後
昼飯を食べ、少し休んでから、アルスとマリベルは再び負傷者の救護に当たった。体力に乏しい一般市民や、疲弊しきった兵隊は、魔法を掛けても思わしき効果が上がらない。アルス達は町の神父と協力し、三人がかりで治癒の魔法を唱え続けたが、瞬く間に魔力が底を突いてしまった。賢いマリベルは、傷薬ややくそうを使った手当てを即座に体得し、ホイミを休んで魔力を蓄えている間、それらの道具を用いて治療を行い、片時も手を休めなかった。アルスも精一杯手を貸したものの、昼間の斬首が堪えたのか、段々目眩を覚えるようになったので、程々で宿に帰された。防壁の中からは見えなかったが、既に辺りは真っ暗で、細い月が南の空に浮かんでいた。
外に出て、冷たい空気を吸ってみると、アルスは忽ち気分が良くなった。防壁内部の人いきれと、血腥い視覚的な刺激にやられていたのかも知れない。痒くて仕様が無く、包帯の上から引っ掻いていた首の傷も、体が冷えたら落ち着いた。元気になったので、防壁に戻ろうかと思ったが、マリベルにお説教を食らうに違いないから、やめておいた。無理して倒れでもしたら、説教や小言では済まないだろう。そうしてとうとう暇になったアルスは、帰り際、見張りをしているキーファの様子でも見に行こうと、南東の見張り櫓に歩いて行った。櫓に上がるには、一旦防壁に入り、屋上を上がって行かねばならない。アルスは寝ている人達を起こさぬよう、そっと屋内へ忍び込み、階段を使って屋上に出た。首を伸ばして見張り櫓を見上げると、案の定キーファが座っていたので、アルスは梯子に槍を引っ掛けないよう、注意して櫓に登った。南の森を見ていたキーファは、アルスに少し視線を寄越した。
「おっ、アルスか」
「おつかれさま。ガボは?」
隅に兵士が座っているのを見付け、アルスはそちらを避け、キーファの隣に立った。
「宿屋で、もう寝ちゃってるよ」
宿代はキーファが払ってくれたと言う。ガボは目と鼻が利くので、見張りとして重宝するのだが、反面、眠くなると忽ち船を漕ぎ始めるため、夜番には不向きだった。だから一人で此処に立っているのだと、キーファはそう言って、兵士を見張りの頭数に入れなかった。アルスは兵士の様子が気に掛かった。櫓の壁面に凭れ掛かり、ざらついた、浅い呼吸を繰り返している。軽装と言うよりは、防具を全く着けていない。以前見掛けた顔なので、恐らくフォロッド城の兵士なのだろうが、負傷して部隊から外された者のように見えた。キーファも気にしていたらしく、声を低くした。
「なあ、アルス。この人のケガ、治してやってほしいんだけど……」
「いいんだ。おれのことは気にしないでくれ」
兵士は絞るような声を出した。彼はからくり兵の襲撃で重傷を負った兵士だった。本人曰く、今は感覚が麻痺しており、却って治した方が痛みを感じて辛いのだと言う。気の毒なことに、ベッドの上で寝ていても、空耳に敵の足音が聞こえ、まんじりとも出来ないし、漸くとろとろしたと思えば、高熱で魘されてすぐに起きてしまうらしい。居た堪れずに、痛みから逃れるように宿舎を離れ、彷徨った挙句、此処に落ち着いたのだった。その体で良くも梯子を上れたものだった。アルスも治してやりたいのは山々なのだが、今の自分は、どう足掻いてもルーラの一つさえ唱えられないような状態だった。
「僕、魔力がカラッポなんだ。マリベルを呼んでくるよ」
「いいんだって。本当に、大したケガじゃない」
と、兵士はアルスにおっ被せるように言った。弱っているせいか、如何にも必死な様相で、押しの弱いアルスは頷く他無い。痛ましいが、本人が欲する通り、そっとしておく事にした。
