サンプル2

 その日は安息日だったから、アルスの漁も休みだった。暇なアルスは、マリベルのところへ遊びに行った。
 あの冒険の日々から随分経ったが、アルスとマリベルの関係は全く変わっていない。しかし、周囲からは、二人が結婚するものとして見なされている。マリベルはそれを聞くと、珍しく、少しだけ含羞んで笑うのだった。アルスはそれを見ると、いつも何とも言えない気持ちになる。
 ありていに言うと、アルスはマリベルを好きだった。かなり好きである。あの青くてぱっちりした目も、つんとした鼻も、すべすべした手も、ふわふわした赤毛も、そんなに高くない背も、気心知れた人間にだけ見せるわがままも、何もかもかわいらしく見える。相当好きだった。嬉しいことに、幸せなことに、恐らく、マリベルもアルスのことを好きである。けれど、二人の関係は今までと全く同じで、変わらないのだった。
 ある秋の日、マリベルがアルスの家にやってきて、座ってこんな話をした。
「城下町に、ミリーって子がいるでしょ? ほら、あたしの友達の」
「うん」
 アルスはあまり知らないが、マリベルが仲のいい女の子だった。マリベルより少しだけ年上で、ブルネットのまっすぐな髪をしていて、おしゃべりが好きな明るい子。最近、マリベルは遊んでいないようだったが、会って話はしていたらしい。
「あの子、ケッコンするんですって。しかも、砂漠からきた学者さんと! 砂漠におヨメにいくみたい」
 マリベルは本当にびっくりしたらしく、声を高くして言った。マリベルの話によると、グランエスタード城に招聘された学者が、ミリーという女の子に一目惚れしたらしい。彼女の両親は大反対しているが、本人たちは、いざとなったら駆け落ちしてしまうつもりのようだった。
「そう。たいへんだね」
 適当な返事をしながら、アルスは内心、そわそわして落ち着かなかった。他人の恋愛の話が出てくると、ほぼ確実に、アルス達はどうなのか、という話題に発展する。アルスはそれがとても苦手だった。
「……それで、あたしはケッコンしないの? って聞かれたわ。網元のむすめなんだから、そういう話もあるんでしょ、って」
 と、マリベルは肩を竦めて言った。案の定である。そして、彼女はアルスの反応を待っているのだった。アルスは何と答えて言いか分からなかった。結婚しないのか、と聞くのは、明らかに空々しいだろう。そうだね、と頷きたくもない。
「ケッコンかあ……」
 アルスが黙っていると、マリベルは溜息をついて、窓の方に視線をやった。
「ケッコン、僕とする?」
 と、アルスはいかにも何気ない調子で言った。
「はあ? バカじゃないの?」
 マリベルはそう言ったものの、アルスから顔を背けて、もじもじして、手の指を組み合わせたり、ほどいたりして、とにかくもじもじし始めた。
「そうだね。いやだよね」
 アルスはいつものように、へらへら笑って、あからさまに冗談だという素振りを見せた。
「……ほんと、バカじゃないの?」
 マリベルはそう呟いて、アルスから顔を背けたまま、小さく溜息をついた。
 マリベルは、たまに思わせぶりにして、アルスに恋愛の話を振る。恋の物語本を広げっぱなしにして、アルスの目につくようにもしたりする。アルスはいつも、気づかないふりをして、適当な返事をしてごまかしてしまう。自分の思い通りにアルスが反応してくれないと、いつものマリベルなら、怒ってアルスに八つ当たりする。しかし、そういう時のマリベルは、少しだけ寂しそうにして、小さな小さな溜息をつくのだった。
