三

 未だ凍てつくウィンテッドの空の下、ローラントのアマゾネス兵とアルテナの元魔導兵による合同演習が行われている。魔法の力が失われた昨今、アルテナの戦力は皆無に等しい。其処で雪原の魔物に対抗しうるべく、王女アンジェラの口利きで、兵士達はアマゾネスから棒術の手解きを受ける次第となっていた。リースとアンジェラの二人も、視察がてら、互いに木の杖を構え、遊び半分の訓練に取り組んでいた。魔獣の毛皮と祭衣の裾を翻しつつ、澄んだ空気に乾いた木の音を打ち立てる。アンジェラが頭部目掛けて突撃したのを、リースは体を低めてかわし、相手の足を杖で払う。転んだ隙に馬手を打ち、武器をはたき落とした。間髪入れず喉元に石突きを突き付ける。其処でリースも杖を捨て、尻餅をついたアンジェラに手を伸べて、立ち上がるのを助けてやった。彼女は乱れた髪を手で梳きながら、悔しそうに口を尖らせた。
「どうして勝てないのかなあ……。私だって、毎日特訓してるのに」
「アンジェラも、どんどん強くなってますよ。アマゾネスじゃない事が残念なぐらいだわ」
「そう?」
 と、アンジェラは忽ちにっこり笑った。
「だったら、もうちょっとがんばってみようかな。リースもようやく、本気で相手してくれるようになってきた事だし」
「……私、本気でやってたかしら?」
「うん」
 リースが瞬ぐと、彼女は至極当然のように首肯した。自分としてそのつもりは無いのだが、アンジェラが演習に手慣れて来ただけに、我知らず真剣に戦うようになっているのかも知れない。とその時、リースは相手の手元が赤く腫れているのに心付いた。杖を叩き落とす際、加減を忘れたらしい。
「ごめんなさい、ケガをさせてしまったのね……」
「ほんとだ。でも、全然痛くないよ」
 アンジェラは全く取り合わなかったものの、リースはその手を引き寄せ、傷の具合を見せて貰った。結構な力で殴ってしまったのか、爪の根本が青く変色している。そっと撫でると、怪我の部分が熱を持っているのを感じた。
「ごめんね」
「私も、さっきリースの事ぶっちゃったでしょ。おあいこよ」
 たんこぶが出来ちゃったと、彼女は腫れてない方の手で、リースの頭を撫でた。怪我の治療もある事で、其処で彼女らは視察を終え、城内へ戻る事にした。
 アルテナは静かでのんびりとした雰囲気を湛えており、きっと王女はこの温かな空気と人々に見守られながら、ああした天真爛漫で伸び伸びした少女に育ったのだろうと思わせた。二人は湯を使って汗を流し、いつもの格好に着替え、アンジェラの部屋へと戻った。彼女の手には軟膏が厚く塗りたくられ、赤みも青みも目立たなくなり、これにはリースもほっとした。たんこぶの方は大した傷で無く、そのままにしてある。濡れた髪を拭きながら、柔らかな白いソファに身を埋めていると、親切な使用人がお茶を用意してくれ、甘酸っぱいケーキを頂きつつ、二人で他愛も無いお喋りに興じた。今日の話題はエリオットについての事で、リースは溜息交じりに相談した。
「最近、エリオットがお部屋に遊びに来なくなったの。前まではずっと私の後をついてきたのに、今は姿が見えない事の方が多いし」
「いい事じゃない。エリオットも姉ばなれしてきたんだね」
 と、アンジェラは微笑ましそうに相槌を打つ。
「だといいんですけど……。私、弟の嫌がるような事をしちゃったのかと思って」
「リースがそんな事するわけないじゃん。だいじょうぶよ」
 アンジェラは笑いながら、すぐりのジャムが唇に付かぬよう、大きな口でケーキを食べた。じっくり味わった後、飲み込んで言葉を継ぐ。
「男の子なんだし、いつまでもお姉様にベタベタしていられないだけだと思うよ」
 お母様にべったりの自分が言えた事では無いけど、とますます笑う。リースはふと、自分が菓子を食べずにつつき回していた事に心付き、相手に倣って大きく頬張った。甘酸っぱい味が喉に沁みた。