静かな夜だった。空気は冷たく澄み切っている。この町は今日の朝方、からくり兵の大軍に蹂躙されたと聞くが、それらは何処へ行ったのやら、影も形も見えなかった。ひとまずは安心と言うことだが、津波が押し寄せる前触れのような、不気味な静けさであるとも感じられた。アルス達がこの世界にやって来たからには、国家滅亡こそ免れるのだろうが、救われるまでにどれほどの被害が及ぶのかは未知数である。トラッドがゼボットの説得に成功し、この膠着状況を打破する切っ掛けになれば良いと、アルスは祈るような気持ちでいた。
「……あ、あそこにいる」
キーファが双眼鏡を覗き込んだ。アルスも目を凝らして、彼の視線の先を追ってみたが、森は凝然とした黒い塊にしか見えず、さっぱり分からなかった。取り敢えず槍を構え、臨戦態勢を取る。
「こっちに来る?」
引き続き双眼鏡を覗きながら、キーファは右手を伸ばし、自分の武器を手繰り寄せた。
「いや、遠いな。うろついてるだけだろう」
町を狙って襲撃して来るからくりと、単にうろついているだけのからくりは、様子からして違っている。前者は統制の取れた、一糸乱れぬ動きで前進するが、後者はうろうろしながら首を巡らし、如何にも落ち着かない風で徘徊している。今見付けたのは後者だった。よって、件のからくりに脅威は無く、キーファは双眼鏡から目を離した。そばで聞いていた負傷兵も、詰めていた息を吐き、足を伸ばして楽な格好になった。アルスはちょっと気になったので、双眼鏡を覗き込み、からくり兵が彷徨う姿を目視した。影のような漆黒の姿に、赤い目ばかりが炯々と光り、恰も幽鬼のようである。其処から視点を上に向けると、星空が大きく映し出され、小さな粒々まで良く見える。再び視点を森に落とすと、真っ黒な塊が眼前に迫り、不気味な感じがして面白い。アルスは双眼鏡で遊び始め、木を見たり星を見たりした。
「なあ、アルス」
卒然キーファに声を掛けられ、咎められたかと思い、アルスは双眼鏡から目を離した。しかしキーファはこちらを見てはいず、アルスの持って来た鉄の槍を弄んでいた。自分の斧は肩に引っ掛け、槍を伸ばしたり、手元に手繰り寄せたりしている。何度も敵の攻撃を受け止めたせいで、柄は傷だらけで、真ん中から少しだけ曲がっており、刺すには歪みを計算しながら使う必要があった。
「お前も鉄のオノにすれば? けっこう使いやすいぜ」
「僕はいいよ」
「なんで? まさか、重くて持てなかったりして?」
と、キーファはちょっと侮るように言った。
「からくり兵のオノだろ。それで、誰かが斬られたかも知れないし」
アルスが答えると、キーファは目を丸くして、自分の斧を見やった。人を斬っていよう筈も無い、研ぎ澄まされた綺麗な刃先である。
「怖いこと言うなよ〜! 本気にしちゃっただろ!」
笑いながら、アルスに槍を投げて寄越した。からくりは遮蔽物を考えず、遮二無二腕を振り回すから、武器が酷く痛んでいる。刃毀れや傷の無い、未だ使われていないものを見付けるのは至難の業で、キーファの装備する斧は運良く見付かった一つであった。アルスは自分の槍を気に入っているから、わざわざ新品の斧を探し出すつもりは無く、よしんば見付けたとしても、ガボに譲ってしまうつもりだった。武器の使い勝手は好みにも左右されるので、キーファはあっさり納得した。
「まあ、次の世界に行けば、もっといい武器が手に入るだろうしな」
こいつとも短い付き合いだろうと、キーファは斧の背を叩いた。
「次の世界はどんな所だろうな? ちょっと気が早いけどさ、オレ、今から楽しみだよ」
そう言って、機嫌良さそうに空を振り仰いだ。北の山際に、フィッシュベルでは見たことの無いような、一際明るい星が瞬いていた。異国の地に於いては、空の様相すら全く違って見えるのである。アルスは心なしか、故郷の村が床しく感じられたが、キーファはそうでは無いようだった。
「こうやって、旅をしながら人を助けて、平和になったらまた旅に出て……っていうのを続けたら、それだけで生きていけそうだな」
