二

 バイゼルに着いたのは翌朝だった。パロへは夜行の船で向かう事にし、朝飯代わりの軽食を取り、日が暮れるまで宿でぐっすり眠った。起き出したのは薄暮の頃で、一人がのろのろと起きると、他の皆もつられたように身を起こした。
「……みんな、メシ食える?」
 デュランが懶く頭を掻いた。周囲から間延びした、曖昧な反応が返る。
「まだ、おなか、すいてまちぇんね……」
 まだ眠いらしく、シャルロットが大きく伸びをし、仰向けに布団へ寝転がった。時間も時間だし、予め宿の主人に夕飯を頼んであるのだが、起き抜けは空腹を感じない。皆ベッドの上にしどけなく座り、寝起きの頭でぼんやりしていた。
「とりあえず、身支度をすませましょうよ。時間がたてば、おなかも空くでしょ」
 アンジェラがそう言ったのを受け、全員緩慢な所作でベッドから足を出した。布団の隅に追いやられた服を手繰り寄せ、いそいそと袖を通し、髪の長い三人は手早く髪の毛を結ぶ。
「オレのゲートル、知ってる人〜?」
 髪留めを巻きながら、ホークアイがきょろきょろした。つられて皆も周囲を見回し始めたが、唯一シャルロットはきょとんとしていた。
「げーとるって、なに?」
「ブーツにつけてるやつなんだけど……あ、あった」
 と、ホークアイはベッドの下を覗き、二枚の布切れを引っ張り出した。いつもブーツの上に履いている砂よけなのだが、昨晩は適当に脱ぎ捨ててしまい、そんな所に入り込んでいたのだった。
「……私のサークレットを、知ってる人〜?」
 リースがすまなそうに言った。額に付ける宝石が無くなったらしい。
「私の所にあるよ。ほら、昨日はずしてあげたから」
 アンジェラが宝石を手に取り、隣のベッドに置いてやった。
「あ、そうだっけ……。……眠かったせいか、おぼえてなかったわ」
 しょぼくれた顔で、リースは頭の羽飾りを撫で付けた。昨晩は余りにも眠かったし、今は寝起きでぼんやりしているしで、なかなか支度もはかが行かない。その他にも、ケヴィンの首輪が行方不明になったり、アンジェラのイヤリングが片方無かったりで、皆で布団を引っくり返して探し回った。
「シャルロットのふくのぼたん、とめてくれるひと〜?」
 シャルロットも真似をして言った。誰かが返事をする前に、アンジェラが寝台を飛び越えてそちらに行った。ベッドが弾み、シャルロットが縦に揺れた。
「ボタンをとめてください、でしょ」
「さんきゅーでち」
 何故かシャルロットの服のボタンは背中に付いている。あまつさえ、首元から背中に掛けてずらりと並んでおり、一人では着脱さえ満足に出来ない代物だった。アンジェラは呆れながらも、丁寧に一つ一つ留め始めた。そうして慌しくしている内に、段々と忘れていた空腹を思い出して来た。朝飯は軽いものだった上、昼には何も口にしていないので、とうに胃は空っぽだった。
「……おなか、へったね」
 支度の早いケヴィンは、いの一番に完了し、窓際で軽く腕を伸ばしていた。リースも装飾品を付け終わり、ベッドから立ち上がる。
「そろそろ、夕食の準備もできたかしら。ちょっと聞いてきますね」
「まって〜。シャルロット、したく、おわってまちぇん……」
 シャルロットがじたばたした。まだボタンを留めて貰っているのだが、アンジェラは其処で終わりにしてしまい、ベッドから下りた。
「じゃ、後はデュランにでもやってもらいなさい。私はごはんもらってくるから」
 そう言って、彼女とリースは部屋を出て行った。残されたシャルロットは、暇そうにしているデュランの所へ来、ベッドに座って背中を見せた。
「じゃ、よろしくたのみまち」
「お前の服、めんどくせえんだよな……」
「しょうがないでちょ。くれりっくのせーふくなんでちから」
