つげのおぐしにささめごと
珍しいことに、其処の宿屋には鏡台があった。ちゃちなもので、エレンはさして気にも留めず、昨晩泊まった時から殆ど見もしないでいた。翌朝も同じく構わずにいて、いつものように髪を縛ろうとしていたが、喜んだのはモニカである。鏡の前に立ち、手早く自らを整えたかと思えば、差し招いてエレンを呼ぶのだった。結んで差し上げますと言う。一往は断ったものの、モニカが期待に満ちた目で見詰めてくるもので、ついに断り切れなくなってしまい、エレンは大人しく鏡台の前に座った。
鏡は他の調度と同じく、擦れや欠けこそあれ、丁寧に磨かれて糸屑一つ付いていない。顔の作りも髪の形も整っているお陰で、モニカはそっくりそのままの姿が映る。こうして二人で映ると、まるで鏡の中に入り込んでしまったかのようだった。引き入れた当人は御満悦である。絹の布にでも触れるように、恭しくエレンの髪を掬い上げた。
「嬉しそうね」
「ええ。初めてお会いした時から、ずっと憧れていたのです。姉妹お二人ともきれいな黒髪で」
エレンもサラも、黒よりずっと明るい髪の色をしている。光に晒すと特に黄味掛かって見えるのだが、件の日は嵐の暗い夜だった。その当時の印象が、彼女には強く残っていたらしい。モニカは続ける。
「昔読んだ本の中に、森で暮らす美しい姉妹のお話があったのです。それはきっとお二人のことなのだと思いましたわ」
「何よ、それ」
エレンは思わず笑い出した。無邪気に喜ぶモニカの方も、噂に違わぬ美しい兄妹なのだった。
櫛はさらさらと滑らかに通った。肌に触れるか触れないかの手加減で梳るために、こそばゆくて妙な気持ちがする。落ち着かないでいるのを、モニカは違う風に取ったらしく、暫し手を休めた。
「痛くはございませんか?」
「ううん、何だか変な感じがするだけ。人に髪触られるって久し振りなのよ」
「いつもご自分で梳いていらっしゃるの?」
「ええ。昔はよく、サラと縛りっこしてたんだけどね」
柔らかなサラと真っ直ぐなエレン、姉妹は性格も反対なら髪の癖も正反対だった。自分の持たないものが面白くて、幼い頃は良くお互いにいじっていたものだったが、いつの間にか滅多にしなくなっていた。それと言うのもエレンがさほど拘らない性質だからで、長ずるにつれ手早く身繕いを済ませることが多くなったのだ。見苦しくない程度に整えれば構わない、そちらに時間を割くより、早く外に出掛けて行きたい、が彼女の弁である。別にお洒落が嫌いなわけでは無くて、しばしばサラと町に出掛けては、一緒に装身具を選んだものだった。鏡台に置いたこの髪留めも、きっと今サラが付けているであろうリボンも、そうして互いに贈り合った内の一つだった。
綿菓子のような妹を思い出した時、浮かんだのは最後に見た膨れ面だった。懐かしい気持ちがたちまち萎んでしまい、エレンは溜息をつく。
「あの子、今頃どうしてるんだろう。喧嘩別れみたいになって、怒ってるかな」
「サラ様もきっと、同じことを考えておいでですわ」
「そうかな」
鏡のモニカが頷いた。
「私達は未熟ですから、ついお兄様お姉様のお言葉に逆らってしまう時があるのです。わがままをお許し下さい」
と、彼女は誰かに詫びるように言った。
「私達は心配なだけなのよ。あれこれ口を出しちゃうけど、本当は応援してるつもり」
「そうでしょうか」
「そうよ」
モニカは櫛を持ち替えて、耳元の髪を梳き始めた。俯いたために表情は見えない。本当は侯爵も、ツヴァイクになどやりたくなかったのだ。もしも其処にカタリナが居合わせたならば、侍従として付き添い、独りきりにはさせなかったろう。しかし、ちょっとした時の悪戯と、不如意なる上流の宿命が、彼らを掣肘したのだった。エレンとしては、押し付けられた結婚など突っぱねるのが当然だと思うのだが、貴族に生まれついてはそうも行かない。ことに依ると、モニカは侯爵家から挨拶切られ、これからは一人、何処か離れた土地で暮らしていくのかも知れなかった。
「モニカ様、これからどこに行くの?」
「これからのことは、まだ決まっていないのですけど……。とりあえず、世界を旅して、人のお役に立つことができれば、と思っていますわ」
「そう。……いいね、そう言うのって」
「ええ」
声は存外明るかった。
「旅することは素敵ですね。自分の見識の狭さを知り、美しい世界を見ることが出来ます」
「そうね、思ったより楽しいかも。みんなと一緒だからかな」
「ずっと、こうしていられたらと思います」
「これからどうなるか分からないけど、良かったらシノンにおいでよ。サラも喜ぶわ」
「ありがとう」
モニカは顔を上げ、穏やかに笑ってみせた。
皆が旅から帰って来、モニカも加わったシノンを思い浮かべたら、以前に増して賑やかになりそうだった。彼女は乗馬が得意だと聞いたから、一緒に遠乗りに出たらきっと楽しいだろう。サラと三人で、たまには女の子らしい遊びをするのも良いかも知れない。時折肌に触れる、たおやかで優しい指先が、シノンにいる母親を思い起こさせるのも与って、エレンは故郷を懐かしんだ。
