サンプル1 冒頭

 フォズが大神官の座を退いた、と言うことを除けば、ダーマ神殿は何一つ変わっていない。連日、多くの人々が神殿を訪れ、職を求む。新たな大神官は万事恙無く職務を全うし、神殿は平らかに治められていた。
 変わったのはフォズである。小さな子供だったフォズは、少しだけ大人になり、大神官の肩書きが無くなった。重たい肩の荷が下りたわけで、生活は楽になった筈なのだが、フォズは却って困ってしまっていた。することがないのである。
「あの、手伝いましょうか?」
 図書室に来たフォズは、資料の整理をしている神官に話しかけた。読み終えた本を、元の場所に並べて整理するくらいなら、フォズにも出来る。分厚い本を幾つも抱えていた神官は、フォズを見て目を丸くした。
「とんでもない! どうぞ、フォズさまはゆっくりなさってください」
 働き者の女性神官は、そう言ってフォズの申し出を断った。いつものフォズならば、そうですか、と言って引き下がるところだが、今日は勇気を出してみた。
「何か、手伝えることはないかと思うんですが……」
「フォズさまには自由になさってほしいと、大神官からのお達しなんです。どうぞ、ご自分のお好きなことをなさってくださいな」
 と、神官はにこにこしながら言った。
「そうですか……」
 そう言われてしまうと、今度こそ、フォズは大人しく引き下がるしかなかった。
 新しい大神官は、壮年の男性である。厳めしい顔つきと悠然としたこなしで、小さくてちまちましたフォズとは対照的な存在だった。彼は、フォズに子供らしく自由に生きてほしいという厚意から、功徳を積み、大神官として任ぜられるまでに至った。フォズの代わりに、重たい肩の荷を背負ってくれたのだ。それはフォズもよく分かっていて、ありがたいと思っていた。
 しかし、大神官の座を退いたところで、フォズにするようなことはなかった。子供らしく、と言われても、分からない。神殿の役に立とうにも、幼くて、日頃突っ立ってばかりいたフォズには、何の仕事も出来ない。友達もいないから、話相手は少ないし、出掛ける用事もない。唯一の趣味である読書も、最近は何となく本を広げるつもりになれなくて、机の隅に積んだままでいた。フォズは時間を持て余していた。
 だから、フォズはネリスのところにばかり通っている。神殿に住み込みで働いていたネリスは、体を悪くして、ついに仕事を辞めてしまった。今はカシムの妻として、フォズと同じく、神殿の一室に閑居して暮らしている。フォズはカシムからの頼みで、退屈しているネリスの相手をすることになっていた。勿論、カシムが自分を気遣ってくれているのだと、フォズは知っていた。
 フォズがネリスを訪ねると、彼女はお茶とお菓子を出してくれる。心臓が弱くて、最近は立って歩くだけでも息切れすると言うネリスの歓待を、フォズは申し訳ない気持ちで受けた。自分はお茶一つも淹れられないから。ネリスはにこにこ笑いながら、台所からいちごのタルトを出して、フォズに切り分けてくれた。艶やかないちごのジャムが塗られたそれは、ネリスの手作りであった。
「フォズさまは、エンゴウという村をご存じですか?」
 と、ネリスは自分のタルトを切り分けながら言った。
「ええ。訪れたことはありませんが……」
 勿体ないような気がして、タルトに手を付けられないまま、フォズは頷いた。エンゴウとは、北方の小さな村である。
「エンゴウは、静養地として有名なのだそうです。私の病が楽になるかもしれないと、カシムがすすめてくれたのですが……」
 ネリスは浮かない顔で、言葉を切った。綺麗な金髪を持つ彼女は、今日は髪を編み込んで、頭の後ろで一つに纏めている。貴婦人のようで美しい。白くて細い薬指には、カシムとの婚姻の証が嵌め込まれていた。
「……行くことのできない、理由があるのですか?」
 二人の小旅行について、フォズは良い話だと思った。退屈しているネリスは勿論のこと、親衛隊長として忙殺されているカシムも、たまには休みを取って、細君とゆっくり過ごせば良いだろう。そう思ってフォズが尋ねると、ネリスは苦笑した。
「体が弱ってしまって、エンゴウまでの船旅にたえられないと思うんです。それに……」
 と、ネリスは入り口の方を見やった。
「弟のために、この神殿で待っていたいと思います。もしもザジが帰ってきた時、私がいなかったら、きっとさびしがると思うから……」