呟いた言葉には、強い憧憬が籠められていた。キーファは誰よりも旅が好きだった。戦うことが好きで、いかなる劣悪な環境に置かれても、どれほどの強行軍を強いられたとしても、全く堪えるような素振りは無く、寧ろ旅の醍醐味を感じて喜んでいる。城の生活に不満を抱く反動なのかも知れないが、彼はこの根無し草のような生活が性に合っているようだった。星を見ていたキーファは、視線を下ろし、アルスの方を見た。
「オレがそうやって生きていくとしたら、アルスはどうする? オレについてくるか?」
アルスは口籠った。はっきり言って嫌である。フィッシュベルで漁師になるアルスに、それ以外の人生を歩むつもりは毛頭無い。両親は悲しみ、村人は落胆し、マリベルは怒るであろうことが目に見えており、むざむざ彼らの期待を裏切る真似はしたくなかった。しかし、此処でキーファの誘いを断るのは、彼の夢までもを否定するようで、気が咎めるのだった。結局、何とも答えられず、アルスは只沈黙した。
「なんだよ、そんなに真剣になるなって」
と、キーファは笑って手を振った。
「別に、オレにつきあわなくたっていいんだぜ。アルスにはアルスのやりたいことがあるんだろうからさ」
そう言ったキーファは、今にもふらりと旅に繰り出してしまいそうだった。アルスとキーファは幼馴染で、気心知れた間柄だが、時々、アルスには良く分からないこともある。どの女の子が可愛いとか、そう言った恋愛事のような話題と、今のような旅暮らしへの憧憬がそうで、それについて触れられると、いつもアルスはぽかんとするか、曖昧に笑うかの反応しか見せられない。キーファはそれで良いと思っており、平気で話題を振り、平気で話を終わらせる。アルスもそれで良いと思っている。そう言う気楽な関係だった。
「ふしぎな連中だな……」
黙っていた負傷兵が、ゆっくりと口を開いた。
「さっきから、まるで違う世界の言葉を聞いているようだ。あんたたちは何者なんだ? どこから来て、どこへ行くのか……」
熱に浮かされているのか、彼はアルス達の反応を期待せず、訥々と語った。
「あんたたちは未来の話をするな。おれは、明日どうしようかなんて考えないし、今日のことすら考えられない。考えるのはこの瞬間のことだけだ。だけど、あんたたちは、明日の希望の話をしている」
アルスは返事をしない。しないと言うより、答えられなかった。いくら前線に駆り出されていようとも、所詮は部外者なのである。キーファは少しばかり反論するつもりがあったようだが、相手が言葉を続けたので、喋る機会を逸した。
「……あんたたちが来てから、この国は変わったよ。終わりのない戦いに、ようやく終わりが見えてきた。どうなるかは知らないが、少なくとも、楽にはなれそうだ」
「絶対に勝つよ。オレたちが、からくり兵の親玉を倒してやる」
キーファは昂然と肯った。
「だから、あんたもそんなこと言うなって。明日は必ず来るんだからさ」
「そうだな」
と、負傷兵は少し笑った。
「この先は、あんたたちに任せるよ。おれの分まで、がんばってくれ……」
深い溜め息をつき、彼はそれきり黙した。起きたり眠ったりしているらしく、呼吸が深くなったり、浅くなったりを繰り返す。少し落ち着いたように見え、アルスとキーファは彼を煩わせぬよう、黙々と見張りに勤しんだ。
暫くすると、マリベルがやって来た。
「おつかれさまー。交代よ」
と、彼女は櫓の下から声を掛けた。連れ立っている兵士は、フォロッド城から新しく派遣された者で、この町の兵士よりはずっと元気そうである。
「ん、もうそんな時間か」
一番元気なキーファは、立ち上がって伸びをした。櫓から屋上へ飛び降り、アルスに合図する。
「アルス、行こうぜ」
「僕はちょっと……先に帰ってていいよ」
兵士の具合が気に掛かったので、アルスは残ることにした。マリベルに治療して貰うか、兵舎まで送るか、とにかく何らかの対応を取るまでは、放っておくわけにも行かないだろう。流石のキーファも疲れたようで、すんなりと納得し、一人で宿屋に戻って行った。
