三

 本日のルーベンスは非番らしい。今朝見かけた様子では、珍しく眉間に皺が寄っていなかったので、そんなに休暇が楽しみなのかと思えば、ディアナと二人で何処かに出掛けたそうだった。嬉しい筈である。行き先はガトで、かつてルーベンスが所属していた誼から、不安定な寺院の現状に手を貸してやっているらしい。何処までも仕事本位の二人であった。
 元気娘のエメロードが、緑の髪をふわふわ跳ねさせながら、都市の回廊を駆け下りて来た。彼女はフラウに槍を習い、ジンの楽器を貰ったお陰で、ポロン程度なら手も無く追っ払える力がついていた。ヌヌザックに師事した時間は無駄だったように思えるが、本人としてはそうでも無いらしく、今日も奮って学校に通うのだった。その送り迎えもフラウが担当する。門のそばで瑠璃と真珠に出会し、エメロードは核を煌めかせて笑った。
「ここで待ち合わせなの!」
「学校くらい、オレが連れてってやるよ」
 瑠璃がそう申し出るも、エメロードは却って彼のことを窘めるくらいだった。
「フタマタは駄目って言ったでしょ! あたしの騎士はフラウさんなんだから、良いのよ」
 と、彼女は冗談めかして言った。いずれ騎士になれば、自分の姫に掛かり切りで、その分フラウと接する時間は減ってしまう。エメロードはフラウのことを気に入っているから、今の内にわがままを言ったりして、心行くまで友達関係を楽しむつもりなのだった。エメロードは腰に手をやり、もう片方の手で真珠を指差した。
「ほら、あなたがそんなこと言い出すから、真珠姫が気にしてるじゃない」
「……瑠璃くん、わたしのものじゃないわ」
 真珠は首を振った。彼女が縮こまっているのはいつものことで、大して変わった様子も無く、いっそエメロードの方が不機嫌なくらいである。それでもエメロードは口を尖らせ、瑠璃に小言を言った。
「真珠姫には、フラウさんも蛍様もいるんだからね。大事にしなくて、誰かに取られちゃっても知らないわよ!」
「生憎だな」
 瑠璃は鰾膠も無く切り返した。内心狼狽えたのだが、殊更に否定するのも却って不様だし、皮肉を言うだけに留めておいた。やはりこの少女はちょっと苦手だった。
 そうこうしている内、階の方から、槍を背負った娘が上がって来た。フラウの登場である。手を振るのが見え、エメロードも彼女に向かって振り返す。今日もよろしくね、と互いに挨拶を交わし、二人は手を繋いで出発した。去り行く後ろ影を羨望の眼差しで送り、意味ありげに両手を見ていた真珠であるが、瑠璃には無視された。
「オレ達も行くか」
 ジオと言えば、闊歩するのは学生ばかりで、クリスティは今や文無し同然、だから此処には、宝石に興味を持つような人間はいなかった。その上、エメロードの存在とヌヌザックの影響もあり、珠魅に対する理解が充分伝播している。故、立ち寄る用は無いのだが、瑠璃は先般のルーベンスの話題を受け、たまには真珠とのんびり過ごすのも良いと考えたのだった。
 到着次第、フラウは何処かへ行ってしまったようだった。忙しなく飛び回る傍ら、エメロードの送迎に加えて武術まで教えていると言うのだから、全く以て人の良い娘である。皆彼女のことは気に入っているのだが、唯一ヌヌザックだけはおかんむりだった。
「あの小娘、全く余計なことをしてくれよって! マナの樹が蘇れば、禄なことになりゃせんわい!」
 繰り言はフラウの話題に際してのお決まりだった。頭の固いヌヌザックは、賢人に薫陶されようと、フラウから女神自身の言葉を伝えられても、容易に意見を翻そうとはしない。
「しつこい爺さんだな。樹一本で今更何が変わるってんだ?」
 瑠璃もいい加減うんざりしていた。ただでさえ薄暗い研究室なのに、ぶつくさくだを巻かれてはいよいよ気が滅入ってしまう。弟子の要望が漸く受け入れられ、部屋に魔道書や術具が増えたのは良いのだが、それらが空気をますます陰気にさせている。此処にあって尚明るいエメロードが、不機嫌な先生を諌めた。
「先生、もう時代は変わったのよ。マナの樹に良いことばかりあるわけじゃないって、みんな分かってるもの」
「生意気を言うな、クズ石! 時代が移ろうと人間の愚かしさは変わりゃせん。マナの力があろうが無かろうが、クズ石は永久にクズ石のままじゃ!」