「……でも、なんだか急に離れちゃった気がするの。もう少し、いっしょにいてくれてもいいんだけどな」
 デュランの所のウェンディは、エリオットとそう変わらぬ年頃なのだが、あちらは依然兄妹仲良く過ごしているらしい。実の兄妹では無いが、ホークアイの所もシャルロットの所も、色々な出来事に見舞われた分、以前にまして親しくしている。ケヴィンとカールはこの間見た通り、何処へ行くにもいつも一緒だった。友達のそんな話を聞くからこそ、尚更羨ましく感じるのだった。目を伏せたリースに対し、アンジェラは身を乗り出して来た。
「だったらさ、リースの方からお部屋に行ってみなよ。たまには甘えてごらんなさい」
「そんな、嫌がられちゃいますよ。私の方がお姉さんなのに」
「お姉さんが弟に甘えちゃいけないなんて、そんな決まりはないでしょ」
 重ねて励まされ、始めは及び腰だったリースも、次第に行動に移してみようかと思い始めた。流石にべたべたするのは恥ずかしいが、弟の部屋へ遊びに行ったり、自分の部屋へ来て欲しいと誘ってみる勇気は出た。エリオットもしっかりして来たわけで、今度は姉の方から我儘を言ったとしても、仕方が無いと受け入れてくれるかも知れなかった。とつおいつ考えつつ、彼女は窓辺に視線を移した。自然、部屋の内装も目に入る。白が基調の、けぶるような可愛らしい様相の部屋であるが、以前より魔導書や術具の類が増え、物々しくなったように思う。極め付けに、ぬくぬくした暖気を放つ火に、小振りな黒い鍋が下げてあった。壺のような口が窄んだ風体で、中身は窺えないものの、粘っこく沸き立つ音から、何らかの薬を作っているのは分かった。派手好きなアンジェラらしからぬ部屋ではあるが、寝る時以外は滅多に立ち寄らないため、書斎代わりに使っているそうだった。いずれにせよ居心地が良いのは変わり無く、お湯で体がぬくまったのも与って、思わずうとうとしてしまいそうだった。
 二人ともお菓子を食べ終えてしまったので、お代わりを貰う事にした。いつも二皿食べるため、使用人達も心得ているのか、頼むが早いかすぐに運んで来てくれた。夢中でフォークを進めていたら、口の周りがべたついてしまい、こっそり舌で舐め取る。折しもアンジェラが同じ事をしており、目が合うと、互いにばつが悪そうに笑った。
「このジャム、とってもおいしいですね」
「でしょ。よかったら、おみやげに持っていって」
 このケーキにたっぷりと使われている、乾燥したすぐりの実とジャムは、昨夏に収穫した比較的古いものだった。暮らしと同様、アルテナの食も大いに変容を来たしたらしい。一方のローラントは、山岳地帯ながら気候に恵まれ、漁港パロからも豊富な食材が年を通じて届けられる。だからローラントからアルテナへ輸出出来れば良いのだが、いかんせん距離があるため食物の類は腐ってしまう。昨今取引を始めたジャドの方も、ごく限られた加工品しか運べないそうだった。本来ならばフォルセナ及び近郊の都市が最も近場で適当なのだが、先の争いの記憶も未だ新しく、今国交を結ぶには余りに難があり過ぎた。二人はそんな事を話し合い、溜息をついた。特にアンジェラの方は生活に直結しているため、いたく悩んでいる様子だった。
「フォルセナから傭兵さんでも借りられたら、アマゾネスさん達にこんな迷惑かけなくてもすむのになあ……」
「それはお互いさまでしょ。私達はアルテナからお薬を貰っているんですから、そのお返しです。今のローラントじゃ、他に贈れるようなものもありませんし」
「ものと人とじゃ全然違うじゃないの。アルテナ兵がそっちに行くのも、ローラント兵がこっちに来るのも、どっちもすごく大変でしょ」
 いずれの国も、これまで他所と関わりを持った例が無かったために、暗中模索の状態だった。以前フォルセナを訪れた際も、リースはあちらに住む仲間と会って、全く同じ問題に頭を悩ませていた。幾ら考えても答えは出ないものである。その頃の傭兵は、少なくとも見掛けはまだ平常だった事を思い出し、彼女はアンジェラに尋ねてみた。