 デュランは不器用なので、こうした細かい作業が苦手だった。嘆息しながら、さっさと済ませてしまおうと掛かったが、アンジェラは全て留めてから席を立ってくれていたのだった。後は前掛けを着せるだけとなっており、彼は乱暴に被せたきり、後は放っておく事にした。シャルロットは頭を出せず、またじたばたともがいた。
「後は自分でやんな」
「あんたしゃん、らんぼうでち!」
 怒るシャルロットをデュランは無視した。窓際のベッドにて、ケヴィンとホークアイは隣り合って座っており、何やら楽しそうに話をしていた。
「今日のごはん、何だろ?」
「港町だし、やっぱ魚じゃないか?」
「魚? 何の魚かな」
「オレ達の名前も知らないようなヤツかもよ。海の魚って、すごい色したのがいるよな」
「うん。色すごいけど、味おいしい」
 そんな話をしている所に、デュランは割って入り、ケヴィンの隣に座った。
「でもさ、ここんとこ毎回魚じゃねえか?」
 ジャドは港で取れる魚、アストリア湖周辺も魚、マイアも魚で、今まで宿屋で食べた食事は殆どが魚料理だった。デュランの故郷フォルセナでも、淡水魚が食卓に上る事が多く、調理法や種類の違いこそあれ、彼にとっては目新しく感じなかった。翻って、相手の二人は夕飯を楽しみにしていた。
「オレは飽きないけどなあ。ナバールではめったに食べられないんだよ」
「ビースト城、海の魚、食べられないんだ」
 そうした話から始まって、ケヴィンとホークアイの故郷の食べ物の話もした。二人の住む所では肉や野菜で作る料理が多いらしく、草原の国とは全く違った暮らしをしているのだった。其処にシャルロットも加わって話をした。彼女の住むウェンデルはフォルセナと気候が似通っており、幾つか共通点が見付かったが、神殿の中では聖職者らしい質素な生活を送っているそうだった。それぞれの国で違いはあるものの、パンを主食として食べたり、果物を沢山食べるのは何処も変わらなかった。
「みなさん、ごはんですよ」
 居室のドアが開き、アンジェラとリースが夕食を運んで来た。魚介と野菜を煮込んだ、具沢山の海鮮スープである。遠目からでも磯の良い香りがし、全員に行き渡るまで待ち切れないほどだった。
「このすーぷ、おかわりしてもいいんでちか?」
 シャルロットが器から目を離さずに聞いた。パンの深皿を持って来たアンジェラが答える。
「うん。パンも好きなだけ食べていいって」
「気前がいいなあ」
 スープを受け取り、ホークアイが嬉しそうに言った。六人組の旅人はなかなかの上客であったらしい。全員が座れるような机と椅子が無かったため、全部床に置いてしまい、車座になった。六人に器とスプーンが行き渡るまで待っていたのだが、皆待ち切れずにうずうずしていた。先程は魚に飽きたと嘯いていたデュランも、いざ実物を目の前にすると居ても立ってもいられなかった。
「ではでは、きょうもおいしいごはんがたべられることを、めがみさまにかんしゃいたちましょう」
 シャルロットがそれらしい口上を述べ、皆で祈りを捧げてから食事を始めた。熱々のスープを吹いて冷まし、沢山の具を一口に頬張った。あっさりした塩味が美味しい。海老と二枚貝は殻ごと煮てあり、殻を捨てるような入れ物が無かったから、器の端によけて食べた。
「お魚のアラが入ってる」
 と、アンジェラが呟いた。白身魚の頭の部分が丸ごと入っていた。出汁は此処から取れたようだ。ホークアイがにんじんを食べながら、そちらを面白そうに見やった。
「あたりだね」
「あたりなの?」
 アンジェラは首を傾げた。煮込む内に身の部分がほぐれてしまい、骨ばかりが残った頭を掬い、かじって肉をこそぎ落とそうかと思案する。其処へケヴィンが声を掛けた。
「オイラ、食べたい。くれる?」
「いいよ。はい」
 了承を得、ケヴィンはそちらに器を寄せて、魚の頭を自分の方へ移して貰った。魚が好きらしい彼は、手で摘まんで口に放り込み、頭の骨を丸ごと噛み砕いて食べてしまった。少し嵩の減ったアンジェラの分については、ケヴィンから貝や野菜を分けて貰い、貝殻を摘んで食べた。