 ネリスのたった一人の弟、ザジは、当てのない放浪の旅に出てしまった。きっと、ダーマに戻ることはない。ネリスもそれは分かっている。けれど、彼女は微かな期待を抱きながら、弟の帰りを待っている。フォズは、それを良いことだと思っていた。希望を持つことは幸いである。しかし、還俗したとは言え、フォズは神に仕える身だった。偽りを口にすることは出来ない。だから、きっと戻ってきますとか、戻ってくるといいですね、とか、そういう慰めの言葉を掛けることは出来なかった。
「……さ、フォズさま、めしあがってください。できたてだから、きっとおいしいと思いますよ」
 黙り込んだフォズに気を遣って、ネリスは微笑みながら、タルトを勧めてくれた。
「ありがとう」
 フォズは礼を言って、タルトの端をフォークで切り、口に運んだ。甘酸っぱい。ネリスはフォズのために、いちごのジャムを取り寄せて、タルトを作ってくれたのだ。フォズは作り方を知らないが、こんなにも綺麗で美味しいものなのだから、きっと大変な思いをして作ってくれたのだろう。フォズはありがたい気持ちで、ひとかけらを大切に味わった。
「ネリス」
 二人で話をしていると、カシムが帰ってきた。とろけるような微笑を浮かべて、カシムは一目散に妻の方を目指してきたが、フォズの姿に気付くと、畏まって直立し、敬礼した。フォズは人の美醜がよく分からない方なのだが、カシムが黒髪の美丈夫である、というくらいは理解していた。前よりとても偉くなったカシムは、その身に似合う豪奢な服を着て、装飾用の剣を帯びていた。
「フォズさま」
「おじゃましています」
 と、フォズは頭を下げた。
「むさくるしいところですが、どうぞごゆっくり」
 カシムはそう言って、ネリスのそばへ近付いた。ネリスの細い手を取って、甲に口付ける。ネリスは恥ずかしがって、困ったような微笑で俯いた。
「ちょっと、カシム……」
 と、ネリスはフォズをちらりと見た。
「顔色が悪いぞ。薬は飲んだのか?」
 ネリスの手を握ったまま、カシムは妻の具合を気遣った。フォズは、あまりじっと見詰めるのも失礼だと思ったから、もう一切れタルトを口にした。甘酸っぱい。
「お仕事はどうしたの?」
 すっかり含羞んでしまったネリスは、頬を赤く染めて、抵抗するようにそう言った。
「抜け出してきた」
 と、カシムは何でもないように答えた。病弱な妻のために、カシムはしばしば様子を見にやってくる。それだけ余裕があって、神殿が平和だということだった。カシムは食い入るように、熱っぽくネリスのことを見詰めていたが、ふいに、フォズの方を顧みた。
「フォズさま、ネリスにあまり無理をしないよう言ってやってください。フォズさまがいらっしゃると、妻はずいぶんはしゃいでしまうようで」
「わかりました」
 フォズは素直に頷いた。カシムの言った通り、ネリスはフォズが訪ねてくるたび、病を押して歓迎してくれる。それではあまりに申し訳ないから、通う頻度を減らしたら、今度はネリスがフォズのところへ来るようになった。どうすることが最善なのか、フォズには分からない。だからせめて、ネリスの足労を減らそうと思って、こうして彼女の元を訪れるのだった。
 ネリスがあんまりにも恥ずかしがって、そわそわしているから、カシムは話頭を転じることにしたらしい。
「……エンゴウに、ザジとおぼしき少年が逗留している、とのウワサを耳にしたんだ」
「えっ?」
 ネリスは美しい目を丸くして、顔を上げてカシムを見た。カシムは珍しく、少し躊躇いがちに言葉を続ける。
「キミをぬか喜びさせたくないと思って、今まで伏せていたんだが……どうやら、信ぴょう性のある話のようだから」
 カシムは、フォズがびっくりするほどの広い人脈を持っている。すごいですね、とフォズが褒めると、とある盗賊の弱みを握っているから、上手いこと利用できるんです、と、こともなげに答えてくれた。
「エンゴウに、ザジが……」
 ネリスは信じられないといった風に、けれど嬉しそうにして、両手を胸元でそっと合わせた。その時には、カシムも手を取るのをやめてくれていた。ネリスはフォズに、毎日弟の話をしてくれる。二人の間には複雑な気持ちがあったようだけれど、ネリスは弟を大切に思っていて、出来るならばもう一度会いたいと思っているのだ。カシムもそれを分かっていて、穏やかな眼差しでネリスの喜ぶ様子を見ていた。
「……そう伝えれば、キミもエンゴウについてきてくれるだろう?」
 と、カシムは様子を一転させて、恬然とした口調で言った。フォズもネリスもびっくりした。
「……今の、ウソだったの?」
 ネリスは、先ほどとは全く違った意味で、目を丸くしてきょとんとしていた。
