗なお湯を使い、アルスとガボは部屋の外で待っていた。ガボは新しい靴を使っているのだが、履き心地に違和感があるらしく、頻りに足を気にしていた。
「このクツ、きついなあ……」
と、ついには脱いでしまった。マリベルと一緒に買ったものだから、足にぴったり合う靴を選んだ筈なのだが、おろしたては今一つ身に馴染まないらしい。アルスは片方の靴を拾い、揉んで柔らかくしてみることにした。
「ん?」
早速ガボが興味を示した。アルスはそちらに体を向け、何をしているのか見えるようにした。
「こうすると、革がやわらかくなるんだよ」
「へー……オイラもやってみよ」
と、ガボはもう一方の靴を拾い、汚れを落とす時のように擦り始めた。二人は扉の前でしゃがみ込み、ブーツを揉んだり擦ったりして、柔らかくなるよういじくった。手と摩擦の熱で温まると、革が少し伸びるので、一頻り柔らかくした後、ガボに靴を履いて貰った。
「おお! ゆるくなった!」
ガボは感心して、踵で床を何度か叩いた。それほど劇的に変化するわけでは無い筈なのだが、気分の問題もあるのだろう。アルスの靴も、最近窮屈になって来たのだが、これは足が大きくなったせいだった。服の袖も手首が出るようになったし、今度母さんに服を作って貰う時は、一回り大きくしてくれるよう頼もうと思った。
「おまたせ」
そうして暫く待っていると、マリベルが出て来た。髪の毛も洗ってしまったようで、布で濡れた頭を拭いていた。彼女が部屋の外で暇を潰し、待っていてくれる間に、アルスとガボは行水を済ませる。ガボは風呂嫌い、と言うより関心が無いようで、自分から進んで入浴しようとは考えない。マリベルが洗ってくれる時だけは、彼も喜んで風呂に入るのだが、マリベルは淑女を自称するから、ガボの裸など見たくも無いと嫌がる。よって、ガボの風呂はアルスが監督することになっていた。
「オイラ、そんなににおうかな……?」
ガボは腕を鼻にくっ付けて、自分の匂いを確かめた。次いで衣服の匂いも確かめたが、無臭らしい。
「きれいに洗ってるから、大丈夫だよ」
アルスが言った。努力の甲斐あって、ガボは毎日風呂に入り、入浴出来ない日は体をお湯で拭くようになった。故、最近の彼は人並み以上に清潔である。それはマリベルも褒めていた。しかし、本人は納得しかねる様子だった。
「なんのニオイもしないのに、どうしてフロに入らなきゃいけないんだ?」
と、首を傾げた。
「きれいにしてれば、マリベルにほめてもらえるからだよ」
袖を捲って、湯の温度を確かめながら、アルスが答えた。アルスも風呂が好きだと言うほどでは無い。しかし、毎日体を綺麗にするのが習慣付けられているし、風呂に入らないとマリベルに軽蔑されてしまうから、なるべく清潔を心掛けていた。まだ体に血が付いているし、早くさっぱりしてしまおうと、布を湯に浸した。さっき血塗れの体を拭いたものだから、ところどころ赤い染みが残っているが、体を拭く分には問題無い。ふと見ると、布に赤い糸のようなものが付いていた。マリベルの髪だった。綺麗に掬って取り除いた筈が、一本だけ逃したらしい。アルスは実を言うと、ふわふわの赤毛がかなり好きである。今度も赤い毛が気になって、何と無く拾い上げては、人差し指に巻き付けてみた。癖のある巻き毛は、すんなりと指に絡まった。
「アルス、何やってるんだ?」
手悪戯をしているアルスを見て、ガボが不思議そうに言った。アルスは照れながら髪の毛を捨てた。
日が暮れると寝る時間である。遅くまで起きていると、灯りとなる蝋燭や薪が浪費されるから、殆どの人々は太陽と共に寝起きする。それはアルス達も同様で、日が暮れる前に宿屋に入るか、さもなくば、早々に火を焚いて野営の支度をする。夜は魔物が活発になり、奇襲を食らう危険性が増すのだ。今夜は安全な宿屋にいるから、三人とも安心して眠りに就ける。腹は満たされ、体は清潔で、こうしたささやかな幸福が明日の活力となるのだった。
ベッドが二つある。こうした場合、マリベルが片方を使い、アルスとガボがもう片方に寝る。此処のベッドは中身に藁が詰めてあり、乗るとかさかさと音がした。寝る前に、アルスは湿した布を使って、自分が付けた血の染みを抜いた。真っ白なシーツに赤黒い染みは良く目立ち、幾ら叩いても完全には落ちきらない。宿屋の主人に謝って、少々チップを弾む必要がありそうだった。ガボが早く寛ぎたがっている様子だから、アルスは程々で終わりにし、場所を譲った。
「ガボ、ごめん。よごれてるけどいい?」
「いいよ。早く寝ようぜ」