「あ、この貝おいしい」
 感嘆の声が上がり、他の皆もつられて貝を拾い上げた。身と貝殻に溜まったスープを一緒に食べると何とも美味である。ケヴィンも流石に貝の殻は食べられず、器の端へよけていた。
 全員空腹だった。一杯目は喋るような事もせず、黙々と食べ進めてスープを飲み干した。お代わりを貰い、多少腹がくちくなると、食事以外に気を払う余裕も出、あれこれと話を始めた。
「オレ達、デュランの家にも行ったよ」
 ホークアイがそう言った。な、とアンジェラに話を振ると、彼女もにっこりして頷いた。フォルセナに滞在していた際、皆が道具屋で買い物をしている間、二人は町で情報収集に当たっていたのだが、そんな所にも行ったらしい。虚を衝かれたデュランは狼狽し、危うくむせる所だった。
「……お前達、よけいな事しなかったろうな?」
「だいじょうぶだって。な、アンジェラ」
「うん。ちょっとお話しただけだもん」
 苦々しく尋ねると、二人とも素直に頷いた。デュランの家を訪れたのは全くの偶然で、中にいた女性に聞かれて初めて気が付いたらしい。その人からデュランの知り合いかと尋ねられ、嘘をついても仕方無いから、仲間である事を正直に伝えたのだった。デュランは宿敵を倒すその日まで、家族の事は顧みないつもりでいたのだが、いざ話に聞いてみると決心が揺らいだ。
「……オレの家族、元気にしてた? 何か言ってたか?」
「元気そうだったよ。デュランが帰らない事は、わかってたみたい」
 アンジェラが答えた。
「そうか」
 と、デュランは少し俯いた。ステラおばさんはデュランの事を誰よりも分かってくれている。そうした所も、今は何故だか寂しく感じられた。隣のシャルロットが、相変わらず食事に集中しながらも、ちらりと彼の方を見た。
「デュランしゃん、ほーむしっく?」
「そんなんじゃねえや」
 言下に否定し、デュランはスープを一気に飲み干した。続いてパンを掴み取り、かぶりついてもちもちと食べ始めた。硬めのバゲットで、そのままよりもスープに浸して食べる方が美味しそうだった。
「あの人がデュランのおばさん?」
 ホークアイが聞いた。丁度デュランはパンを口一杯に頬張っており、返事をするのが少し遅れた。
「ああ」
「へえ、あの人がそうなのか」
 と、彼は得心が行ったように頷いた。家族については以前ちょっと話した程度だが、ホークアイは覚えていたらしい。
「おばしゃんって、なんだっけ? おかーたまの、おかーたま?」
「お父様やお母様の、姉妹の事よ」
 シャルロットが首を傾げると、向かいのリースが答えた。
「母さんの姉だよ。両親が死んでから、ずっと面倒みてくれてんだ」
 デュランも付け足したが、シャルロットは相変わらずまじくじしていた。
「デュランしゃんの、おかーたまの、おねーたま……?」
 六人の中でも、デュランの他は、両親どころか親戚すらいないらしい。そのため、伯母と言うのがどのような存在であるのか、今一つ想像が付かないようだった。パンを千切りながら、またホークアイが話を続けた。
「それと、デュランの妹もいたよ。窓からちょっと見えた」
「えー、私見てないのに! どんな子だった?」
 アンジェラが身を乗り出した。どんなと言われ、ホークアイはデュランの顔をちらりと見た。
「デュランには似てなかったよ」
「じゃあ、かわいかったのね。いいなあ」
 アンジェラはデュランの妹が気になるようで、詳しい話を聞きたがった。何と無く話す気にならず、デュランは名前しか教えなかったので、ホークアイが代わりに説明した。曰く、デュランの妹は金髪で可愛らしく、見た目はシャルロットと同じくらいか、それより少し大きな女の子だったそうである。そんな説明を聞き、シャルロットが立腹していた。デュランとしては、妹が元気にしている事に安心した。何も言わずに出て行った上、最後に顔を合わせた際、酷く情け無い姿を見せてしまったので、内々どうしているか心配だったのだ。