「そう言えば、デュランさんはお元気ですか?」
「うん。憎ったらしいぐらい」
 アンジェラは素晴らしい笑顔で頷いた。嬉しい知らせに、リースも思わず破顔する。
「そう、よかった……。悩み事は解決できたのね」
「ええ。ウェンディちゃんに励まされたら、うじうじするのがバカらしくなっちゃったみたい」
 肉親には勝てないものである。自分に価値が無くなってしまったと悩むデュランに対し、傭兵として働いてくれているだけで十分だし、国一番の剣士を兄に持って誇らしいのだと、ウェンディは彼の美点をとことん褒めた。目標を失ったと悩む方には、父のような立派な騎士を目指せば良いのだと、兄に本懐を思い出させて激励した。そんなわけで、彼はとっくに元気を取り戻していたのだった。一見単純な話のようにも思えるが、実の所、仲間達はデュランがそのように迷っていたとは聞かされていなかった。せめてそれだけは自分で解決しようと、誰にも言わずにおいたらしい。アンジェラと彼の家族たちも、たまに見せる言動の端々から漸く気取ったそうで、あの意地っ張りは肝心な事を言わないんだからと、彼女は不服そうに溜息をついた。
「そっちはいいんだけどさ……問題は別にあるのよ」
「まだ、何かあるんですか?」
 アンジェラは口にするのも嫌そうに、軽く肩を竦めた。テーブルに置かれた髪飾りを手繰り寄せ、髪を纏めていると、件の黒い鍋が湯気を吐いたので、彼女は暖炉の方へ面倒を見に行った。隣の薬棚から、どう考えても竜の目玉にしか見えない透明な塊と、毒々しい紫色の葉っぱを出して放り込み、木の杓子で掻き混ぜる。わざわざ作業用の手袋へ付け換えるほどの念の払いようだった。リースは嫌な予感がしたものの、藪蛇ながら尋ねる事にした。
「あのー、アンジェラ。一体何を作っているの?」
「痺れ薬よ」
 厚い手袋を脱ぎ脱ぎ、アンジェラは事も無げに返した。いよいよリースは眠気が吹き飛んでしまい、慌てて髪を結んだ。臨戦態勢を取らずにはいられなかった。
「……その、それは何に使うんでしょうか。モンスターにお困りなら、私達が退治しますけど……」
「モンスターなんかに使ったらかわいそうじゃない。デュランよ、デュラン」
 魔物に使うのすら気の毒な代物を人間に飲ませるのだと言う。確かにデュランなら大丈夫かも知れないと、リースは一瞬納得し掛けたが、即座に頭を振った。
「いけませんよ。デュランさんに使うのだって、十分かわいそうです」
「かわいそうかも知れないけど……」
 ソファの方へ戻りながら、彼女は深く大息した。
「……だって、何をやってもダメなんですもの。もう、どうしていいか分かんなくなっちゃった」
 アンジェラとて、好きでこうした強引な手を選んだわけでは無いのだった。あの物騒な傭兵に於いては、家族を引き合いに出して懇々と説き伏せ、泣き付いてまで頼み込んだのに、それでも血に飢えては魔物の巣を彷徨い出す。出掛ける隙を与えぬよう、夜通し見張っていれば、暫くは大人しくしているのだが、アンジェラが根負けしてとろとろした隙に遁走する。かくなる上は実力行使、旅に出たくとも出られない状況を作り出すべく、彼女は耳掻き一杯で獣人さえ寝込む薬を研究し始めたのだった。もはや収拾の付かない事になっているデュランの精神状態を、リースは大いに心配した。と同時に、そんなえげつない行為に乗り出した友人を危ぶんだ。彼女もまた、闇の力に影響を受けているようだった。
「ねえ、アンジェラ、よく考えて。そんな方法じゃ、デュランさんに戦いをやめさせる事はできないわ。苦しい思いをさせるだけよ」
「でも、毎日キズだらけで帰ってくるのよ。お仕事にもロクに身が入らないみたいだし。おば様もウェンディちゃんも、すごく心配してる……」