ガボは一向意に介さず、喜んでベッドに飛び乗った。青いマントを脱ぎ散らかして、ベッドの下に落ちたのを、アルスが拾って畳んで置いた。アルスは既に上着を脱いでいたから、大した準備も無く、ベッドの上に横になった。マリベルもすっかり寛いだ格好になり、明日着る服やタイツを畳んで布団の上に乗せていた。済むと、身を乗り出して燭台に顔を寄せる。
「もういい? 消すわよ」
「うん」
アルスとガボが返事をすると、マリベルは蝋燭を吹き消した。真っ暗になる。暫くすると目が慣れて、辺りの様子がぼんやりと見えるようになった。実のところ、アルスは全く眠くない。夕方ぐっすり寝付いたお陰で、昼間のように目が冴えていた。しかし、今更起きて出て行くのも嫌だし、もぞもぞ動くとガボに迷惑だろうから、手足を真っ直ぐ伸ばしたままじっとしていた。ガボはすぐに寝付いたようで、いつものように手足をいっぱいに広げ、寝返りを打ち始めた。寝相が悪いのである。布団を蹴ってはだけてしまい、転がってアルスの上に乗って来た。アルスは慣れたものである。最初の頃は、巨大なスライムに押し潰される夢を見たり、魘されて途中で起きてしまったものだが、最近はガボがのし掛かって来ても平気で寝ていられる。腹にガボの頭を乗せたまま、何も無い暗闇の天井を見詰めていた。暫くすると、ガボは布団を蹴って回転し、アルスの顔に足を向けた。ひょっとしてと思っていると、案の定、ガボはアルスの顎を蹴り付けて来た。
「うう〜……」
暗闇にガボの唸り声が響いた。魘されているらしい。一生懸命蹴って、アルスの頭を遠くにやろうとしていたから、アルスは動いて頭の位置を変えた。すると、ガボは忽ち大人しくなって、再びすやすやと眠り始めた。もしかしたら、昼間の串刺しを夢に見ていたのかも知れない。ガボは死んだことがある。砂漠のセトと言う魔物に、両足を切断された挙句心臓を突かれて殺された。すぐに死んでしまったから、与えられた苦痛を全く覚えていなかったらしい。生きて傷に苦しむより、死んだ方が楽なのだろうか。アルスは死んだことがないから分からない。試しに死んでみたらどうだろうかと、由も無いことを考えた。
「ねむれないでしょ」
いきなり声を掛けられ、アルスはびっくりして身を竦めた。隣のベッドを見ると、マリベルが起きてこちらを向いていた。考えごとが口に出てはいまいかと、アルスはどぎまぎした。
「お昼間ぐっすり寝てたから、ねつけないだろうと思ったのよ」
マリベルは小さな声で、つまらなそうに言った。
「ねむれないなら、少しおしゃべりしてあげる。あたしがねむくなるまでだけど」
と、其処で言葉を切り、彼女はアルスの返答を待った。アルスはすっかり虚を衝かれ、物も言えずにぽかんとしていた。そのまま無言でいると、マリベルは些か機嫌を損ねてしまった。
「ねえ、目あけたまま寝てるの?」
「いや……起きてるとは思わなくて」
アルスは慌てて、とりもあえずそれだけ言った。漸く反応が返って来て、マリベルは満足したらしい。
「じゃあ、なにか話をしてよ」
と、相変わらずつまらなそうだが、幾分柔らかい口調で言った。アルスは何を話そうか考えた。夕飯の話でもしようか、それとも靴の話をしようか、あれこれ勘案したが、どれも相応しくないような気がする。結局、最前考えていたことを正直に伝えることにした。
「僕、死んだことないんだ」
ぼんやりのアルスも、死にたいなどと考えたことは言わなかった。口にすれば、マリベルが火のように怒るのは目に見えている。
「ないほうがいいわよ」
マリベルは冷たく言った。感情を抑えたような声だった。
「……死んだ時って、いろんなものを見るのよ。いいものも、見たくないものも」
と、彼女はか細い声で付け足した。アルスが死にそうな時、現世に引き留めてくれるのはマリベルだった。もう駄目だと思っても、死んだ方がましだと思っても、マリベルは無理矢理治してアルスを復活させる。何故其処までして傷を癒そうとするのか、アルスには少々不思議だったのだが、漸くその理由が分かった。マリベルは見たことがあるのだ。怖い思いをさせたのだろうと、アルスは申し訳無く思った。
「……オイラ、死んだことあるけど、母ちゃんに会ったことねえや。いちばん会いたいんだけどな……」
不意にガボが口を開いた。アルスはまた驚いて、ガボの足に向かって話し掛けた。
「ごめん、起こした?」
ガボはもそもそと動き出し、アルスの体から下りて、布団の上に座り込んだ。
「ヘンな夢みた……」
頭を掻き乱しながら、不機嫌な声を出した。やはり悪夢を見ていたらしい。マリベルも体を起こし、壁際に寄り掛かった。
「ほんとに会いたい人には、ぜったい会わせてくれないのよ。あたしだって、おじいちゃんに会ったことないもの」
「そうなのか? 神さまってケチンボだな」