「……きょうだい、いいな」
 少し羨ましかったらしく、ケヴィンが言った。
「デュランさんの妹さん、いくつなんですか?」
 パンをスープに浸しつつ、今度はリースが聞いた。
「オレより五つ下だから……十二さいかな」
「あ、私達と同じなんですね。私と弟も、五さい違いなんですよ」
 と、彼女は顔を綻ばせた。デュランもつられてちょっと笑う。
「いいよな、男のきょうだいって。オレも弟がいたら、いっしょに剣術の特訓したかったぜ」
「でも、妹さんもかわいいでしょ?」
「……まあ、かわいくない事もないけどさ」
 にこにこしたリースに言われ、デュランは口籠もった。自分の妹を可愛いと認めるのは複雑なものがある。少し黙っていると、周りの皆が何だかにやにやしているのに心付き、威勢良くスープの器を突き出した。
「おかわり!」
「シャルロットも!」
 シャルロットも一緒になって突き出した。差し出されたアンジェラは不服そうな反応だった。
「自分でもらってきなさいよね」
 口ではそう言いながら、彼女は二人の器を持ち、お代わりを取りに行ってくれた。アンジェラが出て行ってしまうと、束の間会話が途切れ、静かになる。最前リースの弟の話が出、本人は気にした素振りを見せないようだが、デュランはその所在が気に掛かった。
「お前の弟、今ごろどこにいるんだろうな……」
「でも、手がかりがありましたから」
 リースの反応は存外明るかった。
「つらい思いをしていないか、心配ですけど……それでも、生きている事がわかっただけで、今は十分です」
 此処で自分が気に病んだり、焦ったりしてもどうしようも無いからと、彼女は思い悩まないようにしているらしい。仲間に心配を掛けないよう、気丈に振る舞っているのだった。他の皆も本人がそうならと、なるべく神妙な態度を取らないようにしていた。
「ま、げんきだしなちゃい。つぎは、ろおらんとのおしろ、とりもどせまちから!」
 シャルロットが景気を付けるように言ったが、リースは一転して真剣な表情になった。
「……それは、むずかしいと思うわ」
「どちて?」
 シャルロットがきょとんとし、それにはホークアイが答えた。
「ローラント城には、イザベラ達がいるだろう。ヘタに刺激しちまうと、後でめんどうな事になるよ」
「ええ。今は精霊を探す事だけを考えて、穏便に行きましょう」
 リースも頷いた。ローラント再興については、マナの女神に願いを叶えて貰うと言う希望があるので、今すぐに果たさずとも構わないらしい。そのためには、何より無事に聖域まで辿り着き、マナの剣を抜かなければならないから、出来る限りの安全策を取りたい所なのだった。そうは言ったものの、ホークアイもリースも、奥歯にものの挟まったような口振りだった。
「穏便に……なあ。できると思う?」
 と、ホークアイがリースを横目で見やった。リースも考える素振りをし、曖昧に首を傾げた。
「……どうでしょ」
 二人とも、どんな顔をしようか迷った挙句、ばつが悪そうに苦笑いを浮かべた。どちらも温厚なので表には出さないが、内心腹に据えかねているらしい。アンジェラの手前、アルテナへの反感は抑えているものの、デュランにもその気持ちは分かった。
「お前達が暴れちまっても、ケヴィンに止めてもらえばいいよ。安心して暴れな」
「オ、オイラ?」
 卒然話を振られ、ケヴィンがまごついた。と、丁度その時、アンジェラが扉の向こうから、開けて欲しいと声を掛けた。今の今までアルテナの事を考えていたので、デュランは少々ぎこちない素振りで、立ち上がって迎えに行った。アンジェラは二人分のお代わりをたっぷりよそってくれていた。室内へ入ると、何とも言い難い雰囲気に感付き、不思議そうな顔をする。