 アンジェラは悄然とソファに身を沈めた。どうやらデュランは剣術大会に事寄せて、修行の一環だの何だのと家族に言い分けているらしいが、その常ならぬ様子を見れば心配もするだろう。アンジェラは暫く彼の家に滞在し、状況を目の当たりにしたわけだから、尚更居ても立ってもいられないに違い無かった。本当ならばフォルセナに残って見張り続けたかったそうなのだが、アルテナの事も心配だし、今度の合同演習に欠席するのは不味いからと帰って来たのだった。恐らくデュランは、彼女がいなくなって心底安堵した筈で、それもアンジェラを悲しませる要因になっていた。彼女は人一倍寂しがりなのだ。今度はリースが身を乗り出し、友達を励ました。
「アンジェラ、あなた一人で抱え込む必要はないのよ。デュランさんは私達の仲間なんだから、これは私達全員の問題なんです。みんなで協力して考えなきゃ」
「ごめん」
 アンジェラはますます俯いた。リースはやや語調を和らげ、言葉を続ける。
「それと、デュランさんは、あなたの事を迷惑だとは思ってないわ。アンジェラに心配をかけてしまうのが嫌だったのよ」
「……そうなの?」
 と、彼女は目線だけを上げた。リースが強く頷く。
「そうよ。言葉にはしないけど、デュランさんはあなたの事を本当に大切に思っているんですもの」
「……うん、ありがと」
 ちょっと涙ぐんでしまったらしく、アンジェラは指先で睫毛を払った。
 とは言え、リースもどうして良いのやら皆目見当も付かなかった。ああ見えてデュランは弱点が多い。このアンジェラと、伯母と妹と、英雄王陛下に滅法弱かった。その内三者が駄目となれば、後は陛下直々に注意を促して貰うくらいしか残されていないのだが、ジャドで見せた反応を考えると極力避けるべきだった。却って逆効果になり、陛下に見放されたと思って自暴自棄になってしまうかも知れないのである。本人を傷付けず、どうにかして戦う力を封印する手段は無いものかと、つくづく考えていたら、アンジェラがまた鍋の番に当たっていた。
「アンジェラ。そのお薬は危ないから、早めに処分した方がいいわ」
「ええ。でも、もう少しで完成なの」
 アンジェラは背を向けたまま答えた。矢庭に、リースは再び背筋が寒くなって来た。そこはかとない恐怖に浮き足立ってしまい、忙しなく髪を撫で付ける。
「……あの、どうして、完成させなきゃいけないんですか?」
「だって、せっかくここまで作ったのよ? ちょっと効果を試してみたいじゃない」
 小さな鍋をかき混ぜながら、少しこちらを顧みて、アンジェラはうっそりと笑った。暖炉の火に照らされ、ほんのり赤らんだ横顔が何とも妖艶で、美しくも恐ろしかった。
 リースは今更気付いたが、自分もどうやら以前より血気盛んになっているのだった。第一に魔物退治へ血道を上げ過ぎている。先日アルテナへ滞在した際も、見かねた部下の諌言を受けるまで、雪原の魔物を執拗に退治して回っていた。リースにしてみれば、アルテナは現在戦力に乏しいわけであるし、彼らのために安全を確保せねばと思っていたのだ。山脈を見回りに行く頻度も増した上、暇さえあればアマゾネス達に稽古を申し付けていた。それは訓練や防衛のためで無く、単純に戦いありきの行為なのかも知れなかった。同じく戦士の身であるデュランは、元々このくらい喧嘩っ早い性格だったそうなので、自分の行動も至極普通のような気もするが、一方で未だに闇の力が残っているような気もする。何がおかしくて何がそうで無いのか、もはや自分自身では判断付かなくなってしまい、いよいよ不安を覚えた彼女は、ウェンデルの光の司祭に相談しようと決意した。折しも平日で、魔物達が凶暴なのを好機に思いつつ、滝の洞窟で一暴れしてから聖都に向かったのだった。