 アルスは意気地がないのだった。変わりたくないのだ。世の中は何もかもが流れゆき、親友はいなくなって、新しい仲間が増えて、アルスの背は伸びて、ガボの背も伸びた。めまぐるしく変わっていく世界の中で、変わらないのはマリベルだけだった。昔と全く変わらず、アルスの隣にずっといて、アルスにわがままを言って、一緒に遊んだり探検したりする。アルスはそれが好きで、居心地がいいと感じる。それを変えたくないのだった。もしも恋人同士になったら、マリベルは変わってしまうかもしれない。自分自身も変わってしまうかもしれない。二人の周囲も変わってしまうかもしれない。自分の軸というものがないアルスにとって、マリベルは北極星のようなもので、ずっと変わらない基準のようなものだった。
 だから、アルスとマリベルは幼馴染同士のままでいる。将来結婚するだろう、という噂をアルスが否定しないのは、その方が自分らしいと思ったからだった。変わらないために、アルスは柄にもなく、自分自身を装っている。けれど、それはいつか必ず破綻して、変わらずにはいられない日が訪れるのだろう。アルスはそれが嫌だった。
 マリベルがどう思っているかは分からない。分からないが、どうやら、アルスに気を遣って、変わらないままでいてくれるようだった。マリベルは優しい性格だから、そういうところでアルスの気持ちを汲んでくれるのだ。そんな風に、二人は内心でもやもやしたものを抱えながら、危ういような、変わらないいつも通りの日々、を過ごしていた。
 マリベルの屋敷に行くと、いつものメイドが出てきた。栗色の髪にそばかすの、何となくかわいらしい印象を受ける人である。メイドは愛想のいい笑顔で、朝からやってきたアルスを出迎えてくれた。
「アルスさん、おはようございますだ」
「おはよう。マリベルは?」
「マリベルおじょうさまなら、二階にいらっしゃいますだよ」
「ありがとう」
 と言って、アルスは遠慮なく二階へ上がり込んだ。マリベルの部屋の扉は閉まっていたので、がちゃりと開けて中に入る。マリベルは、アルスがこうやって無遠慮に上がり込んでくるのを知っているから、ごく普通に応対した。
「あら、ちょうどよかったわ。あたしもあんたのところに行こうと思ってたのよ」
 マリベルは出かける支度をしていたようで、鏡台に座って髪の毛を整えていた。最近のマリベルは、いつもの頭巾を被らなくなった。アルスがあげた、おもちゃのような髪飾りを付けているのだ。アルスが部屋に入ってくると、マリベルは出かける準備をやめて、そばにあるテーブルに行った。マリベルが座ったから、自然と、アルスもその向かいに座った。
「最近、ガボの様子がヘンだと思わない?」
 と、マリベルは早速話を切り出した。
「そうかなあ……?」
 アルスは曖昧に、首を傾げた。
「そうよ」
 しかし、マリベルは確信を持っているらしい。
「アルスが休みの日には、いつもかならず遊びに来るじゃない。それが、今日は来ないだなんて、ヘンだと思わない?」
「そういえば、そうかも……」
「でしょ?」
 マリベルは両手を組んで、その上に顎を乗せた。
「あたしが思うに、きっとなにか隠し事をしてるのよ。ガボのくせに、ナマイキよね」
 と、マリベルは腹立たしげに言った。マリベルは隠し事が大嫌いである。何か秘密があると分かれば、何としてでも引きずり出して知ろうとする。
 珍しいことに、それは、マリベルには分からなくて、アルスに分かることだった。ガボはアルスに、フォズ大神官のことで相談をしてきた。フォズは以前エスタード島に来た時、本当に楽しそうにして、嬉しそうな顔を見せてくれた。そんな顔は今まで見たことがなかった。だから、フォズを森に連れてきて、ずっと一緒に暮らしたいのだと。ガボはいつもの調子で、来てくれたらいいなあと、そんな風にのんきに言っていた。だから、アルスもいつものように、適当な返事をした。ガボのすることに間違いはないから、好きなことをするのがいいんじゃないかな、と。のんきな、何気ない会話だったから、アルスはまさか、ガボが大神官を迎えに行っているとは思わなかった。
「たまたまじゃないかな。たぶん、木こりのおじさんの手伝いがいそがしいんだよ」