「あっ、あなた、こんな所にいたの?」
アルスが知らせる前に、マリベルが怪我をした兵士を見付けた。微睡んでいた兵士は、その声で目を覚まし、徐に顔を上げ、櫓に登って来る彼女を見た。
「みんな探してたわよ。ベッドで休んでなきゃ」
「寝てても、落ちつかないんだよ……」
負傷兵は大儀そうに声を出した。マリベルはアルスを押し退け、彼のそばに膝を突いた。容体を見て、小さく溜め息をつき、アルスを顧みる。
「アルス、まだ魔法は使える?」
「わからない」
アルスの言う分からないは、おおよそ不可能であると言うことを意味する。
「できるだけやってみて。この兵士さんのケガを治してあげましょ」
「いらないよ……」
と、負傷兵が身じろぎ、マリベルから距離を取ろうとした。
「治すとキズが痛むんだ。放っておいてくれ」
「痛くなくなるまで、治してあげるわよ。それならいいでしょ?」
マリベルは子供に言い聞かせるように、努めて優しい声を出した。彼女が傷を見ようと手を伸ばすと、負傷兵は躊躇した様子で、後から来た同僚の顔を見た。同僚の兵は励ますように頷き、そばに寄って膝を突いた。
「服はぬがした方がいいのか?」
「できれば、そうしてほしいんだけど……」
「わかった」
と、兵士は屈み込み、負傷した兵士の上衣に手を掛けた。
「おい、動かすぞ。痛いだろうが辛抱しろ」
アルスは今まで気が付かなかったが、負傷兵の上衣は体液が染み出し、濡れて体に張り付いていた。同僚の兵士はボタンを外し、剥がすように服を脱がした。包帯を巻き取った途端、血の臭いと、腐敗臭に近いような膿の臭気が鼻を衝いた。なるべく傷に障らぬよう、傷口に当てられたやくそうを剥がすと、左の肩から胸に掛けて、大きな裂傷が口を開けていた。幸い、鎖骨の動脈は外したようだが、そうで無ければ命を落としていただろう。兵士は千切れた鎖帷子の破片と、服の繊維がくっ付いていたのを、慎重に指で取り除いた。一連の動作を、アルスはぽかんとして見ていたが、マリベルは術式の準備に取り掛かっていた。
「ここを押さえて、キズをふさいでくれる?」
「ああ」
手伝いの兵士は肩を押さえ、大きく開いた傷を寄せ、閉じるような形にした。膿と組織液が溢れ出し、ぐちゃりと言う音が聞こえてきそうだった。
「ひどいだろ。からくりの野郎に、ザックリやられちまってさ」
負傷兵は真実痛みを感じないらしく、冗談めかして言った。昼間の内に手当てを受けたが、混乱の中で施されたせいで、あまり程度の良い処置では無かったらしい。正しい消毒が行われず、そのために化膿してしまったのだった。マリベルはスカートを撫で付けて座り直し、魔法を掛ける体勢に入った。
「アルス、いい?」
「あ、うん」
ぼんやりしていたアルスも、彼女の隣に膝を突いた。一人の前に三人が並んでいるので、かなり窮屈だったが、何とか隙間を作り、それぞれの担当を務めた。
「せーのでホイミよ。せーのっ!」
呼吸を合わせ、アルスとマリベルはホイミを唱えた。翳した右手から、若葉のような淡い色の光が灯り、傷口にじわりと染み込む。汚れた膿を吐き出しながら、深い傷跡に肉がせり上がり、徐々に癒されて行った。やがて押さえる必要も無くなると、手伝いの兵士は手を抜き取り、邪魔にならぬよう端へ寄った。
「……ああ、だんだん、感覚がもどってきた……」
負傷兵は夢心地で呟いていたが、ホイミの魔法が効いてくると、見る見る顔が歪んで行った。
「……いっ! いたたたた! いて、いて、いたっ!」
体力も戻って来たらしく、体を丸めて痛みに呻いた。もはや半泣きの体である。アルスも必死で、戦慄く右手に力を籠め、どうにか魔力を絞り出したが、いよいよ極限だった。
「マリベル、僕限界……」
「もうちょっとがんばって! もうちょっと!」