 本日のウェンデルは比較的人の入りが少ないようだった。リースとお付きのアマゾネス達は、神官に手厚く持て成され、彼らの先導で神殿への道を歩いた。あの子はいないかしらと、リースがきょろきょろしていると、目当ての人はじきに見付かった。侍従に槍を預け、先に行って貰うよう頼んでから、彼女は少し寄り道する事にした。目当ての人は、こちらに背を向けて屈んでおり、黄色い綿毛の塊のようだった。声を掛けると、不思議そうな顔で振り返ったのが、見る間に顔を綻ばせた。
「あー、リースしゃんだ〜」
 庭でたんぽぽの綿毛を摘んでいたシャルロットが、欣喜雀躍の勢いで走って来た。思わず頬の緩むような笑顔を浮かべている。リースは膝に手を置き、彼女と目線を合わせた。
「こんにちは、シャルロット。司祭様はいらっしゃるかしら?」
「おじいちゃんなら、あんたしゃんをまってまち。どちたの、またなんか、こまったことでもあったんでちか?」
「ええ、ちょっと……」
 リースは綿毛の花束を貰い、シャルロットと二人で吹いて飛ばしながら、神殿の階段を登って行った。温暖なウェンデルは春の訪れも一早く、野面に花々が咲き乱れる。麗らかな春の風を受けながら、この小さな少女の顔を見ていると、胸に蟠る危機感と言うものがさっぱり氷解してしまいそうだった。彼女は途中で足を止め、階の一番上の段に座って、シャルロットに事の次第を説明した。例の二人とは付き合いが長いためか、相手はさして驚きもせず、むっつりした顔でたんぽぽを吹いた。
「でも、まだ、クスリはのませてないんでちょ。ぎりぎりせーふでちね」
「ええ……でも、アンジェラのあの様子じゃ、安心してもいられないと思うの」
 その上、デュランは相変わらず危険な決闘に身を投じている。このままでは一生に関わる怪我を負うかも知れないと、懸念を打ち明けても、やはりシャルロットは平然としていた。
「デュランしゃんならだいじょうぶ。むてっぽーでも、いのちにかかわるムチャはしないひとでちから。そこんとこは、シャルロットがほしょーしまち。あんしんしなしゃい」
 のんびりとした口調で話していた彼女だが、其処に来て漸く、深刻な風情で顎に手をやった。
「……でも、こまったのは、アンジェラしゃんのほうでちね。デュランしゃんならだいじょうぶだって、アンジェラしゃんもわかってるはずなんでちけど」
 アンジェラもシャルロットも、一緒に旅した仲間の事は良く分かっているから、心配ではあるものの、必ず無事に戻って来ると言う確信を持っていた。故、アンジェラが折れて戦うのを許してやるか、或いはデュランが諦めて大人しくするかの二つに一つで、シャルロットはきっと後者になるだろうと楽観していたらしい。しかし事態は予想だにしない方向へ転んでしまった。アンジェラの言葉は時折過激に聞こえるが、実際の所、中身はお姫様らしく育った人間で、仲間を毒薬で寝込ませようなど、冗談にこそ言え行動に移す筈が無いのだった。大らかで元気一杯の友達の、その変貌は一抹の恐怖さえ覚えるものであった。
「なんだか、ひとがかわっちゃったみたいでち……。もしかして、だれかに、あやつられちゃってたりしまちぇんかね?」
「でもね、それ以外は、いつものアンジェラなのよ」
 聖剣の勇者と言う意味では、デュランは命を狙われかねない人物でもあるのだが、それは仲間達全員も同様の事が言えるため、わざわざこんな手の込んだ方法で彼一人を狙うとは考え難い。そして、やり方はともかく、アンジェラが心からデュランの身を案じているのは確かだった。リースに対しても、いつもと同じく親切で、却って自分の方こそ彼女を傷付けるような真似をしていた。仲間達に抱いている心配が、そっくりそのまま自分に返って来、リースは羽飾りを撫で付けた。と思ったら、思ったより硬い感触がした。羽飾りでは無く、狼のたてがみを被っていたのだった。
「……実は、私自身も、闇の力に影響されているかも知れないの」
「ありま。リースしゃんも、だめなんでちか?」
 と、シャルロットは彼女を頭から爪先まで眺めやった。
「それが、自分ではよく分からないのよ。シャルロット、あなたはだいじょうぶ?」