「何の話?」
「ホークアイしゃんとリースしゃんが、おおあばれして、ケヴィンしゃんがとめるんでちって」
 シャルロットが答えたが、彼女にはちんぷんかんぷんで、眉を顰めた。
「よく分かんないんだけど……」
 それから結局、全員がお代わりをする事になり、熱々のスープを山ほど飲んだ。
 かかるほどに食事が終わった。食器を片付けてから部屋に戻り、皆満足そうに息をつきながら、自分の寝ていたベッドに座った。お腹一杯で暫く動けそうに無かった。シャルロットは靴を脱いでしまい、ベッドの上で大の字になっていた。
「寝ちゃダメだからね。船に乗るまではガマンしてちょうだい」
 その様子をアンジェラが見咎め、声を掛けた。シャルロットは目だけそちらに向け、相変わらず寝転んだままでいる。
「寝ちゃったら、オレがおんぶしていってあげるよ」
「けっこうでち」
 ホークアイが親切に申し出たが、シャルロットはそっぽを向いてしまった。寝ていない事を示そうとしてか、忙しなく左右に寝返りを打ち始め、転がっているようだった。
「夜だから、ねむい?」
 ケヴィンの目がまた光った。室内は薄暗く、日の光が届かぬ時刻になっていた。丁度その時、リースが燭台を借りて戻って来、室内がぼんやりと明るく染まった。蝋燭を暖炉の上に据え、彼女も自分のベッドに座った。
「夕方に起きるのって、ふしぎな感じね。一日があっというまだわ」
「みんな、昼間、寝ないんだね」
 ケヴィンが呟いた。月夜の森の出身なので、普通の人間と少し感覚が違うのだった。
「ドロボーは、みんなウィスプの刻に寝てるんだよ」
 ホークアイが言った。盗人の昼寝と言うものらしい。リースが体をずらし、見返る形で彼を向いた。
「ホークアイも、お昼に寝てるんですか?」
「いや、オレは健康的なドロボーなんだ」
 と、楽しそうに笑った。ホークアイは普段早寝早起きで、盗みに入る晩のみ夜更しするのだった。一仕事終え、要塞の仲間に挨拶してから、部屋に戻ってぐっすり寝るのが楽しみになっているらしい。夜に弱いデュランにとっては、羨ましく思えるような話だった。
「夜更かしして、眠くなんねえの? オレ、いまだに夜番がニガテなんだけど」
「仕事が楽しいからな。ワクワクして、眠いどころじゃないんだよ」
 ホークアイは事も無げに返した。一方のデュランはまして羨ましく、頭を掻いた。
「オレも、仕事は楽しいんだけどな……」
 其処まで話して、彼は今の自分が傭兵では無い事を思い出した。戦うしか能の無い自分が、まさか兵士の職を辞そうなどとは予想だにしなかった。しかし、此処で英雄王陛下の期待に応える事が出来れば、以前よりずっと陛下の覚えもめでたくなるのである。そう考えると、魔導師を打ち倒し、マナの剣を手に入れると言う宿願を遂げ、いつかフォルセナに帰るその日が楽しみで堪らなかった。そこはかとない郷愁に耽っていると、今までシャルロットと話していたアンジェラが、デュランのそばへ来た。
「ねえ、シャルロットが寝ちゃいそうなんだけど……。船はいつ出るの?」
 シャルロットはいつの間にかうつ伏せになっており、じっと動かないまま、背中の辺りが呼吸で小さく上下した。何と無く休むような気分でいた一行だが、其処で漸く初心を思い出した。
「オレ、ちょっと聞いてくるよ」
 ホークアイが立ち上がり、颯爽と部屋を出て行った。アンジェラはまたシャルロットの所へ戻ったので、デュランもそちらに行き、寝た子の顔を覗き込んだ。シャルロットは寝返りを打ち、今度は横向きになっていた。デュランが目の前で手を振ってみたが、反応が無い。
「起きてるか?」
「おきてる〜」
 すぐに返事があったものの、殆ど反射的に声が出たようなものだった。デュランとアンジェラは顔を見合わせ、どうしたものかと考えた。