と、揃って口を尖らせた。二人が起き出したから、アルスも起きてベッドの上に座った。死の淵で求める人に会ってしまったら、そのまま憂き世に帰って来なくなるだろう。死ぬより生きる方がずっと良い。それは神さまの思い遣りなのだろうと、アルスは考えた。
「アルス。死ぬことって、すごくつまらないことなのよ。だから、ためしに死んでみたいなんて思わないことね」
マリベルは咎めるように言って、アルスに釘を刺した。見事に内証を言い当てられ、アルスは頭を掻いた。彼女には見抜かれていたようだ。マリベルは優しい。自分が嫌な思いをしたから、アルスに同じ思いをさせまいと気遣ってくれる。マリベルが命を落とす羽目になるのは、偏にアルスが弱いせいだと言うのに、彼女は決してアルスを責めなかった。
「ガボも、一回見たならわかるでしょ? もうぜったい、死んじゃダメだからね」
と、マリベルは今度ガボに釘を刺した。
「オイラだって、死にたくて死んだわけじゃないぞ」
ガボはまだ機嫌が悪いらしく、そう言って反発した。布団の上で胡坐を掻き、左右にゆらゆらと体を揺らす。
「なあアルス。どうやったら、もっと強くなれるんだ? まものを百ぴき倒せばいいのか?」
「そうだね……」
難しい顔で真剣なことを言うガボに、アルスは苦笑した。途方も無い数字だが、強ち間違ってはいないのかも知れない。三人は今まで、周囲の状況に流されるまま旅を進めて来た。石版から石版を間断無く渡り歩き、血の足跡を付けながら、何度と無く強敵に出会っては死に掛けた。これまではどうにか苦境を乗り越えて来たが、いずれ取り返しの付かないことになりかねない。そろそろ一旦立ち止まり、自分自身を鍛え直すべきなのだろう。この冒険は、失われた世界を復活させると言う重要な使命を帯びてはいるものの、アルスとしては、自分達を犠牲にしてまでも果たすべき役目では無いと思っている。ガボにもマリベルにも、勿論自分にも、帰るべき家と家族があるのだ。生き急いで連日連夜死線を潜り抜けるより、時間が掛かっても経験を積んで、余裕のある戦いをしたいものだった。
「百ぴき倒すのはいいけど……やるんだったら、二人でやってよね」
マリベルは欠伸を手で隠しながら、間延びした声を出した。
「あたし、ねむくなっちゃった……おやすみ」
と、緩慢な所作でベッドに潜り、布団を口元まで引き上げた。彼女はすっかり寝るつもりだが、アルスは未だに眠くなかった。昼間十分に体を休めたのだし、無理にベッドに横になっている必要も無いだろう。そう思ったアルスは、少し体を動かしてから寝ることにした。
「僕、ちょっと外に出てくるよ」
と、ベッドから足を出し、身を屈めて靴を探した。
「あれっ、ほんとに百ぴき倒すのか?」
ガボが驚いて目を丸くした。マリベルも横になったままこちらを向き、アルスの顔を見た。アルスは緑の上着を着ながら、ちょっと笑って首を振った。
「ねむれないから、素振りでもしようと思って」
「なーんだ……じゃあ、オイラもいっしょに特訓するよ」
ガボは心持ち拍子抜けしたようだが、すぐに気を取り直し、ベッドから下りて靴を探し始めた。アルスはすぐに見付けたので、靴を履いて立ち上がり、ガボを待った。ベッドの下からブーツを引っ張り出し、片足ずつ履いていると、ガボは思い出したように顔を上げた。
「マリベルは? いっしょに来るか?」
「い・や! あたしはねむいの」
マリベルははっきり拒絶した。そう返されると分かっていたようで、ガボはまた靴を履くのに戻り、身を屈めながら言った。
「マリベルも、もっと体きたえとけよ。すぐやられちまうぞ」
「あたしはいいの。だって、アルスが守ってくれるもの」
と、マリベルは布団の中でえらそうにした。
「でしょ、アルス?」
そう言ってにっこり笑い掛けられたので、アルスは頷いた。気弱でひょろひょろしたアルスだが、昔からマリベルを守るのは自分の役目だった。蛇に噛まれた時も、くらげに刺された時も、野犬に囲まれた時も、いつも直接被害を食うのはアルスで、アルスが痛がったり追われたりしている間に、マリベルは助けを呼びに行ってくれた。彼女さえ無事であれば、後は何とかなると言うのが、アルスの昔からの経験則だった。そのためには、自分がもっと強くなって、少しでも時間を稼いでやらねばならない。アルスは鋼の剣を拾い、顧みてガボに声を掛けた。
「ガボ、行こう」
「おう!」
ガボは急いでマントを被り、武器を拾って、出る支度を整えた。
「じゃあ、行ってくる」
と、アルスはマリベルに声を掛けた。
「霧が出てるから、気をつけなさいよ」
マリベルは一旦身を起こし、二人が出て行くのを目送した。他にも宿泊客が寝ているから、アルスとガボは忍び足で廊下を歩き、宿から出た。外は一面霧だったが、水の粒子に月の光が反射して、うすぼんやりと明るくなっていた。明日も天気が悪そうだ。