「ザジがいたと言う話は、本当だよ。私がウソをつかないのは、知ってるだろ」
 と、カシムは悪戯っぽく微笑んだ。
「……ひどいわ、からかったのね!」
 ネリスはそう言いながら、くすくす笑った。弟に会えるかも知れない、という希望が、ネリスの心に明かりを灯したのだった。
 男の人が同性に好意を示す、ということは少ないけれど、カシムもザジのことを好意的に思っているようだった。ネリスの夫としてザジに受け入れて貰い、義弟として上手く付き合っていきたいのだと、カシムはそう言っていたことがある。フォズはそれをいい話だと思った。家族とは美しいものである。フォズは小さな頃からひとりぼっちだったから、尚のこと美しく思えるのだった。
「……とにかく、エンゴウに発つまで、体調を万全にしておけよ。カゼをひいたりしないようにな」
 カシムはそう言って、ネリスの頭を優しく撫でた。
「わかったわ。楽しみにしてる」
 ネリスは含羞みながら、確かに頷いた。それから、カシムは満足するまで妻の様子を見守って、仕事に戻ることにしたらしい。
「それでは、行ってくる」
 と、ネリスの前髪を掻き上げて、額に口付けた。
「フォズさま、ごきげんよう」
 カシムはにっこり笑って、フォズに挨拶し、颯爽と部屋を出て行った。いつものことだった。だから、フォズは気にしていないのだが、ネリスは気にして、恥ずかしそうに俯いていた。
「ごめんなさい、フォズさま。見ぐるしいところをお見せしてしまって……」
「いえ。仲むつまじいのは、いいことですから」
 フォズは首を振った。夫と妻の仲がいいのは、ごく自然で、幸福なことである。フォズには、カシムのネリスを思う気持ちも理解出来て、ネリスの恥じらう気持ちも理解出来た。ネリスは少し気を取り直して、漸くタルトに手を付けた。
「……でも、ザジがこの姿を見たら、きっと怒ると思うんです。あの子、ヤキモチ焼きだから」
 と、ネリスは小さな声で、懐かしそうに言った。
「そうですか」
 フォズには、そう答えることしか出来なかった。フォズは、ザジと言う人を知らない。ただ、ネリスがこんなにも大切に思っているのだから、優しい、善良な人なのだと言うことは知っていた。フォズはまたひとかけら、タルトを切って、口に運んだ。甘酸っぱかった。
 ネリスには待ち続ける人がいて、支えてくれる人がいる。それはとても幸せなことだった。フォズはそれを羨ましく思って、そんな風に思った自分を、恥ずかしく思った。
 その夜、フォズは人知れず、神殿の外に出た。神殿の入り口には、長い長い石段がある。職を求むる人々は、この長い石段を登り、ダーマ神殿の門を叩くのだ。
 思ってみれば、外に出たのは久々だった。山あいの夜は静まり返っていて、時折、ふくろうのような低い鳴き声が聞こえるばかりである。季節は冬で、吐き出す息が白くふわふわと舞った。寝巻きで出てきたフォズは、寒さに少し震えながら、大きな石段の一番上に立っていた。
「……」
 微かな声で、その人の名前を呼んでみる。どこからともなくやってきて、どこへと知れず去っていった、遠い遠いあの人の名を。
 あの人は、そう、自分が狼なのだと言っていた。言っていることが良く分からなくて、フォズが首を傾げると、その人は、得意そうな顔をして、自分の身の上を話してくれた。
 オイラは、伝説の白き狼のマツエイだったんだよ。デス・アミーゴっていう悪い魔物のせいで、人間に変えられちゃったんだ。でも、人間になれてうれしいよ。だって、みんなと話が出来るからさ。
 フォズは、その人が何て話してくれたのか、一言一句を覚えている。その人は確かにそう言った。そして、証拠を見せるように、大きな声で遠吠えをしてみせたのだった。本物の狼のように、高らかに。
 すうと息を吸い込むと、冷たい空気が喉に流れ込んだ。
「わおーん……」
 フォズの拙い遠吠えは、白い吐息に掻き消され、忽ち聞こえなくなってしまった。もう一度吠えてみようかと、再び息を吸い込んだが、それは溜息になって消えてしまった。呼んだところで、叫んだところで、何の意味をももたらされないのだと、フォズは知っている。獣の耳を持つあの人に、この声が届くことはないだろう。あの人は旅人で、私は大神官で。決して交わることのない二人だったから、一線を引いた筈だった。けれど。
「……もどりましょう」
 自分に言い聞かせるように、そう言って、フォズは神殿の中に戻った。
 フォズは大神官の座を退いた。これからは、神殿から年金を貰って、安楽な生活を送ることができるのだ。年老いた隠遁者のように、静かに、ひっそりと。