「少し寝かせてあげましょう。出航の時間になったら、起こしてあげればいいんだから」
 其処へ、リースが優しく声を掛けた。それで二人も、無理には起こさない事にし、自分のベッドに戻った。他の皆が気を遣って、なるべく小さな声で話していると、シャルロットはまた寝返りを打ち、丸くなった。
「おんぶしていく?」
 すやすや眠る彼女を見て、ケヴィンが皆に尋ねた。すると、シャルロットがのろのろと身を起こした。
「おんぶはいりまちぇんってば……」
 取り敢えず起きてはみたものの、どうしても眠気を払いきれず、目を細めてぼんやりしていた。
「うー、ねむたいでち……」
「もうちょっとだから、がんばって起きてなさい」
 と、アンジェラがまた隣へ行き、両手でシャルロットの頬を挟んで揉み始めた。柔らかいので良く形が変わる。シャルロットが逃れようと体を捩ったが、アンジェラは彼女を押し倒してしまった。
「こら、やめなちゃい!」
 両側から頬を寄せ上げられ、くぐもった声を上げるシャルロットに、アンジェラは意地悪そうに笑った。
「こうすれば眠くないでしょ」
「やりかたってもんがあるでちょ! リースしゃん、たちけてー!」
 リースに助けを求めるも、彼女も笑いながらそちらに行き、アンジェラに促されるまま、シャルロットの頬を両手で包んだ。
「眠気はなくなった?」
「うらぎりもの〜!」
 リースはますます笑い出し、丸い頬を摘まんで揉み始めた。そのまま、シャルロットはすっかり二人に遊ばれてしまった。面白い光景を、デュランはにやにやしながら眺めていたが、ふと後ろを顧みると、ケヴィンが自分の頬を手で挟んでいるのが見えた。シャルロットほど頬が豊かでは無いから、揉むと言うより押すような形だった。デュランと目が合うと、彼はばつが悪そうにそろりと手を離した。デュランも試しに自分の顔を触ってみたが、改めてシャルロットの柔らかさに感心した。
 ホークアイはすぐに戻って来、慌てた様子でドアを開けた。
「おーい、あと十分だってよ!」
 言うなり、部屋へ入って自分の荷物を引っ掴んだ。驚く間も無く、他の仲間もばたばたと荷物を掻き集め、一目散に港へ走った。どうにか出航前に乗り込む事が出来、息を整えている間に船が動き出した。ゆるりと船体が揺れ、夜の風が吹き抜ける。デュランは舳先の方にいるのが好きで、ケヴィンやホークアイと一緒に遠ざかるバイゼルの町を眺めていたら、アンジェラ達もやって来た。シャルロットは娘二人に手を繋いで貰い、目をしょぼつかせていた。アンジェラがその様子を見ながら、デュラン達に向かって言った。
「シャルロット、やっぱり眠たいみたい。先にお部屋に行ってるね」
「ああ。連れていけるか?」
 シャルロットは今にも船を漕いでしまいそうで、部屋まで歩いて行けるか心配なほどだった。デュランが尋ねると、うつらうつらしていた本人が顔を上げた。
「コドモじゃないんでちから、ひとりでもだいじょうぶでちよ」
「ならいいけど、コケるなよ」
「こけまちぇん」
 と、口を尖らせたが、やはり眠気に勝てないらしく、語気は弱かった。一人でも歩ける事を示そうと、腕を振って手を解こうとする。アンジェラは離さなかったが、リースはすぐに繋いだ手を離した。
「私達もお部屋にいますね。何かあったら、呼んでください」
「ああ。オレ達もすぐ行くよ」
 ホークアイが応じた。
「シャルロット、おやすみ」
「おやすみなちゃい」
 ケヴィンも挨拶し、シャルロットが小さく手を振った。彼女の歩調に合わせ、アンジェラがゆっくりと手を引き、リースがその後ろを付いて行くようにして、三人は甲板を下りて行った。残った方は、並んで欄干に手を掛け、何と無く景色を眺めていた。まだ日の落ちたばかりの夜で、空に雲が浮かんでいるのがはっきりと見えた。
「オイラ達も、寝る?」
 ケヴィンが二人の方を見た。デュランが頷く。