 弟子の諫言は逆効果だった。ヌヌザックは尚のこと気焔を吐き、空中をじたばたと忙しなく揺れ回る。真珠が不安げに瑠璃を見上げた。以前ならば売り言葉に買い言葉、いきり立って応戦したろうが、流石の瑠璃も落ち着いてきたので、冷静に召喚士を見据えた。
「……ヌヌなんたら、アンタの言う事が、今なら分かる」
 ヌヌザックは如何にも胡散臭そうな顔をした。珍妙な所作で相手を煙に巻く、いつもの伝であるが、瑠璃は構わず続ける。
「確かに珠魅の核には、人間が利用出来るような価値はない。力を持つのは抜き取られた核なんかじゃ無く、体を持つ生きた珠魅そのもの」
 ただ見損なっていただけだった。人間が珠魅を物のように扱うならば、其処には木石ほどの価値すら見出すことも出来ない。そうして人から悪辣に扱われていたせいで、珠魅達は涙を失い、名実共に木石へと成り果ててしまった。しかしながら、全ての原因が人間にあるのだとは言い難い。優しい人間は沢山いたのである。珠魅は仲間同士で互いに信頼を寄せ合い、ついで他種族に目を向ける、それだけで良かった筈だった。不信を募らせた珠魅にはそれが出来ず、同胞達すら癒すことが出来なくなってしまっていたのだ。瑠璃の言わんとする旨が伝わったのかどうなのか、依然老人は人を小馬鹿にした体で、吐き捨てるように返した。
「だからクズ石だと言っておろう。珠魅など精々、人間社会に伍して生きるのが関の山じゃ」
「そうするつもりだ。……それと、二度とクズ石呼ばわりするな!」
 言うなり魔法陣をぶん殴る。ヌヌザックはコインのように、くるくる回ってひっくり返った。余りの早業に少女二人が宥める間も無い。それでも腹の虫が収まらない瑠璃は、ずかずかと荒々しい足音で立ち去った。ヌヌザックは怒るより、鳩を出せなかった不覚を悔やしがっていた。
 ちょっととろい真珠姫は、遅れまいと瑠璃を一生懸命追い掛けた。何とかその腕を捕まえるも、そのまま先へ行かれてしまい、つんのめりながら進む。
「瑠璃くん、お年寄りをいじめちゃだめよ……」
「あいつと話すと苛々する! いつまでも昔のことをゴタゴタ抜かしやがって!」
「そうだけど、でもね……こわい思い出って、ずっとおぼえてるのよ。……わたしも、珠魅がはなればなれになった時のこと、忘れられないもの」
「そんなこと思い出さなくて良い! お前はオレが守るし、他の珠魅達だって守ってみせる」
 真珠が強くしがみついてきた。
「そうよ。瑠璃くんがいるから考えなくてすむの。もう心配ないって思えるの。ヌヌザックさんには、わたしにとっての瑠璃くんがいないのよ」
 漸く、瑠璃が歩度を緩めた。過保護の自覚はある。可愛い姫君を怖がらせぬよう、敵は前以て排除するし、危険な場所からは予め遠ざけておく。それは心配からでもあり、彼女に記憶を取り戻させないためでもあった。長く生きすぎたヌヌザックの目に、世の誰も彼もが、無垢で危うげな子供の姿で映るのであれば、その態度は瑠璃と同じ感情によるものだ。何も知らなくて良い、今ある平穏を甘受していれば良いのだと。
「……そうだとしたって、気の毒だとも思わないな」
 老人もいずれ気付くのだろう。子供は無知だが愚かでは無い。庇護者が思うよりずっと、物事を善く治めるように出来ている。可愛いと思うならばこそ、宝石箱に閉じ込めないで、自由を与えてやらねばならない。現に人々はマナの功罪を知り、過ちを繰り返さぬよう語り継いで来た。例えこの平穏が破られようと、いずれ旧に復する時は来る。そうしてファ・ディールは上手くやって来たのだから。
 不機嫌に任せて歩いたら、いつの間にか宝石店のある通りまで出ていた。今は講義中、それも麗しのカシンジャ女史が教鞭を取っているため、学生は皆教室に詰めかけてしまった。彼らがいないと静かなもので、やけに広々としてうら寂しい。
「おおっ、君たち! 核は無事か!?」
 通りに濁声が響き渡った。鼠のお巡りさん、ボイド警部である。見咎めるなり走り寄って来て、各々の核を確認し、それが淀みなく輝くのを見ると、ほっとしていた。
「また何かあったのか?」
「サンドラがまた出没したらしい。まだ珠魅は襲われておらんようだが……ヤツのことだ、油断はできん」