「シャルロットはなんともありまちぇん。なんてったって、せいしょくしゃでちから!」
 そう言って胸を張るシャルロットを見、リースはつられて微笑んだ。自分達は少々おかしいが、この少女は依然として元気で朗らかで、こんな時に変わらない存在があると言うのは有難いものだった。
「あんたしゃんも、いっしょにおいのりしてけば? やまいはきからっていうし、おいのりすれば、ヤミのちからもなくなっちゃうかも」
「そうさせてもらうわ。こうなってしまったのは、女神様への祈りが足りないせいかも知れないから……」
「フェアリーしゃん、そんなにこころのせまいめがみさまじゃないんでちけどねえ。まあ、おいのりするにこしたことはありまちぇんよ」
 すっかり寛いだ心持ちで、リースは当初の予定が頭から抜け落ちてしまった。そのまま暫くシャルロットとお喋りをしていると、神殿の扉が開かれ、中から神官が顔を出した。二人が振り返ったのを見、優しく声を掛ける。
「王女様。司祭様がお待ちしています」
「あ、ごめんなさい」
 リースが立ち上がろうとした矢先、シャルロットがのんびりと応じた。
「ちょっとぐらいだいじょうぶでち。おじいちゃん、きょうはどうせ、ひましてるんでちょ」
「そういうわけにはいかないわ。時間はちゃんと守らなきゃ」
 そう言って、リースが立ち上がると、シャルロットも一緒に立ち上がった。そして中まで付いて来ようとするも、神官に引き止めらてしまった。
「シャルロットちゃん。王女様のご用事が終わるまで、お庭で遊んでましょうね」
 神官に促され、彼女はしぶしぶ回れ右した。行きしな顧みて、リースに手を振る。
「リースしゃん。あとでシャルロットといっしょに、おやつにしましょ。きょうはすとろべりーぱいでち」
「ええ、もちろん」
 リースも手を振り返し、シャルロットが階段を下りるのを目送してから、重い神殿の扉を押した。中は存外明るく、色とりどりの硝子越しの光が、真紅の絨毯に美しい模様を描いている。静かな身廊を歩いて行き、光の司祭に挨拶と、遅れた事への謝辞を述べた。司祭は孫に対するように、目を細めて迎えてくれた。
「ローラントの復興は順調かな?」
「はい。おかげ様で、みんな国に戻ってくる事ができました」
「それは重畳」
 司祭はまして相好を崩した。しかしてリースの深刻な様子を見ると、表情を改める。
「その様子からすると、おぬしの悩みは国の事ではなさそうじゃな」
「はい。今回は、私の友達の事で相談に参りました」
 彼女は司祭に対し、事実をありのまま伝え、其処について自身の抱いた感懐を包み隠さず披瀝した。自分やデュランの異変は勿論だが、何よりも、毒薬調合に勤しむアンジェラの豹変が不安で堪らない。もし彼女がデュランに毒を飲ませてしまったら、あの微笑ましいやりとりは二度と見られないかも知れないのである。そう考えると、居ても立ってもいられなかった。
「このままでは、大切な友達が道を踏み外してしまいます。司祭様、どうかお導きを……」
 光の司祭はふんふんと話を聞き入れ、それはさぞかしお辛い事だろうと労わってくれた。悩みが報われたような気がし、心なしか肩の荷が下りたリースに、老人はゆっくりと語り始めた。
「そもそもクラスチェンジと言うのは、マナストーンを媒体とし、世に遍く存在するマナの魔力を取り入れる事で、更なる潜在能力を引き出す事を可能とするもの……。マナの樹が若木となり、女神様が眠りについている今となっては、世界からマナが失われたのと同様、クラスチェンジの効力も、失われているはずなのじゃが」
 司祭は先程リースが話した、闇のクラスの影響に関する仮説について触れた。しかし彼女はフェンリルナイトとして、今もウールフヘジンの防具を纏い、巨人の槍を振るっているのである。
「お言葉ですが、司祭様。私達のクラスは変わっていませんし、能力も以前と変わらないままです」
「ふむ……」