「今のうちに寝といた方がいいかもな。たぶん、ローラントでも大忙しだぜ」
 これまで行く先々で事件に出会したのだから、勿論ローラント地方も例外では無い筈である。眠くは無いが、フォルセナで反省した分、休憩は取れる内に取っておくつもりだった。ホークアイにもどうするか聞いてみたが、彼は上の空で、遥か遠くの水平線を眺めていた。
「ローラントか……」
 と、憂鬱そうに息をついた。
「……さっきはああ言ったが、オレ達が風の精霊を探すとなったら、イザベラが見逃すはずはないと思うんだ」
 其処でホークアイは二人の方を向き、声を低くした。リースに聞いた話では、風の精霊に会うためには、ローラント城の制御装置で風を操らねばならないらしい。現状、城はナバール軍に制圧されており、制御装置を使うとなれば、当然連中と事を構える虞があった。
「ホークアイ、戦える?」
 ケヴィンが心配して聞いた。
「ああ。覚悟はしている」
 ホークアイは決然と応じた。峰打ちとは言い条、ナバールを脱走した際、並み居る忍者を斬り倒して進んだせいで、覚悟を決めるも今更なのだった。それでも、仲間を倒すと言うのは胸中複雑で、表情は明るいとは言い難かった。
「しかし、考えようによっちゃ、イザベラって女をたたき斬るいい機会じゃねえか」
 デュランは慰めたつもりで言ったが、あまり効果は上がらなかった。
「……ジェシカの事があるから、斬れないんだよ」
 と、彼は視線を落とした。幼馴染の少女に掛かっている呪いの影響で、イザベラに危害を加えると彼女の命さえ危うくなる。ジェシカと言うその娘は、亡き親友にも頼まれた大切な人なので、毛ほども傷を付けるわけには行かないのだと。そんな旨を話し、ホークアイはまた二人の方を向いた。
「だから、みんなも頼むよ。イザベラだけは斬らないでくれ」
 そうは言ったものの、ホークアイはうなだれた。
「……でもオレ、あいつの顔見ちまったら、ガマンできないような気がする」
 再び大息し、欄干に身を投げ出した。珍しく気落ちした風だった。いつも明るく振る舞っており、気楽で余裕があるように見えるのだが、ホークアイの事情も散々なものだった。海に落ちそうな格好で脱力する様子を見、仲間達は同情を寄せた。
「……おまえ、苦労してるよな」
「ホークアイ、元気だして」
「ありがとう」
 そのまま暫く、ホークアイは身を投げ出していたが、不意に気を取り直して立ち上がった。
「それじゃ、オレは船室に行くとするよ。君達もいっしょに行かないか?」
「オレ、後でいいや」
 と、デュランは断った。
「ケヴィンは?」
 ホークアイは今度ケヴィンに尋ねた。ケヴィンはちょっと二人を見比べたが、同じく首を振った。
「オイラ、デュランといっしょにいる」
「そうか。じゃ、また後で」
 ホークアイは軽く手を挙げて挨拶し、一人で甲板を下りて行った。残ったデュランは、手摺りに凭れ掛かり、杳として青い海原を見下ろした。船の灯と月明かりを反射し、波が時折煌めくのだが、てらてらとした質感で何と無く不気味に感じる。辺りは暗闇だが、これがまだ見ぬローラントに続いているかと思うと、デュランの気持ちは浮ついた。ケヴィンはホークアイの去った後を見ていたが、デュランの表情に気付いて言った。
「デュラン、うれしそうだね」
「うれしいさ。何たって、英雄王様に信頼していただけるんだからな」
 主君の命を救い、その人に激励の言葉を貰って旅立つと言うのは、仕える者にとってこの上無い喜びなのだった。紅蓮の魔導師に逃げられた事さえも、却って彼の気勢に発破を掛けている。最初はとんでも無い事件に巻き込まれてしまったと思っていた聖剣の旅だが、慮外にもデュランの運命に好影響を果たしていた。そんな話を聞き、ケヴィンも口元を緩ませた。
「オイラもうれしいよ。トモダチ、たくさんいる。旅もたのしい」
