四
フリンはハン・ノヴァの回廊を歩いていた。彼はギュスターヴのそばを離れ、諜報の仕事を選び市井に伍した。其処には上流階級に対する気後れがあった。親しい友達はみなそう言う立場の人間で、しばしば参加の機会があったにも拘わらず、結局避けてばかりで慣れなかったのだ。旧知の友には会いたいけれど、貴族には会いたくなかった。
折悪しく、反対から人がやってきた。遠目からでも凛とした佇まいが窺える。一瞬フリンは回れ右しようかと躊躇ったが、ギュスターヴの叱咤を思い出し、臆面無く通りすがろうと決心した。ところが、相手の貴族はケルヴィンだった。しかも供する侍女はレスリーである。こちらを認めると、相好を崩した。
「フリンか」
気が楽になったフリンは、足早に歩み寄った。久々の邂逅だった。
「ケルヴィン、帰って来てたんだ」
「見張っていないと何を仕出かすか分からん奴がいるからな」
と、ケルヴィンは皮肉を言った。伺候に訪れたらしい。
「マリー様は元気?」
「ああ。お前や兄上に会いたがっていた」
「そっか。嬉しいな」
結婚してから、ケルヴィンは細君を伴い、久方振りにヤーデへと引き取った。レスリーも彼に付き従い、実家へ顔を見せている。丁度同じ頃、フリンも所用でナ国を訪れたのだが、全く帰郷の感は覚えずしまった。どうせならグリューゲルで無くヤーデの町に寄れば良かったのだが、いずれにせよ、誰もいない場所では寂しいばかりだったろう。フリンにとっての愛着は、土地そのものでなく、其処にいた人々に依拠するためだった。何処であろうと、ギュスターヴのいるところが彼のいるべき場所なのだ。
「そうそう、ギュス様に用があるんだ。部屋にいる?」
ケルヴィンが眉間に皺を寄せた。隣のレスリーは澄ましている。てんでんばらばらな反応に、何となくフリンも察した。恐らくまた町まで下りて、遊びに出掛けてしまったのだろう。
「いないんだね」
「そう言うことだ。悪いが、出直してくれ」
多分彼はさっさとギュスターヴに会って、妻の待つ領地に帰りたいのだ。自分が一途なことにもつけて、ケルヴィンは放蕩に良い顔をしなかった。フリンにもケルヴィンの噂は届いている。何でも騎士の如く王女に尽くし、花嫁も応えるように労り慈しんでいるのだと。聞いた時は何だかおとぎ話みたいな話だと思ったものだが、強ち誇張でも無さそうだった。ケルヴィンのマリーに対するまめまめしさは、単純に好意からだけでなく、彼女が受けた不遇への配慮、ソフィーとギュスターヴに対する恩義、複雑な感情が輻輳して形を成している。何せマリーの出自が出自であるから、ケルヴィンはナ国への忠誠を示すため、事によってはギュスターヴを手に掛けるも厭わないと、主君に誓ってみせるほどであった。
ケルヴィンとショウ王の盟約を諜し、ギュスターヴに報告したのはフリンその人だった。絶対に有り得ないとは承知しているし、当人同士も覚悟ずくで話を進めたのだろうが、やはりフリンはギュスターヴの味方が減ったように感じた。レスリーが向こうに連れて行かれてしまったので、尚更である。しかしギュスターヴは当然だと言った。家族だとか伴侶だとかの関係を知らないフリンでも、彼の気持ちは分かる。かつてソフィーが全てを擲ってさえ我が子を守ってくれたからであり、ケルヴィンもそのことを念頭に置き、親友が理解を示すと踏んだ上で、マリーに尽くすと決めたのだろう。愛情とはそうあるべきものなのだ。それでフリンも、寂しいなりに自分を納得させた。
二人が歩みを進めるので、勢い、フリンも付いて行くことになった。客間に案内すると誘われて、どうしたものかと逡巡する。決めかねた挙句、ずるずるに同じ方向を歩いた。途中、臣下だか何だかが一礼して過ぎゆくのを見、ありがたいような居た堪れないような気分がして、心臓がどきどきする。すれ違う人はみな、先に立つケルヴィンは勿論、後に従うレスリーと、フリンまでにも丁寧に挨拶してくれた。戸惑いながら返礼する彼に、レスリーが口添えする。
「堂々としてなさい。礼儀を尽くす必要はあるけど、気後れする必要は無いわ」
言われた通り、フリンは背筋を伸ばした。彼女は割と淡白で、言う事は端的かつ率直ながら、手を差し伸べてくれるような優しさを内包する。ギュスターヴを窘め、フリンを叱咤し、両者を労ってくれる、そんな役目はいつしかレスリーが担っていた。彼は其処に郷愁を見た。
「……レスリー、何だかソフィー様に似てきたね」
レスリーはまじくじしてフリンを見詰めた。段々と言葉が沁み込んで行くように、彼女はゆるりと破顔する。
「フリンだけよ、そう言ってくれるの」
不意を打たれて若干含羞んだものの、レスリーは淑やかに笑った。見慣れている筈のフリンも、ちょっとどきまぎするような美しさだった。彼女は大体、フリンが初めて会った時のソフィーと同じ年頃になる。美しく聡明な人となりに持って来て、豪商ベーリング家の息女とくれば、世の人が放っておく筈が無い。妙なものに寄り付かれないか心配だが、容喙するのは憚られた。ギュスターヴが怒るのだ。どうせならケルヴィンでなくギュス様に付けば良いのにと、フリンは不思議でならない。
「なあレスリー、侍女ってどんな仕事するの?」
「大したことはしてないのよ」
おしなべて、侍女は主人の身の回りの世話をする。然はあれど、この主人は一切を手ずから行うのが身上で、人の手を借りるのは恥であると捉えている節がある。昨今は殆どマリー付きとなっているが、ケルヴィンに対しては雑用をしたり、衣装の見立てをしたりするのが主たる仕事だった。
「最近はマリー様に相談することが多いわね。今着てるのだって、マリー様が選んで下さったの」
すると、ケルヴィンが足を止めたので、二人は彼を追い抜かした。顧みると、負傷の具合でも見るような神妙さで、袖口の辺りを見下ろしている。いつも青い服ばかり着ているのが、珍しく紅茶みたいな色をしていた。これが先般フリンの隠れようとした理由で、遠目からは別人のように見えたのだった。若主人はちょっとの間そうしていたが、思い出したように再び歩き出した。いつも以上に真面目くさった顔付きである。元の並びに戻った後、レスリーが目線で、素直じゃないのよと教えてくれた。彼女に言えたことでは無いと思う。
フリンはある女性に会いたくなった。長らく親しくしている女中の子で、理由もなく顔を見せに行っては、他愛も無い話をしたり、綺麗な物をあげたり、食べ物を分けて貰ったりする。見た目は繊細ながら、芯の強いしっかりした女性で、何の約束もしていないにも関わらず、フリンが会いに来るのをいつも待っていてくれる。ギュスターヴに見付かったら、彼はにやりとして、お前もあんな人が良いのかと、存外優しく冷やかされた。詰まるところ、みんなソフィーに憧れていて、レスリーとマリーを好きだったのだ。