後ろ髪を持ち上げられて、首筋が涼しくなった。モニカは丁寧に、後れ毛の一つ一つを掬って纏めて行く。エレンの毛は癖が無いせいで、却ってさらさらと解れてしまう筈なのだが、彼女の手に掛かると綺麗に収まってしまう。やり方を尋ねても、エレンの普段しているのと特段変わりは無く、不思議なものだった。
「エレン、お聞きしてもいいですか」
「うん。何?」
「エレンは、どうして剣を取ったのですか」
「別に、どうってことは無いけど。シノンの誰にも負けたくなかっただけよ」
エレンは女の子だからと、馬に乗るのも農業に携わるのも、初めは全て遠ざけられていたのだった。彼女にしてみれば、女だからと言われることより、除け者にされることが不服だった。そのため、どんな仕事や遊びであろうと交ざるようにしていたら、いつの間にか村一番の力持ちになっていたのである。
と、表向きはそんなように言っているが、実のところそれだけの理由でも無い。エレンはちょっと逡巡した挙句、相手がこの人ならばと、包み隠さず伝えることにした。
「ユリアンの妹のこと、知ってるよね?」
「ええ」
櫛を持つ手が止まった。
「うちにもね、もう一人いたんだ。死食の年に生まれた子。サラと双子で、男の子か女の子かは知らないんだけど」
物心付くか付かないかの砌で、エレンには、その子供に関してぼんやりした記憶しか残っていない。薄暗い、寒くて堪らない日々として思い出されるのだった。宥められるように、髪がそっと撫でられて行くのを感じながら、続ける。
「その子、生まれてすぐ魔物にさらわれたの。村中でどれだけ探しても、結局見つからなくて……」
窮状に置かれたのは何処も同じで、日の差し込まない、芽吹きの無い一年を、どうにかやり過ごすのに皆精一杯だった。幼い命が奪われたと言う知らせは村の外でも散見され、シノンは一人が長らえただけ幸運だったと含む他無かったのだ。そして生き残った子供さえも、宿命の子だの魔王聖王の再来だのと、厄介な運命に巻き込まれねばならない。それ故に、シノンの村はその子が普通の子供として過ごせるよう、死食の年に生まれたこと、双子として生まれたことさえ伏せてしまった。朧気と雖も、家族を失った悲しみはエレンの心に染み付いており、サラを何があっても守り抜こうと決めていた。決して忘れないけれど、妹に落ち込んだ顔を見せまいとすることも。負けず嫌いの性質もあったが、エレンは妹を守るべく剣を取ったのだった。
「サラには村の外に出て欲しくなかったわ。だけど、この世界とアビスが繋がっている限り、おかしな宿命から決して切り離せないんだと思う」
自らの意志で歩いているつもりのサラは、その実見えざるものに手繰り寄せられているようだった。宿命などと言う言葉が嫌いなエレンさえ、妹達に纏わるそれは認めざるを得ない。縺れた糸を断ち切ろうにも、自分の力で何が出来るのか、彼女には未だ分からなかった。
「変えることの出来ない定めはありませんわ」
モニカの手が伸ばされ、鏡台に櫛を置いた。
「サラ様がシノンを離れたことも、いつかきっと幸せな結果をもたらすのだと、そう思います」
「そうだと良いけど……」
「以前お別れした時、サラ様は自分を変えてみたいのだと仰っていました。強いお気持ちさえ持っていれば、つらい運命に負けることなどありません」
「あの子も、そんなこと言うようになったんだ。……そっか、もう心配いらないんだね」
「ええ」
決然と諭していたモニカが、ふと語調を和らげた。
「ですが、出来ればエレンも、サラ様に協力して差し上げて欲しいのです。お姉様のあなたがそばにいて下されば、サラ様もきっと心強く感じられますもの」
「そうかな」
「そうですわ」
重ねて同意され、エレンも何と無くそんなような気になって来た。彼女の旅は目的さえ定まらないものだが、最終的に必ずシノンへ帰るつもりで進んでいる。其処は家族がいて、幼なじみがいて、大切な妹がいるべき場所である。もしもサラをこのまま放って置いたら、彼女は二度と、シノンに帰らなくなってしまうかも知れなかった。
「やっぱり、このまま放っておいたらいけないよね」
少なくとも、喧嘩別れのままではいられない。思い立つと忽ち行動に移したくなり、エレンは逸る気持ちを押さえつつ、僅かに後ろを顧みた。
「ねえモニカ様、まだ?」
「これでおしまいですわ」
聞いたら丁度、髪留めで縛ったところだった。前髪を手櫛で整えて貰い、それで全て片が付いた。立ち上がると、見慣れた黒髪が鏡の中で揺れた。何となく嬉しくて毛先を払ってみると、今度は逆さまで無い、本物のモニカの笑顔が見えた。エレンも笑って答える。
「どうもありがと」
「どうですか?」
「うん、すごくきれいに出来てる。モニカ様、器用なんだね」
「いえ。こちらこそ、ありがとうございました」
モニカは少し含羞んで、小首を傾げて見せる。淡い金色の髪が、ほんの些細な身動ぎにも軟らかくしなり、水のように流れる。次の機会は自分が梳いてあげようかなと考えつつ、エレンは彼女の手を取った。
「行きましょう。みんな待ってるわ」
「はい」