 想像して腹が立ったのか、警部は頭から湯気を出した。忽然と消息を絶った怪盗を追い続け、東奔西走した挙句、やっと学生街近辺に出没したとの手掛かりを掴むことが出来、急遽駆け付けたらしい。咥えたパイプに火も点け敢えぬ慌てようだった。未だ瑠璃にくっ付いていた真珠は、恥ずかしくなり、そろそろと絡めた腕を外した。
「……あの、サンドラはもう、核はいらないんだと思います……」
「どうしてそう言い切れるのかね?」
 二人が無言で目を逸らした。警部は不思議そうに彼らを見たが、あまり気にしていないようだった。
「……ともかく、チミたちも気を付けてくれたまえ。何かあったら本官に連絡するように!」
 警部は懐をごそごそ漁り、手帳やら飴玉やらをそこら中に散らばしながら、しわくちゃの名刺を出してくれた。そして落とし物を拾うのもそこそこ、慌ただしく立ち去ってしまった。真珠は地面に落ちなかった方の、桃色の可愛らしい飴玉を貰った。
 瑠璃達は眉唾だった。心配してくれるのは有り難いが、事情を知る側からしてみれば、サンドラに動く由も無く、却って人の噂に上らぬよう努めるのが妥当である。変に目立った真似をして、蛍姫に余計な心配をかけたくないだろう。とは言え、模倣犯の線も多分にあり得るため、瑠璃は我が姫に注意を促そうとした。したら、真珠がいなかった。身も世もなく探し回ると、路地の陰で見つけた。せむしの醜い男と共に。
「こいつっ!」
 剣を抜く瑠璃を真珠が制した。宝石王は悲しげな眼差しで、深々と礼をとる。路地裏の暗がりに黒目だけが煌々とし、如何様不気味な容貌である。真珠は臆する気振りも無く、しずしずと歩み寄った。
「……あの、お話ってなんですか?」
「預かり物をして来た。我が友から、君達に」
 差し出された、皮の厚い黄ばんだ指先に、月のようにぼんやり輝く石があった。真珠は大切に受け、両手で包み込む。珠魅の生きた核である。其処で漸く彼らの思惑を悟り、真珠は胸の核を押さえた。
「蛍姫、あなたのことを心配してるわ。きらめきの都市にきてほしいって、ずっとまってるの……」
「しかし、友人を一人にさせてはおけない」
「サンドラもいっしょによ。みんなで暮らしましょう」
 宝石の王は少し笑った。深く刻まれた皺が不器量を和らげる。
「共に時を重ねることのみが親愛では無いのだ。美しき蛍の姫君に、どうぞよろしく伝えてくれ給え」
 真珠が引き留める間も無く、彼は一礼し、懐から宇宙の欠片を取り出すと、星々の中に姿を消した。黒曜石の剣が空を切り、瑠璃が忌々しげに唇を噛んだ。
「あんな奴を庇うなよ!」
「でも、あの人は……あの人は、友達のためにやってただけよ」
「ここで斬り捨てておくのが珠魅のためだ」
「誰のためにもならないわ。全部元どおりになったんだから、ゆるしてあげて」
 瑠璃は納得行かない風情であるものの、ひとまず矛を収めた。依然警戒を解かぬまま、辺りを見回す。警部の聞いた噂は真実のようだ。宝石王が来たならば、その友人も間違い無く此処にいる。今更事を構えるつもりは無いだろうが、彼は真珠から離れぬよう、そばに身を寄せた。真珠姫は心此処にあらずと言った体で、ぼんやりと空を見詰めていた。
「二人とも、いつか帰ってきてくれるかしら……?」
「戻って来れたら良い面の皮だぜ」
「みんなはなんにも気にしてないわ。ね、だから瑠璃くんも……」
「……赦せるもんか」
「どうして、そんなに怒ってるの?」
 何とかご機嫌を取ろうと、可愛らしく小首を傾げて見せる。懸命に庇う素振りがまた瑠璃の癪に触った。
「真珠の核に触れたんだぞ! しかも、あの男は食いやがった!!」
 狭い路地故、ちょっとの声も思いっ切り響いた。アレクサンドルが奪い、宝石王が取り込んだ九百九十九個目の核は、真珠とパールのものだった。騎士の自分すら触ったことが無いのにと、瑠璃は未だに根に持っている。言ってから冷静になり、あまりに拗ねた子供っぽい言い草だと気付いたが、もはや後の祭りである。真珠は呆気に取られ、瞬いだ。
「……核、さわりたいの?」
「……別に。そんなことは言ってない」
 顔を逸らした相手を食い入るように見詰め、やがて真珠は自分の核に目を移した。すると、やにわに顔を真っ赤に染めて、再びもじもじと瑠璃を見上げた。
「じゃあ、あとで、さわらせてあげる。瑠璃くんの核も、さわらせてね……?」
 当初の予定通り、瑠璃は真珠とゆっくり過ごした。核はすべすべでつやつやだった。