 そう言ってにっこり笑い、海の方に目を移した。
「ローラント、リースの生まれた所。オイラ、行くのが楽しみだよ」
 ケヴィンはデュランに、リースから聞いたらしい、ローラントの話をしてくれた。風の国ローラントは、険しい山岳地帯の尾根に位置しており、眼下に山脈の裾野を見下ろす勝景がとても美しいのだと言う。聖なる山には優しい風が吹き、空には翼あるものの父と言う霊獣が飛び巡るそうだった。リースの気に入っている、夕日が最も近くに感じられる山の峰に、ケヴィンはいつか案内して貰うと約束していた。そう聞かされると、デュランもローラントを見るのが楽しみになった。
「……でも、いやな気配を感じるよ。油断しないでね」
 澄んだ声が聞こえ、フェアリーが中空に現れた。薄い羽根から青い粒子を散らしながら、手摺りに腰掛ける。ゆったりとした仕草を、デュランは少し心配しながら見守った。
「出てきてだいじょうぶなのか?」
「うん。フォルセナはマナの力が強くて、すごしやすいよ」
 と、足を揺らした。言う通り、彼女はいつもより元気そうで、身に纏う光も仄かに明るかった。フェアリーはマナの減少による影響か、外に出ていると調子を崩す事が多く、普段は宿主のデュランの中で休んでいる。体が小さい分、人間より繊細に出来ているようだった。ケヴィンは彼女に顔を近付け、つくづく見詰めた。フェアリーも彼を見返した。
「ローラント、平和になったら、フェアリーも元気になる?」
「そうかも知れないわ。平和な場所は、マナのエネルギーを強く感じるの」
 フェアリーが答えると、ケヴィンは奮起した様子でデュランを見た。
「がんばって、ローラント平和にしよう! フェアリーも、リースも、元気だすよ」
「そうだな。いっちょがんばってみるか」
 デュランも意気込んで頷いた。フォルセナが無傷でいられたのも、他ならぬ仲間の協力あってのものである。出来るならばその礼がしたかった。
「ありがとう」
 フェアリーは笑ってくれたが、反面気掛かりな風でもあった。
「でも、ムリはしないでね。リースも言ってたけど、一番大切なのは、みんなが無事でいる事なんだから」
 そう言って、彼女は体の向きを変え、海の方に目をやった。細い銀髪が潮風に揺れる。その隣にケヴィンが手を突き、フェアリーと同じ目線で海を眺めた。自然、デュランから二人の横顔が見えるようになったが、揃って何とも楽しげだった。デュランの気分も相変わらず頗る良い。
「いよいよ、本格的に旅が始まるって感じだな」
「今まではちがったの?」
 と、フェアリーが意外そうに聞いた。
「オレにとっては、ウェンデルに行ってフォルセナに帰っただけなんだぜ。ほんの前哨戦みたいなもんだ」
「……前哨戦、大変だったね……」
 ケヴィンが道中を思い返し、渋い顔になった。蓋しく、二体の精霊を仲間にするだけでも、順風満々とは言い難い旅路であった。デュランも真剣になる。
「これからは、もっと大変なんだろうな。心してかからなければ」
 三国が動き出したのはもはや明白であり、思わぬ所で掣肘される危険を孕んでいる。それらの手を掻い潜りつつ、精霊の足跡を追って旅するとなれば、かなりの骨になりそうだった。穏便に、とまでは行かないものの、デュランは極力冷静に対処する心積もりだった。今や、この度は自分一人だけのものでは無かった。
「みんなで、がんばろう」
 と、ケヴィンが手摺りから身を乗り出した。
「ああ、残りの精霊も、とっとと探しだしちまおうぜ」
「うん」
 ケヴィンは頷き、半ば顧みるような形で、フェアリーの方を向いた。
「フェアリー。聖域、すぐ帰れるよ」
「ありがとう」
 と、フェアリーは嫣然と笑った。
「私も、みんなの役に立てるように、がんばるね」
 そう言って、彼女はデュランとケヴィンの顔を見た。二人も強く頷いた。

2015.11.28