 司祭は髭を撫で撫で、リースを諭すように、優しく問い掛けた。
「リース王女。そなたは槍の名手であったな」
「いえ、まだまだ若輩者です」
「謙虚な事じゃ」
 そう言って微笑み、言葉を続ける。
「その優れた手並は、クラスチェンジによって得た物とは限るまい。日々の研鑽の賜物じゃろう」
「そうかも知れません」
「ふむ」
 逡巡した様子で、老人は深く息をついた。リースにはその高尚な考えが良く分からないので、黙って次の言葉を待つ。ややあって、先と同じく、司祭はゆったりとした口調で言った。
「……ワシが思うに、そなたらのクラスは既に以前のものに戻っておる」
「では、私達の今ついているクラスは……?」
「恐らく、思い込みじゃな」
 リースは眉間に皺を寄せた。冗談のようにしか思えなかったが、司祭の顔は真剣そのものだった。
「……思い込みって、そんなまさか……」
「そうとしか考えられんのじゃ。先も言ったように、クラスチェンジで得る力は、その者に元来備わっていた潜在能力。そこには光も闇もない。未だ闇の力に傾倒していると言うのは、そなたらの思い込みに他ならん」
 一縷の望みを掛け、司祭の顔色を窺ってみたが、やはり面差しは真剣そのものだった。リースは動悸がする心臓を押さえつつ、それでも食い下がる。
「……で、でも、分身したり、地の底からマグマを呼び出す友達がいるんです」
「いやはや。思い込みでそこまでできるとは、大したものじゃのう」
 リースはもうちょっとでそんなバカなと叫ぶ所だった。しかし実際問題、女神の膝元であるウェンデルに住まい、日夜祈りを捧げるシャルロットは、全くと言っていいほど闇の力の影響が抜けているのである。更に聞くと、邪神の信仰なんかするもんじゃないと、司祭やヒースにお説教を食らった事で、彼女はあっさり宗旨を変えてしまったそうだった。
 今になって考えてみると、どうしてああ執拗なまでに魔物狩りに勤しんでいたのかが不思議に思えた。魔物と雖も、人民に被害を及ぼさなければ放っておいても何ら問題は無い。それに、ウールフヘジンの格好も変てこで仕方無いように思えて来た。狼の生皮を好んで着るなど趣味が悪い。巨人の槍は重くて使い勝手が悪く、生来手に馴染んだ三叉槍で十分なような気がして来た。そもそもフェンリルナイトと言うクラスが謎である。彼女は今までフェンリルナイトなる職務を果たした事も無いし、その前のルーンメイデンと言うのも実は理解していなかった。生まれてこの方、リースはローラントのアマゾネスに他ならないのだった。
 そうして彼女の闇の力は抜け落ちてしまったものの、友達については未だ半信半疑だった。司祭の言葉を信ずるならば、最近ステキなものを見付け、ますます生き生きと美しくなった友達が、よりによってそのステキなものを毒殺する寸前だったのも、全ては思い込み所以だと言うのである。何ならばその友達を連れて相談に来なさいと、司祭に優しい言葉を掛けて貰い、どうしても工夫に落ち切らぬまま、リースは祭壇を後にした。
 表に出ると、踊り場でシャルロットが待ち構えていた。皺の寄った紙切れを持ち、リースに向かって振る。
「リースしゃーん。シャルロットに、おてがみがきまちた。よんでちょ」
 宛名はホークアイのものだった。二人は約束通り、おやつを食べながら手紙を読む事にした。お腹が空いて待ちきれないシャルロットのため、町のパン屋までお菓子を取りに行き、仕事中のヒースにお裾分けを届けてから、神殿のテラスに向かった。ホークアイは手紙を書くのが上手で、普段は文学の小洒落た一節を引用などするのだが、シャルロットに対するそれは非常に平易である。其処に持って来て、今回に限っては削いで落としたような簡素な文章であった。未だに殆ど字の読めないシャルロットに代わり、リースが読み聞かせる。
「しんあいなる、ちいさなおじょうさんへ」
「んまっ、しつれいでちね! シャルロットがよめないとおもって、そんなことかいちゃって!」