負傷兵が悲鳴のような声を出した。懇願された通り、アルスはもうちょっと頑張って、体をぷるぷる震わせた。風前の灯を見守るような、いやに長く感じる時間を耐え抜き、マリベルが手を離したのを潮に、アルスも魔力の放出を止めた。止めた途端、体から汗が噴き出し、強い倦怠感が体に伸し掛かった。アルスとマリベルは疲労から、負傷兵は痛みから、大きく肩で息をした。
「……どう? 痛くなくなった?」
呼吸の合間にマリベルが尋ねた。負傷していた兵士は、ぐったりした体で、壁面に深く凭れていた。
「ああ、おかげさまで、よくなったよ……」
アルスとマリベルの力では、完治にまでは至らぬものの、傷口は浅く小さくなった。少しは痛むだろうが、戦いを生業とする者ならば、ほんの些細な痛痒だろう。暗いから顔色は分からないが、先程の死人みたような風体に比べれば、見るからに活力を取り戻していた。
「痛いのが分かるってことは、生きてるってことだよな。さっきのおれ、カンオケに片足つっこんでたんだなあ……」
同僚に上衣を着せて貰いながら、負傷兵はしみじみと感懐を述べた。声の調子は明るく、苦しそうな息遣いも落ち着きを取り戻している。マリベルも呼吸を整え、立ち上がって、スカートに付いた埃を払った。
「あとは宿舎にもどって、包帯を巻いてもらえばいいわ」
「ありがとう。助かったよ」
負傷兵は熱を籠めて言った。交代の兵士に水筒を貰ったが、自分で取って飲んでいる。今までは指を動かすのさえ懶いと言った風だったが、もう問題は無さそうだった。アルスはぼんやりと兵士を見ていたが、マリベルは膿汁で濡れた包帯とやくそうを拾い集め、既に梯子を降りてしまっていた。彼女に促され、負傷兵も梯子を降りようとする。仲間の兵士が手を貸そうとしたが、断った。
「お前、どうやって上って来たんだ?」
左腕を庇うようにして、一段ずつゆっくりと下りる兵士に、仲間の兵士は呆れたように言った。
「ほんとにな」
と、負傷兵は苦笑しながら返した。自分でも全く分からないらしい。半死半生の目に遭うと、何をするのか分かったものでは無かった。アルスも槍を拾い、交代の兵士に挨拶する。
「じゃあ、後はよろしくお願いします」
「ああ。ありがとな」
と、兵士は少し笑った。アルスは負傷兵が下りるまで、暫く上で待っていた。交代の兵士は既に辺りを警戒しており、遥か東の方角を眺めやっている。フォーリッシュの人に比べれば余程元気だが、こうして黙っていると、疲れの色が滲んでいる。前にちょっと話した時、彼はキーファと同じくらいの年なのだと聞いたが、横顔はそれよりもずっと大人びて見えた。
「この戦いも、もうすぐ終わるんだろうな……」
兵士は誰にとも無く呟いた。其処に籠めたるは希望か、或いは諦念なのか、アルスには分からなかった。
宿舎へ兵士を送り届け、アルスとマリベルは宿屋に向かった。ところが、防壁の階段を降りる途中、アルスは目眩を覚え、階の中程で立ち止まった。つんのめって階段から落ちそうになったが、どうにか堪え、槍を支えにしてうなだれた。マリベルの溜め息が聞こえ、呆れた声が降って来た。
「なに、血を見てフラフラしちゃったわけ? ほんと、弱虫なんだから」
アルスは言い返す気にもなれなかった。兵士に泣き付かれ、もうちょっとを頑張り過ぎたのである。完全に魔力が尽きると言う状態を初めて体感するが、息は詰まり、体は重く、血の気が引いて寒いのに、首の傷は熱を持って疼き、中から熱い血膿が噴き出しそうだった。視界に映る黒い靄のようなものが鬱陶しく、アルスは目を閉じたが、今度は緑や紫の靄となって、閉じた視界に付いて来た。マリベルは怪訝そうに様子を見ていたが、調子が悪いことを気取ると、身を屈めてアルスの顔を覗き見た。
「大丈夫? ちょっと休む?」
「……いや、平気」