 だからアルスは、マリベルにそんな風に答えた。
「あんたって、ほんとにノーテンキよね」
 呑気なアルスに、マリベルがちくりと言った。
「最近、ガボが夜中にソワソワしてたのを知らないの? あれは絶対、なにかを感じとってたのよ」
 言われてみればそうだった。近頃のガボは、夜中に起きだして、外の方をじっと見詰めることがあった。ガボは耳がいいから、アルスたちには聞こえない音を聞き取っていたのかもしれない。アルスは、まさか、とは思ったが、やっぱりガボが大神官を迎えに行っているとは考えなかった。
「……でも、あぶないことじゃないと思うよ。危険があったら、僕たちに知らせてるはずだから」
「あぶないことじゃなくても、あたしには知る権利があるの」
 マリベルはぴしゃりと言った。マリベルにとって、アルスとガボの持っているものは、全て彼女のものなのである。それが三人の常識だった。
 アルスは少し考えた。やっぱり、ガボが大神官を迎えに行っているとは思わない。けれど、ガボにもそんな風に、気にかけて大切にする存在が出来たのだ。ガボも成長した。アルスはそれを喜ばしく思った。
「ガボのことだから、たぶん、そのうち教えてくれると思うけど……」
 アルスは、きっといずれは、ガボの方から教えてくれるだろうと思っているが、マリベルは違うようだった。
「どうかしらね? ガボも、ちょっとだけ大人になったみたいだし……あたしたちにも言えないことができたのかも」
 と、マリベルは寂しそうに言うのだった。ガボとマリベルの関係は少々複雑である。普段は互いに憎まれ口を叩いているが、ガボにとって、マリベルは女性としての規範になっている。母親のように世話を焼いたり、姉のように口うるさく注意したり、女の子として適切な距離を置いたりと、マリベルはガボに足りないものを与えてきたのだ。そのせいか、マリベルはガボのことを、いつまでも小さな子供でいると思っている。だから、ふとした時にガボの成長を実感すると、少しだけ寂しい思いをするようだった。
 一方、アルスにとってのガボは、成長するものである。共に切磋琢磨して強くなり、背中を預けて戦ってきた、信頼できる戦友だった。ガボは旅の中でぐんぐん成長していったし、旅が終わってからも、どんどん成長していっている。だから、ガボが成長するのは当たり前だと思っている。寂しいとは思わなかった。
 それに、アルスにはマリベルがいた。マリベルは、決して変わらない存在である。最近はちょっと危うくなっているけれど、何とか変わらないままを保っている。アルスにとってのマリベルは、世界の基準なのだった。
 しかし、マリベルにはそれがない。アルスは成長していくし、ガボも成長していく。自分だけ取り残されているようで、マリベルは寂しい思いをしているのかも知れなかった。
「……マリベル、さみしいの?」
 遠い目で窓の方を見ているマリベルに、アルスはそう尋ねてみた。
「そうね……」
 と、マリベルは頬杖をつき、溜息をついた。
「……たしかに、さみしいのかも。最近、旅をやめてた時みたいな、おいてけぼりの気分になるのよ」
 マリベルは真情を口にした。珍しいことだった。マリベルは一時期旅をやめ、アルスの一行から抜けていたことがある。あの時は、退屈そうで、寂しそうで、アルスはちょっと気の毒に思ったくらいだった。最近のマリベルも、また同じ気持ちを味わっているのだろう。漁船には滅多に乗らせて貰えないし、旅に出る機会もない。毎日屋敷の中で過ごして、アルスの帰りを待っている。そんな生活は、マリベルには退屈で仕方ない筈だった。そのまま変わらないこと、を彼女に強いているアルスは、かなり申し訳なく思った。
「……木こりのおじさんのところに行ってみる?」
 どうせ退屈ならばと、アルスは外出を提案した…………