 シャルロットが苺で頬を膨らませた。
「ごめんね、シャルロット。大事な手紙のようだから、静かに聞いてくださいな」
 大好きな苺を真っ先に食べてしまい、彼女の皿にはパイの皮とクリームしか残っていなかった。リースが自分の苺を分けてやると、少し機嫌を取り戻す。
「しかたありまちぇんねえ。ではでは、つつしんできんちょーしまち」
「ありがとう。じゃあ、読みますね」
 インクが乾かぬ内に畳んだらしく、文面が滲みだらけで読み辛い。彼女は訥々と音読し始めた。
「……きみの、げんきなすがたが、なつかしいよ。このあいだ、じゃどではなしたけんだが、まずいことになった。いま、なばーるに、デュランとケヴィンがきている」
 ホークアイによると、デュランは相変わらずの体たらくで、おまけにケヴィンまでもが彼と一緒に血に飢えて彷徨いだしたのだと言う。もはや身に染み付いた習性のようなもので、彼らは頭ではいかんと分かっていながらも、夜な夜な谷へ出掛けずにはいられないのだった。剣士は元より、変身した獣人など手の付けようも無く、止めるとなったら命懸けである。かく言うホークアイも血の気が多くなって来、うっかり二人に胴体をちょん切られぬよう、わずか一昼夜の間に四度も凶器を投げ付けて昏倒させてしまったらしい。したらばその内二人に影響され、何だか自分も谷で大暴れしたくなって来た。今は辛うじて正気を保っている。同じ内容の手紙をリースやアンジェラにも出したから、申し訳無いが君達三人で解決策を考えて欲しい。ナバールには間違っても絶対に来てはいけないと。
 読み終えたリースは血の気が引き、シャルロットもフォークを咥えたまま、パイの欠片を飲み込もうとしなかった。文面は易しいが、書かれているのは壮絶極まりない内容であった。
「……おう、なんてこったい……」
「本当に、これが思い込みなのかしら……」
 最後の一口を食べながら、リースはいよいよ考え込んでしまった。自ら戦いに勤しむケヴィンも、仲間に手を上げるホークアイも、どちらの姿も想像だに出来ない。皆がデュランに影響を受けたと言うならば、確かに思い込みが原因と考えられなくも無いのだが、それにしても度が過ぎていた。
「それどころじゃありまちぇんよ! アンジェラしゃんにしられちゃったら、デュランしゃん、えらいこっちゃでち!」
「……そ、そうよね」
 シャルロットにフォークを振り回され、彼女も慌てて席を立った。
「一刻も早く、司祭様のお話を伝えないと!」
「どうしましょ。いまから、あるてなさん、いきまちか?」
「ええ。今なら間に合うかも知れない」
 司祭や衛兵に断りを入れ、テラスにフラミーを呼び、二人は倉皇とアルテナへ飛んで行った。お付きの者達には迷惑を掛けてしまうが、もはやなりふり構っている場合では無かった。ウェンデルは流通の便が良く、何処よりも早く手紙が届くのだが、それでも数日は要する。今頃彼らがどうなってしまっているのか、考えるだけでも恐ろしかった。
 懸念は的中した。悪い事に、闇の力には彼女が最も詳しいからと、ホークアイは真っ先にアンジェラへ忍者の速達便を出していた。リース達が手紙を読んでいた時には既に、アンジェラが単身ナバールへ乗り込み、傭兵を引き摺ってフォルセナへ連れ帰った後だった。デュランも大変な事になったが、ホークアイも困った事になった。何しろケヴィンが御し難い。昼間はいつもの温順な少年だが、夜になると有無を言わせず変身するようになり、腹が減れば砂漠で牛やら駱駝やらを倒して来、暇になれば魔物を千切っては投げ千切っては投げる。デュラン達に同行する形で、ホークアイはケヴィンを森へ送って行く事にしたのだが、この有様で放っておくわけにも行かず、暫くミントスで様子を見る事になった。どうしてケヴィンがデュランと一緒にいたかと言うと、他ならぬデュランが彼と渡り合えるほぼ唯一の人間であるためなのだった。