アルスは強く目を瞑り、静かに十数えた。深く息をつき、大丈夫だと己に言い聞かせれば、自然と平静を取り戻す。マリベルが平気なのは、彼女が己の限界を知っているからなのだろう。単純なアルスは、鼻元思案で全力を尽くしてしまったが、少し考えれば分かることだった。アルスは体を起こし、いやに火照った喉の傷を引っ掻いた。
「ねえ、マリベル」
「なに? 大丈夫?」
「あの石版を作った人は、僕たちをもっと早く連れてこられなかったんだろうか?」
不調法な言い回しだったが、マリベルにも意味は伝わったらしい。彼女も同じ疑問を抱いていたのだった。石版の創造主は、石版に封じる過去の時間を随意に定めることが出来る。アルスが欲するのは、その時間をもっと早くに設定してくれと言うことだった。ウッドパルナにしろ、ダイアラックにしろ、町に被害が及ぶ前に、災厄の元凶を始末し、未然に食い止めることは可能な筈で、アルス達が訪れるほんの少し前に、石版の時計を合わせればいいだけの話である。このフォーリッシュなどは、もはや手遅れなのではと思わせるほどの有様で、アルスは石版の創造主の意図を忖りかねていた。
「誰が作ったのかは知らないけどさ、多分その人も、精一杯がんばったんじゃない?」
マリベルは何気無くそう言って、またふらついたら困るからと、アルスを階段に座らせた。特別熟慮した風では無く、思い付きを口にしただけだったが、アルスは目から鱗が落ちた。何処かの誰かも必死だったのである。その誰かは、不思議な石版を作る最中か、或いはその直後に滅びてしまったのだろう。そうで無ければ、アルス達のような通りすがりの平民に、世界の命運を託すような真似はしない筈だった。
「……あの遺跡、誰が作ったんだろうね?」
「さあ? あんなめんどくさい仕掛けを作るくらいだし、よっぽどヒマだったんでしょうね」
と、マリベルは最前とは反対のことを言った。彼女の言い分によると、謎の遺跡とは、とんでも無く無聊を持て余した誰かが、必死になって頑張って作ったものらしい。おかしな話だが、かく言うアルスも、退屈しのぎに冒険をしながら、命を懸けて戦っているのである。畢竟、暇で無ければ世界を救えないのだった。大人になれば、誰もが自分の世界を持って、その小さな世界を維持するために働かなければならない。自分の世界を持たない者は、遊び人とか、旅人とか、或いは子供とか言う名前を付けられて、ある種の落伍者として、大人達の世界から排斥される。しかしながら、海を越えた大きな世界に目を向けられるのは、その落伍者達に他ならないのだった。
町の南方から神父がやって来て、アルス達に会釈をし、静かに階段を上って行った。死者に鎮魂の祈りを捧げているのか、或いは、昼間マリベルが言っていたように、亡骸に特別な処置を施して回っているのかも知れない。法衣は人の血で汚れているが、その姿は高潔で、有り難いもののように見える。昼夜を問わず粉骨砕身する神父を、アルスは頭が下がる思いで目送した。その頃にはすっかり目眩も良くなり、今まで考えていた由無し事が、急にどうでも良くなって来た。元々アルスは深く考え込むような性質では無く、出血して血が足りなくなっていたせいで、少し気が滅入っていたのかも知れない。また首の傷を引っ掻くと、包帯がすっかり傷んでしまっており、緩んで裾が垂れ下がった。アルスが端を手に取ると、驚くほどすんなりと解けてしまった。誤魔化して手に巻き取ろうかと思ったが、真っ白な包帯は夜目にも目立つ代物で、忽ちマリベルに見咎められた。責めるような視線を受け、アルスは愛想笑いを浮かべながら、くたびれた包帯を持ち上げて見せた。
「……ごめん、取れちゃった」
「取れちゃった、じゃないわよ。自分で取ったんでしょ」
マリベルは刺々しく指摘し、座ってアルスの顔色をつくづく見詰めた。心配してくれているようで、顔付きは声ほど険が無い。
「もうクラクラしない?」
「うん、大丈夫」
「ならいいけど。それかして」
マリベルは包帯を引ったくると、少し考えた挙句、アルスに髪の毛と帽子を持ち上げさせて、元のように巻き直した。疲れて縒れてしまった包帯なので、少々やり辛そうだった。
「宿屋についたら、かえてあげる。いい? 今度はぜったい触らないでよ」
と、絶対の部分に力を籠め、端を強く引っ張った。勢い、少し首が締まったが、アルスは大人しく締められた。そのまま結ばれるかと思ったが、マリベルは結び目を作る時、指を挟んで包帯を緩めてくれた。済むと、包帯をぽんぽんと叩いて、アルスに立ち上がるよう促した。
「ありがとう」
「ん」
マリベルは寛容に頷き、一足先に階段を下りた。アルスはいつも、彼女に傷を治して貰う。そのためか、マリベルの手に触れられると、魔法を使わない時でさえ、不思議と痛みが軽くなる。この首の傷も、熱を持って疼いていたのが落ち着いた。かくして痛みが治まったのは良いものの、却ってむず痒くなったような気がして、アルスは思わず引っ掻きたくなった。
「あーもう、あたしクタクタ。アルス、宿屋までおんぶしてよ」
階段を下りた途端、マリベルは気怠そうに溜め息をついた。アルスが元気になってから言い出すのが、分かりやすくて如何にも彼女らしい。アルスは今日のお礼と思って、おんぶを引き受けることにした。
「いいよ。ヤリを持っててくれる?」
槍を預け、アルスは彼女に背を向けた。すぐには乗って来なかったので、背中に向かって手を差し出し、暫し待つ。マリベルは冗談で言ったつもりが、相手が本気で受け取ったので、そのままおぶって貰うことにしたらしい。軽く弾みを付けて飛び乗り、槍が地面に擦れないよう、注意して柄を握った。
「ありがと。ほんと、つかれちゃった……」
殊勝に礼を言い、アルスの肩口に顔を埋めた。前言通り、彼女もくたくたに疲れていたのだった。アルスも疲労困憊だが、最近やたらと体力が付いたお陰で、マリベル一人を運ぶくらいの余力は残っている。スカートが捲れ上がらないよう気を付けながら、細い足をしっかり支えた。時に人をして閉口させるまでに、気が強くて活動的な少女だが、こうしてみると意外と軽い。考えてみれば、マリベルは只の普通の女の子で、アルスやガボも普通の少年で、キーファも王子の冠が付いただけの、至って普通の少年だった。石版の創造主が何を期待したかは知らんが、アルス達は、ごく普通の少年少女にしては、精一杯に世界を救っている。それ以上の酬いを求むるのは、恐らく分不相応と言うものなのだろう。アルス達は神様でも英雄でも無いのだから、水際で滅亡を食い止められるだけ、十分な働きをしていると言えた。アルスは自分を褒める気にはならなかったが、せめて仲間達の労をねぎらってやろうと思った。
「おつかれさま。今日は、マリベルが一番がんばってたね」
「そうよ。あたしは誰よりもがんばってるの。だから、あたしをたくさんほめて、たくさんいたわりなさい」
マリベルはいつもの口吻で、高飛車なことを言いながら、アルスの首に触れ、包帯を撫でた。アルスは常から彼女に頭が上がらないが、今日はつくづく平身低頭だった。何しろ、首を拾って付けて貰ったのである。およそアルスが考え付く中でも、人には決して味わわせたくない状況で、冷静に対処し、その後はおくびにも出そうとしないマリベルに、敬服の念すら覚えた。血まみれの手で泣いていた姿を思い出すに付け、内心は怖くて堪らなかっただろう。
「マリベル、ありがとう」
返事は無かった。眠ってしまったのか、マリベルは力無く背中に凭れ掛かり、持っていた槍を取り落としてしまった。アルスは転けそうになりながら、ようやっと膝を落とし、地面の槍を拾い上げた。しかしてマリベルを揺すり上げ、静かな夜道をゆっくりと歩き始めた。月のはっきりと見える夜で、明くる日は良く晴れた一日になりそうである。明日は今よりもう少し良くなって、きっとアルスの首も取れない筈だった。